パリの街角散歩です。カタツムリのようにゆっくりと迂回しながら、そして時間と空間をさまよいながら歩き回ります。


2016年3月1日火曜日

散歩R(21-1) ゴッホの最後のパリ滞在先:テオの家 Demeure de Théo van Gogh(9区サン=ジョルジュ地区)

シャプタル通りから五叉路を右折してピガール通りの坂を下って行く。


☆ジャン=バティスト・ピガール通り43番地 (43, rue Jean-Baptiste-Pigalle, 9e)
《ゴッホの最後のパリ滞在先:テオの家 》(Demeure de Théo van Gogh)

Vue de Cité Pigalle
(c)Photo Emoulu bc23, 2003
43番地は「シテ・ピガール」(Cité Pigalle)と呼ばれる袋小路になっている。1890年5月16日ゴッホは南仏サン=レミを列車で発ち、翌朝パリのリヨン駅に着いた。その前の5月4日付の弟テオ宛の手紙で、パリに戻るにあたって列車で付き添いしようというテオの申し出を断って、駅への出迎えだけを頼んでいる。テオは結婚しており、1月末には子供が生まれていた。テオの家はシテ・ピガールの8番地(→)右掲写真の右手奥の4階で、ゴッホはこの家に3日間泊った。

今回の転地は、パリから北西36kmの川沿いの田舎町オーヴェール=シュル=オワズ(Auvers-sur-Oise)に住む医師のガシェ博士のそばで治療を受けながら絵を描くということだった。5月20日には現地に向かい、医師と顔を合わせた。
オーヴェールでの生活は順調のように思えた。テオ一家も一度遊びに訪れ、ゴッホも7月6日にパリに出向き、このテオの家でロートレックなどと会った。ちょうどその頃、テオがグーピル商会を辞めて、友人と新たに画廊を立ち上げようかと議論していた時で、結局は思いとどまったのだが、ゴッホはその場にいて自分が追い詰められたような気持に陥ったという。

Vincent van Gogh : Chaumes de Cordeville à Auvers-sur-Oise
Crédit Photo (C) Musée d'Orsay, Dist. RMN-Grand Palais
/ Patrice Schmidt
7月27日にゴッホはオーヴェールの麦畑の中で銃で自殺をはかった。孤独にさいなまれた結果の狂気の発作であり、29日に死去した。わずか2カ月間の生活だった。

弟のテオは驚くべき愛情をもって常に兄を支えてきたが、その兄の死によって強い衝撃を受け、医師の診断で入院となった。彼もまた回復不能な心の空白に陥ったのだ。生地のオランダに帰る他に手段はなく、ユトレヒトにある病院に入ったが、兄の死から半年後の1891年1月25日に死去した。二人は生前のように固く結ばれた心の絆でオーヴェールの墓地に並んで埋葬されている。(LAI)



(c)Photo Emoulu bc22a, 2003

「この家にテオ・ファン・ゴッホが暮らし、その兄のフィンセント・ファン・ゴッホはその死の前の数カ月のうちにここに滞在した。」(↑)これが上掲の碑銘板(plaque)の内容であるが、この碑銘板の存在に言及しているサイトは現在皆無である。散歩者は偶然、ある時期にここを通りかかって写真に収めたのだが、その後、何らかの理由で撤去されたかもしれない。(このことについて何かご存知のかたはコメントでお知らせください。)


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