パリの街角散歩です。カタツムリのようにゆっくりと迂回しながら、そして時間と空間をさまよいながら歩き回ります。


2015年12月21日月曜日

9区サン=ジョルジュ地区(12-4)画家ドラロシュの館


☆ラ・トゥール・デ・ダム通り7番地 (7, rue de la Tour des Dames, 9e) 《画家ポール・ドラロシュの館》
(c)Google Streetview
7, rue de la Tour des Dames, 9e

5番地の隣の建物もあまり目立たないが、19世紀前半、特にルイ=フィリップの7月王政(Monarchie de Juillet, 1830-1848)時代に評価の高かった歴史画家ポール・ドラロシュ(Paul Delaroche, 1797-1856)が住んだ家である。

彼はパリの絵画鑑定士の息子として生まれ、20代でサロンに入選を果たし、ロマン派絵画の先駆者ジェリコーと親交があった。ドラロシュは歴史上の出来事の一場面を、劇的な効果を生み出すように描き出す才能があり、30歳で画家としての地位を確立した。古典派の端整な画風の中にこうしたロマン派的な劇的要素を加味したことで、一般大衆に愛好され、ある意味で軽蔑の混じった評言としてしばしば「中庸派」(L'école du juste milieu)と呼ばれた。



Paul Delaroche :  Napoléon à Fontainebleau,
le 31 mars 1814 / Paris, Musée de l'Armée
Crédit : Photo (C) Paris - Dist. RMN-Grand Palais
 / image musée de l'Armée






1840年頃からこの7番地の館に住んだが、隣家の大画家オラース・ヴェルネ(Horace Vernet, 1789-1863)とも親しく交友があり、その娘ルイーズ(Louise Vernet, 1814-1845)とは17の年齢差はありながら、熱愛の末に1843年に結婚し、姻戚となった。

後年には多くの肖像画に取り組み、この分野に才能を発揮した。彼の描く肖像画の人物には強い視線を感じさせるものが多いのが特徴で、それは必ずしも正面の描き手の画家に向けられたものではなく、描かれた人物のその時の心理状態をうかがわせるものが感じられる。

右掲(→)は『フォンテーヌブローのナポレオン、1814年3月31日』と題された有名な歴史的人物画で、退位を決めた「失意のナポレオン」の表情を巧みに描き出している。しかもその鋭い視線の先には、復権の野望をすでにうかがわせる。

Delaroche : Hérodiade (1843)
Cologne, Wallraf-Richartz Museum
via Wikimedia Commons



(←)左掲は『エロディアド』(ヘロディア)。聖書に書かれたヘロディアとは、サロメの母親のことで、サロメが王の前で踊って褒美に何か、ときかれた時に、洗礼者ヨハネの首を所望するようにとサロメをそそのかした人物である。19世紀後半から世紀末にかけては「サロメ」のテーマが文学、絵画、演劇、音楽と広範囲に取り上げられたが、そのほとんどが1870年以降であるのに対し、ドラロシュはその先駆けとなる作品を1843年に描いていたことになる。生首を前にして斜め下を見据えた彼女の視線も、氷のような不気味な美しさである。

ドラロシュは1832年に35歳の若さで芸術アカデミーの会員に選ばれた。近くのラヴァル通り(現在のヴィクトル・マセ通り)にアトリエを構え、弟子として風景画家のドービニー、バルビゾン派のミレー、歴史画家のジェロームなど多くの画家を育成した。(CVP, DNR, LAI)