パリの街角散歩です。カタツムリのようにゆっくりと迂回しながら、そして時間と空間をさまよいながら歩き回ります。


2015年10月9日金曜日

散歩R(3) ラマルティヌ通り Rue Lamartine, 9e(9区サン=ジョルジュ地区)


(c) Google Map Streetview
Rue Lamartine
ロレット教会の向かって右手の小路を通って裏手に回ると、そこは六叉路になっていて、八百屋や肉屋、魚屋などが立ち並ぶ地元商店街で人や車の往来が多い。右から2番目の狭いラマルティヌ通りに入る。

54番地とミルトン通りとの角の辺りには現在のロレット教会の前身である小さな礼拝堂があったが、革命期に取り壊された。また、このあたりからモンマルトルの丘の傾斜が始まるので、ロバに乗って楽に登れるようにと「貸ロバ処」(la cour aux Ânes)と称する場所があった。

 この通りの名前の由来は、19世紀ロマン派の詩人で政治家だったアルフォンス・ド・ラマルティヌ(Alphonse de Prat de Lamartine, 1790-1869) による。
 
Un ange déchu (Lamartine) - portrait-charge
Crédit : Paris, Bibliothèque nationale de France (BnF)
Photo (C) BnF, Dist. RMN-Grand Palais / image BnF
ラマルティヌはブルゴーニュ地方の小貴族の家に生まれた。イエズス会士による教育を受けた後、イタリアを旅行した。王政復古のときに近衛部隊に入ったが、ナポレオンの百日天下の混乱などで除隊した。1816年10月、26歳の彼はアルプス湖畔の保養地エクス=レ=バンで若い人妻との熱烈な恋愛に陥ったことが詩人としての決定的な転機となった。しかもこの恋愛は彼女が翌年、結核で死んでしまうことで悲劇に変わった。彼は自らの感性と経験を詩作にまとめ、『瞑想詩集』(Méditations poétiques)として1820年に出版すると、たちまち華々しい成功をもたらし、ロマン派抒情詩の先駆者としての地位を確立した。1830年にはアカデミー・フランセーズに選出された。

1830年の7月革命前後から政治活動に関心を深め、穏健派の代議士となった。1848年の2月革命時には主導的な役割を果たし、外務大臣を務めた。その後、大統領選挙に立候補したが、ルイ=ナポレオン(ナポレオン三世)に完敗し、政界から遠ざかった。右掲(→)の風刺画は「ある堕天使」という題がついているが、これは彼の詩作品『ある天使の失墜』(La chute d'un ange)にかけて彼自身の政治的な失意を揶揄したものと思われる。