パリの街角散歩です。カタツムリのようにゆっくりと迂回しながら、そして時間と空間をさまよいながら歩き回ります。


2015年10月29日木曜日

散歩R(8) ギュスターヴ・トゥドゥズ広場 Place Gustave Toudouze, 9e(9区サン=ジョルジュ地区)

 クローゼル通りとアンリ・モニエ通りが交差する角が三角形に切り取られて小さな広場になっている。この小さな広場の存在が中心となって19世紀に「ブレダ地区」(Quartier Bréda) として小説や絵画に登場し、そこの風俗とともに人々に親しまれた。今でも広場の前に手軽な飲食店が軒を連ねていて、気分が安らぐ場所である。


(c) Google Map Streetview
Place Gustave Toudouze, 9e 

名前の由来となるギュスターヴ・トゥドゥズ(Gustave Toudouze, 1847-1904)は19世紀後半に作家兼ジャーナリストとして活躍した人で、デュマ・フィスやゴンクール兄弟、モーパッサンなどとの交友があった。文学作品を多く残しているが、時の流れとともに忘れ去られた。当時は広場に名を残すくらいの著名人だったと思われる。







☆ギュスターヴ・トゥドゥズ広場4番地 (4, place Gustave-Toudouze, 9e)  
PA00088953  © Monuments historiques, 1992 

 上掲の写真の広場の中ほどにある建物は、パリの歴史的建造物(Monument historique)に登録されている。1839年の建造で19世紀中頃の典型的なアパルトマン(1階は店舗)である。


« Immeuble 4 place Gustave-Toudouze -993 » par MOSSOT
— Travail personnel. Sous licence CC BY 3.0
via Wikimedia Commons
正面入口が白亜の唐草模様で細かく飾られている。現在でも一般の住居として使われているため、公開はされていない。























かたつむりの道すじ: (6)マルティール通り~(7)クローゼル通り~
(8)ギュズターヴ・トゥドーズ広場 (c) Google Map

2015年10月27日火曜日

散歩R(7-3) 作家モーパッサンの旧居 Ancienne demeure d'écrivain Maupassant(9区サン=ジョルジュ地区)

☆クローゼル通り17番地 (17, rue Clauzel, 9e) 

(c) Google Map Streetview
 17, rue Clauzel, 9e
《作家モーパッサンの旧居》作家モーパッサンの旧居 Ancienne demeure d'écrivain Maupassant

タンギー爺さんの店の斜め向かいの家に、短編小説の名手として評価の高い作家ギィ・ド・モーパッサン(Guy de Maupassant, 1850-1893)が住んでいた。(19番地と書いているガイドブックもある)彼が暮らしたのは26歳から32歳までの約6年間である。彼の母親が文豪フロベールと親しかったため、勤務先の文部省での働き口や文壇への人脈づくりなどフロベールから大いに世話を受けた。彼はそれに応えるべく、昼は役所で働き、夜は文筆活動に精励した。彼が30歳の時に発表した『脂肪の塊』(Boule de suif, 1880)が一躍有名となり、作家としての地位を確立した。

画家のゴッホもモーパッサンを愛読した一人で、書簡で度々彼の著作についての感想を述べている。しかし、ゴッホがパリに出てきたときは、モーパッサンは人気作家となっており、この家から出て17区の住居に引越ししていた。



(c) Google Map Streetview
 Rue Clauzel, 9e









(←)アンリ・モニエ通りの方から振り返って見たクローゼル通り。通りの右手中央奥の黒ずんだ建物付近がモーパッサンの住居だった。









2015年10月25日日曜日

散歩R(7-2) タンギー爺さんの店跡 Emplacement de la boutique de Père Tanguy(9区サン=ジョルジュ地区)

☆クローゼル通り14番地 (14, rue Clauzel, 9e) 
《タンギー爺さんの店跡》 (Emplacement de la boutique de Père Tanguy)

(c) Google Map Streetview
 14, rue Clauzel, 9e

ここはタンギー爺さん(Père Tanguy)ことジュリアン・タンギー(Julien Tanguy, 1825-1894)が画材を売っていた店の跡である。現在は複製画の展示や記念品を売っているようだ。見ての通りの質素な店構えで、画像(←)の左手の門の上に銘板がある。当時まだ評価されていなかった印象派の画家たちが出入りしていた。彼らは自分の描いた絵を持ち込んでは必要な絵具や画材の代金がわりに引き取ってもらうことが多かった。タンギー爺さんにとってはかろうじて商売が成り立つ程度のつましい生活だったが、彼らの信念と情熱を信じて支援し続けたのだ。

 印象派の巨匠クロード・モネが回想して語ったことによると、まったく売れない画家だった時期に、彼らはタンギー爺さんの店先に週一回自分の絵を飾ることを始めたという。「月曜日はシスレー、火曜日はルノワール、水曜日はピサロ、木曜日はモネ、金曜日はバジル、土曜日はヨンキント」ということで、それぞれがその日店頭に自分の絵を持っていって飾り、タンギー爺さんと一緒に店番をしたのである。


Vincent van Gogh : Portrait de Père Tanguy,
Collection particulière
タンギー爺さんの容姿を永遠に留めているのは、ゴッホの手になる肖像画である。ゴッホ(Vincent van Gogh, 1853-1890)が本格的に絵を勉強するためにパリにやってきたのは1886年の3月頃で、32歳から34歳までの約2年間、印象派の画家たちの影響を受けながら、明るい色彩で風景画、人物画、静物画などを精力的に描き上げた。しかしゴッホは年代的に印象派の画家たちよりも10~20歳若く、これまでほとんど無名であったために、交友を深めることができたのは、後期印象派のシニャック、スーラ、あるいはロートレック、ゴーギャンなどだった。 右掲(→)の肖像画には、タンギー爺さんの好人物ぶりが生き生きと描かれ、稚拙なほどのナイーヴな表現はむしろ見る人を微笑ませてくれる。











2015年10月23日金曜日

散歩R(7-1) クローゼル通り Rue Clauzel, 9e(9区サン=ジョルジュ地区)


(c) Google Map Streetview
 7 ter, rue Clauzel, 9e
クローゼル・ホテルの角を左に折れるとクローゼル通りに入る。この通りは19世紀の中頃に住宅地として整備された。当初の名前は新ブレダ通り(Rue neuve Bréda)だった。画家のガヴァルニ(Gavarni)が描いた市民生活のデッサン画によってブレダ地区(Quartier Bréda)として知られていた。クローゼル(Bertrand Clauzel, 1772-1842)は19世紀の軍人で、ナポレオン軍の将軍の一人として名を馳せたあと、ルイ=フィリップの時代にアフリカ方面軍の司令官として元帥になった人物である。



(c) Google Map Streetview
 7 ter, rue Clauzel, 9e





☆クローゼル通り7番地の3 (7 ter, rue Clauzel, 9e)

控えめな張り出し窓の下にある持送り(→)の美しい紋様が見事である。同じ建物の入口扉( ↑ )の上部には、図案の飾り文字のような天使の装飾が見えるのが珍しい。








2015年10月21日水曜日

散歩R(6-4) 作曲家ラヴェルの幼児期の家 Maison de compositeur Ravel dans son enfance(9区サン=ジョルジュ地区)

(c) Google Map Streetview
 33, rue des Martyrs, 9e
☆マルティール通り33番地 (33, rue des Martyrs, 9e) 

 通りを上がっていくと、左手のクローゼル通りとの角に小さなホテルがあるが、その入口上部の装飾は、やや間が抜けたような獅子頭が王冠をかぶったような意匠で面白い。


クローゼル通りに入る前に角から2~3軒先の40番地の家を見ておきたい。





(c) Google Map Streetview
 40, rue des Martyrs, 9e
☆マルティール通り40番地 (40, rue des Martyrs, 9e)   《作曲家ラヴェルの幼児期の家》

 モーリス・ラヴェル(Maurice Ravel, 1875-1937) はフランス南西部バスク地方で生まれたのは確かであるが、生後3カ月で一家はパリのこの家に引越ししてきた。父親はそれまで技師として、バスク地方で鉄道建設に関わる仕事をしていたようだ。

 ラヴェルの音楽にはバスクやスペインの色彩のあふれる民俗的要素が特徴とされるが、彼自身がその土地で育ったわけではないということは意外と知られていない。たしかに母親は生粋のバスク人であり、その感性はラヴェルにも受け継がれていたと思われる。一家はここで5年間暮らしており、その間に弟のエドゥアールが生まれている。




2015年10月19日月曜日

散歩R(6-3) 画家ジェリコー逝去の家 Maison de peintre Géricault, jusqu'à sa mort(9区サン=ジョルジュ地区)

(c) Google Map Streetview
21, rue des Martyrs, 9e
☆マルティール通り21番地 (21, rue des Martyrs, 9e)  《画家ジェリコー逝去の家》
Maison de peintre Géricault, jusqu'à sa mort

 ロマン派絵画の若き俊英テオドール・ジェリコー(Théodore Géricault, 1791-1824) が31歳の若さで死去した家とされる場所である。(別の資料によるとこちらには彼のアトリエがあって、住居は同じ通りの49番地だったとの説もある。)

Rue des Martyrs, n° 21 :
Maison habitée par Géricault,
Manuel et Béranger : [estampe]
/ APM [Potémont] @BnF Gallica












(←)フランス国立図書館の19世紀初頭の版画では、この番地にジェリコーの住まいがあったと記されている。

イタリア留学から戻って、28歳で彼が発表した大作『メデューズ号の筏』(Le radeau de la Méduse, 1819) は、ロマン主義絵画の記念碑的な傑作となった。大胆な構図と色調、情動的な表現は7歳年下のドラクロワにも大きな影響を与えた。



Schefffer : La mort de Géricault
Photo (C) RMN-Grand Palais (musée
du Louvre) / Michel Urtado

彼は馬の躍動感あふれる動きに魅せられ、英国に3年間住んで、盛んにスケッチや絵画制作を行った。パリに戻ってほどなくして、彼は自分の乗った馬が市の外壁にぶつかった弾みで放り出され、その事故が原因で出来た膿瘍に苦しめられ、1年半後に死去した。(CVP)
その惜しまれた死の様子は、友人の画家アリ・シェフェー(Ary Scheffer, 1795-1858) によって『ジェリコーの死』(La mort de Géricault) として描かれている。










2015年10月17日土曜日

散歩R(6-2) 雑誌《ルヴュ・ブランシュ》の版元跡 Emplacement du lieu de rédaction de la Revue Blanche(9区サン=ジョルジュ地区)


La Revue blanche bi-mensuelle : affiche
Henri de Toulouse-Lautrec
Paris, Bibliothèque nationale de France (BnF)
Crédit : Photo (C) BnF, Dist. RMN-
Grand Palais / image BnF
☆マルティール通り19番地 (19, rue des Martyrs, 9e)  《ルヴュ・ブランシュ》の版元跡 Emplacement du lieu de rédaction de la Revue Blanche

1891年10月にパリで刊行された「ルヴュ・ブランシュ」(La Revue blanche) は新しい文芸誌・芸術評論誌として、先行する代表的な評論誌「メルキュール・ド・フランス」誌の薄紫色の表紙に対抗して「白い雑誌」として登場した。

この雑誌は2年前の1889年にベルギーのリエージュで創刊されたが、編集人のナタンソン3兄弟(アレクサンドル、タデ、ルイ=アルフレッド)がパリに進出することにしたのである。この雑誌の刊行は1903年までの足掛け14年間足らずとなったが、執筆協力者の中に、アンドレ・ジィド、アポリネール、マラルメ、プルースト、シャルル・ペギーなどの錚々たる人物が名を連ね、非常に充実した内容であった。

 (←)左掲のポスターはロートレックがタデ・ナタンソン(Thadée Natanson, 1868-1951)の妻ミシアをモデルに作成したもので、この雑誌の知名度を一気に上げた。住所表示は移転後のラフィット通りになっている。

参考Link : 《百年前のフランスの出来事》~物議をかもしたミルボーの『学寮』ようやく初演 1908.12.07


2015年10月15日木曜日

散歩R( 6-1) マルティール通り Rue des Martyrs, 9e(9区サン=ジョルジュ地区)



(c) Google Map Streetview
5, rue des Martyrs, 9e

イポリット・ルバ通りから商店街の続くマルティール通りに出る。さまざまな店の様子を見て歩くのも楽しみの一つである。ときどき店の名前の中でも面白いのに気づいて勝手にうなづいてみたりする。この通りにも(←)「食いしん坊のネズミ」(La souris gourmande)(ラ・スリ・グルマンド)=チーズ屋さん、「酒神の隠れ家」(Le repaire de Bacchus)=ワイン屋さん、「味蕾(舌の味覚を感じる箇所)」(Les papilles gourmandes)=食料品店、「オーベルニュの味」(Aux saveurs d'Auvergne)=食料品店などがある。

通りの名前のマルティール(Martyrs)とは「殉教者たち」という意味のフランス語の普通名詞で、その昔ローマ帝国領だった紀元3世紀中頃に、聖ドニ、聖エルテール、聖リュスティクの3人の聖者がパリの中心からモンマルトルの丘で斬首されるためにこの道を通って行ったとされる。パリでも最も古い通りの一つである。モンマルトルの丘も語源的には、モン(山 mont)とマルトル(殉教 martre < martyre )が合わさった呼び方である。その3人の中でも聖ドニ(St.Denis)は、切られた自分の首を抱えて北の方に歩き出し、パリ郊外のサン=ドニまで至ったという伝説があるのは有名である。(CVP)



☆マルティール通り7番地 (7, rue des Martyrs, 9e)  《ブラスリー・デ・マルティール跡》
(c) Google Map Streetview  7, rue des Martyrs, 9e

上のチーズ屋の2軒隣は、今はカルフールという大手スーパーの都心型小店舗になっているが、入口が狭いわりには奥が広く長く、西側の別な通り(ノートルダム・ド・ロレット通り)に突き抜けられる。ここは19世紀の中頃に繁盛した居酒屋《ブラスリー・デ・マルティール》(Brasserie des Martyrs)の跡である。

ここでは、詩人のボードレール、作家のアルフォンス・ドーデやゴンクール兄弟、「ラ・ボエーム」の原作を書いた作家ミュルジェなどが足繁く通い、マネ(Edouard Manet, 1832-1883)やクールベ(Gustave Courbet, 1819-1877)を取り巻く若い画家たちも激論を戦わせていた。(LAI, PRR)

「19世紀風刺詩選」(Le Parnasse satyrique du 19e siècle)にもこの居酒屋を題にした詩が収められている。

La Brasserie des Martyrs      《ブラスリー・デ・マルティール》

Près Notre-Dame-des-Lorettes   ノートルダム・ド・ロレット教会そばの
Voyez-vous ce sombre café,    このつましいカフェを知ってるかい
Dans ce quartier des amourettes,    つかの間の恋の街角で
H.Murger - La vie de Bohème
Aquarelle par A.Robaudi
@Bnf Gallica

Plus fameux que les opérettes    オッフェンバックのオペレッタや
D'Offenbach et que le nafé ?     芙蓉の実よりも有名という

C'est la célèbre brasserie      これは名だたるブラスリー
De nos pléiades sans Valois    我らが無名の賢人たちの
Quelle vaste ménagerie !      何と広い小動物園なのか!
Il en vient de la Causerie      閑談小話のコーズリー紙か
Il en est venu du Gaulois.      ゴーロワ紙からやって来る
( ...... )                 ( ...... )

Emmanuel des Essarts(1839-1909)
dans "Le Parnasse satyrique du 19e siècle, recueil des vers piquants et gaillards" Tome2  @BnF Gallica





2015年10月13日火曜日

散歩R(5) イポリット・ルバ通り Rue Hippolyte Lebas, 9e(9区サン=ジョルジュ地区)


(c) Google Map Streetview
10 rue Hippolyte Lebas

 ミルトン通りの最初の四つ角を左に曲がってイポリット・ルバ通り(Rue Hippolyte Lebas)に入る。通りの名前となったイポリット・ルバ(Hippolyte Lebas, 1782-1867) は、先ほど訪れたノートルダム・ド・ロレット教会を設計した建築家である。国立美術学校の教授として建築史を教え、また芸術アカデミー創設時の建築分野の会員でもあった。


☆イポリット・ルバ通り10番地 (10, rue Hippolyte Lebas, 9e)

 ちょうどミルトン通りとの角に小学校の建物があるが、その裏口にあたる南側の壁面は、まるで古い教会堂の正面がそのまま壁に塗り込められたようになっているのが目を引く。ひょっとしたらこれがロレット教会が建てられる前にあったという昔の礼拝堂の一部かも知れない。(あるいはそう思わせるような意図で壁面を作ったのかも)







(c) Google Map Streetview
12 rue Hippolyte Lebas




☆イポリット・ルバ通り12番地 (12, rue Hippolyte Lebas, 9e)

 その隣の建物の入口も立派な馬車門の構えとなっている。ここで目を引くのは、両側の持ち送りの大きく膨らんだ渦巻模様で、ちょっと見ると鳩のような生物を思わせるデザインだが、あくまでも抽象的な組合せ模様になっている。












かたつむりの道すじ: (1)シャトーダン通り~(2)フレシエ通り~(3)ラマルティヌ通り~
(4)ミルトン通り~(5)イポリット・ルバ通り~(6)マルティール通り (c)Google Map


2015年10月11日日曜日

散歩R(4) ミルトン通り Rue Milton, 9e(9区サン=ジョルジュ地区)


(c) Google Map Streetview
1, rue Milton, 9e 

 ラマルティヌ通りの角を左折するとミルトン通りに入る。ゆるやかな登り坂の落ち着いた街並みである。1番地の建物の入口を見ると足元の傾斜がはっきりとわかる。
(c) Google Map Streetview
Rue Milton, 9e 

















 ミルトンの名前は英国の大詩人ミルトン(John Milton, 1608-1674)ということだが、直接フランスやパリに関係がない有名人名が採用されるケースにあたる。文豪ではイタリアのダンテ、スペインのセルバンテス、ロシアのトルストイなどの名前の通りはパリにあるが、ドイツのゲーテやイギリスのシェークスピアはない。

 ミルトンは17世紀の清教徒革命の時代の人物だが、その時代の混乱もあったためか、文学的な作品はほとんどなく、クロムウェルの政府の秘書官のような仕事についていた。しかし44歳で失明したため、隠棲して口述による創作に打ち込み、英国で至高の叙事詩といわれる『失楽園』(Paradise Lost)を59歳のときに完成させた。これは、アダムとイヴの楽園追放の物語だけではなく、旧約聖書の創世記にもとづいた堕天使(=悪魔)を神と対置させて描いているという。


Gustave Doré Illustrations - Digital Collections -
 University at Buffalo
(←)左掲は、19世紀の版画家ギュスターヴ・ドレ(Gustave Doré, 1832-1883) による「失楽園」の挿絵の一枚である。ドレは50年という短い人生において、天賦の才である版画を少年のときから独学で身に着け、非常に多くの新聞や雑誌の挿絵を制作し続けた。一時期ロンドンに渡り、新聞や雑誌に大都市における下層階級の民衆の生活の悲惨さを身をもって取材しながら、版画によってさらけ出すというレアリスム精神を持っていた。
同時にこの「失楽園」や「聖書」など、壮大なスケールと幻想的な深淵を目の当たりに表わす彼の表現力に多くの支持者を得て、次々と出版された。

2015年10月9日金曜日

散歩R(3) ラマルティヌ通り Rue Lamartine, 9e(9区サン=ジョルジュ地区)


(c) Google Map Streetview
Rue Lamartine
ロレット教会の向かって右手の小路を通って裏手に回ると、そこは六叉路になっていて、八百屋や肉屋、魚屋などが立ち並ぶ地元商店街で人や車の往来が多い。右から2番目の狭いラマルティヌ通りに入る。

54番地とミルトン通りとの角の辺りには現在のロレット教会の前身である小さな礼拝堂があったが、革命期に取り壊された。また、このあたりからモンマルトルの丘の傾斜が始まるので、ロバに乗って楽に登れるようにと「貸ロバ処」(la cour aux Ânes)と称する場所があった。

 この通りの名前の由来は、19世紀ロマン派の詩人で政治家だったアルフォンス・ド・ラマルティヌ(Alphonse de Prat de Lamartine, 1790-1869) による。
 
Un ange déchu (Lamartine) - portrait-charge
Crédit : Paris, Bibliothèque nationale de France (BnF)
Photo (C) BnF, Dist. RMN-Grand Palais / image BnF
ラマルティヌはブルゴーニュ地方の小貴族の家に生まれた。イエズス会士による教育を受けた後、イタリアを旅行した。王政復古のときに近衛部隊に入ったが、ナポレオンの百日天下の混乱などで除隊した。1816年10月、26歳の彼はアルプス湖畔の保養地エクス=レ=バンで若い人妻との熱烈な恋愛に陥ったことが詩人としての決定的な転機となった。しかもこの恋愛は彼女が翌年、結核で死んでしまうことで悲劇に変わった。彼は自らの感性と経験を詩作にまとめ、『瞑想詩集』(Méditations poétiques)として1820年に出版すると、たちまち華々しい成功をもたらし、ロマン派抒情詩の先駆者としての地位を確立した。1830年にはアカデミー・フランセーズに選出された。

1830年の7月革命前後から政治活動に関心を深め、穏健派の代議士となった。1848年の2月革命時には主導的な役割を果たし、外務大臣を務めた。その後、大統領選挙に立候補したが、ルイ=ナポレオン(ナポレオン三世)に完敗し、政界から遠ざかった。右掲(→)の風刺画は「ある堕天使」という題がついているが、これは彼の詩作品『ある天使の失墜』(La chute d'un ange)にかけて彼自身の政治的な失意を揶揄したものと思われる。


2015年10月7日水曜日

散歩R(2-2) フレシエ通り Rue Fléchier, 9e(9区サン=ジョルジュ地区)

☆フレシエ通り4番地 (4, rue Fléchier, 9e)
《モード週刊誌「ラ・シルフィード」の版元》
 
La Sylphide, 1839: Numa No.5
(c) BnF Gallica


 19世紀の中頃は出版文化も大きく発展した時代であった。特に把握しきれないほど数多くの新聞や雑誌が次々と創刊されては消滅あるいは買収されるということを繰り返していた。新聞(journal)と称していても週刊(hébdomadaire) のものも多い。婦女子向けの服飾や化粧とともに文学、美術、音楽など記事を盛り込んだ雑誌も少なくなく、この週刊誌「ラ・シルフィード」(La Sylphide)は1839年から1875年まで40年近く続いた。当時の印刷技術では高価だったカラー刷りの服飾画は人気があったようで、別刷りの「口絵」として挿入された。

 下掲は「ラ・シルフィード」創刊号の表紙である。版元の住所がフレシエ通り4番地となっていた。注目すべきはその錚々たる執筆陣で、表紙の下部にバルザックを筆頭にデュマ、ゴーティエ、ジラルダン夫人などが挙がっている。当時は少なくともこの建物にこうした文豪たちが頻繁に出入りしていたことを想うと感慨深い。
La Sylphide, Journal de modes, de littérature, de théâtre et de musique; 1839
(c) BnF Gallica
表紙の絵は当時絶大な人気を誇ったオペラ座のバレエ「ラ・シルフィード」(La Sylphide, 空気の妖精)の主役マリー・タリオーニ(Marie Taglioni, 1804-1884)の舞台で踊る様子を描いたもので、そのままモード雑誌の名前に流用して、女性購読者の興味を引きつけようとしたと思われる。

(なおバレエの「ラ・シルフィード」の初演は1832年であり、20世紀に入ってからショパンの作品をもとに編曲編成された「レ・シルフィード」(Les Sylphides)とはまったく別のバレエである。
作曲者はシュナイツホーファとロヴィンショルドの2通りの版がある。)













2015年10月5日月曜日

散歩R(2-1) 画家シャセリオの家 Ancienne demeure de peintre Chassériau(9区サン=ジョルジュ地区)


(c) Google Map Streetview
 2, rue Flécier, 9e
教会に向かって右隣の細い通りがフレシエ通りである。フレシエ(Valentin Esprit Fléchier, 1632-1710)は、17世紀、ルイ14世の時代の文筆家、説教家であり、王太子の読書係でもあった。パリで20年間にわたって説教者としての評判も高かった。晩年は南仏ニームの司教に任命された。


☆フレシエ通り2番地 (2, rue Fléchier, 9e)
 《画家シャセリオの家》Ancienne demeure de peintre Chassériau

 角の2番地の家はロマン派の画家シャセリオーが家族と共に住んだ所とされる。テオドール・シャセリオ(Théodore Chassériau, 1819-1856) は、カリブ海のサン=ドマング島(現在のドミニカ共和国)の生まれで、母親は入植者の娘であった。父親がフランスの植民地の行政官として中南米各地を転々とする中、3歳の時に家族と共にパリに移り住んだ。

 幼少の頃から卓越した画才を表し、11歳で古典派の大家アングルの弟子となった。師のアングルの技法では、女性の美を彫刻的な、人形のような無表情さで描くことが多いが、シャセリオは次第にドラクロワに代表されるロマン派的な表現、つまり人間の感情を露わにした顔の表情や身体の動きを描き出す手法に共鳴するようになった。

Photo (C) RMN-Grand Palais (musée du Louvre)
 / René-Gabriel Ojéda
(←)掲載の絵は彼の代表作の一つ『エステルの化粧』(La toilette d'Esther, 1841) で、弱冠22歳のときの作品である。女性の両腕を頭の上に伸ばしているポーズは、「ブラ・ルヴェ」(bras levé) と称される女性の美しさを描く構図の一つであるが、見事な完成度である。
 
 彼はこのあと異国趣味(exotisme)を求める時代の風潮に合わせて、アルジェリアを旅行したりして、ロマン派的な自由な感情表現の作品を残している。しかしながら37歳の若さで夭折した。












2015年10月3日土曜日

散歩R(1-2) シャトーダン通り Rue de Châteaudun, 9e(9区サン=ジョルジュ地区)

教会の前の比較的広い通りは、シャトーダン通りである。シャトーダン(Châteaudun)は中部ロワール地方の古くからの町だが、1870年の普仏戦争のときに、駐屯していた1300の国民軍の兵士が町民とともに1万人のプロシア軍に対して勇敢に抗戦したという事跡を記念して名づけられた。

(c)Photo Emoulu bc01b, 2013
☆ シャトーダン通り17番地 (17 rue de Châteaudun, 9e)

(c)Photo Emoulu bc01a, 2013
ちょうど教会を背にして左向かい側の建物の装飾は一見する価値がある。建物は1865年に竣工した。建築家はローランシー(Hubert-Mathurin Laurency) 。典型的な19世紀中頃のアパルトマンである。高さが2階まである広い馬車門と3階の透かし彫りの石のバルコニー、4階の美しい鉄細工模様のバルコニーの重なりが見事な調和を醸し出している。

バルコニーを支える持ち送りの両端には台座に乗った一対の女神像(cariatide) が立ち、さらに中央には支柱としてスフィンクスが並んでいる。このスフィンクスとは、エジプトのピラミッドの横のではなく、ギリシア神話の中でオイディプスが謎を解いたという小怪獣である。

幻想的な作品を多く残した画家ギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau, 1826-1898) による「オイディプスとスフィンクス」(Œdipe et le sphinx, 1864) の絵では、謎を掛けてオイディプスに迫るスフィンクスの整い過ぎた顔立ちと艶かしさに吸い込まれそうな危険を感じない訳にはいかない。(↓部分掲載)







(c)Photo Emoulu bc02a, 2013























2015年10月1日木曜日

散歩R(1-1) ノートルダム・ド・ロレット教会 Église de Notre-Dame de Lorette(9区サン=ジョルジュ地区)

 この散歩は、パリ9区のサン=ジョルジュ地区(Quartier Sait-Georges)を巡る。19世紀の後半に新興住宅街として発展し、文人や芸術家が多く住む文教地区として「新アテネ」(ヌーヴェル・アテーヌ Nouvelle Athène)とも呼ばれた。
(c)Photo Emoulu bc00a, 2013

☆ シャトーダン通り18番地の2 (18bis rue de Châteaudun, 9e)
 《ノートルダム・ド・ロレット教会  Église de Notre-Dame de Lorette 》
PA00088905  © Monuments historiques, 1992  
Classé
PA00088905

メトロ12号線の同名の駅から出ると目の前にギリシア・ローマ風の堂々とした教会が現れる。ノートルダム・ド・ロレット教会 (Église de Notre-Dame de Lorette)は、直訳すれば「ロレットの聖母教会」となるが、ロレットとはイタリア中部東岸アンコーナに近いロレート町(Loreto)のことで、カトリック教徒の巡礼地である。ここにはナザレにあった聖家族の家が天使たちによってこの地に運ばれたという伝説がある。(参考: Sanctuary of the Holy House of Loreto )

この教会は1823年から1836年にかけて建築家イポリット・ルバ(Hippolyte Lebas, 1782-1867) によって建てられた。ローマにあるサンタ・マリア・マッジョーレ大聖堂(Basilica Santa Maria Maggiore)をモデルに、正面は厳粛な古典様式で、イタリアによく見られるように屋上に3体の寓意彫像(信仰、希望、慈愛)が立っている。4本の太いコリント風装飾の円柱は威厳があり、上部の三角破風に天使たちが見守る聖母マリアと幼児イエスの浮彫が見える。

(→)内陣の装飾も、一般的なフランスの教会とは雰囲気が異質で、青を基調としたイタリア的な天井の十字模様が印象に残る。

堂内の壁面には建設当時の新古典派の画家ミシェル・マルタン・ドローリング (Michel Martin Drolling, 1779-1851)作の「律法学者たちの中に立つ若きイエス」(Jésus au milieu des docteurs, 1840) が見られる。( ↓ )