パリの街角散歩です。カタツムリのようにゆっくりと迂回しながら、そして時間と空間をさまよいながら歩き回ります。


2016年3月22日火曜日

散歩R(23-3) 画家モネの滞留先 Pied-à-terre à Paris de Monet proche de la gare Saint-Lazare(9区サン=ジョルジュ地区)


(c) Google Map Streetview
 17, rue Moncey, 9e
☆モンセー通り17番地 (17, rue Moncey, 9e)
《画家モネの滞留先 》(Pied-à-terre à Paris de Monet)

1870年6月、29歳のモネ(Claude Monet, 1840-1926)はカミーユと正式に結婚する。しかしその翌月に普仏戦争が勃発し、敗戦の混乱を避けてロンドンに渡る。その間、父親及び世話になった伯母のルカードル夫人が相次いで亡くなる。友人の画家バジル(Jean-Frédéric Bazille, 1841-1870)も戦死した。ロンドンではドービニー(Charles-François Daubigny, 1817-1878)の紹介で画商のデュラン=リュエルを知ることができた。

1871年パリ=コミューンの混乱後、モネは帰国し、パリ西郊のアルジャントゥィユ
(Argenteuil)の一軒家に住んでセーヌ河畔での制作に励む。

1873年に美術愛好家で絵も描くカイユボット(Gustave Caillebotte, 1848-1894)と知り合いになり、彼の家族の屋敷があるパリ南東郊外イェール川のほとりで制作に没頭した。カイユボットらの支援によってサロンに認められない若い画家たち(つまり印象派)による第1回展覧会を翌1874年に開催する。

Claude Monet : Le Pont d'Europe, Gare Saint-Lazare (1877)
Paris, Musée Marmottan
1877年1月にカイユボットの名義で借りたモンセー通り17番地の1階の部屋をモネのために使わせてもらうことになり、モネはそこに滞在して前年から描き始めていたサン=ラザール駅構内と周辺のユーロプ橋の風景の連作に集中することになった。発展する都市の変貌と鉄道網の発達による文明の活気とがモネの制作意欲を掻き立てたのだと思われる。すでにモネはアルジャントゥィユ時代に鉄橋を走る列車を何点か描いていた。
サン=ラザール駅を中心とする連作は全部で12点を数えるが、そのうち8点はその年4月からの第3回印象派展に出品されたというのだから、モネとしてはごく短期間にこれだけの作品を精力的に描き上げたものである。

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Demeure de jeune peintre Claude Monet
☆ジャン=バティスト・ピガール通り18番地 (18, rue Jean-Baptiste-Pigalle, 9e)
http://promescargot.blogspot.jp/2016/03/21-5-demeure-de-jeune-peintre-claude.html


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