パリの街角散歩です。カタツムリのようにゆっくりと迂回しながら、そして時間と空間をさまよいながら歩き回ります。


2016年1月1日金曜日

散歩R(14-1) ショパンとサンドの住居(スクヮル・ドルレアン)Demeure de Chopin et de George Sand au square d'Orléans(9区サン=ジョルジュ地区)

☆テブー通り80番地 (80, rue Taitbout, 9e)  
《スクヮル・ドルレアン: ショパンとサンドの住居》
(Demeure de Chopin et de George Sand au square d'Orléans)
PA00089000 © Monuments historiques, 1992


(c) Google Map Streetview
 80, rue Taitbout, 9e

ポーランド生まれのピアニストで作曲家のショパン(Frédéric Chopin, 1810-1849)は、39年の短い生涯の大半をパリで過ごした。ショパンのパリでの住居は18年間で10カ所余りを数えるので、平均2年弱で転居していたことになる。

テブー通り80番地は、「スクヮル・ドルレアン」(Square d'Orléans)と呼ばれる集合住宅地への出入り口となっており、1830年代に中庭を中心に9棟の擬古典様式の建物が建てられ、瀟洒な一角となっていた。女流作家のジョルジュ・サンド(George Sand, 1804-1876)が5番地の2階を1842年から1847年まで借りた。ショパンも9番地の1階を借りた。この一角には他にも多くの芸術家たちが住んでいて、当時の空想社会主義者フーリエ(Charles Fourrier, 1772-1837)の思想を反映した「芸術分野の生活共同体」(Phalanstère d'art)を意識していたと思われる。

「スクヮル」(Square)は、英米では「スクェア」(四角形の広場、例えばニューヨークの「タイムズ・スクェア」)のことで、パリでは外来語として英国風を気取った住宅地の名称にまれに使われている。こうしたこぢんまりとした住宅地には通常フランス語の「シテ」(Cité)が用いられる。

Vue du square d'Orléans, depuis l'appartement de Chopin
 Photo par Demézy; @BnF Gallica
(←)左掲は、ショパンの住んだアパルトマンから見た敷地で、閑静なたたずまいは今も変わらない。この時期はショパンとサンドの愛情生活の後半期にあたる。ショパンの健康状態は思わしくないままだが、作曲における絶頂期を迎えていた。32歳から36歳までの毎年、夏から秋にかけての約半年はサンドの郷里ノアン(Nohant)の館で過ごし、冬から春にかけてはパリでの生活だった。

Frédéric Chopin / d'après un dessin de
Franz Xaver Winterhalter (1847)
BnF, département Musique, Est.Chopin011






1844年、姉のルドヴィカ夫妻がポーランドから訪ねて来た機会に、ショパンはしばらく滞っていたピアノ・ソナタ第3番を完成させたほか、その前後にもマズルカやポロネーズ、子守歌、舟歌などを作曲した。下記にYoutubeの参考リンクを挙げるが、ショパンは故郷ポーランドから遠く離れた土地で、しかも長い年月が経過しているのにもかかわらず、民族的な舞曲のマズルカ、ポロネーズを何曲も生み出し続けられたことは驚異としか言いようがない。これもノアンの豊かな自然と素朴な農民の生活を肌で感じることができた環境の賜物ではなかったかと思う。

 しかしこの生活も1846年にサンドの子供たちをめぐるいざこざから端を発して二人の関係の終焉を迎え、それぞれがこの場所から出て行くことになる。

*参考Youtube
ショパン:ピアノ・ソナタ第3番ロ短調作品58第1楽章
Chopin : Piano Sonata No.3 Op.58 h-moll 1st movement (Yundi Li)
https://www.youtube.com/watch?v=9EepqjsizD8

ショパン:マズルカ嬰ヘ短調作品59の3(ホロヴィッツ)
Chopin : Mazurka in f sharp minor Op.59 No.3 (Horowitz)
https://www.youtube.com/watch?v=fxp3IQ6pxYs


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