パリの街角散歩です。カタツムリのようにゆっくりと迂回しながら、そして時間と空間をさまよいながら歩き回ります。


2017年7月27日木曜日

散歩Q(6-3) ヴィアルド家のサロン跡 Emplacement du Salon de Viardot(クリシー広場~ユーロプ界隈)

☆ドゥエ通り50番地 (50, rue de Douai, 9e)
《ヴィアルド家のサロン跡》 Emplacement du Salon de Viardot
(c) Google Map Streetview
 50bis et 50, rue de Douai, 9e

50番地の建物は19世紀末の時代にヴィアルド家の住居があり、その家でのサロンには大勢の文化人、作家、音楽家、画家が出入りした。
主人のルイ・ヴィアルド(Louis Viardot, 1800-1883)は、新聞や雑誌の編集者を経て、イタリア歌劇を上演するヴァンタドゥール座(Salle Ventadour)の支配人となった。文学をはじめ美術や音楽に造詣が深く、特にスペイン語を得意とし、『ドン・キホーテ』の仏語訳を自ら出版した。卓越した魅力ある個性の持ち主で、広い交遊関係を築いていた。

1840年に彼はスペイン出身の著名なオペラ歌手ガルシアの次女ポーリーヌ(Pauline Viardot-Garcia, 1821-1910)と結婚した。彼女の13歳年上の姉マリア・マリブラン(Maria Malibran, 1808-1836)は、美声と美貌を兼ね備えた歌手として名声を誇ったが、28歳の若さで夭折した。その遺志を継ぐかのようにポーリーヌは1839年にオペラ歌手としてのデビュを果たした。17歳だった。
Portrait de Mme Pauline Viardot-
Garcia, l'illustration d'une revue
@BnF Gallica
女流作家のジョルジュ・サンド(George Sand, 1804-1876)は、ポーリーヌと親密な交友関係にあったが、彼女をモデルとした長編小説『歌姫コンシュエロ』(Consuéro, 1843)を書いている。

1840~50年代はポーリーヌ・ヴィアルドの全盛期だった。1849年にはマイヤベーア(Giacomo Mayerbeer, 1791-1864)が歌劇『預言者』(Le Prophète)で彼女のために重要な役を用意した。また若手作曲家として彼女から支援を受けていたグノー(Charles Gounod, 1818-1893)は1851年に歌劇『サフォ』(Sapho)で有名なアリアを書いた。
1859年にはベルリオーズ(Hector Berlioz, 1803-1869)が、グルックの歌劇『オルフェオ』(Orpheé)
をメゾ=ソプラノ用に改編して彼女を主役として上演させた。(↓)下掲の版画はその時の様子を描いたものである。更に若年のサン=サーンス(Camille Saint-Saëns, 1835-1921)も歌劇『サムソンとダリラ』(Samson et Dalila)のアリアを献呈している。

2ème acte d' Orphée de Gluck au Théâtre Lyrique, 1859
Estampe de V. Folquier, @ BnF Gallica
















彼女はまた優れたピアニストでもあった。パリで活躍していたリスト(Franz Liszt, 1811-1886)からの厳しい指導を受け、16歳でリサイタルをするほどで、その手腕をショパン
Salon de Mme Viardot en 1853
Gravure par W.Best, @ Bnf département Musique Est
も高く評価していた。
(←)左掲は1853年のヴィアルド夫人のサロンの様子を描いたもので、文化人の多く住む新アテネ地区(Nouvelle-Athène)の中にあったヴィアルド家のサロンには多くの有名人が集い、音楽に耳を傾け、芸術的な会話を楽しんだ。

1843年の冬、彼女が夫ルイを伴って、ロシアのサン=ペテルスブール(ペテルブルク)にイタリア座の巡業に赴いた時、その公演に熱狂的に惹かれた聴衆の中に、文豪ツルゲーネフ(Ivan Tourgueniev, 1818-1883)がいた。ツルゲーネフはロシアの大地主の地方貴族の家に生まれ、若い頃から外国で教育を受けていた。彼は一時ポーリーヌとの恋愛関係にあったが、その後もヴィアルド夫妻との親密な交友関係を生涯持ち続けることになる。
ルイ・ヴィアルドとはロシア文学をフランスに紹介するための協力を惜しまず、ルイはロシア語には疎かったが、当時ロシアの宮廷や社交界ではフランス語が広く使用されていたため、ロシア人がフランス語に言い換えてくれる文章を、適当に補正するだけで翻訳が成り立ったのだった。
Plaque d'Ivan Tourguéniev au 50 bis de la rue de Douai, 9e
@Wikimédia commons

ツルゲーネフはその革新的な思想ゆえに、ロシアの官憲の検閲が厳しく、思うような文筆活動が妨げられたので、思い切ってヴィアルドを頼ってフランスに滞在することが多くなる。彼の代表作の一つ『猟人日記』もヴィアルド家の所有する田舎の城館で書き上げられた。1871年以降65歳で死去する1883年まで、彼はドゥエ通り50番地のヴィアルド家と同じ建物の別の階に居を構えた。(→)右掲の碑銘板はそれを記念するものだが、なぜか50番地の2(50 bis) のほうに掲げられている。