パリの街角散歩です。カタツムリのようにゆっくりと迂回しながら、そして時間と空間をさまよいながら歩き回ります。


2015年12月17日木曜日

9区サン=ジョルジュ地区(12-2)花形女優デュシェノワ嬢の館


☆トゥール・デ・ダム通り3番地 3 rue de la Tour des Dames, 9e
《花形女優デュシェノワ嬢の館》
PA00088915  © Monuments historiques, 1992 

この建物は元々パリ16区のトロカデロ付近にあったヴァランティノワ城館(Hôtel de Valentinois)を解体する時に、その一部をこの場所に移築したもので、大革命以前の郊外の貴族の城館を都会の真中で目にする意外さとともに、半円形の建物の美しい形が印象深い歴史的建造物である。「デュシェノワ嬢の館」(Hôtel de Mademoiselle Duchesnois)と呼ばれている。 
(c)Phot3 Emoulu bc25f, 2003
デュシェノワ嬢(Mademoiselle Duchesnois, 1777-1835)は、本名をカトリーヌ=ジョゼフィーヌ・ラファン(Catherine-Joséphine Rafin)といい、フランス北部の町に生まれた。初めは小間使いやお針子として働いていたが、地方の素人劇団に加わることで演劇への情熱に目覚め、パリに上京して演劇の勉強をした。1802年に25歳でラシーヌの悲劇「フェードル」で主役を演じて華々しい成功を収めた。彼女の評価は急速に高まり、名優タルマ(François-Joseph Talma, 1763-1826)の相手役をつとめ、悲劇のヒロインとしての完璧な才能を発揮することになった。
Joséphine Duchesnois
document iconographique
@BnF Gallica

彼女は1804年にコメディ・フランセーズの正団員となったが、同時期の悲劇女優として人気のあったジョルジュ嬢(Mademoiselle George, 1787-1867)とはライバル同士となり、激しい競合を演じた。ジョルジュ嬢は一時期ナポレオンの愛人であり、皇帝となった後も彼女を支援したのに対し、デュシェノワ嬢は名前が同じだった皇妃ジョゼフィーヌの庇護を受けた。

彼女はこの建物を1822年に購入し、45歳から54歳までの約12年間暮らし、サロンを開いた。喜劇女優のマルス嬢は2年後に隣の館に住むようになったが、分野が異なるので張り合うわけではなかったようだ。むしろ、この界隈がタルマを含めて最高の演劇人が住まいとすることで「新アテネ地区」(Nouvelle Athène)の評価は一層高まった。

彼女は1833年に55歳で舞台から引退し、その2年後57歳で死去した。(CVP)