パリの街角散歩です。カタツムリのようにゆっくりと迂回しながら、そして時間と空間をさまよいながら歩き回ります。


2016年3月19日土曜日

散歩R(23-2) モンセー通り Rue Moncey, 9e(9区サン=ジョルジュ地区)

モンセー通り (Rue Moncey)の名前は、フランス革命期からナポレオン時代にかけての軍人ボン・アドリアン・ジャノ・ド・モンセー(Bon Adrien Jeannot de Moncey, 1754-1842)にちなんでいる。彼はスイス国境に近いモンセー出身で、フランス革命時に国防軍に加わり、1804年に50歳で元帥、1808年にコネッリアーノ公爵(Duc de Conegliano)、1809年にフランドル方面軍の司令官となった。特にモンセーの名前が記憶されたのは、1814年のナポレオン退位直前のパリ攻防戦である。パリ防衛軍の司令官だった彼はクリシー城門でロシア軍を迎え撃って奮戦した。王政復古後は恩赦を受け、貴族院議員となった。(DNR)


Carte postale ancienne sans mention d'éditeur :
Marseille - La Cannebière
@Wikimédia commons
☆モンセー通り3番地 (3, rue Moncey, 9e)

間口の広い建物である。窓の上部にCGFTの4つのボタンのような刻銘装飾が見える。ここには1875年12月に設立された《フランス路面電車総合会社》(Compagnie générale française de tramways)の本社が1953年まであった。路面電車はパリ市内では早々に地下鉄に取って代わられたが、フランス各地の中都市では第2次大戦後まで運行が続けられた。この会社が営業権を支配したのはルアーヴル、マルセイユ(→)、ナンシー、オルレアンで総距離数34万kmを超えた。

(c) Google Map Streetview
 3, rue Moncey, 9e
またこの建物は、第2次大戦のドイツ軍のパリ占領期間中にキャバレー《ル・シェエラザード》 (Cabaret Le Shéhérazade)として使用され、ナチの将校たちが通いつめた場所であった。(PRR)



☆モンセー通り4番地 (4, rue Moncey, 9e)

向い側の4番地の建物には、3階のバルコニーを支える持送りの装飾が肉厚の粘土細工を思わせる花飾りが見えて、やや粗野な趣になっている。

(c) Google Map Streetview
 4, rue Moncey, 9e

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