(c) Google Streetview 40 rue Saint-Lazare, 9e |
サン=ラザール通り(右手)とテブー通り(左手)の交差する角は、現在郵便局の建物となっている。昔はここが40番地で、当時あった建物の4階にデュマが1831年から1833年までの2年余り住んでいた。当時はこの建物もステータスの高い住宅地「スクヮル・ドルレアン」(Square d'Orleans)の一角であった。その後「スクヮル・ドルレアン」の入口はテブー通り80番地に変えられた、右(→)画像で左手の青い交通標識の右に黒い入口が見える。
この時期のデュマは女優のベル・クレルサメ
と同棲しており、1831年3月に娘マリー・アレクサンドリヌ(Marie-Alexandrine)が生まれ、デュマはこれを認知した。引き続いて6年前に生まれていた息子のアレクサンドル・デュマ(フィス)(Alexandre Dumas fils, 1824-1895)も初めて認知した。この1831年にはデュマは29歳で、5月にポルト・サン=マルタン座で初演した『アントニー』(Antony)が前例のないほどの大成功を収め、130回もの公演を重ねた。主演はマリー・ドルヴァル(Marie Dorval)とボカージュ(Bocage)だった。
さらにその翌年1832年5月には『ネールの塔』(La Tour de Nesle)が前作をさらに上回る未曽有の成功をもたらした。かくしてデュマはまず手始めにロマン主義演劇の頂点に立ったのだった。
Le carnaval des boulevards en 1828 Illustration par Bertall, @BnF Gallica |
これらの戯曲の大成功を祝して、デュマは1833年3月30日に盛大な仮装舞踏会を催した。デュマの一生は大金を稼いだり、借金取りに追われたりと、浮沈の激しい劇的な生活の連続であったが、この時も儲けた金に飽かせて馬鹿騒ぎの催しを企てた。ちょうどこの日がパリの「謝肉祭」(カルナヴァル, Carnaval)の日であって、自宅に700名を超える招待客を呼んだものの、全員が入れるはずはなく、一部は朝の9時から楽隊を先頭に大通りまで仮装行列を繰り出し、大通りでのカルナヴァルの群衆に合流したりした。デュマの家では絶えず入れ替わり立ち代わり客が出入りし、夜中まで餐宴が続けられたという。(↑)上掲のイラストは「1828年の大通りの謝肉祭」の様子を描いたベルタル(Bertall)の版画だが、この時代の風俗をうかがい知ることができる。(CVP, PRR)
0 件のコメント:
コメントを投稿