☆ラ・ロシュフコー通り19番地 (19, rue de La Rochefoucauld, 9e)
PA00088973 © Monuments historiques, 1992
« Immeuble 19, rue de La Rochefoucauld, 9e» par MOSSOT — Travail personnel. Sous licence CC BY 3.0 via Wikimedia Commons |
大きな馬車門と上階のバルコニーに特徴がある。特に装飾的な建物ではないが、格調が高い歴史的建造物。1753年の建造とも言われている。ナポレオン軍の士官や参謀として遠征に加わり、その後郵政長官を務め、国務院に入った政府高官ラヴァレット伯爵アントワーヌ=マリー・シャマン(Antoine-Marie Chamans, comte de Lavalette, 1769-1830)の居館であった。
彼の妻は、エミリー=ルイーズ・ド・ボーアルネ(Emilie-Louise de Beauharnais, 1781-1855)といい、皇妃ジョゼフィーヌの姪にあたり、1800年以降はその侍女となった。有名なダヴィドの「ナポレオンの戴冠式」の絵には、ひざまずく皇妃ジョゼフィーヌの背後で衣装の裾を支える2人の女官(ラ・ロシュフコー夫人とラヴァレット夫人)の姿に描かれている。下掲(↓)部分。
リュクサンブール美術館所蔵のダヴィドのデッサンにはこの大作の下絵がある。
(L’impératrice Joséphine à genoux, avec Mme de La Rochefoucauld et Mme de Lavalette)
この夫妻には娘が生まれたが、皇妃が代母となってジョゼフィーヌと名付けられた。
この夫妻には驚異的な脱獄事件の逸話がある。
Les Evasions célèbres - Le Comte de Lavalette_ Hachette 1907@BnF-Ĝallica |
1815年、ナポレオンのエルバ島脱出と百日天下のあと、ラヴァレット伯爵はその計画に加担した罪で捕えられ、死刑の宣告を受けた。伯爵夫人は様々なつてを頼って助命嘆願をしたが、受け入れられず、刑の執行の前夜を迎えた。
夫人は娘のジョゼフィーヌを伴い、夫と最後の晩餐をするからとコンシュルジュリー牢獄を訪ねた。そこで夫人は自分の服を脱いで夫に着せ、夫の服を着て牢獄に残ったのである。伯爵は妻の服を着たまま娘に付き添われ、担ぎ駕に乗って首尾よく脱出に成功した。右掲(→)は、西洋史における有名な脱出事件の数々を集めた書物の挿絵で、その説明に「妻の服を着たラヴァレット氏は駕篭に乗るまでに守備隊の兵士たちの前を通らなければならなかった。」とある。
牢獄に残った伯爵夫人は1カ月後に釈放された。伯爵は英仏の仲間の助けにより、ドイツのバイエルン王国へ亡命したが、1822年恩赦となって帰国した。自身の「回想録」(Mémoires)にこの事件の詳細が語られている。また夫人はその後、精神に変調をきたし、残りの40年間を家に閉じこもって過ごしたと考えられている。
Portrait de madame de Forget Vernet Horace (1789-1863) Blois, château, musée des Beaux-Arts Crédit: Photo (C) RMN-Grand Palais / René-Gabriel Ojéda |
1836年に夫が息子の一人と共に水死(自殺?)するという事件に見舞われ、フォルジェ男爵夫人は34歳で残った2人の息子とともに未亡人となった。
その少し前から彼女は画家のドラクロワ(Eugène Delacroix, 1798-1863)と知り合うようになった。ドラクロワが4歳年上の遠縁の従兄妹同士ということもあって親密な関係となり、画家は彼女の家での夕食に何度も足を運んだ。ちょうどドラクロワが目と鼻の先のノートルダム・ド・ロレット通りにアトリエを構えていた時期に、画家の日記帳にはたびたび「Jで夕食」と記されている。彼女との往復書簡には愛情表現に満ちたものが多く、ドラクロワが世を去る1863年まで生涯を通じて親交が続いた。(CVP, MRP)
ドラクロワは、なぜか彼女の顔の素描しか残していない。左掲(←)の肖像画は、やはり近所に住んでいた有名な画家オラース・ヴェルネ(Horace Vernet, 1789-1863)によって描かれたものである。