パリの街角散歩です。カタツムリのようにゆっくりと迂回しながら、そして時間と空間をさまよいながら歩き回ります。


2016年11月6日日曜日

散歩Q(5-1) アドルフ・マクス広場(旧ヴァンティミル広場)Place Adolphe-Max (Ancien Place Vintimille)(クリシー広場~ユーロプ界隈)

☆アドルフ・マクス広場 (Place Adolphe Max, 9e)
《エクトル・ベルリオーズ公園》 (Square Hector Berlioz)

(c) Google Map Streetview
 rue de Bruxelles, 9e
vers la place Adolphe Max
ブリュッセル通りの先を行くと小さな広場に出る。アドルフ・マクス広場である。すぐ近くのクリシー大通りの喧騒から外れた閑静な広場で、中央部は幼児のための遊具が備わった小さな公園になっている。

アドルフ・マクス(Adolphe Max, 1869-1939) は、第一次世界大戦勃発時にベルギーの首都ブリュッセルの市長だった人で、当時中立国だったベルギーにドイツ軍が進攻してきたため徹底抗戦の立場を取り、首都の防衛に尽力した。降伏後もドイツ軍の軛の下での市政の執行を拒否し、大戦中はドイツで獄中生活を送った。その勇猛果敢な行動に対しパリは名誉市民(Citoyen d'honneur de Paris)の称号を与えた。ブリュッセル通りにつながるこの広場に彼の名前を冠するようになったのは第二次世界大戦中の1940年(パリ陥落直前)のことだったが、それまではヴァンティミル広場(Place Vintimille)と呼ばれており、戦後もしばらく旧名のほうが通用していた。

Edouard Vuillard, Place Vintimille, 1911
 National Gallery of Art, Washington DC, USA

ヴァンティミル(Vintimille) とは、南仏コート=ダジュールの海岸沿いのイタリア側にある国境の町ヴェンティミッリア(Ventimiglia)のフランス語読みであるが、そもそもはそこのヴァンティミル伯爵家がパリに持っていた敷地がこの地域であったのが由来とされている。通りの一つにも同じ名前がついているが、それは現在でも残っている。


左掲(←)はナビ派の画家エドゥアール・ヴュイヤール(Edouard Vuillard, 1868-1940)が44歳のときに描いた5連の装飾板画(Panneau décoratif)『ヴァンティミル広場』(Place Vintimille, 1911)である。日本の屏風絵のような感じがするが、当時は個人の邸宅のサロンや食堂の壁の羽目板画として流行していた。秋の日の穏やかな街角風景で、親しみやすく心が和む。ヴュイヤールはこの場所が気に入っていたようで、広場を見下すこの視点の家に後年59歳の頃に引っ越してくる。

◇パリ蝸牛散歩内の関連記事:
☆ジャン=バティスト・ピガール通り28番地 (28, rue Jean-Baptiste-Pigalle, 9e)
《ナビ派青年画家たちのアトリエ跡》(Ancien emplacement de l'atelier de jeunes Nabis)
http://promescargot.blogspot.jp/2016/03/21-3-ancien-emplacement-de-latelier-de.html


蛇足になるが、この広場は作家ジョルジュ・シムノン(Georges Simenon, 1903-1989)の生んだ一連の《メグレ警視》(Commissaire Maigret)シリーズの中の一作『メグレと若い女の死』(Maigret et la jeune morte, 1954)の事件現場としても登場する。

窃盗団の男たちへの30時間近くかけた取り調べが午前3時に終わって、夜食でも取りに行こうとしたところに電話が入る。クリシー大通り裏手の小さな広場で若い女の死体が発見されたという。まだ家に寝に帰る気になれなかったメグレは部下のジャンヴィエと現場へ向かう。

「ブランシュ広場のすぐ近くにあるヴァンティミル広場は平穏な離れ小島のようだった。警察の車が一台停まっていた。ちっぽけな公園の柵の近くに5~6人が立っていて地面に横たわった明るい色の形体を取り囲んでいた。」(À deux pas de la place Blanche, la place Vintimille était comme un îlot paisible. Un car de la police stationnait. Près de la grille du square minuscule, quatre ou cinq hommes se tenaient debout autour d'une forme claire étendue sur le sol. (c)Georges Simenon - Maigret et la jeune morte, Chap.1er)

※参考Link : 「メグレ警視のパリ」No.72 「メグレと若い女の死」
http://www.geocities.jp/maigretparis/enquetes/maig72jeune.html


2016年10月20日木曜日

散歩Q(4) 文豪エミール・ゾラの居館跡 Emplacement de la demeure d'Émile Zola(クリシー広場~ユーロプ界隈)

☆ブリュッセル通り21番地の2 (21bis, rue de Bruxelles, 9e)
《文豪エミール・ゾラの居館跡》 Emplacement de la demeure d'Émile Zola

(c) Google Map Streetview
 21bis, rue de Bruxelles, 9e
クリシー通りからT字路で入る横丁がブリュッセル通りである。19世紀後半に自然主義文学の巨匠として文壇に君臨したエミール・ゾラ(Émile Zola, 1840-1902)が1887年から1902年に亡くなるまでの15年間、この建物に住んでいた。窓の間に碑銘板が見える。

ゾラが不慮の死を遂げたのは1902年9月29日朝のことである。その前日、ゾラ夫妻は夏の間じゅう過ごしていたパリ西郊にあるメダンの別荘からこの家に戻ってきた。使用人の話によれば、夕食時も快活で、一緒に連れ帰った愛犬2匹をなでながら、近づく冬の季節をパリの街中で過ごすための買い物や催し物の心積もりを語り合ったという。

翌朝9時近くになっても夫妻が起き出してこないのに気づいた家政婦が2階の寝室のドアを叩いたが、返事がなく、不安に駆られてすぐに家令や料理婦に異常を知らせた。ちょうど配管の修理に来ていた作業員も一緒に2階に上がり、ドアをこじ開けた。部屋の中は暗いままだった。カーテンと窓を開けると、床の絨毯の上にゾラが倒れているのが見つかった。夫人はベッドの中で苦しそうな息をしていた。家中が大騒ぎになった。急いで数人の医者が呼ばれたが、ゾラはまもなく死亡が確認され、夫人は一命を取りとめることができた。室内で寝ていた愛犬2匹も嘔吐していたが無事だった。ゾラの遺骸は隣の部屋のベッドに運ばれた。

この日のこの界隈は野次馬と新聞記者たちで一日中騒然としていた。様々な憶測が飛び交った。警察の捜査が行われ、検死医の診断では、ゾラの死因は一酸化炭素中毒による事故死とされた。地下にある暖房装置は故障していて使われておらず、そこからの空気は来ていなかった。一方で前日使用人が寝室の湿気を取り除くために暖炉に豆炭を燃やしており、その燃えかすが見つかった。その豆炭の不完全燃焼による一酸化炭素ガスが部屋に滞留したため、ゾラ夫妻は睡眠中に息苦しさで目を覚ました。ゾラは起き上がって水か薬を飲もうと歩きだしたが、すぐに倒れて気を失った。夫人はそれに気づいていたが、動けずにベッドの中で気を失った。一酸化炭素の濃度は床の底辺部のほうが濃いので、ゾラは倒れたまま死に至ったのである。

翌9月30日のパリの新聞各紙は揃って文豪の死を報じた。(↓)下掲の「マタン」(Le Matin)紙はとりわけ第1面全部と2面の半分を『エミール・ゾラの悲劇的な死』のために費やした。当時の新聞にはまだ写真は使われておらず、ほとんどが文字のみの紙面が普通であった。イラスト画像が入ることも珍しかった。




















Le Matin 1902.09.30
@BnF Gallica
































Edouard Manet : Emile Zola, Écrivain (1868)
Paris, Musée d'Orsay
Crédit Photo (C) RMN-Grand Palais (musée d'Orsay)
 / Hervé Lewandowski

エミール・ゾラ(Émile Zola, 1840-1902)はパリのイタリア人技師の子として生まれた。その後南仏で育ったが、22歳からパリの大手出版社アシェットで勤務しながら、文筆生活を始めた。20代では『テレーズ・ラカン』(Thérèse Raquin, 1865)などで注目され、また印象派の画家たち特にエドゥアール・マネとの交友があり、彼らを擁護する美術評論も書いた。1870年代からは、自然科学的(遺伝学的)な要素を盛り込んだルーゴン=マッカール家の家系図にもとづく壮大な『ルーゴン=マッカール叢書』(Les Rougon-Macquart)全20作の世界を書き上げた。その中には、パリの社会の底辺層を赤裸々に描いた『居酒屋』(l'Assommoir)や高級娼婦の生態を描いた『ナナ』(Nana)なども含まれる。

こうして当代随一の作家としての声価を確立したゾラが1898年1月13日に「オーロル」(曙)紙(L'Aurore) で発表した仏大統領宛の公開質問状「私は弾劾する」(J'accuse !) は、ドレフュス事件をめぐるフランス国内の論争に拍車をかけることとなった。独スパイの容疑で有罪となったドレフュス大尉は軍部の陰謀による冤罪だ、として再審を求める親ドレフュス派と、ユダヤ系市民の排斥運動に乗じて嫌疑は正しいとする反ドレフュス派とが、国を二分して争っていた。

「オーロル」(曙)紙は1897年に創刊されたばかりの新聞で、ジョルジュ・クレマンソーが主筆を務めていた。彼と親しかったゾラは、国家権力の欺瞞を暴くために敢然と論陣を張り、ドレフュス擁護の運動に積極的に関与した。その結果、ドレフュスは1899年に特赦によって自由の身となったが、本当の無罪を勝ち取るために再審の運動は続けていた。ゾラは急死したが、再審は1906年まで持ち越された。


※参考Link:「100年前のフランスの出来事」ゾラ関連記事

(1)ドレフュス事件の再審 :1906年6月15日(金)親反両派の抗争略史を記載
http://france100.exblog.jp/2518659/

(2)ドレフュス事件、第2回目の再審:1906年7月12日(木)無罪判決
http://france100.exblog.jp/2789852/

(3)メダンの文豪ゾラの館のその後:1907年9月28日(土)
http://france100.exblog.jp/6457981/



2016年8月18日木曜日

散歩Q(3-2) オリエント・カフェ跡 Emplacement du Café d'Orient(クリシー広場~ユーロプ界隈)

☆クリシー通り81番地 (81, rue de Clichy, 9e)

(c) Google Map Streetview
 81, rue de Clichy, 9e
この場所に現在は新しいビルが建てられている。19世紀末にはここに「オリエント」という名前のごく普通のカフェ(カフェ・ドリアンCafé d'Orient) があったというが、ネット上でもそのカフェの存在を語る情報は今のところ確認できない。唯一の典拠は、パリの街角の歴史をデータベースで紹介するサイト《Paris Révolutionnaire》(PRR)だけである。

ここには、1870年代後半からステファヌ・マラルメ(Stéphane Mallarmé,1842-1898)を中心に当時の若い詩人たちが集う場所となった。マラルメは早くから詩作を試み、これまでの主観的で感情表現が濃いロマン主義の詩に対し、客観的で感動を抑制した詩的表現を目ざした高踏派に共感し、24歳の時に『現代高踏詩集』(Le Parnasse contemporain, 1866) に自作が所収された。英語教師でもあった彼は地方勤務のあと、1871年からパリのコンドルセ高校(Lycée Condorcet)に転勤となり、パリで活発な文筆活動とともに多くの文人たちとの交流を深めた。当時の彼の住まいはここから数分のモスクゥ通りで、サン=ラザール駅近くの学校までは徒歩通勤だった。


Brasserie allemande
Émile Goudeau & Pierre Vidal
"Paris qui consomme" 1896
Wikimédia Commons

彼の詩は言葉の精緻を極めたもので、長い時間をかけて推敲に推敲を重ねた凝縮された表現だと高く評価された。しかし、34歳の1876年に作った『半獣神の午後』(L'Après-midi d'un faune)が「第3次現代高踏詩集」に拒絶されたことにより、マラルメは、これまでの高踏派の潮流に対抗して新たな詩作りを目ざそうとする若い詩人たちとの交流を深めることとなった。この「オリエント」もそうした集いの場の一つで、詩人で雑誌編集者のギュスターヴ・カーン(Gustave Kahn, 1859-1936) やパリに出てきたばかりの青年作家のモーリス・バレス(Maurice Barrès, 1862-1923)などがいて、その後このグループは象徴派(Symboliste)と呼ばれるようになった。

(←)左掲は『消費するパリ』という画文集にある「ドイツ風ビヤホール」(ブラスリー・アルマンド)のイラストで、直接の関係はないが、マラルメたちが集まって話し込んだというカフェの雰囲気を連想させる。

◇パリ蝸牛散歩内の関連記事:
9区サン=ジョルジュ地区(20-4)作家モーリス・バレスの青年期の住居
Demeure de Maurice Barrès
http://promescargot.blogspot.jp/2016/02/20-4_23.html


Albert Dubois-Pillet : Village près de Bonnières
Wikimédia Commons
また、このカフェは数年後の1884年に創立された《独立美術家協会》(Société des artistes indépendants)いわゆる「アンデパンダン」展の主体となった点描派の画家たちの主要拠点となった。創立メンバーには、スーラ、シニャック、ピサロ、アングランに加えて、アルベール・デュボワ=ピレ(Albert Dubois-Pillet, 1846-1890)がおり、彼は軍人で潔癖性でも知られ、点描画の技法を誰よりも忠実に反映させた絵を描いた。(→)右掲は、セーヌ下流『ボニエール付近の村』の黄昏を描いた名品である。

この画家たちは、やがて新印象主義(Néo-Impressionnisme)と呼ばれるようになったが、その理論的背景には雑誌『独立評論』(La Revue indépentdante)の存在が大きかった。この雑誌の編集者としても上記のギュスターヴ・カーンが関わっていた。


◇パリ蝸牛散歩内の関連記事:
クリシー広場~ユーロプ界隈(2-3)点描派シニャックのアトリエ跡
Emplacement de l'atelier de Paul Signac, pointilliste
http://promescargot.blogspot.jp/2016/06/2-3-emplacement-de-latelier-de-paul.html
クリシー広場~ユーロプ界隈(2-4)点描派スーラのアトリエ跡
Emplacement de l'atelier de Georges Seurat
http://promescargot.blogspot.jp/2016/07/2-4-emplacement-de-latelier-de-georges.html

2016年7月31日日曜日

散歩Q(3-1) クリシー通り、賭博遊戯場 セルクル・ド・ジュー Cercle de jeux(クリシー広場~ユーロプ界隈)

☆クリシー通り84番地 (84, rue de Clichy, 9e)
《賭博遊戯場 セルクル・ド・ジュー》 Cercle de jeux - Clichy Montmartre

(c) Google Map Streetview
 84, rue de Clichy, 9e
クリシー広場から南に下る街路の一つがクリシー通りである。広場からすぐの84番地に《賭博遊技場・セルクル・ド・ジュー》(Cercle de jeux)がある。この施設は、第2次大戦後の1947年にまず撞球場(アカデミー・ド・ビヤール)(Académie de billard)として始められた。このアカデミーという言葉は「会員の集う場所」という意味で、必ずしも学術的な用語ではなく使われている。ビリヤード(Billiards)はフランス語表記では”Billard”で「ビヤール」と発音する。ここでは、フランスで広く行われているブロット(Belote)というトランプ・ゲームのほかにポーカー、バカラ、ルーレットなどが追加されて、普通の賭博遊技場として現在に至っている。

正面入口には一対の男柱像(アトラントAtlantes)が据えられて三角破風を支えている。作者は不明で、顔が下を向いていて表情もよく見えない。

賭博場というと、温泉地や保養地での豪華で贅沢なカジノの施設が思い浮かぶが、このパリの街角ではむしろ懐古的な雰囲気が感じられる。金に飽かせた世界中の富豪たちが集まって、札束を湯水のように蕩尽する光景とは程遠いローカルな感じがする。

(c) Google Map Streetview
 84, rue de Clichy, 9e


Émile Goudeau & Pierre Vidal
"Paris qui consomme" 1896
Wikimédia Commons
この建物は、100年以上前のベル・エポック時代には大衆レストラン「ブイヨン・デュヴァル」(Bouillon Duval)の店舗として使われていた。アレクサンドル・デュヴァル(Alexandre Duval, 1847-1922)が始めた労働者向けの廉価なレストランで、一杯のスープ(un bouillon)と一皿の決まった肉料理(un plat unique de viande)が出された。この店はパリのみならず、フランス各都市にも広がり、史上初のチェーン展開したレストランとなった。

「ブイヨン」は鶏ガラの出し汁を意味するような単語だが、デュヴァルの店の名前から、安食堂の意味でも使われるようになった。

(→)右掲は19世紀末のパリのガイドブックの一つ『消費するパリ』(Paris qui consomme, 1896)に掲載された「ブイヨン・デュヴァル」の店内風景である。創業当初の労働者向けの安食堂というよりは、かなり品のいい気軽なレストランの雰囲気となっている。




*参考Link: Wiki Commons Category: Paris qui consomme (1893) by Goudeau & Vidal
https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Paris_qui_consomme_(1893)_by_GOUDEAU

2016年7月14日木曜日

散歩Q(2-5) クリシー広場(再2)Place de Clichy (suite)クリシー広場~ユーロプ界隈

☆クリシー広場12番地 (12, place de Clichy, 9e)
 レストラン「シャルロ」 (Restaurant Charlot, Roi des coquillages)

 クリシー広場の方に引き返し、大通りの南側に渡る。通り沿いに立ち並ぶ建物の中で、12番地には海産物料理で有名なレストラン《シャルロ》(Charlot)がある。「シャルロ」は人名のシャルル(Charles)の愛称形であり、フランスでは名優チャップリン(Charles Chaplin)を指すことでも知られているが、苗字としてシャルロという人も少なくない。このレストランは、別名『貝類の王様』(Roi des coquillage) と称しているように、南仏を中心とした海産物の料理(特にブイヤベースbouillabaisse)を得意としている。また冬場には、生牡蠣を主体とした「海の幸盛り合わせ」(Plateau de Fruits de mer)を味わうために人々が押しかける。この店では客が普通の肉料理を注文する方が間違っている(とされている。)

店舗の内装もなかなか凝っていて、広々としたアールデコ調の雰囲気がある。建物の入口にある店の名前の看板にもアールデコの時代に流行した字体がそのまま使われている。建物上部に孔雀の羽を広げたような感じの果実の房らしい装飾が見える。この鳥は磯鴫(イソシギcharlot de plage)のつもりなのかもしれない。
(c) Google Map Streetview
 12, place de Clichy, 9e
Edouard Manet
Vue prise près de la Place Clichy (1878)
Dickinson Gallery, London & New York
Wikimedia commons


クリシー広場は意外にも多くの画家たちによって風景画として、あるいは生活風景の場所として描かれている。

(←)左掲はエドゥアール・マネ(Edouard Manet, 1832-1883)が描いた『クリシー広場からの眺め』(Vue prise de la Place Clichy) という作品であるが、晩年の同じ時期に描かれた『ラトゥイユ親父の店』(Chez le père Lathuille)に比べれば、絵具をたっぷり使って街角の風景をすばやい筆致で描いている。マネは画家としての活動と、日常生活の両方をこのクリシー広場を中心とした地域の中で過ごした。


◇パリ蝸牛散歩内の関連記事:
☆クリシー並木通り7番地 (7, avenue de Clichy, 17e)
《 ラトゥイユ親父の店跡 》 (Ancien emplacement du Restaurant, Chez le père Lathuille)
http://promescargot.blogspot.jp/2016/05/1-2-ancien-emplacement-du-restaurant-du.html






Paul Signac : Place de Clichy
The Metropolitan Museum of Art, New York
Photo (C) The Metropolitan Museum of Art, Dist. RMN-Grand Palais /
image of the MMA

新印象派・点描派の画家ポール・シニャック(Paul Signac, 1863-1935)もクリシー広場の目の前の通り沿いの建物にアトリエを構えていた。

(→)右掲の『クリシー広場』の絵にはモンセ―元帥の銅像を見通せる広い通りを点描法で描いている。しかし、点描画法はどうしても朝もやの淡い色彩としか感じさせないものである。


◇パリ蝸牛散歩内の関連記事:
クリシー広場~ユーロプ界隈(2-3)点描派シニャックのアトリエ跡 Emplacement de l'atelier de Paul Signac, pointilliste
http://promescargot.blogspot.jp/2016/06/2-3-emplacement-de-latelier-de-paul.html


Pierre Bonnard : La Place Clichy et le Sacré-Cœur, 1895

おそらくクリシー広場周辺の風景を最も沢山描いたのは、ピエール・ボナール(Pierre Bonnard, 1867-1947)ではないだろうか。
クリシー広場から少し東に入った路地のドゥエ通りに住んでいた彼の日常生活の場はこの広場周辺であった。(←)左掲は『クリシー広場とサクレ・クール寺院』という作品で、雨模様の天気でありながら広場のあちらこちらでくり広げられる市場や雑踏の風景をモンセー元帥の記念碑とともに遠景としてサクレ・クール寺院を描いている。親しみやすい絵である。彼は広場を題材とした連作も手がけている。

実際にサクレ・クール寺院が見えるのは広場の西側のバティニョル大通りからクリシー広場に向かって歩く途上であり、広場からさらにモンマルトルに近づくと建物に隠れて見えなくなる。


※参考サイトLink:「画家たちの見たクリシー広場」La place Clichy vue par les peintres(仏語)
http://france.jeditoo.com/IleDeFrance/Paris/18eme/place%20de%20Clichy.htm

2016年7月6日水曜日

散歩Q(2-4) 点描派スーラのアトリエ跡 Emplacement de l'atelier de Georges Seurat(クリシー広場~ユーロプ界隈)

☆クリシー大通り128番地の2 (128bis, boulevard de Clichy, 18e)
(c) Google Map Streetview
 128bis, boulevard de Clichy, 18e
《点描派スーラのアトリエ跡》 (Emplacement de l'atelier de Georges Seurat)

この建物は、シニャックのアトリエがあった130番地のすぐ隣である。ジョルジュ・スーラ(Georges Seurat, 1859-1891)は1884年の秋頃からこの建物の6階にアトリエを構えていた。
当時24歳のスーラは、最初の大作『アニエールの水浴』(Une baignade, Asnières)をサロンに応募したが、落選となったため、若手のシニャックらと共に自分たちで展覧会を開こうと《独立芸術家協会》(Société des artistes indépendants) を創立して、アンデパンダン展(Salon des indépendants) を開催した。

彼は引き続いて『グランド・ジャット島の日曜日の午後』の制作に取り掛かって、2年近くの時間をかけて、当時パリ北西郊外にある行楽地だったセーヌ河畔の島に何度も出かけ、スケッチや下絵を何枚も描いた。
Seurat : Un Dimanche après-midi à l'île de la Grande Jatte (1884-85)
Chicago Art Institute
Wikimédia Commonns
またそれと並行して、色彩理論の研究、例えば隣り合った色の配置が生み出す視覚効果について研究を深め、この作品で初めて点描画法を取り入れた。
この大作は、印象派の長老ピサロの推薦で1886年の第8回印象派展に出展されたが、様々な意見の大きな反響を引き起こした。

印象派の新たな動きとなる《新印象派》(Néo-impressionnisme)の記念碑的な作品となった。




Seurat : Les Poseuses
Fondation Barnes, Philadelphia, USA
Wikimédia Commons



1887年からは、彼は『ポーズする女たち』に取り掛かったが、この絵に描かれた背景は、まさにこの建物の6階にあったスーラのアトリエそのものであった。背景の左側に『グランド・ジャット島』の完成された絵の一部を入れているのもスーラの自信の顕れかもしれない。
三人の女たちは、モデルを三人三様のポーズに立たせたものではなく、一人ずつ個別に描いたものを組み合わせたと思われる。それは、前作の河畔の人々の姿がある日の午後の一瞬を描いたものではなく、時間軸を重ねて、計算された配置によって画面が構成されたのと同様に、三人の姿も組み合わされたものだと思われるからである。
いずれの作品にしても、人々の姿は幻想的で、肉惑を感じさせない。それは点描画法による視覚効果を突き詰めた新印象派の画家たちの特徴かもしれない。

スーラはこのアトリエに友人のフォラン(Jean-Louis Forain, 1852-1931)の風刺画やギヨーマン(Armand Guillaumin, 1841-1927)の絵画を飾っていたが、当時ポスター画家として大人気だったシェレ(Jules Chéret, 1836-1932)によって描かれた女性の流れるように踊る姿と身のこなしの軽快さに心酔していた。(LAI)

かたつむりの道すじ:①クリシー並木通り~②クリシー広場・クリシー大通り~③クリシー通り~
④ブリュッセル通り~⑤アドルフ・マックス広場~⑥ドゥエ通り~⑦ブランシュ通り~⑧カレ通り~
⑨バリュ通り~⑩ヴァンティミル通り~⑪クリシー通り(再)
 (c) Google Map


2016年6月29日水曜日

散歩Q(2-3) 点描派シニャックのアトリエ跡 Emplacement de l'atelier de Paul Signac, pointilliste(クリシー広場~ユーロプ界隈)

☆クリシー大通り130番地 (130, boulevard de Clichy, 18e)

Paul Signac : La Neige, boulevard de Clichy, 1886
Institute of art, Minneapolis, USA
大通り沿いの次の130番地の建物は、1884年に竣工した大きな集合住宅となっている。3連の同じような狭い戸口がついており、いずれにも建築士フランク(A.F.Frank)という名前が刻まれている。

点描派の画家ポール・シニャック(Paul Signac, 1863-1935)は1886年から1888年までの約2年間、この建物にアトリエを構えていた。彼が23歳から25歳の時期で、その2年前に知り合った4歳年上の画家ジュルジュ・スーラ(Georges Seurat, 1859-1891)とともに、新たな絵画技法となる分割描法(divisionnisme) や点描画法(pointillisme)を目ざして色彩理論を突き詰め、仲間たちとの議論に熱中していた。
(c) Google Map Streetview
 130, boulevard de Clichy, 18e

(↑)上掲の絵は、『クリシー大通り、雪』と題されたこの時期の作品で、クリシー広場から大通りが大きく右にカーヴする地点の雪の日の情景を点描画法で描いたものである。彼のアトリエのすぐ目の前の道であり、右側の煉瓦造りの建物は、昔のパリの各市門のところに設けられていた入市税事務所(オクトロワOctroi)のように見える。

文才もあったシニャックは、文人たちの集まりにも熱心に参加したが、次第に無政府主義(anarchisme)の思想に傾倒し、同じ思想を持つ自然主義作家のポール・アレクシス(Paul Alexis)や印象派の長老カミーユ・ピサロ(Camille Pissarro, 1831-1903) と親しくなった。特にピサロはこの年1886年5月に開催される8回目の印象派展にシニャックとスーラの新たな技法による作品を加えようと画策し、従来の印象派のスタンスを取り続けるルノワールやモネたちと溝ができてしまう。結局この8回目が印象派展の最後となった。ピサロはこのあとしばらく若い年代と同じ点描画法を取り入れた作品を積極的に描いた。

Vincent van Gogh : Boulevard de Clichy (1887)
Van Gogh Museum, Amsterdam
Wikimédia commons






シニャックは鷹揚な性格で人当たりが良く、心を和ませるような穏やかな風景画の画風を保ち続けた。
ちょうどこの時期に画家としてパリにやってきたゴッホとも親しくなり、ゴッホも印象派の画家たちに共感し、点描・分割画法などの新しい技法による作品を描いた。(LAI)

2016年6月23日木曜日

散歩Q(2-2) クリシー広場 Place de Clichy(クリシー広場~ユーロプ界隈)

クリシー(Clichy)の地名は、パリのこの地域で広範囲にわたって使われている。その中心となるのがクリシー広場(Place de Clichy)である。そこから南の都心部へ下る道がクリシー通り(Rue de Clichy)、北の郊外へ伸びるクリシー並木通り(Avenue de Clichy)、そして徴税障壁の跡地を道路にしたクリシー大通り(Boulevard de Clichy)である。

クリシーは近世まではパリ郊外の村の名前だった。今のクリシー広場の辺りと思われるが、メロヴィング王朝のダゴベール王(Roi Dagobert)のお気に入りの居館があったという。17世紀には聖ヴァンサン・ド・ポール(St. Vincent de Paul)がクリシー教区の司教を務め、何回かの司教会議もここで開催された。大革命直前のルイ16世の時代にパリの周囲に徴税のための障壁が設けられ、市内に持ち込む商品へ関税がかけられるようになった。これが「バリエール」(Barrière バリア)で、クリシーにもパリ市の境界となる市門の一つがあった。

E.G.Grandjean - La place Clichy en 1896
Paris, musée Carnavalet
Crédit Photo (C) RMN-Grand Palais / Agence Bulloz



























クリシー広場が歴史的に有名になったのは、ナポレオン時代の1814年3月30日、敗走するフランス軍を追い詰めて連合国軍がパリに攻め込んだが、この市門を守っていたモンセー元帥指揮する部隊が頑強に抗戦し、最後まで戦ったという史実である。
(↑)上掲は、「1896年のクリシー広場」の風景画だが、120年経った今でもその趣が残っている。モンセー元帥の記念像の足の形から判断すると、この絵はクリシー広場の南から北に向かって描かれたもので、正面奥の一角が当時「カフェ・ゲルボワ」や「ラトゥイユ親父の店」、そして「タヴェルヌ・ド・パリ」があったクリシー並木通りである。作者のグランジャン(Edmond-Georges Grandjean, 1844-1908)はこの他にもパリの19世紀末の風景を絵葉書のように描いて通俗的な人気があった。


☆クリシー広場14番地 (14, place de Clichy, 18e)
 ブラスリー「ウェプレー」 (Brasserie Wepler)
(c) Google Map Streetview
 14, place de Clichy, 18e

広場に面した一角にあるブラスリーの老舗「ウェプレー」(Wepler)の紅い日除けの帆布がこの広場のランドマークとなっている。1881年創業とあるので、すでに130年以上の伝統がある。上掲のグランジャンの絵の右端にも、当時は紅でなく薄緑色だがこの店の日除けが描かれている。

ブラスリー(Brasserie)は高級レストランに比べれば気軽に食事ができる店のスタイルで、一般的に広場や繁華街の一角に紅い日除けの帆布を張り、広い客席を抱えて、素早く、親しみやすいサービスをしてくれる。料理は伝統的・定番的なものがほとんどなのがブラスリーの宿命で、シェフの手の込んだ調理や創作味は期待しない方がいい。この店も冬場には、生牡蠣と海の幸の盛り合わせ(Plateau de fruits de mer)を出してくれる。


☆クリシー大通り140番地 (140, boulevard de Clichy, 18e)
 映画館《パテ=ウェプレー》(Pathé-Wepler)
(c) Google Map Streetview
 140, boulevard de Clichy, 18e




















ブラスリーの隣にある大きな映画館の建物で、《パテ=ウェプレー》(Pathé-Wepler)と呼ばれている。ここから住所表示がクリシー大通りに変わる。広場が大通りの延長なのだ。
第2次大戦後の1956年に1600席以上の大映画館として建てられた。まさに映画文化の最盛期の時代で、当時フランスの映画産業の頂点にあったパテ社の所有する巨大な上映館の代表格であった。今でも建物の壁面に《 PATHE 》と彫られた文字が残っているのが見える。1994年以降はシネマコンプレックス(multiplexe) として改装され、12の上映室(salle)で2000を超える客席を擁している。


☆クリシー大通り134番地 (134, boulevard de Clichy, 18e)
(c) Google Map Streetview
 134, boulevard de Clichy, 18e

その隣接する134番地の広壮なアパルトマンの建物は、ベルエポック時代の1904年から1906年にかけて建築家のルネ・ディジョルジュ(René Digeorge)によって建てられた。建物の両端にある出入口のバルコニーの曲線と花蔓模様の装飾に時代の気品が感じられる。









ここの壁面に奇妙な(→)
模様がつけられているが、いわゆる街角アートの一つらしい。
日本で1980年前後に大流行したコンピュータ・ゲームのキャラクター(例えばインベーダー)のイラストと同じものが用いられている。それがパリを中心とする欧州各都市に多数蔓延している「インベーダー・アート」(Invader Art)である。誰が何のために?がわからないが街角は間違いなく「侵略」されている。

*参考Link: Wikipedia : Invader (artiste)
https://fr.wikipedia.org/wiki/Invader_(artiste) (仏語)

https://en.wikipedia.org/wiki/Invader_(artist) (英語)

2016年6月13日月曜日

散歩Q(2-1) 作家ヴィリエ・ド・リラダンの旧居 Ancienne demeure de Villiers-de-L'isle-Adam(クリシー広場~ユーロプ界隈)

(c) Google Map Streetview
 16, place de Clichy, 18e

☆クリシー広場16番地 (16, place de Clichy, 18e)

クリシー並木通りから広場に出る角の建物がクリシー広場16番地(18区)である。19世紀後半の異色の作家オーギュスト・ド・ヴィリエ・ド・リラダン(Auguste de Villiers de L'Isle-Adam, 1838-1889)が晩年に住んだ家とされるが碑銘はない。長いけれどもヴィリエ・ド・リラダンが苗字である。

彼は、ブルターニュ地方のマルタ騎士団に加わった由緒ある貴族の家系に生まれたが、1855年に父親の伯爵は領地と家屋敷を売り払って、家族を伴ってパリに出てきた。少年時代は詩作と音楽(ピアノ)に優れた才能を示したが、箔のある家柄ゆえに招かれてパリの社交界に出入りするうちに、小説と劇作、評論に深く関わるようになる。しかし父親は負債の返済を滞ってクリシー牢獄に収監されるほど、ヴィリエ伯爵家の生活は窮乏を極めた。

Les Hommes d'Aujourd'hui : Villiers de L'Isle-Adam
Collignon et Tocqueville, caricaturiste
Paris, bibliothèque du musée d'Orsay
Crédit Photo (C) RMN-Grand Palais
(musée d'Orsay) / Michel Urtado







1864年に26歳で彼は4歳下のマラルメ(Stéphane Mallarmé, 1842-1898)と知り合う。互いに尊敬し、想念を研ぎ澄まし合い、終生確かな友情を持ち続けた。
かたや文人のテオフィル・ゴーティエ(Théophile Gautier, 1811-1872)の娘と婚約しながらも、身分の不釣り合いを理由に解消した。

美しく気まぐれなニナ・ド・ヴィラールのサロンにも頻繁に出入りし、彼女が中心となったワーグナー崇拝の熱狂的な運動に加わった。

彼の代表的な作品は『残酷物語』(Contes cruels)、『未来のイヴ』(L'Ève future)などが挙げられる。世間一般の価値観への辛辣な皮肉と、精神世界への幻想的な称揚との奇妙に混じり合った味わいがある。同時代の人たちからはほとんど理解されず、尊大な自尊心を放棄することなく、貧困の中に生きた。「武士は食わねど高楊枝」の諺を連想する。


◇パリ蝸牛散歩内の関連記事:
9区サン=ジョルジュ地区(20-1)ニナのサロン 1er Salon artistique et littéraire de Nina de Callias
☆エネ通り13番地 (13, rue Henner, 9e) 
☆シャプタル通り17番地 (17, rue Chaptal, 9e)
http://promescargot.blogspot.jp/2016/02/20-1.html

◇《フランス箴言集》の関連記事: ヴィリエ・ド・リラダンの言葉
http://promescargot.blog.fc2.com/blog-category-49.html

2016年6月3日金曜日

散歩Q(1-4) クリシー並木通り Avenue de Clichy(クリシー広場~ユーロプ界隈)

☆クリシー並木通り10番地 (10, avenue de Clichy, 18e)
(c) Google Map Streetview
 10, avenue de Clichy, 18e

クリシー広場はパリでも珍しい地図上の区分点で、8区、9区、17区、18区の4つの区の境界となっている。並木通りの反対側は18区の区域にあたる。10番地の建物の2階部分には、珍しい鋼鉄と窓ガラスに覆われたサンルームのような張り出しが造られている。白亜の建物に黒色の鉄のコントラストが異様にも見える。
19世紀末に流行したアール・ヌーヴォ様式に見られる鉄の素材を飴細工のように曲線を施した装飾がここでも見られる。







☆クリシー並木通り8番地 (8, avenue de Clichy, 18e)


(c) Google Map Streetview
 10, avenue de Clichy, 18e
隣の8番地は、パテ社の映画館の一つがある。見ての通り《PATHÉ!》のロゴマークは、20世紀初頭から映画産業に君臨してきた。
パテ兄弟社(Pathé frères)は、シャルル・パテ(Charles Pathé, 1863-1957)を筆頭とする4人の兄弟が1896年に設立したレコード制作会社だったが、その後映画の分野に進出し、フィルムの製造、撮影用カメラの改良、映画の制作、配給、上映館網の拡大、映写機の販売等、映画の最初から最後までのプロセスを支配し、その販売網は欧州から米国まで広がり、事業のシェアは最盛期で50%を超えた。







ロゴマークには、パテの文字とともに、フランスの国を象徴する雄鶏も用いられた。

2016年6月1日水曜日

散歩Q(1-3) タヴェルヌ・ド・パリ跡 Ancien emplacement de la Taverne de Paris(クリシー広場~ユーロプ界隈)

☆クリシー並木通り3番地 (3, avenue de Clichy, 17e)
《 タヴェルヌ・ド・パリ跡 》 (Ancien emplacement de la Taverne de Paris)
(c) Google Map Streetview
 3, avenue de Clichy, 17e

カフェ・ゲルボワからクリシー広場のほうに戻ってくる途中の3番地には、「タヴェルヌ・ド・パリ」(La Taverne de Paris)という居酒屋があった。マネや印象派の若い画家たちがこの辺りにたむろした時代から20年くらい後のことで、19世紀末から20世紀初頭のベル・エポック時代、この居酒屋は、「諧謔漫画家協会」(Société de dessinateurs humoristiques) と称する団体に所属する戯画作家、漫画家、風刺画家たちが集まる場所となった。

Jules Chéret - Fleur de Lotus,
affiche de Folies Bergère
Paris, Bibliothèque nationale de France (BnF)










その中心的な人物は、レアンドル、スタンラン、フォラン、ウィレットなどで、彼らは皆1850年代生まれの30代~40代の画家・漫画家たちで、機智にあふれかつ辛辣なユーモア精神を持ち合わせており、そこでは才気煥発な議論が飛び交った。

19世紀後半になって多種多様な新聞や雑誌が盛んに発行される時代となり、特に視覚に訴える挿絵や口絵が多用されるようになり、印刷技術の発達に伴ってカラー印刷物も大量に生み出された。右掲(→)のポスターは、当時絶大な人気を誇ったジュール・シェレ(Jules Chéret, 1836-1932)によるもので、彼はすでに大御所としての存在で、若い画家たちに助言を惜しまなかった。(LAI, PRR, Wiki)


Steinlen : Le bal du 14 juillet
Paris, musées de la Ville de Paris
Crédit Photo (C) RMN-Grand Palais / Agence Bulloz


雑誌等に掲載された彼らの作品は一見して大同小異の似たようなものとして捉えられやすいが、それぞれ作者の個性が発揮され、味わいも微妙に異なっている。

(←)左掲は、テオフィル・スタンラン(Théophile Steinlen, 1859-1923)の絵画で『7月14日の舞踏会』と題されている。革命記念日(いわゆるパリ祭)の夜にパリの街角で催されたダンスパーティの風景である。当時のクリシー広場でもこのような光景が見られたと思われる。スタンランはこうしたバランス感覚のある生活風景を多く描いている。

Léandre - En marge de Chantecler, La conspiration des nocturnes
La comédie parlementaire
Paris, Bibliothèque nationale de France (BnF)

シャルル・レアンドル(Charles Léandre, 1862-1934) はグロテスクな風刺画を得意とし、長い間にわたって新聞や雑誌で大胆な戯画が掲載された。(→)右掲は『シャントクレの余白に、夜の陰謀ー国会喜劇』と題された風刺画である。「シャントクレ」(Chantecler)[ あえて和訳すれば「鶏鳴」かも] とは、1910年に初演されたエドモン・ロスタンの戯曲のことで、鳥たちを擬人化した世界での権力抗争を描いたものである。レアンドルはそれを更にもじって当時の国会での論争を皮肉ったものと思われる。


Collection Jaquet : Dessinateurs et humoristes;
Willette 3 - Défets d'illustrations de périodiques
Pourquoi pas? @BnF Gallica

アドルフ・ウィレット(Adolphe Willette, 1857-1926) も雑誌のイラストで人気が高かった。(←)左掲のものは《クーリエ・フランセ》(Courrier Français)掲載の一連のシリーズ『女の気まぐれ』(裸と脱衣)(Les Fantaisies : Nus et déshabillés) の中の「もちろんよ!」(Pourquoi pas?) と題したイラストである。

日常ではまず起こりえない美女の蓮っ葉な行状を描いた作品がほとんどで、男性読者の目の保養となったのかも知れない。

(↓)下掲は、《巡査:「お嬢さん、気をつけて、霜焼けになるよ!」》

Collection Jaquet : Dessinateurs et humoristes;
Willette 3
Défets d'illustrations de périodiques
Le sergot - Méfiez-vous, mon enfant,
vous allez attraper des engelures.
@BnF Gallica
















フランス国立図書館(BnF)のガリカ電子図書館(Gallica) では、19世紀後半~20世紀前半における著名なイラスト画家たちの作品を膨大な雑誌から切り貼りして集めた《ジャケ・コレクション》(Collection Jaquet) を各人別に見ることができる。

http://gallica.bnf.fr/services/engine/search/sru?operation=searchRetrieve&version=1.2&collapsing=disabled&query=%28gallica%20all%20%22Collection%20Jaquet%20humoristes%22%29%20and%20dc.type%20all%20%22image%22%20and%20dc.relation%20all%20%22cb43742245x%22


2016年5月22日日曜日

散歩Q(1-2) ラトゥイユ親父の店跡 Ancien emplacement du Restaurant du Père Lathuille(クリシー広場~ユーロプ界隈)

☆クリシー並木通り7番地 (7, avenue de Clichy, 17e)
《 ラトゥイユ親父の店跡 》 (Ancien emplacement du Restaurant, Chez le père Lathuille)

(c) Google Map Streetview
 7, avenue de Clichy, 17e

「カフェ・ゲルボワ」の一つ手前の7番地には、「ラトゥイユ親父の店」(Chez le père Lathuille) があった。現在では7番地と9番地が一緒になって衣料品店が入った大きな建物になっている。その向かって左半分のところにもボートの櫂のような「パリの歴史案内板」が立っている。

エドゥアール・マネ(Edouard Manet, 1832-1883) はこのレストランを題名とした絵を描いたのは1879年、47歳の時で、51歳で病死する4年前のことである。(晩年の作と言うには早過ぎる。)彼らが隣の「カフェ・ゲルボワ」に頻繁に出入りしたのはこれの10年以上前の1860年代のことだったが、その後若い印象派の画家たちはピガール広場の方に会合の場所を変えて行った。1870年に勃発した普仏戦争とその敗戦による第2帝政の終焉、パリ・コミューンの混乱、第3共和政の発足などが、一つの時代の分岐点となったのである。


E. Manet - Chez le père Lathuille (1879)
Musée des Beaux-Arts, Tournai
Wikimédia commons
マネは相変わらずこの地域に住み続けており、このレストランの常連客であったに違いない。作品となった絵の場面では、ラトゥイユ親父の庭園レストラン(Restaurant-jardin)の一角で好色そうな眼付の若い男が一人の婦人を口説いている様子。背景の中庭の緑やたたずむ給仕の姿が印象的で、生き生きとした時代風俗として描かれている。まだ19世紀の後半の時代では、表通りから店の奥に入るとこうした自然が残る庭先があったことがわかる。

マネは同時代の人々の生活情景を明るい色調の中で、軽い筆致で表現することに成功したのである。



2016年5月18日水曜日

散歩Q(1-1) カフェ・ゲルボワ跡 Ancien emplacement du café Guerbois(クリシー広場~ユーロプ界隈)

今度の散歩は、クリシー広場(Place de Clichy)周辺からユーロプ地区(Quartier de l'Europe)を周遊する。クリシー広場は元々パリの街を防御する堡塁と城壁があったところで、1815年にナポレオン率いるフランス軍が連合国軍に追い詰められ、パリに進攻するロシア軍とモンセー元帥指揮下のパリ防衛軍との激しい戦闘があった場所である。その後城壁は撤去され、その跡地に広い通りが作られ、外側にあったモンマルトル(18区)やバティニョル(17区)に市街地が広がった。この散歩コースでは、印象派の実質的な指導者であった画家エドゥアール・マネに関する旧跡が数多く見られる。


(c) Google Map Streetview
 9, Avenue de Clichy, 17e
☆クリシー並木通り9番地 (9, avenue de Clichy, 17e)
《 カフェ・ゲルボワ跡 》 (Ancien emplacement du café Guerbois)

クリシー広場を中心に方々の街路の名前にクリシーとついている。北に伸びる通りは、アヴニュ(Avenue de Clichy) という。ここでは他の通りと区別するために「並木通り」と訳した。アヴニュ(英語でアヴェニュ)は文字通り並木道になっている。

9番地の入口の横に「パリの歴史」(Histoire de Paris)と書かれた史跡案内板が設置されている。これは言うまでもなく「この場所に印象派を生み出した画家たちが集まったカフェ・ゲルボワがあった。」という内容が書かれている。単純にボートをこぐ櫂のような形をしている。

*参考サイト:Panneau Histoire de Paris(仏文)
https://fr.wikipedia.org/wiki/Panneau_Histoire_de_Paris

「カフェ・ゲルボワ」(Café Guerbois)は19世紀半ばにおける画家、作家、芸術愛好家たちの寄り合いと意見交換の場であった。エドゥアール・マネ(Edouard Manet, 1832-1883)は、すでに20代でサロン(官展)入選を果たし、新進画家として注目されていたが、意欲作の『草上の昼食』(Le Déjeuner sur l'herbe)が1863年のサロンで落選し、その他多くの若手画家の作品も落とされたため、審査員の鑑識眼が問題視され、皇帝ナポレオン3世は別途「落選作展」(Salon des refusés)を開催させることにした。この頃からマネの目ざす絵画の方向性に共感する若い画家たちが集まるようになり、当時マネのアトリエからほど近いこのカフェが仲間たちとの待ち合わせの場所として使われるようになった。

E.Manet - Au café  (1869)
National Gallery of Art, Washington DC
Wikimédia Commons
店はカフェというよりは居酒屋であり、地下にあった。仲間たちは毎晩のように集まったが、特に毎週金曜日の夜には多くの顔が揃い、2つのテーブルに座って、時には激論が交わされた。常連の中にはファンタン=ラトゥール、ウィスラー、バジル、ドガ、ピサロがおり、作家のエミール・ゾラ、評論家のテオドール・デュレなども加わった。当時はまだ20代の若手画家だったモネ、ルノワール、シスレー、ギヨーマンたちも熱心にマネの話に耳を傾けた。南仏から来たセザンヌはある時、周囲で語られる話題について始めのうちは静かに聞くだけで、会話に加わろうとしなかったが、ある一言が彼の怒りを呼び覚まし、抑えていた弁舌が解き放たれ、激昂して怒鳴りまくる場面があったという。
特に、大衆の無理解、現勢力の大御所の画家たちへの敵意、権力への不服従、社交界の仕組みへの反発、サロンに受け入れられない者への冷遇などについて議論を深めて行き、やがて新しい印象派としての潮流が醸成されて行ったことは間違いない。



(c) Google Map Streetview
11, Avenue de Clichy, 17e
☆クリシー並木通り11番地 (11, avenue de Clichy, 17e)

「カフェ・ゲルボワ」の一軒隣の11番地には、「エヌカン」(Hennequin) という画材店があった。現在では1階がスポーツ用品店に変わってしまったが、19世紀には1~2階とも画材店で、2階の壁面に当時のままの装飾が残されている。「1830年創業」の文字とXに交差した絵筆とパレットがモザイク模様の壁面とともに見られる。


「カフェ・ゲルボワ」に頻繁に出入りしたマネを始め、印象派の若い画家たちが便利ついでに絵具や画材を買い求めたことで知られる。
1870年以降に、画家たちの集う場所がブランシュ広場の「ヌーヴェル・アテーヌ」(Nouvelle Athènes)に移ってからは客足が細くなったという。






かたつむりの道すじ:①クリシー並木通り~②クリシー広場・クリシー大通り~③クリシー通り~
④ブリュッセル通り~⑤アドルフ・マックス広場~⑥ドゥエ通り~⑦ブランシュ通り~⑧カレ通り~
⑨バリュ通り~⑩ヴァンティミル通り~⑪クリシー通り(再)
 (c) Google Map

2016年4月17日日曜日

散歩R(30-2) エスティエンヌ・ドルヴ広場 Place d'Estienne d'Orves, 9e(9区サン=ジョルジュ地区)

いよいよサン=ジョルジュ地区の散歩の最後となった。トリニテ教会の前の広場は戦前までは「トリニテ広場」(Place de la Trinité)と呼ばれていた。1944年にパリがナチ独軍の占領から解放された直後に、その3年前にレジスタンスの闘士の先駆けとしてドイツ軍に銃殺されたフランス海軍の士官エスティエンヌ・ドルヴ(Honoré d'Estienne d'Orves, 1901-1941)を記念してこの広場に名付けることにしたのである。広場の中に記念碑がある。(DNR)


☆エスティエンヌ・ドルヴ広場2番地 (2, place d'Estienne d'Orves, 9e)
☆サン=ラザール通り71番地 (71, rue Saint-Lazare, 9e)
☆シャトーダン通り60番地 (60, rue de Châteaudun, 9e)
PA00088950 © Monuments historiques, 1992

広場の東端に大きな建物がある。地下鉄の出入口のすぐ前にある。1868年と建築士シャルル・フォレスト(Charles Forest)の名前が刻まれている歴史的建造物。正面入口の大きな馬車門の両脇に見事なアトラント柱像がある。これはナント出身の彫刻家ジョゼフ=ミシェル・カイエ(Joseph-Michel Caillé, 1836-1881)の作である。彼は45歳で早世した。

(c)Photo Emoulu bc16fa, 2013
(c)Photo Emoulu bc16fa, 2013





































Auguste Renoir - Place de la Trinité (1875)
Collection particulière
Wikimédia commons
ルノワール(Auguste Renoir, 1841-1919) は30代の頃、近くのサン=ジョルジュ通り35番地にアトリエを構えており、1874年の第1回印象派展を開催する準備に追われていたが、このトリニテ教会の前の広場で風景画を何点か描いている。(←)左掲はそのうちの一点だが、いかにも楽しげなパリ風景である。人物はユトリロの描き方に似ている。

日本のひろしま美術館に別の「トリニテ広場」の絵があるので紹介する。
http://www.hiroshima-museum.jp/collection/eu/renoir.html






◇パリ蝸牛散歩内の関連記事:
9区サン=ジョルジュ地区(16-3) ルノワールのアトリエ
Emplacement de l'atelier d'Auguste Renoir
http://promescargot.blogspot.jp/2016/01/16-3.html

2016年4月16日土曜日

散歩R(30-1) 聖トリニテ教会 Église Sainte-Trinité(9区サン=ジョルジュ地区)


☆エスティエンヌ・ドルヴ広場 (Place d'Estienne d'Orves, 9e)
《聖トリニテ教会》 (Église Sainte-Trinité)
PA00088906 © Monuments historiques, 1992


散歩者のルートからすれば、教会の裏手にあたるトリニテ通りから後陣に入る入口が手っ取り早いかもしれない。
(c)Photo Emoulu bc11fa, 2013

この教会は1867年にオスマン男爵によるパリ改造計画の一環として、グラン・ブルヴァールのイタリアン大通りから北に真っすぐ伸びるショセ=ダンタン通りが、オスマン大通りを横切ってサン=ラザール通りまで至る先に、この教会の正面が見通せるように建てられた。

パリの都市計画にはこうした「デブーシェ」(出口débouché)の美観、つまり道路の行き着く先に現れるランドマーク(repère)の存在を効果的に採り入れていたことがわかる。

正面中央にそびえる高さ65mの堂々たる鐘楼の存在感は大きい。建築家のバリュ(Théodore Ballu, 1817-1885)が16世紀のイタリア・ルネサンス様式を模して設計したものとされる。
(c)Photo Emoulu bc14a, 2013












教会内部の大オルガン(Grandes orgues)は1869年に名匠カヴァイエ=コル(Aristide Cavaillé-Coll, 1811-1899)によって作られたもので、特に現代作曲家オリヴィエ・メシアン(Olivier Messiaen, 1908-1992)が23歳から亡くなるまでの61年間、この教会のオルガン奏者であったことが記憶されている。

Pierre-Paul Rubens - La Trinité
Neubourg, Bayerische Staatsgemäldesammlungen
Photo (C) BPK, Berlin, Dist. RMN-Grand Palais
/ image BStGS

「トリニテ」(Trinité)とはフランス語で「三位一体」の意味で、父なる神、子なるキリスト、聖霊の三つの位格による神の本質を示すものとされる。(←)左掲のルーベンスの作品にみられるように、聖霊は「鳩」として象徴的に表わされている。



(c)Photo Emoulu bc14f, 2013














(c)Photo Emoulu bc13fa, 2013









教会の前は気持ちのいい小公園(Square de la Trinité)になっている。特に花咲く春から夏にかけての季節は美しい。