パリの街角散歩です。カタツムリのようにゆっくりと迂回しながら、そして時間と空間をさまよいながら歩き回ります。


2016年6月29日水曜日

散歩Q(2-3) 点描派シニャックのアトリエ跡 Emplacement de l'atelier de Paul Signac, pointilliste(クリシー広場~ユーロプ界隈)

☆クリシー大通り130番地 (130, boulevard de Clichy, 18e)

Paul Signac : La Neige, boulevard de Clichy, 1886
Institute of art, Minneapolis, USA
大通り沿いの次の130番地の建物は、1884年に竣工した大きな集合住宅となっている。3連の同じような狭い戸口がついており、いずれにも建築士フランク(A.F.Frank)という名前が刻まれている。

点描派の画家ポール・シニャック(Paul Signac, 1863-1935)は1886年から1888年までの約2年間、この建物にアトリエを構えていた。彼が23歳から25歳の時期で、その2年前に知り合った4歳年上の画家ジュルジュ・スーラ(Georges Seurat, 1859-1891)とともに、新たな絵画技法となる分割描法(divisionnisme) や点描画法(pointillisme)を目ざして色彩理論を突き詰め、仲間たちとの議論に熱中していた。
(c) Google Map Streetview
 130, boulevard de Clichy, 18e

(↑)上掲の絵は、『クリシー大通り、雪』と題されたこの時期の作品で、クリシー広場から大通りが大きく右にカーヴする地点の雪の日の情景を点描画法で描いたものである。彼のアトリエのすぐ目の前の道であり、右側の煉瓦造りの建物は、昔のパリの各市門のところに設けられていた入市税事務所(オクトロワOctroi)のように見える。

文才もあったシニャックは、文人たちの集まりにも熱心に参加したが、次第に無政府主義(anarchisme)の思想に傾倒し、同じ思想を持つ自然主義作家のポール・アレクシス(Paul Alexis)や印象派の長老カミーユ・ピサロ(Camille Pissarro, 1831-1903) と親しくなった。特にピサロはこの年1886年5月に開催される8回目の印象派展にシニャックとスーラの新たな技法による作品を加えようと画策し、従来の印象派のスタンスを取り続けるルノワールやモネたちと溝ができてしまう。結局この8回目が印象派展の最後となった。ピサロはこのあとしばらく若い年代と同じ点描画法を取り入れた作品を積極的に描いた。

Vincent van Gogh : Boulevard de Clichy (1887)
Van Gogh Museum, Amsterdam
Wikimédia commons






シニャックは鷹揚な性格で人当たりが良く、心を和ませるような穏やかな風景画の画風を保ち続けた。
ちょうどこの時期に画家としてパリにやってきたゴッホとも親しくなり、ゴッホも印象派の画家たちに共感し、点描・分割画法などの新しい技法による作品を描いた。(LAI)

2016年6月23日木曜日

散歩Q(2-2) クリシー広場 Place de Clichy(クリシー広場~ユーロプ界隈)

クリシー(Clichy)の地名は、パリのこの地域で広範囲にわたって使われている。その中心となるのがクリシー広場(Place de Clichy)である。そこから南の都心部へ下る道がクリシー通り(Rue de Clichy)、北の郊外へ伸びるクリシー並木通り(Avenue de Clichy)、そして徴税障壁の跡地を道路にしたクリシー大通り(Boulevard de Clichy)である。

クリシーは近世まではパリ郊外の村の名前だった。今のクリシー広場の辺りと思われるが、メロヴィング王朝のダゴベール王(Roi Dagobert)のお気に入りの居館があったという。17世紀には聖ヴァンサン・ド・ポール(St. Vincent de Paul)がクリシー教区の司教を務め、何回かの司教会議もここで開催された。大革命直前のルイ16世の時代にパリの周囲に徴税のための障壁が設けられ、市内に持ち込む商品へ関税がかけられるようになった。これが「バリエール」(Barrière バリア)で、クリシーにもパリ市の境界となる市門の一つがあった。

E.G.Grandjean - La place Clichy en 1896
Paris, musée Carnavalet
Crédit Photo (C) RMN-Grand Palais / Agence Bulloz



























クリシー広場が歴史的に有名になったのは、ナポレオン時代の1814年3月30日、敗走するフランス軍を追い詰めて連合国軍がパリに攻め込んだが、この市門を守っていたモンセー元帥指揮する部隊が頑強に抗戦し、最後まで戦ったという史実である。
(↑)上掲は、「1896年のクリシー広場」の風景画だが、120年経った今でもその趣が残っている。モンセー元帥の記念像の足の形から判断すると、この絵はクリシー広場の南から北に向かって描かれたもので、正面奥の一角が当時「カフェ・ゲルボワ」や「ラトゥイユ親父の店」、そして「タヴェルヌ・ド・パリ」があったクリシー並木通りである。作者のグランジャン(Edmond-Georges Grandjean, 1844-1908)はこの他にもパリの19世紀末の風景を絵葉書のように描いて通俗的な人気があった。


☆クリシー広場14番地 (14, place de Clichy, 18e)
 ブラスリー「ウェプレー」 (Brasserie Wepler)
(c) Google Map Streetview
 14, place de Clichy, 18e

広場に面した一角にあるブラスリーの老舗「ウェプレー」(Wepler)の紅い日除けの帆布がこの広場のランドマークとなっている。1881年創業とあるので、すでに130年以上の伝統がある。上掲のグランジャンの絵の右端にも、当時は紅でなく薄緑色だがこの店の日除けが描かれている。

ブラスリー(Brasserie)は高級レストランに比べれば気軽に食事ができる店のスタイルで、一般的に広場や繁華街の一角に紅い日除けの帆布を張り、広い客席を抱えて、素早く、親しみやすいサービスをしてくれる。料理は伝統的・定番的なものがほとんどなのがブラスリーの宿命で、シェフの手の込んだ調理や創作味は期待しない方がいい。この店も冬場には、生牡蠣と海の幸の盛り合わせ(Plateau de fruits de mer)を出してくれる。


☆クリシー大通り140番地 (140, boulevard de Clichy, 18e)
 映画館《パテ=ウェプレー》(Pathé-Wepler)
(c) Google Map Streetview
 140, boulevard de Clichy, 18e




















ブラスリーの隣にある大きな映画館の建物で、《パテ=ウェプレー》(Pathé-Wepler)と呼ばれている。ここから住所表示がクリシー大通りに変わる。広場が大通りの延長なのだ。
第2次大戦後の1956年に1600席以上の大映画館として建てられた。まさに映画文化の最盛期の時代で、当時フランスの映画産業の頂点にあったパテ社の所有する巨大な上映館の代表格であった。今でも建物の壁面に《 PATHE 》と彫られた文字が残っているのが見える。1994年以降はシネマコンプレックス(multiplexe) として改装され、12の上映室(salle)で2000を超える客席を擁している。


☆クリシー大通り134番地 (134, boulevard de Clichy, 18e)
(c) Google Map Streetview
 134, boulevard de Clichy, 18e

その隣接する134番地の広壮なアパルトマンの建物は、ベルエポック時代の1904年から1906年にかけて建築家のルネ・ディジョルジュ(René Digeorge)によって建てられた。建物の両端にある出入口のバルコニーの曲線と花蔓模様の装飾に時代の気品が感じられる。









ここの壁面に奇妙な(→)
模様がつけられているが、いわゆる街角アートの一つらしい。
日本で1980年前後に大流行したコンピュータ・ゲームのキャラクター(例えばインベーダー)のイラストと同じものが用いられている。それがパリを中心とする欧州各都市に多数蔓延している「インベーダー・アート」(Invader Art)である。誰が何のために?がわからないが街角は間違いなく「侵略」されている。

*参考Link: Wikipedia : Invader (artiste)
https://fr.wikipedia.org/wiki/Invader_(artiste) (仏語)

https://en.wikipedia.org/wiki/Invader_(artist) (英語)

2016年6月13日月曜日

散歩Q(2-1) 作家ヴィリエ・ド・リラダンの旧居 Ancienne demeure de Villiers-de-L'isle-Adam(クリシー広場~ユーロプ界隈)

(c) Google Map Streetview
 16, place de Clichy, 18e

☆クリシー広場16番地 (16, place de Clichy, 18e)

クリシー並木通りから広場に出る角の建物がクリシー広場16番地(18区)である。19世紀後半の異色の作家オーギュスト・ド・ヴィリエ・ド・リラダン(Auguste de Villiers de L'Isle-Adam, 1838-1889)が晩年に住んだ家とされるが碑銘はない。長いけれどもヴィリエ・ド・リラダンが苗字である。

彼は、ブルターニュ地方のマルタ騎士団に加わった由緒ある貴族の家系に生まれたが、1855年に父親の伯爵は領地と家屋敷を売り払って、家族を伴ってパリに出てきた。少年時代は詩作と音楽(ピアノ)に優れた才能を示したが、箔のある家柄ゆえに招かれてパリの社交界に出入りするうちに、小説と劇作、評論に深く関わるようになる。しかし父親は負債の返済を滞ってクリシー牢獄に収監されるほど、ヴィリエ伯爵家の生活は窮乏を極めた。

Les Hommes d'Aujourd'hui : Villiers de L'Isle-Adam
Collignon et Tocqueville, caricaturiste
Paris, bibliothèque du musée d'Orsay
Crédit Photo (C) RMN-Grand Palais
(musée d'Orsay) / Michel Urtado







1864年に26歳で彼は4歳下のマラルメ(Stéphane Mallarmé, 1842-1898)と知り合う。互いに尊敬し、想念を研ぎ澄まし合い、終生確かな友情を持ち続けた。
かたや文人のテオフィル・ゴーティエ(Théophile Gautier, 1811-1872)の娘と婚約しながらも、身分の不釣り合いを理由に解消した。

美しく気まぐれなニナ・ド・ヴィラールのサロンにも頻繁に出入りし、彼女が中心となったワーグナー崇拝の熱狂的な運動に加わった。

彼の代表的な作品は『残酷物語』(Contes cruels)、『未来のイヴ』(L'Ève future)などが挙げられる。世間一般の価値観への辛辣な皮肉と、精神世界への幻想的な称揚との奇妙に混じり合った味わいがある。同時代の人たちからはほとんど理解されず、尊大な自尊心を放棄することなく、貧困の中に生きた。「武士は食わねど高楊枝」の諺を連想する。


◇パリ蝸牛散歩内の関連記事:
9区サン=ジョルジュ地区(20-1)ニナのサロン 1er Salon artistique et littéraire de Nina de Callias
☆エネ通り13番地 (13, rue Henner, 9e) 
☆シャプタル通り17番地 (17, rue Chaptal, 9e)
http://promescargot.blogspot.jp/2016/02/20-1.html

◇《フランス箴言集》の関連記事: ヴィリエ・ド・リラダンの言葉
http://promescargot.blog.fc2.com/blog-category-49.html

2016年6月3日金曜日

散歩Q(1-4) クリシー並木通り Avenue de Clichy(クリシー広場~ユーロプ界隈)

☆クリシー並木通り10番地 (10, avenue de Clichy, 18e)
(c) Google Map Streetview
 10, avenue de Clichy, 18e

クリシー広場はパリでも珍しい地図上の区分点で、8区、9区、17区、18区の4つの区の境界となっている。並木通りの反対側は18区の区域にあたる。10番地の建物の2階部分には、珍しい鋼鉄と窓ガラスに覆われたサンルームのような張り出しが造られている。白亜の建物に黒色の鉄のコントラストが異様にも見える。
19世紀末に流行したアール・ヌーヴォ様式に見られる鉄の素材を飴細工のように曲線を施した装飾がここでも見られる。







☆クリシー並木通り8番地 (8, avenue de Clichy, 18e)


(c) Google Map Streetview
 10, avenue de Clichy, 18e
隣の8番地は、パテ社の映画館の一つがある。見ての通り《PATHÉ!》のロゴマークは、20世紀初頭から映画産業に君臨してきた。
パテ兄弟社(Pathé frères)は、シャルル・パテ(Charles Pathé, 1863-1957)を筆頭とする4人の兄弟が1896年に設立したレコード制作会社だったが、その後映画の分野に進出し、フィルムの製造、撮影用カメラの改良、映画の制作、配給、上映館網の拡大、映写機の販売等、映画の最初から最後までのプロセスを支配し、その販売網は欧州から米国まで広がり、事業のシェアは最盛期で50%を超えた。







ロゴマークには、パテの文字とともに、フランスの国を象徴する雄鶏も用いられた。

2016年6月1日水曜日

散歩Q(1-3) タヴェルヌ・ド・パリ跡 Ancien emplacement de la Taverne de Paris(クリシー広場~ユーロプ界隈)

☆クリシー並木通り3番地 (3, avenue de Clichy, 17e)
《 タヴェルヌ・ド・パリ跡 》 (Ancien emplacement de la Taverne de Paris)
(c) Google Map Streetview
 3, avenue de Clichy, 17e

カフェ・ゲルボワからクリシー広場のほうに戻ってくる途中の3番地には、「タヴェルヌ・ド・パリ」(La Taverne de Paris)という居酒屋があった。マネや印象派の若い画家たちがこの辺りにたむろした時代から20年くらい後のことで、19世紀末から20世紀初頭のベル・エポック時代、この居酒屋は、「諧謔漫画家協会」(Société de dessinateurs humoristiques) と称する団体に所属する戯画作家、漫画家、風刺画家たちが集まる場所となった。

Jules Chéret - Fleur de Lotus,
affiche de Folies Bergère
Paris, Bibliothèque nationale de France (BnF)










その中心的な人物は、レアンドル、スタンラン、フォラン、ウィレットなどで、彼らは皆1850年代生まれの30代~40代の画家・漫画家たちで、機智にあふれかつ辛辣なユーモア精神を持ち合わせており、そこでは才気煥発な議論が飛び交った。

19世紀後半になって多種多様な新聞や雑誌が盛んに発行される時代となり、特に視覚に訴える挿絵や口絵が多用されるようになり、印刷技術の発達に伴ってカラー印刷物も大量に生み出された。右掲(→)のポスターは、当時絶大な人気を誇ったジュール・シェレ(Jules Chéret, 1836-1932)によるもので、彼はすでに大御所としての存在で、若い画家たちに助言を惜しまなかった。(LAI, PRR, Wiki)


Steinlen : Le bal du 14 juillet
Paris, musées de la Ville de Paris
Crédit Photo (C) RMN-Grand Palais / Agence Bulloz


雑誌等に掲載された彼らの作品は一見して大同小異の似たようなものとして捉えられやすいが、それぞれ作者の個性が発揮され、味わいも微妙に異なっている。

(←)左掲は、テオフィル・スタンラン(Théophile Steinlen, 1859-1923)の絵画で『7月14日の舞踏会』と題されている。革命記念日(いわゆるパリ祭)の夜にパリの街角で催されたダンスパーティの風景である。当時のクリシー広場でもこのような光景が見られたと思われる。スタンランはこうしたバランス感覚のある生活風景を多く描いている。

Léandre - En marge de Chantecler, La conspiration des nocturnes
La comédie parlementaire
Paris, Bibliothèque nationale de France (BnF)

シャルル・レアンドル(Charles Léandre, 1862-1934) はグロテスクな風刺画を得意とし、長い間にわたって新聞や雑誌で大胆な戯画が掲載された。(→)右掲は『シャントクレの余白に、夜の陰謀ー国会喜劇』と題された風刺画である。「シャントクレ」(Chantecler)[ あえて和訳すれば「鶏鳴」かも] とは、1910年に初演されたエドモン・ロスタンの戯曲のことで、鳥たちを擬人化した世界での権力抗争を描いたものである。レアンドルはそれを更にもじって当時の国会での論争を皮肉ったものと思われる。


Collection Jaquet : Dessinateurs et humoristes;
Willette 3 - Défets d'illustrations de périodiques
Pourquoi pas? @BnF Gallica

アドルフ・ウィレット(Adolphe Willette, 1857-1926) も雑誌のイラストで人気が高かった。(←)左掲のものは《クーリエ・フランセ》(Courrier Français)掲載の一連のシリーズ『女の気まぐれ』(裸と脱衣)(Les Fantaisies : Nus et déshabillés) の中の「もちろんよ!」(Pourquoi pas?) と題したイラストである。

日常ではまず起こりえない美女の蓮っ葉な行状を描いた作品がほとんどで、男性読者の目の保養となったのかも知れない。

(↓)下掲は、《巡査:「お嬢さん、気をつけて、霜焼けになるよ!」》

Collection Jaquet : Dessinateurs et humoristes;
Willette 3
Défets d'illustrations de périodiques
Le sergot - Méfiez-vous, mon enfant,
vous allez attraper des engelures.
@BnF Gallica
















フランス国立図書館(BnF)のガリカ電子図書館(Gallica) では、19世紀後半~20世紀前半における著名なイラスト画家たちの作品を膨大な雑誌から切り貼りして集めた《ジャケ・コレクション》(Collection Jaquet) を各人別に見ることができる。

http://gallica.bnf.fr/services/engine/search/sru?operation=searchRetrieve&version=1.2&collapsing=disabled&query=%28gallica%20all%20%22Collection%20Jaquet%20humoristes%22%29%20and%20dc.type%20all%20%22image%22%20and%20dc.relation%20all%20%22cb43742245x%22