パリの街角散歩です。カタツムリのようにゆっくりと迂回しながら、そして時間と空間をさまよいながら歩き回ります。


2015年11月29日日曜日

散歩R(11-3) メグレ警視最初の事件の警察署跡 Emplacement du commissariat dans le première enquête du commissaire Maigret(9区サン=ジョルジュ地区)

☆ラ・ロシュフコー通り37番地 (37, rue de La Rochefoucauld, 9e)


(c) Google Map Streetview,
37, rue de La Rochefoucauld, 9e
《メグレ警視最初の事件の警察署跡》(Emplacement du commissariat dans le première enquête du commissaire Maigret)

ロシュギュド著『パリ全街路散歩』(1910年刊)によると、この37番地にも「古い館があって警察署が入っていた」(Vieille maison occupée par le commissariat de police)とある。現在では何の変哲もない新しいビルに建て替わっているし、警察署は9区の区役所のそばに移っている。(MRP)



Georges Simenon :
La première enquête de Maigret
Livre de Poche #14232 Jan.2001







ジョルジュ・シムノン(Georges Simenon, 1903-1989)が生み出した不朽の「メグレ警視シリーズ」(Commissaire Maigret)は長短編合わせて100を超える。この警察署が出てくるのは、メグレの初手柄となる事件で、年代的には1913年4月。まだベルエポックの時代で、夜の街路はガス灯のほのかな明かりで照らされ、辻馬車が行き交っていた。
ここの分署の署長秘書として勤務していた若いメグレがこの日の当直であった時に事件が起きる。

「午前1時半、静まりかえったラ・ロシュフコー通りにあるサン=ジョルジュ地区分署には、メグレとルクール巡査だけしかいなかった。」(Maigret et l'agent Lecœur étaient seuls, à une heure et demie du matin, au commissariat de police du quartier Saint-Georges, dans la calme rue La-Rochefoucauld. (c)Georges Simenon : La première enquête de Maigret ; Chap.1)

参考Link : 《メグレ警視のパリ》 No.56 [メグレの初捜査」



2015年11月27日金曜日

散歩R(11-2) ルピック伯爵の家 Ancienne demeure du comte Lepic(9区サン=ジョルジュ地区)

(c) Google Streetview,
46 rue de La Rochefoucauld, 9e
☆ラ・ロシュフコー通り46番地 (46, rue de La Rochefoucauld, 9e) 《ルピック伯爵の家》Ancienne demeure du comte Lepic

1874年の第1回目の印象派展の発起人として名前を連ねながらも、作品の展示がなかった人が何人かいた。印象派の画家エドガー・ドガ(Edgar Degas, 1834-1917)の親しい友人ルピック伯爵(Ludovic-Napoléon Lepic, le comte, 1839-1889)もその一人である。彼の祖父も父親も軍人で、特に祖父のルイ・ルピックは大革命とナポレオン時代に軍の主要な将軍の一人として勇名を馳せ、モンマルトルの通りにもその名前が残されている。
そのために三代目の彼にはリュドヴィック・ナポレオンという大仰な名前がつけられたようだが、彼は専ら美術と考古学に興味を持ち、絵画はカバネルなど何人かに師事して学んだ。他には動物版画やエッチングに才能を示し、「オー・フォルト・モビル」(可動性エッチング、Eau-forte mobile)という新しい技法を考え出した。
彼はこの家のほかに9区のモーブージュ通りにもう一軒持っていたが、そちらは現代建築に建て替えられている。




E.Degas : Place de la concorde (1875)
Musée Hermitage, St Petersbourg; Wikimedia Commons
ドガとは家族同士の付き合いから親しくなり、特にオペラやバレエの観劇、競馬場通いなどブルジョアの娯楽に共通の趣味を持っていたので、ドガが印象派の活動に誘ったようだ。しかしルピックの絵は古風なアカデミックな手法で、印象派の画家たちの思惑からはほど遠く、議論の末に第1回目の展示から除外させることが決められた。(LAI)
 しかし2年後の第2回目の印象派展には他の参加者よりも最多の36点が展示された。ルピックの心情を汲んだドガのとりなしと、参加者の減少で基準が甘くなったからかも知れない。
(↓)下掲はルピックの当時の絵の一つで南仏の海辺の風車を描いたものだが、平凡で陳腐な作品としか思えない。



Lepic : Moulins à vent à Cayeux-sur-Mer (1873)
Marseille, MuCEM, Musée des Civilisations de
l'Europe et de la Méditerranée
Crédit : Photo (C) MuCEM, Dist. RMN-Grand Palais
/ image MuCEM
(↑)上掲のドガの絵の斬新さと比べても、その表現力の格差は明白である。ルピック伯爵とその二人の娘の姿はこの「コンコルド広場」と題された絵の中に生き生きと描かれている。







2015年11月25日水曜日

散歩R(11-1) ラ・ロシュフコー通り Rue de La Rochefoucauld, 9e(9区サン=ジョルジュ地区)

ラ・ロシュフコーという名前を聞いただけで、すぐに「あの箴言家のことだ」と口にする人は相当なフランス文学通であるが、残念ながらここの通りの名前は別人に由来する。それは18世紀半ばにモンマルトルの尼僧院長だったカトリーヌ・ド・ラ・ロシュフコー=クサージュ(Catherine de La Rochefoucauld-Cousage) であるが、この地域一帯がその尼僧院の所領であったためとされている。(DNR, CVP, MRP)

(c) Google Map Streetview,
45, rue de La Rochefoucauld, 9e
それよりも更に百年前に生きた有名なモラリストのフランソワ・ド・ラ・ロシュフコー(François de La Rochefoucauld, 1613-1680) のための名前の通りがあっても良さそうに思うが、少なくともパリには存在しない。彼の箴言を参照するために「フランス箴言集」のサイトを紹介する。




☆ラ・ロシュフコー通り45番地 (45, rue de La Rochefoucauld, 9e)

通りを下って右手3軒目にいかにも古色蒼然とした建物がある。壁は黒ずんで今にも崩れそうな状態だが、正面扉だけは唐草模様の装飾の美しさを保っている。おそらく150年以上は経過している古い館である。






2015年11月23日月曜日

散歩R(10-9) カフェ・ル・ラロシュとパヴァール Café ''Le Laroche'' et ''Pavard'', r.v. des artistes (9区サン=ジョルジュ地区)

☆ノートルダム・ド・ロレット通り60番地 (60, rue Notre-Dame de Lorette, 9e)
 《レストラン・パヴァール跡》




(c) Google Map Streetview
 60, rue Notre-Dame de Lorette, 9e
ここに昔、ステーキ・レストラン「パヴァール」(Rôtisserie Pavard) があったという。旧ブレダ通りの「ディノショー」と同じように芸術家たちの溜まり場だった。違いは「ツケ払い」がなかったのと、「ディノショー」が文人たちが多数だったのに比べ、「パヴァール」は画家が多かったことである。また「ディノショー」が2階にしか客席がなく狭苦しかったのに対し、「パヴァール」では1階に数室に分かれて客席があって広かった。
ボードレールは親友のマネと連れ立って頻繁にここに食事しにやって来て、その後は通りの向い側にあったカフェ「ル・ラロシュ」(Café Le Laroche)で議論や雑談に興じた。

「パヴァール」の客としては、他に小説家のミュルジェ、バルベー・ドールヴィイ、画家のピュヴィ・ド・シャヴァンヌなどがいた。(PRR)



☆ノートルダム・ド・ロレット通り57番地 (57, rue Notre-Dame de Lorette, 9e)
☆ラ・ロシュフコー通り49番地 (49, rue La Rochefoucauld, 9e)
 《カフェ・ル・ラロシュ跡》

通りを少し上がると、青果店、パン屋、中華総菜屋、カフェ、文具店、酒屋などの商店が立ち並ぶ生活感あふれる一角がある。ここは道路が複雑に交差する場所で、言い方によっては珍しい七又路になっている。

(c) Google Map Streetview
 57, rue Notre-Dame de Lorette, 9e
vers la rue de La Rochefoucauld

57番地の角には現在(2015)「カフェ・マティス」(Café Matisse)という名前の小さなブラスリーがある。店内にアンリ・マティスの複製画が飾られているだけで、マティスに所縁があるわけではない。約150年前にはこの店の場所に「ル・ラロシュ」(Café Le Laroche)というカフェがあった。そもそもの店名は「ル・カフェ・ド・ラ・ロシュフコー」(Le Café de La Rochefoucauld)なのだが、長すぎるので短縮した通称「ラロシュ」(Laroche)が定着したようだ。

ここも画家たちを中心にした溜まり場だったが、意外なことに、印象派とそれに近い画家たち、つまりマネ、ドガ、ルノワールなどが、旧来のアカデミーに近い画家たち、つまりコルモン(F.Cormon)、エネ(J.J.Henner)、アルピニー(H.Harpignies)、ギュスターヴ・モロー(G.Moreau)、ジェローム(J.L.Gérôme)らと混じり合って、雑談したり、肩を並べてゲームに興じたりしたという。(LAI, PRR)

散歩者は、ここから左折してラ・ロシュフコー通りを下って行く。


参考Link : Autour de Père Tanguy : Le restaurant Pavard de la rue Notre-Dame-de Lorette (仏文)



かたつむりの道すじ : (9)アンリ・モニエ通り~(10)ノートルダム・ド・ロレット通り~
(11)ラ・ロシュフコー通り (c) Google Map

2015年11月21日土曜日

散歩R(10-8) 画家ドラクロワのアトリエ跡 Emplacement de l'atelier de Delacroix(9区サン=ジョルジュ地区)



☆ノートルダム・ド・ロレット通り58番地 (58, rue Notre-Dame de Lorette, 9e)
(c) Google Map Streetview
 58, rue Notre-Dame de Lorette, 9e
《画家ドラクロワのアトリエ跡》(Emplacement de l'atelier de Delacroix)

現在の58番地の建物ではないように思われるが、この場所に1844年10月から1857年12月までの13年余り、ロマン主義絵画を代表する画家ドラクロワ(Eugène Delacroix, 1798-1863)が暮らしたアトリエがあった。下掲(↓)の版画は1850年頃の絵入り新聞に掲載された当時のアトリエの様子を描いたもので、
Atelier d'Eugène Delacroix - Edmond Texier :
Tableau de Paris, Chap.43, 1852-53 @ BnF-Gallica














46歳から59歳の壮年期を迎え、すでに巨匠としての名声を確立しており、リュクサンブール宮やブルボン宮(国民議会)など公的機関の建物の装飾画の注文が次々と続き、非常に多忙かつ充実した時を送った。下掲(↓)はその時期に制作されたリュクサンブール宮の上院議会図書館の天井画「ダンテをホメロスに紹介するヴェルギリウス」である。
Delacroix Eugène :Virgile présentant Dante à Homère
Détail de la coupole de la Bibliothèque du Sénat;
Paris, Sénat - Palais du Luxembourg
Photo (C) RMN-Grand Palais / Agence Bulloz

ドラクロワは58歳の1856年に大病を患い、依頼を受けていたサン=シュルピス教会の絵を完成させるために同じ左岸のサン=ジェルマン・デプレにあるフュルスタンベール広場の家に転居し、最晩年の6年を過ごすことになる。(PRR, CVP, LAI)













2015年11月19日木曜日

散歩R(10-7) 画家ゴーギャンの生家 Maison natale de Paul Gauguin(9区サン=ジョルジュ地区)

☆ノートルダム・ド・ロレット通り56番地 (56, rue Notre-Dame de Lorette, 9e)
《画家ゴーギャンの生家》 (Maison natale de Paul Gauguin)
(c) Photo Emoulu bc06a, 2013

後期印象派の画家であり、彫刻家、作家でもあったポール・ゴーギャン(Paul Gauguin, 1848-1903)がこの家で生まれたという小さな銘板が窓枠の間に掛かっている。
父親は共和派の新聞「ナシオナル」(National)の記者、母親は南米ペルーに入植したスペイン人家族の出であった。この家は両親が借りて住んでいたというだけで、ゴーギャンは幼時期を過ごしたのにすぎない。
彼が生まれて3歳足らずの頃に、2月革命後の政界でルイ=ナポレオン(ナポレオン3世)の勢力が強大となったのを嫌って、一家はフランスを離れ、ペルーの親族を頼って船に乗った。ところがその途上で父親は病死してしまい、母子だけとなってペルーに到着し、ゴーギャンは7歳までその地で育った。その後、フランスに戻って教育を受けたが、17歳で船員となり南米航路で働き、20歳からは海軍に入り、普仏戦争に従軍した。敗戦後、23歳で退役し、1871年にパリのラフィット通りにある株式仲買人の事務所で働いた。まもなく妻子も持ち、ある程度裕福な暮らしができた。

Gauguin Paul : La Seine au pont d'Iéna. Temps de neige, 1875
Photo (C) RMN-Grand Palais (Musée d'Orsay) / Thierry Le Mage
彼が絵画に傾倒するのは1874年、画家のピサロを紹介され、第1回目の印象派展で大いに刺激を受け、それまで趣味としていた絵画を次第に専業とするようになって行く。
右掲(→)の絵は、彼の初期の作品「イエナ橋付近の雪のセーヌ河」(1875)である。まだピサロやモネ、ヨンキントの技法を習得中で、丹念な絵ではあるが、ゴーギャン独特の色彩や筆致は見られない。



2015年11月17日火曜日

散歩R(10-6) コウノトリの家、画家ピサロの旧居 Ancienne demeure du peintre Pissarro, dite Maison de cigogne(9区サン=ジョルジュ地区)

☆ノートルダム・ド・ロレット通り49番地 (49, rue Notre-Dame de Lorette, 9e)
《コウノトリの家》  PA00088966  © Monuments historiques, 1977
《画家ピサロの旧居》

ちょうど通りの向い側にもう一つ歴史的建造物に登録された建物がある。バルコニーの持ち送りと窓飾りの組合せで、翼を広げた一対のコウノトリを立体的にあしらっていて、見る者を感心させる。その姿からこの家を勝手に「コウノトリの家」(メゾン・ド・シゴーニュ、Maison de cigogne)と呼ぶことにしている。1847年の建造、建築士はシアンテプ(L.Cienthep)と刻銘されている。その上階の装飾には獅子頭も見える。

(c)Photo Emoulu bc07, 2013


(c)Photo Emoulu bc07c, 2013
この家は、カリブ海の島から画家を目指してパリにやって来た25歳のカミーユ・ピサロ(Camille Pissarro, 1830-1903) が住みはじめたところでもある。折りしも1855年のパリ万博の時で、展示されていた当時の巨匠たち、ドラクロワやコロー、クールベの作品に感銘を受けた。
彼の父親は裕福な商人で、少年ピサロをパリのリセの寄宿舎に入れたのがそもそものきっかけで、ピサロは画家の道を歩むために親の許しを得て、パリに再び戻り、美術学校や様々な画塾に通うことになる。(LAI)

C.Pissarro : La côte des Jalais à Pontoise (1867)
Etats-Unis, New-York, The Metropolitan Museum of Art
Photo (C) The Metropolitan Museum of Art, Dist.
RMN-Grand Palais / image of the MMA
1859年に初めてサロンに入選し、その後は年ごとに入選と落選を交互に繰り返した。入選には、当時最も理解を示した画家のドービニーの意見の助けもあった。

(←)左掲は「ポントワーズのジャレの丘」で30代の傑作の一つである。前景の道路を歩く日傘をさした婦人の姿が当時流行った風俗である。この頃から彼の作風が確立され、サロンの審査員の理解が得られないながらも、郊外の村での生活を拠点とし、経済的に自立できるようになっていった。







2015年11月15日日曜日

散歩R(10-5) ノートルダム・ド・ロレット通り Rue Notre-Dame de Lorette, 9e(9区サン=ジョルジュ地区)


 ☆ノートルダム・ド・ロレット通り52番地 (52, rue Notre-Dame de Lorette, 9e)
PA00088967  © Monuments historiques, 1992



« Immeuble 52, rue Notre-Dame de Lorette, 9e» par MOSSOT
— Travail personnel. Sous licence CC BY 3.0
via Wikimedia Commons

歴史的建造物に登録されているというが、この建物の見どころは普通に歩いて行けば見過ごしてしまう。上を見上げてやっと、3階正面にある3連の半円窓とその間を支えるイオニア式の円柱装飾が見事なのがわかる。もともと古代ギリシア建築に見られる柱頭部の渦巻飾りがイオニア式の特徴である。窓の上壁にはギリシア悲劇にありそうな男女の横顔のメダル彫刻が見える。バルコニーの下には3連の浮彫があるが、すでに摩耗して細部がわからなくなっている。教会や神殿にあるような装飾がこうした一般の住居に模造されているのは珍しい。それが登録の理由かもしれない。





☆ノートルダム・ド・ロレット通り54番地 (54, rue Notre-Dame de Lorette, 9e)


(c)Photo Emoulu bc06f, 2013

(c) Google Map Streetview
 54, rue NotreDame de Lorette, 9e
そのすぐ隣の建物の装飾も興味深い。しかしこちらは歴史的建造物にはなっていない。ルネサンス期の頭飾りをつけた男女の貴人の頭部が一対になって正面窓の両側を飾っている。その下の花瓶をあしらった唐草模様の細かな装飾も美しい。(→)

実はこの男女の頭像は中世の悲恋の主人公たち「アベラールとエロイーズ」(Abélard et Héloïse)を模したもので、19世紀前半には建物の装飾として流行したという。

フランス大革命期の混乱時に過去の貴重な文化遺産までも破壊の危機にさらされたために、アレクサンドル・ルノワール(Alexandre Lenoir, 1761-1839)が中心となって「フランス歴史遺産博物館」(Musée des monuments français)が設立された。それに合わせて過去の偉人たちの墓も整備され、アベラールとエロイーズの墓も修復以上に新調された。この墓は、ナポレオン後の王政復古の1817年にペール・ラシェーズ墓地に改葬されたということもあり、当時の新築アパルトマンに盛んに採り入れられたという。(PRR)





2015年11月13日金曜日

散歩R(10-4) 作家アンリ・ミュルジェの居宅 Ancienne demeure de Henry Murger, l'auteur de La Bohème(9区サン=ジョルジュ地区)

(c) Google Map Streetview
 48, rue Notre-Dame de Lorette, 9e
☆ノートルダム・ド・ロレット通り48番地 (48, rue Notre-Dame de Lorette, 9e) 《アンリ・ミュルジェの居宅》Ancienne demeure de Henry Murger, l'auteur de La Bohème

プッチーニの名作オペラ「ラ・ボエーム」の原作となった小説「若き芸術家(ボエーム)たちの生活情景」(Scènes de la vie de Bohème)を書いた作家アンリ・ミュルジェ (Henry Murger, 1822-1861)が28歳から33歳までの5年間住んだ家である。この小説は彼自身とその仲間の芸術家たちの実生活に基づいたエピソードをつなぎ合わせた連作短編集の形であり、生活の糧を得るのに困窮しながらも自由闊達に生きる彼らの姿は共感を呼んだ。


H.Murger - La vie de Bohème
Illustration par André Gill
@BnF - Gallica
有名になったのは27歳のときに書きあげたこの小説を戯曲化して、ヴァリエテ座で上演して大当たりを取ってからである。

ミュルジェは38歳で早世するが、彼がここに住んでいた時期が最も輝いていたということになる。
作品さながらに彼が近隣の居酒屋「ブラスリー・デ・マルティル」や食堂「ディノショー」に頻繁に出入りして仲間たちと語り合ったことが記録されている。(LAI, PRR)


参考Link :アンリ・ミュルジェ『若き芸術家(ボエーム)たちの生活情景』(Scènes de la vie de Bohème)より第10話「嵐の岬」




2015年11月11日水曜日

散歩R(10-3) 画家ドービニーのアトリエ L'emplacement de l'atelier de Daubigny, paysagiste(9区サン=ジョルジュ地区)

(c) Google Map Streetview
 44, rue Notre-Dame de Lorette, 9e
☆ノートルダム・ド・ロレット通り44番地 (44, rue Notre-Dame de Lorette, 9e) 《画家ドービニーのアトリエ》L'emplacement de l'atelier de Daubigny, paysagiste

44番地は印象派の先駆者とされる風景画家のドービニー(Charles-François Daubigny, 1817-1878)のアトリエがあった家である。代々画家の家系に生まれ、早くから画家としての養育を受けた。20代後半からバルビゾンに拠点を構え、大自然の只中で制作するという手法は、印象派の画家たちに先行し、手本となった。自らボートをアトリエに造作を変え、セーヌ川やオワーズ川の河岸や沼地の風景を描き続けた。

彼はモネやシスレー、ピサロたちの新たな表現手法に一目を置き、1870年のサロン展で相変わらず頑迷な審査員たちに腹を立てて、自ら審査員を辞める行動に出た。ロンドンではピサロとモネを画商のデュラン=リュエルに引き合わせたりして印象派の評価を高める手助けをした。(LAI)

Charles-François Daubigny : Soleil couchant sur l'Oise
Angers, musée des Beaux-Arts
Crédit:Photo (C) RMN-Grand Palais / Benoît Touchard




(←)左掲はドービニーの「オワーズ川の日没」という作品であるが、印象派の光のとらえ方に限りなく近づいた名品であると思う。







2015年11月9日月曜日

散歩R(10-2) 探偵小説家ガボリオの住居 Ancienne demeure de Gaboliau, père de Roman Policier(9区サン=ジョルジュ地区)




(c) Google Map Streetview
 39, rue Notre-Dame de Lorette, 9e
☆ノートルダム・ド・ロレット通り39番地 (39, rue Notre-Dame de Lorette, 9e) 《探偵小説家ガボリオの住居》Ancienne demeure de Gaboliau, père de Roman Policier

この住居にはフランスの探偵小説の創始者とされる作家エミール・ガボリオ(Émile Gaboriau, 1832-1873)が住んでいたが、その人気の絶頂期に脳卒中の発作で急死した。前日に海辺でのバカンスから夫婦でパリに戻ったばかりで、休暇中に新作の構想を練っていて、これから執筆に取りかかるところだったという。40歳だった。

フランスでは1850年代頃からいわゆる大衆紙、つまりあまり政治的な主張をせずに市民生活に関する記事を掲載し、面白い連載小説(ロマン・フィユトン Roman feuilleton)で翌日の配達を心待ちにさせる廉価な新聞が次々と発刊されるようになった。

新聞小説には様々なスタイルの作家が星の数ほど輩出したが、評判の悪い小説はさっさと打ち切られたり、作家たちも淘汰された。ガボリオが何作か目に発表した「ルルージュ事件」(L'Affaire Lerouge, 1866)は、これまでに例がない新しいジャンル、つまり「刑事小説」(Roman judiciaire)を創り出したと言われた。

E.Gaboriau-L'Affaire Lerouge
Affiche de L'Edition Dentu
@BnF - Gallica
フランスでは、例えばある殺人事件が起きると、まず地元の警察署が現場に急行する。続いて司法警察(Police judiciaire)の警視と予審判事、それに検死医の三者が到着して、これを刑事事件として取り扱うか否かを判定するという流れになっている。もちろんそこから捜査の指揮をとるのは警視であり、動くのはその配下の刑事たちである。

ガボリオは下積みの時代にこうした警視庁や死体安置所(モルグ)や裁判所に頻繁に出入りし、捜査活動の実際をつぶさに観察してきたので、作品を構成するための貴重な体験となった。こうした警察官の地道な捜査で事件の真相が解明されるというパターンは画期的なもので、彼がフランス探偵小説の父と呼ばれる所以となった。現在では「ロマン・ポリシエ」(警察小説、Roman policier) あるいは「ポラール」(Polar)と呼ばれている。いわゆる英米の「探偵小説」(Detective novel)とは呼称が微妙に異なるのも、面白い。

「ルルージュ事件」で注目されたガボリオは、「プチ・ジュルナル」紙の専属作家として抱えられ、7年間次々と連載小説を出し続けたが、原稿が出来上がるのをそばで催促されるような人気ぶりで過労がたたったのかも知れない。

ガボリオの作品は、遠く離れた明治時代の日本でもすぐに翻訳・翻案されて親しまれたのは、新聞小説(ロマン・フィユトン)の根底にある市民生活のトラブルや人間の欲望・犯罪に絡んだ社会描写に、バルザックの「人間喜劇」から続く人生の断面を垣間見る伝統があったからではないだろうか。

*参考Link : "Sur les pas des ecrivains" : Emile Gaboriau (仏文)

2015年11月7日土曜日

散歩R(10-1) 女流詩人ルイーズ・コレのサロン Emplacement du salon de Louise Colet, poétesse(9区サン=ジョルジュ地区)

 坂を下がってノートルダム・ド・ロレット通りに入る。ノートルダム・ド・ロレット教会の裏手から始まり、ロレット地区(Quartier Lorette)の中心を斜めに上ってくる背骨のような街路である。散歩者は右手に折れて坂をすこし上がっていく。


☆アンリ・モニエ通り2番地 (2, rue Henri-Monnier, 9e)
(c) Google Map Streetview
 38, rue Notre-Dame de Lorette, 9e

☆ノートルダム・ド・ロレット通り38番地 (38, rue Notre-Dame de Lorette, 9e) 《女流詩人ルイーズ・コレのサロン》(Emplacement du salon de Louise Colet, poétesse)

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掲載写真の左手上のトゥドゥーズ広場から下りてきて、ノートルダム・ド・ロレット通りとの角の家(薬局がある)が19世紀中頃に盛んだった文芸サロンの主催者の一人、女流詩人のルイーズ・コレ(Louise Colet, 1810-1876)の住まいであった。
彼女は南仏で生まれ、早くして父親を亡くし、プロヴァンスの母親の実家で育った。少女時代から並々ならぬ詩才を発揮し、2歳年上の音楽家イポリット・コレ(Hippolyte Colet, 1808-1851)と24歳で結婚してパリに出た。(PRR)

夫のイポリットもまだ若く、国立パリ音楽院の作曲科教授だったボヘミア出身のアントン・ライヒャ(アントワーヌ・レィシャ、Anton Reicha, 1770-1836) の補助教員の職だった。家ではフルートの個人教授をしていた。1840年にようやく和声学の教授に任命される。

Louise Colet, née Revoil, poétesse
le dessin par Franz Xaver Winterhalter
Versailles, Châteaux de Versailles et de Trianon
Crédit : Photo (C) RMN-Grand Palais / Gérard Blot
妻のルイーズは、見ての通りの容姿端麗で、彼女自身そのことをよく知りつつ、サロンを通して文学界の要人たちとの交友を深め、自身の詩集がアカデミー詩作賞(Prix de poésie de l'Académie française)(和風に言えば学術院賞)に選出されるように働きかけた。普通に考えてみても20代で、詩集を何冊も出していない状況で選出されるはずがないと思うが、1839年に受賞となり、奨励金を獲得する。彼女はその後もさらに3回受賞するが、これは文学史上でも異例の出来事で、19世紀にこれだけ評価された詩人が現代ではほとんど知られていない事実も興味深いものがある。簡単に言えば「色仕掛け」で賞を取ったのか、としか思えない。

確かにその通りで、当時アカデミーの重鎮だった哲学者のヴィクトル・クザン(Victor Cousin, 1792-1867)と親密な関係となり、クザンが各方面に働きかけた結果ということが知れわたった。引続いてルイーズが妊娠し、1840年に30歳で女児を出産すると、パリで風刺雑誌「雀蜂」(Les Guêpes)を主宰していた文筆家のアルフォンス・カル(Alphonse Karr, 1808-1890)は、夫のイポリットが認知しないと主張しているのを知り、雑誌に「蚊の一刺し」(une piqûre de cousin)という題で彼女とクザンの関係を揶揄する記事を載せた。これに逆上した彼女は、台所から包丁を持ち出し、隠し持ってカルの家を訪ね、「お話したいことがあります」と伝えた。ワイシャツ姿のカルは部屋に案内しようと振り向いたところ、ルイーズは急いで包丁を取り出し、その背中を刺したのだった。幸いにも手元が狂ってカルは軽傷で済んだ。1840年6月15日のことだった。当時はまだ新聞メディアが発達しておらず、こうした三面記事的な事件も大々的に報道されることはなかった。負傷したカルは告訴することなく、凶器の包丁を額に入れ、「ルイーズ・コレ夫人から・・・背中にもらったもの」と書いて書斎に飾っていたという。(クザン cousin は普通名詞では「従兄弟」だが、「蚊」という意味もある)

ルイーズ・コレには「美人の」(La Belle Madame Colet)という形容詞が必ず付いたが、そのほかに「気性の激しい」(volcanique)とも称された。日常的にもすぐカッとなる女性だったと思われる。彼女には、このあと若き文芸青年だったフロベールとの長い熱愛関係の話が続くが、場所を変えて掲載したい。

*出典:Les Muses Romantiques par Marcel Boutenon; La Revue Hebdomadaire 1926.04 p.103-104 @BnF Gallica
*参考Link : "Musica et memoria"  Hippolyte Colet (仏文)
*参考Link :100年前のフランスの出来事: アルフォンス・カールの胸像(1906.04.08)

2015年11月5日木曜日

散歩R(9-3) 女流画家エヴァ・ゴンザレスのアトリエ跡 Emplacement de l'atelier d'Eva Gonzalès(9区サン=ジョルジュ地区)

(c) Google Map Streetview
 11, rue Henry-Monnier, 9e
☆アンリ・モニエ通り11番地 (11, rue Henri-Monnier, 9e)
《女流画家エヴァ・ゴンザレスのアトリエ跡》Emplacement de l'atelier d'Eva Gonzalès

ここの通りに面した4階は元々文筆家のエマニュエル・ゴンザレス(Emmanuel Gonzalès, 1815-1887)の住まいであった。ゴンザレスはスペイン風の苗字だが、貴族の末裔でフランス中西部出身である。20代からパリで活躍し、新聞小説や評論で名を高める一方、自身で雑誌「カリカチュア」(Caricature)を主宰し、文芸家協会(Société des gens de lettres)の会長にもなった。彼には娘が2人おり、幼い頃から家に出入りする文学界、美術界の有名人に身近に接する環境で育った。特に長女のエヴァ・ゴンザレス(Eva Gonzalès, 1849-1883)は絵の才能を早くから示し、天才少女と言われた。

彼女は印象派の画家ドガ、モネ、シスレーの作品に惹かれ、「オランピア」事件で物議をかもしたマネ(Edouard Manet, 1832-1883)に紹介されると、その指導を受ける決心をした。20歳でアトリエに通ううちにマネの絵のモデルにもなった。


Eva Gonzales : Une loge aux Italiens
Paris, Musée d'Orsay
Crédit : Photo (C) RMN-Grand Palais / Hervé Lewandowski
次の年には早くもサロンに入選し、評判を呼んだ。マネとの親密な関係も取り沙汰された。作風はマネの影響を受けて、印象派の画家たちにも近いものだったが、サロンでは一定の評価を得ていたこともあって、印象派展には参加しなかった。
彼女は住まいの近所や同じ建物の別の部屋に自分のアトリエを構えた。(←)左掲の「イタリア座の桟敷」(1874)は彼女の代表作で見事な出来である。モデルは妹のジャンヌとエヴァの夫となる挿絵画家アンリ・ゲラールである。

30歳で結婚して以降も制作を続けたが、息子の出産の直後に血栓症で急死した。34歳だった。奇しくもマネが死去した5日後だった。(LAI, Wiki)



☆アンリ・モニエ通り9番地 (9, rue Henri-Monnier, 9e)
(c) Google Map Streetview
 9, rue Henry-Monnier, 9e

 この建物は周りに比べても格調の高い様相を示している。気になるのが2階の引っ込んだバルコニー窓の造作である。この旧ブレダ地区にあって、この建物が花街の娼家(メゾン・クローズ, maison close)として使われたかどうかは歴史的に定かではないが、構造的に見て、冒頭に掲載した「飾り窓の女」が、仮にこのベランダに座っているのが見えたとしても不思議ではないように思えてくる。










かたつむりの道すじ:(8) トゥドーズ広場~(9)アンリ・モニエ通り~
(10)ノートルダム・ド・ロレット通り (c)Google Map

2015年11月3日火曜日

散歩R(9-2) アンリ・モニエ通り Rue Henry Monnier, 9e(9区サン=ジョルジュ地区)

(c) Google Map Streetview
 21, rue Henry-Monnier, 9e
☆アンリ・モニエ通り21番地 (21, rue Henri-Monnier, 9e)

広場の外れからそのまま通りを少し上がった左手21番地の建物に美しい女性の頭部とその周りに豊かな装飾を施した持ち送りが見つかる。
1907年の建築で壁面にはっきりと建築士ジョルジュ・ギヨン父子(G.Guyon et fils)と彫刻家ジョルジュ・アルドゥアン(G.Ardouin)の名前が刻み込まれている。この建築士と彫刻家の組合せは、20世紀初頭のパリやその近郊で建てられたあちこちの建物に見られる。
建築装飾の専門書には「象徴派的な女性の顔」(Visage féminin symboliste)と記されているように古典的、神話的な女神像ではなく明らかに近代的な女性の顔である。

(c) Google Map Streetview
 21, rue Henry-Monnier, 9e














(c) Google Map Streetview
 25, rue Henry-Monnier, 9e
☆アンリ・モニエ通り25番地 (25, rue Henri-Monnier, 9e)

一つ空けた並びの25番地の建物もまったく同時期に、同じ建築士と彫刻家のコンビで作られた。双生児のような装飾デザインである。ただしこちらの入口は、幼児の体つきをした小天使(Angelot)2人が戯れている彫刻で、門構えと持ち送りが一体となっている。
建物全体の窓飾りやバルコニーの持ち送りにも細かな装飾が施され、数多くの人面像を見ることができる。残念ながらいずれも歴史的建造物にはなっていない。

Edouard Manet : Le Déjeuner sur l'herbe
(Détail) Paris, Musée d'Orsay
Photo (C) RMN-Grand Palais (musée d'Orsay) /
Benoît Touchard / Mathieu Rabeau






この25番地には、印象派の先駆者となった画家エドゥアール・マネ(Edouard Manet, 1832-1883)が美術界に衝撃を与えた盛期の傑作群の絵画にモデルとして重用されたヴィクトリーヌ・ムーラン(Victorine Meurent) が住んでいたとされる。(PRR)



ここから散歩者は通りを引き返して、坂を下り、ロレット通りの方を目ざす。


2015年11月1日日曜日

散歩R(9-1) 旧ブレダ通り Ancienne rue Bréda(9区サン=ジョルジュ地区)

Une enseigne du quartier Bréda - Edmond Texier :
Tableau de Paris, Chap.44, 1852-53 @ BnF-Gallica
19世紀末までは「ブレダ通り」(Rue Bréda) と呼ばれ、これまで通ってきたクローゼル通りと共に「ブレダ地区」(Quatier Bréda) として知られた。この時代は、現在パリで最も有名な(悪名の高い)歓楽街であるピガール広場やクリシー大通りの大衆娯楽地域が盛んになる前であって、この「ブレダ地区」や「ロレット地区」が歓楽街の代名詞であった。
右掲(→)は「ブレダ地区のある看板」として当時の『パリ絵解き事典』(Tableau de Paris)で紹介されたイラストで、1840年代の頃と思われる。言わゆる「飾り窓の女」の見られる「色街」である。

この地域に住んで、自らの美貌と知性を武器に富裕な政治家や実業家たちのその時々の愛妾として暮らした女性たちのことを「ロレット」(La lorette)と呼んだ。バルザックの『人間喜劇』の作品中にも描かれている。

参考Link :アンリ・ミュルジェ『若き芸術家(ボエーム)たちの生活情景』(Scènes de la vie de Bohème)より第6話「ミュゼット嬢」



Monnier Henry Bonaventure (1805-1877)
Moeurs administratives : M. le chef de division donnant une audience
Photo (C) BnF, Dist. RMN-Grand Palais / image BnF
現在の通りの名前の由来となったアンリ・モニエ (Henry Monnier, 1805-1877) は文筆家、風刺画家として知名度が高かった。パリで生まれ育ち、はじめは公証人役場の書記として働いていたが、描いたデッサン画が評判を呼び、たちまち新聞や小説の挿絵、さらには連作画集の注文が殺到した。

 彼は当時の世相を背景とした典型的な人物像を創り出した。いずれも粗野で滑稽でいやらしい気質を備えながら、どこか憎めないという「そこいらによく見かける人物」で、それを『民衆の生活風景』(Scènes populaires)、『ジョゼフ・プリュドムの回想録』(Mémoires de Joseph Prudomme)などで痛烈に描き出し、果ては寸劇まで自分で書き上げて、自身がその人物の役になりきって演ずるまでになった。上掲(↑)は連作画集『お役人の生態』から「陳情を聞く局長」の場面である。



(c) Google Map Streetview
 16, rue Henry-Monnier, 9e
☆アンリ・モニエ通り16番地 (16, rue Henri-Monnier, 9e)
《レストラン「ディノショー」跡》

 ナヴァラン通りとの角に第2帝政時代(ナポレオン3世)に「ディノショー」(Dinochau)という小さなレストランがあった。当時は売れない芸術家たちの溜まり場として、詩人のボードレール(Charles Baudelaire, 1821-1867)、画家のクールベ(Gustave Courbet, 1821-1877)、マネ(Edouard Manet, 1832-1883)、「ラ・ボエーム」の原作を書いた作家ミュルジェ(Henry Murger, 1822-1861)や、グルメ作家のはしりのモンスレ(Charles Monselet, 1825-1888)、新聞小説作家のポンソン・デュ・テラィユ(Pierre Alexis Ponson-du-Terrail, 1829-1871)、風刺画家のアンドレ・ジル(André Gill, 1840-1885)などが顔を連ね、店主のディノショー(Dinochau)は、将来見込みのあると判断した作家、画家、音楽家、彫刻家、政治家、ジャーナリスト等に対して「無制限のツケ」で食事を提供したので、彼らからは大いに感謝された。もちろん見込み外れや濫用もあったため、経営的には大きな損失を生み、店主の死後は廃業となった。(MGP, PRR, LAI)

「ディノショーのお蔭でミュルジェは飢えずに済んだ。生きている限りはこの実直な親父のところでささやかな食事にありつけた。彼の財布は空だったが、ディノショーは構わなかった。彼の未来の担保に甘んじていたのだ。」(Grâce à Dinochau, Murger n'a pas eu faim : tant qu'il a vécu, il a trouvé à la table de l'honnête restaurateur un modeste repas;  sa bourse était vide : peu importait à Dinochau, qui se contentait d'une hypothèque sur l'avenir. - Courrier du Palais; P489 Le monde illustré #225 au 1861/08/03) @BnF Gallica

参考Link : Le Paris pittoresque - Cafés, Hôtels, Restaurants - Dinochaux (仏文)