《画家クロード・モネ青年時代の住居》(Demeure de jeune peintre Claude Monet)
(c) Google Map Streetview 18, rue Jean-Baptiste-Pigalle, 9e |
1859年4月に18歳の青年クロード・モネ(Claude Monet, 1840-1926)は、ノルマンディから画家になるためにパリにやって来た。地元のル・アーヴルでモネは高校生でありながら、風刺画・戯画(caricatures)を描いて評判になり、相当な収入を得ていた。美術商の店で画家のブーダン(Eugène Boudin, 1824-1898)を紹介され、彼と一緒に戸外での風景画の制作を始めた。その少し前にモネは母親を亡くし、伯母のルカードル夫人(Mme Lecadre)の世話になっていたが、彼女は美術愛好家で、自分も絵を描いており、若いモネの才能を見抜いて、絵画の道に進むよう励ましたのだった。
モネはピガール通り18番地に身を落ち着け、サロン(官展)に通って、ドービニー(Charles-François Daubigny, 1817-1878)やコロー(Jean-Baptiste Camille Corot, 1796-1875)の風景画に感銘を受けた。またブーダンに紹介されたトロワイヨン(Constant Troyon, 1810-1865)を訪ね、忠告に従ってシュイス画塾(Académie Suisse)に入ることにした。彼はそこで後に印象派の仲間となるピサロ(Camille Pissarro, 1830-1903)とギヨーマン(Armand Guillaumin, 1841-1927)と出会った。
また近くにあった「ブラスリ・デ・マルティール」(Brassserie des Martyrs)にたむろする若い芸術家たちとの交友を深め、特に写実主義を提唱するクールベ(Gustave Courbet, 1819-1877)を知り、その取り巻きに加わった。
Claude Monet : Cour de ferme en Normandie (1863) Paris, musée d'Orsay Crédit Photo (C) RMN-Grand Palais (musée d'Orsay) / René-Gabriel Ojéda |
彼は一度兵役でパリを離れたが、1862年に再び戻り、今度はグレール画塾(Atelier de Glayres)に入った。そこではシスレー(Alfred Sisley, 1839-1899)、ルノワール(Auguste Renoir, 1841-1919)、バジル(Jean-Frédéric Bazille, 1841-1870)に出会った。特にバジルとは親友となった。
(←)左掲はこの時期に描いた『ノルマンディの農家の中庭』(1863)である。まだ印象派的な描き方は現れていないが、バルビゾン派を継承する明るさがある。
モネは24歳の1865年にサロンに初入選となり、翌1866年にも妻カミーユをモデルにした『緑衣の女』を出展して評判を得た。この時のサロンのカタログには、モネの住所がピガール通り1番地
(1, rue Jean-Baptiste-Pigalle, 9e)と記載されている。このピガール通り一帯は、モネの青年期の活動の舞台だったと言える。(LAI)
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9区サン=ジョルジュ地区( 6-1 )マルティール通り Rue des Martyrs, 9e
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《ブラスリー・デ・マルティール跡》
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