パリの街角散歩です。カタツムリのようにゆっくりと迂回しながら、そして時間と空間をさまよいながら歩き回ります。


2015年12月15日火曜日

9区サン=ジョルジュ地区(12-1)大女優マルス嬢の館


(c) Google Streetview
Rue de la Tour des Dames, 9e
ラ・ロシュフコー通り12番地の向い側に一本の通りがТ字路として出ている。これがラ・トゥール・デ・ダム通りである。特にこの通りの南側は昔からの貴族の邸宅と思われる低層の屋敷が続いて落ち着いた佇まいを見せている。「ラ・トゥール・デ・ダム」(La tour des dames)の意味は直訳で「婦人たちの塔」となるが、15世紀の頃から野原の小道だったところにモンマルトルの尼僧院の所有する風車小屋があって、それを「塔」と呼んだことに由来するようだ。風車小屋は1822年に取り壊されて、その頃からこの地域の宅地開発が行われた。19世紀前半にはここに多くの芸術家や文人が住んだので「ヌーヴェル・アテーヌ」(Nouvelle Athène)と呼ばれるようになった。






☆ラ・トゥール・デ・ダム通り1番地 (1, rue de la Tour des Dames, 9e)  
☆ラ・ロシュフコー通り7番地 (7, rue de La Rochefoucauld, 9e)
《大女優マルス嬢の家》
PA00088916 © Monuments historiques, 1992 


« Hôtel de Mademoiselle Mars » par MOSSOT
— Travail personnel. Sous licence CC BY 3.0
via Wikimedia Commons

通りの角にある建物で、歴史的建造物として『マルス嬢の館』(Hôtel de Mademoiselle Mars)と呼ばれている。

この建物は当初1780年頃に建てられ、ブーゲンヴィル館と呼ばれたが、ナポレオン時代のあと、1820年にグーヴィオン=サンシール元帥(Maréchal Gouvion-Saint-Cyr, 1764-1830)の住まいとなった。彼は大革命時代からナポレオン時代にかけて活躍した軍人で、ナポレオンに必ずしも忠誠を示したわけでなかったために、王政復古後も侯爵としての地位を保つことができた。

1824年に当時大女優として確固たる人気を誇っていたマルス嬢(Mademoiselle Mars, 1779-1847)がこの館を買い取り、その住まいとした。彼女の本名は、アンヌ=フランソワーズ・ブーテ(Anne-Françoise Boutet)だが、舞台俳優の両親を持ち、1792年に14歳で初舞台を踏んだ。マルスの名前は母親の芸名から用いた。以降、彼女はモリエールやマリヴォーの戯曲で、無邪気な娘役から恋する女役、さらには男を虜にする魅力たっぷりの熟女役などを得意とし、1799年には20歳の若さでコメディ・フランセーズの正団員となった。パリの観衆は彼女の魅力と知性と女優としての演技を賞賛した。

Capet, Marie-Gabrielle : Portrait présumé de Melle Mars
Paris, musée du Louvre, D.A.G.
Crédit Photo (C) Musée du Louvre,
Dist. RMN-Grand Palais / Martine Beck-Coppola
ナポレオンの庇護を受けたために王政復古の時代には彼女の地位を貶めようとする動きがあった。しかしルイ18世は彼女の才能を評価して年金の支給を決定した。

彼女は多くの貴金属の装身具や宝石を所有し、舞台で演技するときはそれらの一部を必ず身につけて出ていた。
1814年のナポレオンの退位と連合軍のパリ入城の時には、植物採集用の胴乱のようなブリキの容器を40個作らせて、その中に宝石と貴金属を入れ、家の中のわからない場所に隠したという。

彼女が住んだこの館でも1827年10月19日に、すべての宝石と装身具が盗難にあうという事件が起きた。その日彼女は仲間の俳優のところに夕食に出かけ、小間使いと御者も別の用事で不在だったところで、先に戻った小間使いが盗難の発見者となった。その晩、この通りをうろつく不審な男の姿が目撃された。捜査の結果、ジュネーヴで宝石商に盗品を持ち込んだ男が逮捕され、その男の妻が小間使いだったことが判明した。(CVP)

上掲(↑)は、マリー=ガブリエル・カペー(Marie-Gabrielle Capet, 1761-1818) という女流画家によるマルス嬢と推定される肖像画である。