パリの街角散歩です。カタツムリのようにゆっくりと迂回しながら、そして時間と空間をさまよいながら歩き回ります。


2016年3月14日月曜日

散歩R(22-1) テアトル・ド・パリ(パリ劇場)Théâtre de Paris(9区サン=ジョルジュ地区)


☆ブランシュ通り15番地 (15, rue Blanche, 9e)
《テアトル・ド・パリ(パリ劇場)》 (Théâtre de Paris)
PA00089005 © Monuments historiques, 1992

この地域一帯は19世紀中頃まで「ティヴォリ」(Tivoli)と呼ばれる野外遊戯場が設けられて、屋外でのダンスホール、仮面・仮装舞踏会場、あるいはローラースケート場などの人々の娯楽の場であった。
Théâtre de Paris, 15 rue Blanche, Paris 9
Wikimedia Commons / Mu
1891年に《新劇場》(ヌーヴォ・テアトル Nouveau-Théâtre)という名前で劇場が建てられ、俳優兼演出家のルニェ=ポー(Lugné-Poe, 1869-1940)が支配人として、北欧の劇作家イプセンやストリンドベリの戯曲を積極的に取り上げてフランスへの紹介に努めた。

1899年10月28日にはこの劇場でワーグナー(Richard Wagner, 1813-1883)の楽劇『トリスタンとイゾルデ』(Tristan et Yseult)の全曲がフランスで初めて上演された。
指揮はラムルー管弦楽団を創設したシャルル・ラムルー(Charles Lamoureux, 1834-1899)だった。
Pierre Bonnard : Le Concert Lamoureux
(vers 1895)
Toulouse, Fondation Bemberg
Crédit Photo (C) RMN-Grand Palais
/ Mathieu Rabeau
Droits d'auteur: (C) ADAGP


彼はかつてパドルー管弦楽団のヴァイオリン奏者だったが、人々にクラシック音楽の感動を与え続けるには自前のオーケストラが欠かせないと決断し、ラムルー管弦楽団(Orchestre Lamoureux)の母体となる《新コンサート協会》(Société des Nouveaux Concerts)を1881年に設立し、その指揮者として定期的なコンサートを開いた。彼はワーグナーの音楽に心酔しており、コンサートの曲目にフランスの作曲家の曲と共にワーグナーやブラームス、ベートーヴェンなどの紹介に努めた。しかし当時のフランスでは、普仏戦争の敗戦後の時期で反独感情の高まりがあり、1887年の楽劇『ローエングリン』(Lohengrin)の演奏会形式での上演にあたっては、上演反対のデモによる混乱で危うく中止となる瀬戸際だった。しかしラムルーの熱意は聴衆の支持を受け、予定通りのフランス初の公演が実現したのだった。

ラムルーは持病のため1897年に指揮者の座を女婿のシュヴィヤール(Camille Chevillard, 1859-1923)に譲っていたが、1899年にオペラ歌手たちからの要請で『トリスタン』の全曲初演に関わり、(歌唱はフランス語版ではあったが)成功理に終わった。彼はその2カ月後の12月21日に死去した。65歳だった。

(→)右掲はピエール・ボナール(Pierre Bonnard, 1867-1947)作の『コンセール・ラムルー』(Le Concert Lamoureux)演奏会風景である。

Une fête offerte à Mme Réjane, costume de 'Sylvie'
à New York par M. James Hyde
Document iconographique
@BnF Gallica



20世紀に入って1906年に、当時サラ・ベルナールに匹敵する人気を誇っていた女優レジャーヌがこの劇場を買収して《レジャーヌ劇場》(Théâtre Réjane)と改名して興行した。

レジャーヌは、本名ガブリエル=シャルロット・レジュ(Gabrielle-Charlotte Réju, dite Réjane, 1856-1920)といい、パリ生まれの女優で当初は喜劇女優として当り役のサルドゥ作「無遠慮夫人」(Madame Sans-Gêne, 1893)などで人気を博した。その後、アントワーヌの自由劇場の影響を受け、自然主義的な劇作品「ジェルミニー・ラセルトゥ」(ゴンクール)、「パリの女」(ベック)、「人形の家」(イプセン)などに取り組んだ。1895年以降、長期にわたる米国公演には「無遠慮夫人」を引っ提げて行き、絶大な評価を得て彼女は国際的な名声をかち得た。

(c) Google Map Streetview
 15, rue Blanche, 9e

レジャーヌが引退した1919年以降に《テアトル・ド・パリ(パリ劇場)》 (Théâtre de Paris)となり、支配人や経営者が代りながらも現在に至っている。この劇場には約300席の小劇場が併設されたが、最近その小劇場の名前がレジャーヌを記念する《サル・レジャーヌ》(Salle Réjane)に変えられた。

◇参考Link : 100年前のフランスの出来事
(1)芸術家のラントレ(4)演劇界 (1906.09)
http://france100.exblog.jp/3478551/
(劇団の花形俳優が座長のような形で劇場の支配人をしたり、劇場施設を買い取って自分の所有物にしてしまうことは、19世紀末の演劇界に多く見られたようだ)

(2)レジャーヌ劇場のこけら落とし (1906.12.15)
http://france100.exblog.jp/4076262


かたつむりの道すじ:㉒ブランシュ通り~㉓モンセー通り~㉔クリシー通り~㉕リエージュ通り~
㉖アムステルダム通り~㉗ミラン通り~㉔クリシー通り(再)~㉘アテーヌ通り (c) Google Map