パリの街角散歩です。カタツムリのようにゆっくりと迂回しながら、そして時間と空間をさまよいながら歩き回ります。


2016年5月22日日曜日

散歩Q(1-2) ラトゥイユ親父の店跡 Ancien emplacement du Restaurant du Père Lathuille(クリシー広場~ユーロプ界隈)

☆クリシー並木通り7番地 (7, avenue de Clichy, 17e)
《 ラトゥイユ親父の店跡 》 (Ancien emplacement du Restaurant, Chez le père Lathuille)

(c) Google Map Streetview
 7, avenue de Clichy, 17e

「カフェ・ゲルボワ」の一つ手前の7番地には、「ラトゥイユ親父の店」(Chez le père Lathuille) があった。現在では7番地と9番地が一緒になって衣料品店が入った大きな建物になっている。その向かって左半分のところにもボートの櫂のような「パリの歴史案内板」が立っている。

エドゥアール・マネ(Edouard Manet, 1832-1883) はこのレストランを題名とした絵を描いたのは1879年、47歳の時で、51歳で病死する4年前のことである。(晩年の作と言うには早過ぎる。)彼らが隣の「カフェ・ゲルボワ」に頻繁に出入りしたのはこれの10年以上前の1860年代のことだったが、その後若い印象派の画家たちはピガール広場の方に会合の場所を変えて行った。1870年に勃発した普仏戦争とその敗戦による第2帝政の終焉、パリ・コミューンの混乱、第3共和政の発足などが、一つの時代の分岐点となったのである。


E. Manet - Chez le père Lathuille (1879)
Musée des Beaux-Arts, Tournai
Wikimédia commons
マネは相変わらずこの地域に住み続けており、このレストランの常連客であったに違いない。作品となった絵の場面では、ラトゥイユ親父の庭園レストラン(Restaurant-jardin)の一角で好色そうな眼付の若い男が一人の婦人を口説いている様子。背景の中庭の緑やたたずむ給仕の姿が印象的で、生き生きとした時代風俗として描かれている。まだ19世紀の後半の時代では、表通りから店の奥に入るとこうした自然が残る庭先があったことがわかる。

マネは同時代の人々の生活情景を明るい色調の中で、軽い筆致で表現することに成功したのである。



2016年5月18日水曜日

散歩Q(1-1) カフェ・ゲルボワ跡 Ancien emplacement du café Guerbois(クリシー広場~ユーロプ界隈)

今度の散歩は、クリシー広場(Place de Clichy)周辺からユーロプ地区(Quartier de l'Europe)を周遊する。クリシー広場は元々パリの街を防御する堡塁と城壁があったところで、1815年にナポレオン率いるフランス軍が連合国軍に追い詰められ、パリに進攻するロシア軍とモンセー元帥指揮下のパリ防衛軍との激しい戦闘があった場所である。その後城壁は撤去され、その跡地に広い通りが作られ、外側にあったモンマルトル(18区)やバティニョル(17区)に市街地が広がった。この散歩コースでは、印象派の実質的な指導者であった画家エドゥアール・マネに関する旧跡が数多く見られる。


(c) Google Map Streetview
 9, Avenue de Clichy, 17e
☆クリシー並木通り9番地 (9, avenue de Clichy, 17e)
《 カフェ・ゲルボワ跡 》 (Ancien emplacement du café Guerbois)

クリシー広場を中心に方々の街路の名前にクリシーとついている。北に伸びる通りは、アヴニュ(Avenue de Clichy) という。ここでは他の通りと区別するために「並木通り」と訳した。アヴニュ(英語でアヴェニュ)は文字通り並木道になっている。

9番地の入口の横に「パリの歴史」(Histoire de Paris)と書かれた史跡案内板が設置されている。これは言うまでもなく「この場所に印象派を生み出した画家たちが集まったカフェ・ゲルボワがあった。」という内容が書かれている。単純にボートをこぐ櫂のような形をしている。

*参考サイト:Panneau Histoire de Paris(仏文)
https://fr.wikipedia.org/wiki/Panneau_Histoire_de_Paris

「カフェ・ゲルボワ」(Café Guerbois)は19世紀半ばにおける画家、作家、芸術愛好家たちの寄り合いと意見交換の場であった。エドゥアール・マネ(Edouard Manet, 1832-1883)は、すでに20代でサロン(官展)入選を果たし、新進画家として注目されていたが、意欲作の『草上の昼食』(Le Déjeuner sur l'herbe)が1863年のサロンで落選し、その他多くの若手画家の作品も落とされたため、審査員の鑑識眼が問題視され、皇帝ナポレオン3世は別途「落選作展」(Salon des refusés)を開催させることにした。この頃からマネの目ざす絵画の方向性に共感する若い画家たちが集まるようになり、当時マネのアトリエからほど近いこのカフェが仲間たちとの待ち合わせの場所として使われるようになった。

E.Manet - Au café  (1869)
National Gallery of Art, Washington DC
Wikimédia Commons
店はカフェというよりは居酒屋であり、地下にあった。仲間たちは毎晩のように集まったが、特に毎週金曜日の夜には多くの顔が揃い、2つのテーブルに座って、時には激論が交わされた。常連の中にはファンタン=ラトゥール、ウィスラー、バジル、ドガ、ピサロがおり、作家のエミール・ゾラ、評論家のテオドール・デュレなども加わった。当時はまだ20代の若手画家だったモネ、ルノワール、シスレー、ギヨーマンたちも熱心にマネの話に耳を傾けた。南仏から来たセザンヌはある時、周囲で語られる話題について始めのうちは静かに聞くだけで、会話に加わろうとしなかったが、ある一言が彼の怒りを呼び覚まし、抑えていた弁舌が解き放たれ、激昂して怒鳴りまくる場面があったという。
特に、大衆の無理解、現勢力の大御所の画家たちへの敵意、権力への不服従、社交界の仕組みへの反発、サロンに受け入れられない者への冷遇などについて議論を深めて行き、やがて新しい印象派としての潮流が醸成されて行ったことは間違いない。



(c) Google Map Streetview
11, Avenue de Clichy, 17e
☆クリシー並木通り11番地 (11, avenue de Clichy, 17e)

「カフェ・ゲルボワ」の一軒隣の11番地には、「エヌカン」(Hennequin) という画材店があった。現在では1階がスポーツ用品店に変わってしまったが、19世紀には1~2階とも画材店で、2階の壁面に当時のままの装飾が残されている。「1830年創業」の文字とXに交差した絵筆とパレットがモザイク模様の壁面とともに見られる。


「カフェ・ゲルボワ」に頻繁に出入りしたマネを始め、印象派の若い画家たちが便利ついでに絵具や画材を買い求めたことで知られる。
1870年以降に、画家たちの集う場所がブランシュ広場の「ヌーヴェル・アテーヌ」(Nouvelle Athènes)に移ってからは客足が細くなったという。






かたつむりの道すじ:①クリシー並木通り~②クリシー広場・クリシー大通り~③クリシー通り~
④ブリュッセル通り~⑤アドルフ・マックス広場~⑥ドゥエ通り~⑦ブランシュ通り~⑧カレ通り~
⑨バリュ通り~⑩ヴァンティミル通り~⑪クリシー通り(再)
 (c) Google Map