パリの街角散歩です。カタツムリのようにゆっくりと迂回しながら、そして時間と空間をさまよいながら歩き回ります。


2016年1月29日金曜日

散歩R(18-4) 女流詩人マルスリーヌ・デボルド=ヴァルモールの居宅 Demeure de Poète Marceline Desbordes-Valmore(9区サン=ジョルジュ地区)

☆ラ・ブリュイエール通り8番地 (8, rue La Bruyère, 9e)  
《女流詩人マルスリーヌ・デボルド=ヴァルモールの居宅》
(c) Google Map Streetview
 8, rue La Bruyère, 9e
(Demeure de Poète Marceline Desbordes-Valmore)

マルスリーヌ・デボルド=ヴァルモール(Marceline Desbordes-Valmore, 1786-1859)はロマン主義時代の女優であり、詩人であった。
フランス北部ドゥエの生まれ、少女時代に母親を亡くし、16歳から地元の劇団に入って各地を転々とする。女優のほか、舞台歌手、オペラ歌手としてもルーアン、リールの地方都市やパリのオデオン座、オペラ・コミック座でも活躍し、うぶな小娘役(ingénue)を得意とした。当時の人気俳優のタルマ、マリー・ドルヴァルと出会い、特にマルス嬢とは終生の友となった。

21歳の時に初めて詩作が新聞に掲載された。22歳からの2年間は俳優で劇作家のアンリ・ド・ラトゥシュ(Henri de Latouche, 1785-1851)と熱烈な恋愛関係となり、一度途絶えたその関係はその後も断続的に続き、彼女の詩作に大きな影響を与えた。
31歳で俳優のヴァルモール(Valmore)と結婚し、リヨンに定住し、夫と子供を支えつつ、詩作を続けた。1819年33歳のときに最初の詩集『悲歌と恋歌』(Élégies et Romances)を出版すると大きな注目を集め、新聞や雑誌からの依頼が来るようになった。生活は貧困状態が続き、幼な児を2人も亡くし、娘の病気と彼女自身の恋愛感情に悩みつ
Marceline Desbordes-Valmore
Bibliothèque municipale
de Douai
つ、それらの気持の高ぶりをありのままに詩作に吐露する率直さで《涙の聖母》(Notre-Dame des Pleurs)とも称された。

46歳で女優を廃業し、その後も『涙』(Pleurs, 1833)、『哀れな花』(Pauvres fleurs, 1839)、『花束と祈り』(Bouquets et Prières, 1843)と詩集を出している。
このラ・ブリュイエール通り8番地の家には、彼女が52歳の1838年から約2年間住んだとされている。パリでの著作活動とともに、ちょうど病弱ながらも学業優秀な娘オンディーヌがセーヌ県の女子寄宿学校の教員として難関を突破して採用された時期であった。この娘も優れた詩作を残したが、31歳で病死してしまう。

詩人のボードレール(Charles Baudelaire, 1821-1867)は彼女の業績を高く評価し、「女性的なるもののあらゆる美しさを並外れて詩的に表現した女性だった」と語っている。(PRR, Wiki)

Les compositeurs de Marceline Desbordes-Valmore
@Amazon.fr
彼女の詩を歌詞にしたフランス歌曲が有名無名の多くの作曲家によって作られている。(→)右掲のCDは2009年に制作された。現在はmp3のダウンロードで試聴や購入ができる。
この中では、セザール・フランク(César Franck, 1822-1890)作曲の『夕べの鐘』(Les cloches du soir)が最も良く知られ、楽譜が Imslp に収蔵されている。
パリで晩年を送ったロッシーニ(Gioacchino Rossini, 1792-1868)による『枝垂れ柳』(Le Saule pleureur)も味わい深い曲だが楽譜が見当たらないのが残念。
ショパンの先輩格にあたるジョン・フィールド(John Field, 1782-1837)も2つの歌曲を作っていたのは貴重である。
この他にサン=サーンスやレイナルド・アーンなど作曲者は広範囲な世代に及んでいる。

またYoutubeでは詩の朗読を読み聞かせる動画・静止画も少なくない。古きロマン派時代の彼女の詩がいかに時を超えて現代でもこれほどまでに親しまれているかを知ると本当に驚くしかない。

(1) N' écris pas ... Marceline Desbordes-Valmore
   このファイルは「遺稿詩集」の中の「書かないで」(N'écris pas)という詩の朗読だが、伴奏に乗って語るシャンソン・パルレ(Chanson parlée)のスタイルで雰囲気が出ている。詩の後半部分を参考に掲載する。

N'écris pas. Je te crains ; j'ai peur de ma mémoire ; 書かないで 気がかりなの 私の記憶は
Elle a gardé ta voix qui m'appelle souvent.      あなたの声を忘れずにいて思い出させるの
Ne montre pas l'eau vive à qui ne peut la boire.   激しい水の流れを見せないで 飲めないから
Une chère écriture est un portrait vivant.       親しみのある文字は生きた肖像のよう
N'écris pas !                        書かないで!

N'écris pas ces doux mots que je n'ose plus lire :  書かないで その優しい言葉はもう読めないの
Il semble que ta voix les répand sur mon coeur ;  それはあなたの声が私の心の上に広がるよう 
Que je les vois brûler à travers ton sourire ;     あなたの微笑みを横切って燃えさかるよう
Il semble qu'un baiser les empreint sur mon coeur. 私の心に痕が残る接吻のよう
N'écris pas !                        書かないで!


(2) Les séparés (N'écris pas) - Julien Clerc
 フレンチ・ポップス歌手のジュリアン・クレール(Julien Clerc, 1947- ) が1997年に「別れし者」(Les Séparés)というタイトルで発表した曲で、(1)の「書かないで」を歌っている。(一部原詩と言葉を言い変えている。la nuit⇒l'amour,  absence⇒silence, brûler⇒briller)

(3) Les cloches du soir
 「夕べの鐘」をドラポルト(Gildas Delaporte)作曲のポップス調の柔らかい曲としてヴァン・デン・ブリンク(Bert van den Brink)が歌っている。

(4) Albert Huybrechts - Les roses de Saadi (Desbordes-Valmore)
 ベルギー出身の39歳で夭折した作曲家アルベール・ユイブレク(Albert Huybrechts, 1899-1938)が「遺稿詩集」の中の「サァディの薔薇」(Les roses de Saadi)に作曲した歌曲。


2016年1月27日水曜日

散歩R(18-3) ラ・ブリュイエール劇場と画家ルフェーヴルのアトリエThéâtre de La Bruyère et l'emplacement de l'atelier de Lefebvre(9区サン=ジョルジュ地区)

(c) Google Map Streetview
 5 et 7, rue La Bruyère, 9e
 ☆ラ・ブリュイエール通り5番地 (5, rue La Bruyère, 9e)  
《ラ・ブリュイエール劇場》(Le Théâtre La Bruyère)
 5番地はラ・ブリュイエール劇場となっている。1943年にしばらく使われずに放置されていたレ・ザナール大学(*)の講演会場を若手の俳優たちが借りて小劇場として発足した。当時はまだナチ独軍の占領下であったが、モリエールの喜劇や現代作家の戯曲を上演した。
 戦後1948年以降、ロベール・デリ(Robert Dhéry, 1921-2004) 率いる劇団「レ・ブランキニョル」(Les Branquignols)の公演が大成功を博し、劇場としての基盤が定まった。現在に至るまで、新作喜劇を意欲的に取り上げている。

(*)レ・ザナール大学 (L'Université des Annales) は1908年に同名の雑誌社が創設した婦女子向けの講座方式の教育機関で、この近くのサン=ジョルジュ通りにあった。第一次大戦後にここに移転してきた。恐らく1940年のナチ独軍のパリ占拠以降は活動を停止したものと思われる。
◇パリ蝸牛散歩内の関連記事:
9区サン=ジョルジュ地区(16-4)サン=ジョルジュ劇場と旧レザナール女子大学跡
http://promescargot.blogspot.jp/2016/01/16-4.html


《画家ルフェーヴルのアトリエ》 (Atelier de Jules-Joseph Lefebvre)
Atelier de M. J. Lefebvre (Anonyme)
Paris, école nationale supérieure des Beaux-Arts (ENSBA)
Photo (C) Beaux-Arts de Paris, Dist. RMN-Grand Palais
 この5番地の建物の2階には百年以上前にアカデミー派の画家ジュール=ジョゼフ・ルフェーヴル(Jules-Joseph Lefebvre, 1834-1912)のアトリエがあった。
アミアン出身でパリの美術学校に学び、ローマ大賞を得てローマに遊学し、帰国後はアカデミー派のジュリアン画塾の教授となった。また毎年サロン(官展)に出展し、1891年には57歳で芸術アカデミーの会員に選出された。

(←)左掲は当時の写真で「ルフェーヴル氏のアトリエ」という説明がある。額入りで見えるのは『オンディーヌ』(Ondine, 1882)という作品である。このポーズの源流は、古典派の巨匠アングル(Jean-Auguste-Dominique Ingres, 1780-1867)の『泉』(La Source)に見られるあどけない乙女の姿である。

Jules-Joseph Lefebvre : Lady Godiva
Musée de Picardie, Amiens
Wikimédia commons
 ルフェーヴルは1870年に『真実』(La Vérité)という同じ構図の裸婦画を描いて以来、一般大衆の人気を獲得し、女性の裸身を正面からあからさまに描くことがこの画家の特徴とされ、この他にも多数の作品がある。19世紀後半のアカデミー派は、大衆の嗜好に迎合したこうした煽情的な裸体画と、美人の肖像画と、ブルジョワの邸宅を飾る凡庸な装飾絵画の袋小路に入り込んで行き、芸術性に乏しい(心に訴えるものを持たない)絵画になって行ったように思う。

(→)右掲は1890年に描いた『レディ・ゴディヴァ』(Lady Godiva)という歴史画で、領主の妻ゴディヴァ夫人(**)が夫の圧政を諫めるために長い髪以外に身にまとわずに裸でロバに乗って町中を練り歩いたという英国の伝説に基づいている。この絵が当時の郵便局のカレンダーに取り入れられて、年末大晦日に配達員が一軒ずつ訪ね歩いて売りさばかれたという。(これはある意味では配達員たちへの恒例となっていた年越しの謝礼の代償として使われたかも知れない)いずれにしても、大胆なヌードを文化的・芸術的という名目で人目にさらす巧妙な手段として利用された卑近な例とも指摘されている。(LAI)
 (**)英国では「ゴダイヴァ」と発音する。ベルギーの有名チョコレート店は「ゴディバ」と表記。

2016年1月25日月曜日

散歩R(18-2) 幻想画家レヴィ=デュルメのアトリエ L'emplacement de l'atelier de Lévy-Dhurmer, fantaisiste(9区サン=ジョルジュ地区)

☆ラ・ブリュイエール通り3番地 (3, rue La Bruyère, 9e)  
《幻想画家レヴィ=デュルメのアトリエ》L'emplacement de l'atelier de Lévy-Dhurmer, fantaisiste

(c)Lucien Lévy-Dhurmer : Portrait de Georges Rodenbach 
vers 1895 / Paris, Musée d'Orsay
Crédit Photo (C) RMN-Grand Palais / Hervé Lewandowski
1番地の隣、3番地の5階のアトリエを一時期借りていたのは幻想味あふれる個性的な画家リュシアン・レヴィ=デュルメ (Lucien Lévy-Dhurmer, 1865-1953) である。
14歳からパリ11区バスティーユ近くの公立学校でデッサンと絵画、彫刻を学んでいたが、抜きん出た才能を示し、在学中に多くの褒章を得ていた。1882年17歳でサロン(官展)に初入選した。

(c) Lucien Lévy-Dhurmer : Le Silence
Paris, musée d'Orsay,
conservé au musée du Louvre
Crédit Photo (C) RMN-Grand Palais
 / Hervé Lewandowski





学校を出てからは、経済的な事情で石版画の工房で働き、22歳から30歳までは南仏で陶工の仕事についた。しかしそこでも彼の才能は「ラスター彩」という陶磁器に金属性の彩色を施す技法の開発に発揮され、工房の長となった。この期間中も彼は絵画やパステル画の作品を描き続け、パリのサロンにも毎年のように出展した。
1895年、30歳で再びパリに戻ったが、この時にベルギー出身の詩人ジョルジュ・ロダンバック(Georges Rodenbach, 1855-1898)と出会い交友を深めた。翌年ロダンバックの勧めで絵画作品の個展を開催するとたちまち注目を浴び、以後象徴主義の文人ステファヌ・マラルメたちや画家ギュスターヴ・モローたちとの関係を築き上げることになる。

彼の画風は暗い青を基調とした星明りや黄昏、あるいは霧の中の背景での人物を描いたものが多く、静謐で幻想味を帯びたものが多い。(↑)上掲の『ジョルジュ・ロダンバックの肖像』も(←)左掲の『沈黙』も初期の傑作とされる。
(c) Lucien Lévy-Dhurmer : Beethoven
Paris, Petit Palais, musée des Beaux-Arts
de la Ville de Paris
Crédit Photo (C) RMN-Grand Palais
/ Agence Bulloz


 彼はまた彫刻や家具のデザインや装飾まで得意とする多才ぶりを示している。(→)右掲の『ベートーヴェン』は彼が何度も制作している作品の一つで紅殻画(サンギーヌ、sanguine)と呼ばれ、独特の印象を与える。彼はベートーヴェンの音楽を好んでいたらしく、「月光の曲」に触発された藍緑のほのかな月明かりに浮かび上がる女性の裸身を描いた有名な作品もある。

 彼は87歳という長寿だったので、1953年の没年から数えると国によっては著作権の残っているところもある。(LAI, Wiki)






2016年1月23日土曜日

散歩R(18-1) 画家アルベール・メニャンのアトリエ Ancien atelier de peintre Albert Maignan(9区サン=ジョルジュ地区)


(c) Google Map Streetview
 1, 3 et 3bis, rue La Bruyère, 9e
☆ラ・ブリュイエール通り1番地 (1, rue La Bruyère, 9e)  《画家アルベール・メニャンのアトリエ》

サン=ジョルジュ広場からノートルダム・ド・ロレット通りの坂を少し上がってすぐ左に斜めの道が開ける。ラ・ブリュイエール通りである。分岐点のところの道幅が広くなっているので、建物の連なりが見渡せる。(↑)上掲の写真がラ・ブリュイエール通りの南側で奇数番地の1、3、3Bである。パリの建物と日本の建物の違いは、間に隙間が無いことで、びっしりと隣合って建っている。地震がほとんどないからかも知れない。1番地の、壁がローズピンク色の建物は、最上階の5階が芸術家のアトリエ仕様になっている。隣の3番地の造作もそのようだ。

A.Maignan: La Fortune passe (1895)
@DEA / G. DAGLI ORTI, Getty Images

1番地には画家のアルベール・メニャン(Albert Maignan, 1845-1908)が1880年頃から30年間近くここにアトリエを構えていた。フランス中西部の出身で、パリに出て法律を勉強したが、20歳から絵画の道に進み、22歳で早くも美術サロン(官展)に初入選した。当初はアカデミー流の伝統的で丹念な歴史画を描いたが、40代後半からパリ市庁舎や万博会場、オペラ・コミック座などにおける装飾壁画の注文が続いた。1900年にはパリ・リヨン駅内の豪華なレストラン「トラン・ブルー」の大壁画を担当した。

(→)右掲は1895年のサロンに出展した『幸運が通り抜ける』と題した作品で、劇場(あるいは証券取引所か?)の前の階段をつむじ風が通り抜けるようにその中に幸運の女神を幻視する一瞬を描いている。彼はしばしばこのようなブルジョワ社会の繁栄の中に霊感の憑依的な姿を描くことがあった。

*参考Link:100年前のフランスの出来事
(1)1906年春季展(サロン)Ⅱ-1 メニャン「ナルシスの死」(1906.04)
http://france100.exblog.jp/1738230/
(2)画家アルベール・メニャン死去 (1908.09.29)
http://france100.exblog.jp/9661449/



2016年1月21日木曜日

散歩R(17-3) ティエール図書館 La Bibliothèque Thiers(9区サン=ジョルジュ地区)

☆サン=ジョルジュ広場27番地 (27, place Saint-Georges, 9e)
Jardin de l'Hôtel Thiers
par Tangopaso, Travail personnel -
 Sous licence CC BY 3.0 via Wikimedia Commons
《ティエール図書館》 (La Bibliothèque Thiers)

広場の南側に地下鉄サン=ジョルジュ駅の出入口があるが、その目の前に《ティエール図書館》 (La Bibliothèque Thiers)の立派な建物がある。

1824年以降、裕福な両替商のアレクシス・ドーヌ(Alexis Dosne, 1789-1849)がこの地域一帯の土地を買って住宅地として売り出した。1827年、当時歴史家およびジャーナリストとして活躍していた30歳のアドルフ・ティエール(Adolphe Thiers, 1797-1877)がドーヌ家と親しく付き合うことになり、特にドーヌの妻ユリディス(Euridyce)とは秘められた関係が始まった。彼女は32歳だった。

"Habitation de Mr. A. Thiers"
Alexandre Laya, Études historiques sur la vie privée, politique et
littéraire de M. A. Thiers, t. I, Paris, 1846.
Gravure par Daubigny @Wikimédia Commons
6年後の1833年にティエールはドーヌ家の長女エリーズ(Élise)と結婚するが、彼女はやっと15歳で、持参金とともにサン=ジョルジュ広場に面したこの居館を供与され、ティエールはたちまち大きな財産を得ることとなった。しかも義母となったユリディスとの関係もしばらく続くことになる。さらにドーヌ家の次女フェリシィ(Félicie)もほどなくティエールと関係していることが知られるようになって、世間では彼らの私生活を揶揄する小唄まで歌われたり、バルザックの小説のモデル(『ゴリオ爺さん』のラスティニャック)として描かれたりした。(←)左掲は当時のサン=ジョルジュ広場とティエールの居館の版画である。
ティエールは代表作『フランス革命史』(Histoire de la Révolution française)などの高い評価によって1834年に歴史家としてアカデミー会員に選ばれる他に、七月王政の閣僚にも抜擢された。ナポレオン3世の退位と普仏戦争の敗戦によって第三共和政が始まるが、その初代大統領としてティエールが選ばれた。しかしドイツとの講和条約の内容を不満とするパリの民衆が蜂起したパリ=コミューンの騒乱に際して、このティエールの館は取り壊しに遭い、1875年に現在の建物に再建された。

ティエールとエリーズの死後、最後に残ったフェリシィがこの建物をフランス学士院に寄贈し、大革命後19世紀のフランス史に関する文献や資料を多数収める図書館として現在に至っている。


*参考Link : フランス学士院、ティエール図書館(仏語)
Institut de France : Bibliothèque Thiers
http://www.institut-de-france.fr/fr/patrimoine-musees/biblioth%C3%A8que-thiers

*参考Wikipedia : ゴリオ爺さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%83%AA%E3%82%AA%E7%88%BA%E3%81%95%E3%82%93

2016年1月19日火曜日

散歩R(17-2) 旧パイヴァ館 L'ancien hôtel de Païva(9区サン=ジョルジュ地区)


☆サン=ジョルジュ広場28番地 (28, place Saint-Georges, 9e)
《旧パイヴァ館》 (Ancien Hôtel de Païva )
PA00088974 © Monuments historiques, 1992

パリの中でも屈指の美しさを誇る建物である。しばらく眺めていても飽きない。19世紀半ばの1840年から1841年にかけて建造された歴史的建造物。設計は建築家エドゥアール・ルノー(Édouard Renaud, 1808-1886)。パリの住居建築は賃貸アパルトマンが大半であるが、単なる賃貸住宅ではない堂々とした居館としての印象を与えるために華麗な装飾がふんだんに施された。
(c)Photo Emoulu bc03fa, 2013






















2階の正面窓枠の外側に壁龕を設け、一対の若い女性の清楚な彫像を配している。ルイ=フィリップの七月王政時代の趣味に合わせたネオ・ルネサンス様式とも呼ばれている。彫刻はガロー(G.J.Garraud)とデブッフ(A.Desbœufs)、手の込んだアラベスク模様はルシェーヌ兄弟(Frères Lechesne)の制作による。

(c)Photo Emoulu bc05f, 2013
両隣の窓枠には天使の小像が配されている。並みの人間が居住するような所ではないことを知らしめるためかと穿った見方をしてしまう。

1851年から1852年にかけての短い期間だったが、ポルトガルの貴族、パイヴァ侯爵と結婚したテレーズ・ラックマン(Thérèse Lachmann, 1819-1884)がこの家に住んで社交サロンを開いたことで知られる。彼女は元々ロシアの貧しい家庭に生まれたが、華やかな生活を夢見て、20歳でパリにやって来て、ロレット地区に住み、高級娼婦(クルティザンヌ courtisanne)として社交界に入り、高名な貴族や実業家、芸術家を次々と籠絡し、相手の資産を利用した豪華なサロンで第2帝政時代で最も有名になった。この32歳のときの結婚によってパイヴァ侯爵夫人(La marquise de Païva)という称号を手に入れ、夫君との別居後も使い続けたので「ラ・パイヴァ」(La Païva)と呼ばれた。

彼女はこの後すぐにドイツ貴族のドナースマルク伯爵の愛人となり、シャン=ゼリゼに豪壮な「パイヴァ館」(Hôtel de Païva )を建ててもらうことになる。
彼女の容姿を描いた絵画や写真はなぜか非常に少なく、あっても到底美人とは言い難い。とすればよほどの知性と教養と妖艶さがあったから、これだけの有名人たちを次々と虜にしてしまえたのか?不思議な力を備えた女性である。

(c)Photo Emoulu bc04fa, 2013






















☆サン=ジョルジュ広場28番地 (28, place Saint-Georges, 9e)
《画家ゴーギャンの新婚家庭》

この建物には若い頃のゴーギャン(Paul Gauguin, 1848-1903)も一時住んでいた。1873年11月に25歳でデンマーク人女性メット=ソフィ(Mette-Sophie)と結婚した直後の1874年から1877年にかけての約3年余りである。彼はまだ株式仲買人として働いており、高収入で裕福な生活を送っていた。この家の家賃も十分に賄える余裕があった。子供も2人できたが、彼は休みの日もほとんど外出せずに、暇さえあればスケッチをしたり、絵を描いたり、読書をしたりと、まるで独身時代のような時間の使い方だった。妻が友人たちを招いて食事をする場合でも、彼はすぐに引っ込んでしまい、妻が客人をもてなすのにまかせたという。ゴーギャンは1876年の美術サロン(官展)にパリ郊外の風景画を応募し、初めて入選を果たしている。この入選を経てから、彼はやっと共感を抱いていた印象派への仲間入りをするようになる。(LAI, PRR)

◇パリ蝸牛散歩内の関連記事:
9区サン=ジョルジュ地区(10-7)画家ゴーギャンの生家
http://promescargot.blogspot.jp/2015/11/10-7.html

(c)Photo Emoulu bc04f, 2013






















2016年1月17日日曜日

散歩R(17-1) サン=ジョルジュ広場 Place Saint-Georges, 9e(9区サン=ジョルジュ地区)

ようやくサン=ジョルジュ地区の中心、「へそ」にあたるサン=ジョルジュ広場にたどり着いた。地図の上では読点のような小さな円形広場であるが、中央の挿絵画家ガヴァルニ(Gavarni, 1804-1866)の記念碑の周囲を品格のある建物群が取り巻いている。

1824年以降、ドーヌ(Dosne)という投資家がこの一帯を住宅地として売り出した。特に「新アテネ地区」(ヌーヴェル・アテーヌ Nouvelle Athène)という呼称で、文人たち、芸術家たち、俳優たち、他の有名人たちがこぞって移り住んだため、人々に選り好みされた地区となった。(CVP)

(c)Photo Emoulu bc08f, 2013
作家のジョルジュ・シムノン(Georges Simenon, 1903-1989)は、100を超える人気シリーズ《メグレ警視》の作品群の中で、パリの至る所を取り上げているが、その簡潔で適切な描写はその場所を実地に踏査した上で書かれたことが良くわかる。サン=ジョルジュ広場も『メグレの初捜査』に出てくる。

[ 彼らはサン=ジョルジュ広場に出た。閑静で田舎じみていて、その一角の小さなビストロは白ワインの香りがした。メグレはごく自然に扉を押した。(・・・)錫張りのカウンターは気持ちよく磨かれており、ヴーヴレー産のワインはグラスの中で緑がかった光沢を見せ、渇きを誘った。](第2章より)
Ils avaient atteint la place Saint-Georges, calme, provinciale, avec son petit bistrot qui sentait le vin blanc. Maigret, tout naturellement, en poussait la porte. (...) L'étain du comptoir était fraîchement astiqué, le vin de Vouvray, dans les verres, avait des refrets verdâtres qui donnaient soif.
(c)Georges Simenon : La première enquête de Maigret ; Chap.2)

◇パリ蝸牛散歩内の関連記事:
9区サン=ジョルジュ地区 (11-3) メグレ警視最初の事件の警察署跡
http://promescargot.blogspot.jp/2015/11/11-3.html



(c)Photo Emoulu bc03, 2013
広場の中央にあるのが19世紀中頃に非常に人気のあった風刺画家ガヴァルニ(Gavarni, 1804-1866)の記念碑である。彼は「シャリヴァリ」(Charivari)や「イリュストラシォン」(Illustration)などの絵入り新聞の全盛期に、同世代のドーミエ(Honoré Daumier, 1808-1879)やグランヴィル(Grandville, 1803-1847)らと共にパリの街頭、家庭寸景、民衆生活など、社会の各階級の人々の生態のデッサンや版画を少々ひねった注釈をつけて提供した。特に最下層の人々の生活の悲惨さについては同情の眼差しで描いている。


Gavarni : Les Lorettes /41. Qu'est ce que tu lis là?
(IFF 234) Paris, Musée Carnavalet
Crédit Photo (C) RMN-Grand Palais / Agence Bulloz












この広場はノートルダム・ド・ロレット教会の裏手から始まるノートルダム・ド・ロレット通りの中間地点となっている。この「ロレット」(Lorette)という地名が、19世紀中頃にこの地域に住みついた美しい女性たち、つまり高級娼婦という単純な言い方では美貌に加えて知性と教養にあふれる彼女たちを言い表し難いことから、「ラ・ロレット」(La Lorette)という呼称として用いられるようになったのである。彼女たちの相手は当時隆盛してきたブルジョワ階級の実業家、資産家が多数を占めた。バルザックも『浮かれ女盛衰記』などの作品で描いている。

ガヴァルニはこの地域に住んでいたこともあり、彼女たちの日常の様相を数多く描いている。
(↑)上掲は、連作版画集「ロレットたち」(Les Lorettes)の一つである。説明文には:「そこで何読んでるの?」、「女たちの取り得よ。」、「あんた病気じゃない?」



かたつむりの道すじ:⑮ドーマル通り~⑯サン=ジョルジュ通り~
⑰サン=ジョルジュ広場~⑱ラ・ブリュィエール通り (c) Google Map


2016年1月15日金曜日

9区サン=ジョルジュ地区(16-4)サン=ジョルジュ劇場と旧レザナール女子大学跡

☆サン=ジョルジュ通り51番地 (51, rue Saint-Georges, 9e)
《テアトル・サン=ジョルジュ》 (Théâtre St.Georges)
(c)Photo Emoulu bc09, 2013

サン=ジョルジュ通りを北に向かって広場のほうに上がってくると、その手前に小さなサン=ジョルジュ劇場の建物が目に入る。
この劇場は、以前「レ・ザナール」(Les Annales)という週刊の政治文芸評論誌の出版社の建物だったものを劇場用に改装して1929年2月にこけら落しが行われた。以後現在まで90年近い歴史を持っている。初めの数カ月はグラン=ギニョル座を継承するような恐怖劇の路線だったが、まもなくブルヴァール喜劇の人気作を取り上げるようになり、何代もの主宰者が変わっても喜劇を専門のジャンルとする伝統となって、行き届いた演出と優れた出演者だという定評がある。
(c) Google Map Streetview
 51, rue Saint-Georges, 9e
もう一つ面白いのはこの建物で、(↑)上の写真で見える窓や壁の装飾のほとんどが「だまし絵」
(トロンプルィユ, Trompe-l'œil)で描かれている。
窓枠や手すりまでも近くで見れば嘘だとわかるが、狭い劇場だからこその建築家の知恵だったようだ。
なおこの劇場の建物は、フランソワ・トリュフォー(François Truffaut, 1932-1984)が1980年に作った映画『終電車』(Le Dernier métro)の撮影に使われた。

「人生には笑いが必要だ」と言われるように、この劇場の財産とも言うべき演目一覧 (Théâtre Saint-Georges - Toutes les pièces) を見ると「笑い」をいかに人々にもたらすかという劇場の使命をうかがい知ることができる。(残念なのはフランス語の言葉の壁で、喜劇映画の字幕付きのような条件でなければ一緒に笑えないことだ。)

Journal de l'université des Annales,
du 15/12/1910
この建物には以前「レ・ザナール」(Les Annales)という週刊誌の出版社が入っていた。1883年にジュール・ブリッソン(Jules Brisson, 1828-1902)が創刊した政治から文芸に至るまでの広い分野のダイジェスト誌だった。20世紀に入って息子のアドルフ・ブリッソン(Adolphe Brisson, 1860-1925)とその妻イヴォンヌ・サルセー (Yvonne Sarcey, 1869-1950) によってパリのほか地方の中小ブルジョワ層まで購読者を増やし、発行部数は20万部近くまで伸びた。

1907年1月10日にイヴォンヌ・サルセー(本名マドレーヌ・ブリッソン Madeleine Brisson) は、この建物に「レザナール大学」(Université des Annales) と称する婦女子向けの講演会形式の教養企画を立ち上げた。

Le Figro au 10 Jan. 1907
@BnF Gallica






(←)左掲は同日付の新聞「フィガロ」の第1面に載った記事の一部である。

[ レザナール誌の読者から 《従妹のイヴォンヌ・サルセー》 という筆名でよく知られているアドルフ・ブリッソン夫人は、その素晴らしい行動力によって「大学の設立」という驚くべき複雑かつ見事な事績を成し遂げた。本日、サン=ジョルジュ通り51番地にその門が開かれる。
レザナール大学は若い女性たち向けに作られた。実践的かつ文学的な教育を彼女らに与えることを目指している。つまり、魅力的な女性を、洗練された家庭婦人を、あるいは活力と知性を持って人生の様々な状況において意思表示のできる力強い女性を形成することを目的としている。 ](以下略)

講座の科目は、裁縫、服飾、速記タイプ術、家政学から、フランス文学、外国文学、衛生学、道徳、歴史、音楽、美術と多種多様に拡がっており、錚々たる講師陣には各アカデミーの会員までも加わる充実度で、たちまち盛況となった。マドレーヌ・ブリッソンの業績はフランスにおけるフェミニスム運動の歴史にはあまり注目されてはいないが、当時は大きな影響力を及ぼしていたと思う。

大学は第一次大戦後に別の場所に移転したため、大講堂だった場所をサン=ジョルジュ劇場用に改装することになったという。

*参考Link :100年前のフランスの出来事:
(1) 文士たちの決闘(1907.03.20) アドルフ・ブリッソンの決闘事件
(2) サダヤッコのパリ再演 (1907.12.08) レザナール大学講座への出演
 


2016年1月13日水曜日

散歩R(16-3) ルノワールのアトリエ Emplacement de l'atelier d'Auguste Renoir(9区サン=ジョルジュ地区)

☆サン=ジョルジュ通り35番地 (35, rue Saint-Georges, 9e)
《画家ルノワールのアトリエ》 (Emplacement de l'atelier d'Auguste Renoir)
(c) Google Map Streetview
 35, rue Saint-Georges, 9e

1873年、32歳のルノワール(Auguste Renoir, 1841-1919)は、画商のデュラン=リュエルに何点かの絵を買ってもらって得たお金をもとに35番地の最上階6階にアトリエを構えることができた。この家にはすでに弟のエドモン(Edmond)が住んでいた。ここには新たな絵画表現という目的を共有するモネ、ピサロ、ドガ、シスレー、ギヨーマン、セザンヌなどの画家たちが集まる場所となり、彼ら独自のグループによる展覧会を開こうと、その年の12月27日にいわゆる「実行委員会」のような法人組織を立ち上げた。仮の代表には、彼らと親しい近所の画商マルタン親父(Père Martin)ことピエール・マルタン(Pierre Martin)が指名された。このアトリエを中心に準備のための会議が重ねられた。

Renoir : L'Atelier de la rue Saint-Georges (1876)
The Norton Simon Museum, USA
@Wikimedia commons




まだこの時には《印象派》(Impressionniste)という名称は使われていない。第1回目の展覧会は1874年4月15日から1カ月間、キャプシーヌ大通りにあった写真家ナダールのスタジオ跡で開催された。参加者は29名、出展作品は165点となった。

彼らの作品はこれまでのフランス絵画の伝統と技法に真っ向から対立する立場が鮮明であったため、サロンには毎年落選を続けていたので、彼らの独自の展覧会は嘲笑と蔑視の対象となった。展覧会の収支も大幅な赤字となった。

(←)左掲の絵はルノワールが1876年に描いた『サン=ジョルジュ通りのアトリエ』という作品だが、画家のアトリエ紹介というよりも印象派の画家たちの会合の様子が描かれており、世間の無理解に屈服することなく、その後も展覧会を開催し続けた彼らの情熱をうかがい知る貴重な絵である。計8回に及ぶ印象派展によって彼らの評価は次第に高まり、フランス美術の潮流を逆に支配することになる。このアトリエは印象派のゆりかごでもあったと思う。(LAI, PRR)


2016年1月11日月曜日

9区サン=ジョルジュ地区(16-2) ゴンクール兄弟の旧居

☆サン=ジョルジュ通り43番地 (43, rue Saint-Georges, 9e)
《作家ゴンクール兄弟の旧居》


(c) Google Map Streetview
 43, rue Saint-Georges, 9e
ゴンクール兄弟(Les frères Goncourt)は、兄エドモン・ド・ゴンクール(Edmond de Goncourt, 1822-1896)と8歳年下の弟ジュール・ド・ゴンクール(Jules de Goncourt, 1830-1870)が共同執筆の形で文学活動をした筆名でもあった。フランス東北部に広大な土地を所有する家系に生まれたが、両親と妹を若くして相次いで失い、エドモンが26歳の時にはこの兄弟だけが残った。

パリで教育を受けたものの、彼らにとっては相続によって働かなくとも食うに困らない金利収入が得られるという身の上となったので、二人で情熱を傾けることができる文学と芸術の分野に進むことに決心した。各地を旅行した後、1849年12月17日からこのサン=ジョルジュ通り43番地の家に住み始めた。エドモン27歳、ジュールは19歳だった。最初の冬は通りに面した1階の薄暗い部屋だったが、やがて中庭の奥の4階の部屋に移った。

Edmond et Jules de Goncourt
Lithographie de Gavarni (1853)
dans la suite de "Messieurs du feuilleton"
@BnF Gallica
彼らの文筆活動は、歴史や美術、骨董の分野から次第に演劇や小説に広がって行った。1851年からはジュールが「日記」(Journal)をつけ始めた。この日記は1870年にジュールが若くして病死した後もエドモンによって書き継がれ、「文芸生活の思い出」(Mémoires de la vie littéraire)という副題で出版され、19世紀後半の文芸界のみならず、広範囲にわたる社会の時事風俗の記録として貴重な資料となっている。

ここは当時の歓楽街で有名なブレダ地区に隣接しており、娼家や妾宅も多かった。兄弟はこれらの地域に暮らす様々な人間模様を克明に観察し、上辺は華やかでも実生活では悲哀に満ちた実態を作品に描き出した。それはやがてゾラなどの自然主義文学に受け継がれた。

代表作の小説『ジェルミニー・ラセルトゥ』(Germinie Lacerteux, 1865)については、一人の真面目な家政婦が実は裏で別の顔を持った人間として生活し、最後はアルコール中毒と肺結核で病死するという物語である。これにはゴンクール兄弟の家の家政婦として25年以上も働いてきたロザリー(ローズ)という女性が1862年に亡くなったとき、葬儀のあとでその意外な二重生活が露わになって驚いたという事実をもとにしている。

1868年にパリ16区のオートゥイユに引っ越すまでの、ここでの19年間は兄弟としての創作活動の最盛期でもあったと思われる。(LAI, PRR)

2016年1月9日土曜日

9区サン=ジョルジュ地区(16-1)サン=ジョルジュ通り Rue Saint-Georges, 9e

ドーマル通りの東の突き当たりからサン=ジョルジュ通りに出る。この通りの名前は、古くルイ14世の時代の1672年から存在し、当時はパリの町外れの田舎道であって、道端の店舗に「竜を退治
Paolo Uccello - Saint Georges terrassant le dragon (v. 1435)
Tempera sur bois, 52 × 90 cm, @Musée Jacquemart-André, Paris.
するサン=ジョルジュ」の看板が掛かっていたのがその由来とされている。
サン=ジョルジュ(Saint-Georges)は聖ゲオルギウスという殉教者のことで、紀元3世紀の小アジアのカッパドキアの出身で、戦士としてローマ皇帝のキリスト教徒迫害の勅命に抗して、ニコメディアの王宮の門前で殉教したと伝えられる。
初期キリスト教では、竜は異教の象徴とされ、槍で退治することが改宗の実現とされた。婦人はその都市の寓意である。このテーマは宗教性を越えて、英雄伝説の一つとして西洋絵画で長く取り上げられている。(←)左掲のルネサンス初期のウッチェロことパオロ・ウッチェロ(Paolo Uccello, 1397-1475)の絵は簡素でプリミティフな表現で印象深い。(DNR)


Le Bon Georges (c)Arti Com, 2015

☆サン=ジョルジュ通り45番地 (45, rue Saint-Georges, 9e)
《ビストロ「ル・ボン・ジョルジュ」》(Le Bon Georges)

ドーマル通りとサン=ジョルジュ通りとの角にあるビストロ。入口の両脇に飾られている古風なタイル画の看板が魅力的である。気軽に入って食事したくなる雰囲気がある。「善良なジョルジュの店」といった意味だろうか。もちろんサン=ジョルジュに絡んでいるが。






2016年1月7日木曜日

9区サン=ジョルジュ地区(15-2)楽匠ワーグナーのパリ滞在先

☆ドーマル通り3番地 (3, rue d'Aumale, 9e)
《作曲家ワーグナーのパリ滞在中の家》

リヒャルト・ワーグナー(Richard Wagner, 1813-1883)が自作の歌劇『タンホイザー』(Tannhäuser)の上演を企ててパリにやってきたのは1859年9月、46歳の時のことで、さまざまな運動や工作を経て上演にこぎつけるまで約1年半かかった。結果は惨憺たる失敗となったものの、音楽史上に記憶される出来事となった。

ドイツで革命運動に加担して、政治犯としてスイスに亡命してから、ワーグナーは楽劇『トリスタンとイゾルデ』(Tristan und Isolde)を完成させていた。パリに出てすぐにワーグナーは社交界に紹介され、特に同じころに駐仏オーストリア大使夫人として着任したばかりのパウリーネ・フォン・メッテルニヒ(Pauline von Metternich, 1836-1921)のサロンで彼女の強力な支援を受けた。翌1860年1月にはイタリア座における管弦楽のみの演奏会で、ワーグナーの作品が彼自身の指揮で演奏された。歌劇『さまよえるオランダ人』序曲や歌劇『ローエングリン』序曲に加えて、完成したばかりの楽劇『トリスタンとイゾルデ』の前奏曲も取り上げられた。聴衆はおおむね熱心な反響を示したが、評論家たちは冷ややかだった。しかしながら3月には、外交的な配慮も含まれたが、ナポレオン3世から『タンホイザー』をオペラ座の演目として取り上げるようにとの勅命が出て、その準備が始まった。



(c) Google Map Streetview
 3, rue d'Aumale, 9e


















この滞在の初めの1年間、ワーグナーは、当時パリ郊外の野原だったシャン=ゼリゼ近くのニュートン通り16番地(16, rue Newton)に居を構えていたが、オスマン男爵の都市計画による道路の拡張工事のため立ち退きを余儀なくされ、1860年10月からこのドーマル通り3番地の家の3階に妻のミンナと共に移ってきたのである。「やむを得ず別の場所に家を探すことになって、ドーマル通りに陰気くさくてみすぼらしい住まいを見つけた。秋の終わりのひどい天候の時期に引っ越したが、この移転作業とオペラの稽古が重なって私は熱を出して倒れてしまった。」と彼は語っている。

彼には上演のための諸条件を優遇され、出演者たちは160回を超える稽古を課せられた。しかも毎回ワーグナーの立会いや指導を受けるものだった。ワーグナーも『タンホイザー』の改作に取り組み、特にフランスでのオペラ公演に必須とされたバレエの場面を付け加え、いわゆる「パリ版」(Version Parisienne)を作った。公演は1861年3月13日に皇帝ナポレオン3世夫妻の臨席のもとに行われた。しかしワーグナーの作品に反感を抱いたジョッキー・クラブの若い貴族たちによる執拗な妨害で劇の進行に差し障りが出た。その主な理由として、バレエが第1幕早々に演じられたことに腹を立てたことで、通常はオペラの進行の中での気分転換の意味で第2幕以降に演じられるのがパリの慣習だったという。恐らくそれだけではなく、音楽表現の過大な強烈さも好悪を二分したのだろう。結果として公演は3回のみで打ち切られ、完全な失敗となった。

(↓)下掲はパリ公演用に描かれた第2幕「歌合戦の間」の舞台装置画である。

Opéra - Tannhäuser : esquisse de décor de l'acte II : salle des chanteurs
/ Philippe Chaperon et Edouard Despléchin @BnF Gallica
パリではこの事件のあと、『タンホイザー』をもじったパロディ劇が早速ヴァリエテ座など数カ所で演じられた。オペラが終了となったあと、ワーグナーはそそくさとフランスを後にしたと書かれている伝記もあるが、この家に掛かっている碑銘によると1681年7月までは滞在していたという記録になっている。
政治犯としての罪科に対し、前年11年ぶりにやっと恩赦が出たばかりで、すぐには身を落ち着かせる場所が見つからなかったからだろうと思われる。それでも彼は4月~5月とドイツからオーストリアにかけて、次の機会つまり楽劇『トリスタン』の公演の可能性を探る旅をしている。飽くなき精神力の持ち主と言わざるを得ない。(MAH, PRR)


2016年1月5日火曜日

散歩R(15-1) ドーマル通り Rue d'Aumale, 9e(9区サン=ジョルジュ地区)

フランス語の母音で始まる固有名詞の前にdeがつくと、d' となって連音(リエゾン)される。例えば、三銃士の「ダルタニャン」(d'Artagnan)、作曲家の「ダンディ」(d'Indy)などである。従ってここでも「ドーマル通り」(rue d'Aumale)とした。

この通りの名前はドーマル公爵(Duc d'Aumale)のアンリ・ドルレアン(Henri d'Orléans, 1822-1897)にちなんでいる。七月革命後に王位についたオルレアン公ルイ=フィリップ(Louis-Philippe d'Orléans, 1773-1850)の四男で、軍人で歴史家であった。特にアルジェリアの統治者として功績があった。(DNR)

(c) Google Map Streetview
19, rue d'Aumale, 9e

☆ドーマル通り19番地 (19, rue d'Aumale, 9e)

テブー通りとドーマル通りの角にある建物にも仮面像(マスカロン)が見られる。女性像のほうがすべすべした首筋まで見えるのも魅力的である。

ドーマル通り側19番地にある正面入口の上部には2人の幼児(天使の翼が見えない)像が支える門飾りがある。1854年の制作、彫刻家はジュソ(A. Joussot)と刻銘されている。




(c)Photo Emoulu bc28, 2013
19, rue d'Aumale, 9e





























(c) Google Map Streetview
 24, rue d'Aumale, 9e

 ☆ドーマル通り24番地 (24, rue d'Aumale, 9e)

通りを少し西側に進んだ24番地にもこぢんまりとまとまった持ち送りと門飾がある。鬼の面のような角と牙のある顔が装飾模様の中に混じっていて面白い。

(c)Photo Emoulu bc27ad, 2013


 
☆ドーマル通り10番地 (10, rue d'Aumale, 9e)
PA00088923 © Monuments historiques, 1992

24番地から通りを引き返して10番地まで戻ると、歴史的建造物に登録された個人住宅がある。木彫の扉の装飾と、門飾との控えめな調和が散歩者の目を留めさせるのだと思う。1864年の建造で、建築士はシベール(Sibert)、彫刻家としてルィヨン(Rouillon)と記されている。
この通りの建物はほとんど1850~60年代、つまりナポレオン3世の第2帝政時代に建てられており、通り全体が往時の雰囲気を残している。


(c)Photo Emoulu bc08a, 2013

かたつむりの道すじ:⑮ドーマル通り~⑯サン=ジョルジュ通り~
⑰サン=ジョルジュ広場~⑱ラ・ブリュィエール通り (c) Google Map

2016年1月3日日曜日

散歩R(14-2) テブー通り Rue Taitbout, 9e(9区サン=ジョルジュ地区)

テブー通りは、繁華街のイタリアン大通り(Boulevard des Italiens)からサン=ジョルジュ地区まで南北に伸びる街路で、ほとんど事務所か住居の建物が続く閑静な通りである。テブー(Taitbout)の名前は大革命以前にパリ市役所の書記官だった人物ジュリアン・テブー(Julien Taitbout)から名付けられたというが、理由は不明だし、この人物の事績も残っていない。この一帯の土地を所有していたのかもしれない。(DNR)
郵便局の78番地から北へ歩く一区画だけでも、多くの建物にギリシア悲劇のような仮面像(マスカロン、mascaron)が飾られているのに気づく。これも魔除けのつもりだったのだろうか。


(c) Google Map Streetview
 83, rue Taitbout, 9e

☆テブー通り83番地 (83, rue Taitbout, 9e) 

パリの労働基準監督署(Inspection du Travail)の建物。国旗が常時掲揚されている。




☆テブー通り87番地 (87, rue Taitbout, 9e)

(c) Google Map Streetview
 87, rue Taitbout, 9e











  ☆テブー通り91番地 (91, rue Taitbout, 9e)

ここは唐草模様の門飾浮彫も美しい。


(c) Google Map Streetview
 91, rue Taitbout, 9e




(c) Google Map Streetview
 91, rue Taitbout, 9e










☆テブー通り95番地 (95, rue Taitbout, 9e)  
(c) Google Map Streetview
 95, rue Taitbout, 9e


(c) Google Map Streetview
 95, rue Taitbout, 9e














(c)Photo Emoulu bc10, 2013



門飾と木彫の扉の装飾もなかなか凝っている。


(c)Photo Emoulu bc10a, 2013

























2016年1月1日金曜日

散歩R(14-1) ショパンとサンドの住居(スクヮル・ドルレアン)Demeure de Chopin et de George Sand au square d'Orléans(9区サン=ジョルジュ地区)

☆テブー通り80番地 (80, rue Taitbout, 9e)  
《スクヮル・ドルレアン: ショパンとサンドの住居》
(Demeure de Chopin et de George Sand au square d'Orléans)
PA00089000 © Monuments historiques, 1992


(c) Google Map Streetview
 80, rue Taitbout, 9e

ポーランド生まれのピアニストで作曲家のショパン(Frédéric Chopin, 1810-1849)は、39年の短い生涯の大半をパリで過ごした。ショパンのパリでの住居は18年間で10カ所余りを数えるので、平均2年弱で転居していたことになる。

テブー通り80番地は、「スクヮル・ドルレアン」(Square d'Orléans)と呼ばれる集合住宅地への出入り口となっており、1830年代に中庭を中心に9棟の擬古典様式の建物が建てられ、瀟洒な一角となっていた。女流作家のジョルジュ・サンド(George Sand, 1804-1876)が5番地の2階を1842年から1847年まで借りた。ショパンも9番地の1階を借りた。この一角には他にも多くの芸術家たちが住んでいて、当時の空想社会主義者フーリエ(Charles Fourrier, 1772-1837)の思想を反映した「芸術分野の生活共同体」(Phalanstère d'art)を意識していたと思われる。

「スクヮル」(Square)は、英米では「スクェア」(四角形の広場、例えばニューヨークの「タイムズ・スクェア」)のことで、パリでは外来語として英国風を気取った住宅地の名称にまれに使われている。こうしたこぢんまりとした住宅地には通常フランス語の「シテ」(Cité)が用いられる。

Vue du square d'Orléans, depuis l'appartement de Chopin
 Photo par Demézy; @BnF Gallica
(←)左掲は、ショパンの住んだアパルトマンから見た敷地で、閑静なたたずまいは今も変わらない。この時期はショパンとサンドの愛情生活の後半期にあたる。ショパンの健康状態は思わしくないままだが、作曲における絶頂期を迎えていた。32歳から36歳までの毎年、夏から秋にかけての約半年はサンドの郷里ノアン(Nohant)の館で過ごし、冬から春にかけてはパリでの生活だった。

Frédéric Chopin / d'après un dessin de
Franz Xaver Winterhalter (1847)
BnF, département Musique, Est.Chopin011






1844年、姉のルドヴィカ夫妻がポーランドから訪ねて来た機会に、ショパンはしばらく滞っていたピアノ・ソナタ第3番を完成させたほか、その前後にもマズルカやポロネーズ、子守歌、舟歌などを作曲した。下記にYoutubeの参考リンクを挙げるが、ショパンは故郷ポーランドから遠く離れた土地で、しかも長い年月が経過しているのにもかかわらず、民族的な舞曲のマズルカ、ポロネーズを何曲も生み出し続けられたことは驚異としか言いようがない。これもノアンの豊かな自然と素朴な農民の生活を肌で感じることができた環境の賜物ではなかったかと思う。

 しかしこの生活も1846年にサンドの子供たちをめぐるいざこざから端を発して二人の関係の終焉を迎え、それぞれがこの場所から出て行くことになる。

*参考Youtube
ショパン:ピアノ・ソナタ第3番ロ短調作品58第1楽章
Chopin : Piano Sonata No.3 Op.58 h-moll 1st movement (Yundi Li)
https://www.youtube.com/watch?v=9EepqjsizD8

ショパン:マズルカ嬰ヘ短調作品59の3(ホロヴィッツ)
Chopin : Mazurka in f sharp minor Op.59 No.3 (Horowitz)
https://www.youtube.com/watch?v=fxp3IQ6pxYs