パリの街角散歩です。カタツムリのようにゆっくりと迂回しながら、そして時間と空間をさまよいながら歩き回ります。


2016年2月17日水曜日

散歩R(20-1) ニナのサロン 1er Salon artistique et littéraire de Nina de Callias(9区サン=ジョルジュ地区)

☆エネ通り13番地 (13, rue Henner, 9e) 
☆シャプタル通り17番地 (17, rue Chaptal, 9e)

(c) Google Map Streetview
 13, rue Henner, 9e
《ニナのサロン》(Salon artistique et littéraire de Nina de Callias)

エネ通りに戻って少し進むとシャプタル通りにぶつかる。左手の角の居館の中庭にエネ通りの13番地から出入りできる。なかなか立派なお屋敷の庭である。

第2帝政の末期、ニナ・ド・カリアス(Nina de Callias, 1843-1884)という女性がこの場所に文学・芸術サロンを盛大に開いていた。リヨンの裕福な弁護士の娘として生まれ、1864年、21歳のときに代表的な日刊紙「フィガロ」のコラム記者のエクトル・ド・カリアス伯爵(Le comte Hector de Callias)と結婚した。ニナはすでに毎年5万フランの金利を受け取れる財産を持っていた。当時の1フランを800円と類推しても年収4千万円となる。

結婚する直前までは、若気の至りからか「私はエクトルにすっかりのぼせてしまったの。」(Je suis toquée complétement d'Hector.)と友人に語っていたのだが、まもなく二人の性格と趣味の違いが明らかとなり、結婚生活は破綻した。伯爵は気ままな性格で、女漁りで飲んだくれで、その上、音楽が嫌いだった。一方のニナは有名なピアノ教師について学び、秀れたピアノ奏者でもあった。ピアノの小品も作曲したが、心酔するワーグナーの影響を受けて(「ワグネリゼ」wagnerisé されて)いた。
Nina de Villard-Callias au piano,
pastel de Charles Cros

彼女はまた詩作も行い、そのいくつかは1869年の『高踏派詩選』第2集に所収となった。「私のところに来るのに盛装は必要ないわ。詩の一篇だけで十分。」とニナは言明し、実際シャプタル通り17番地のサロンには普段着の客たちがくつろいでいた。後日書かれた多くの回想録には、当時のニナのサロンでの活気に満ちた楽し気な雰囲気がノスタルジックに描かれている。
(c) Google Map Streetview
 17, rue Chaptal, 9e












夫との別居後は、母親の旧姓から取ってニナ・ド・ヴィラール(Nina de Villard)と称した。作家で詩人のシャルル・クロス、カチュル・マンデス、貴族出自の作家ヴィリエ・ド・リラダン、画家のエドゥアール・マネ、詩人のヴェルレーヌなど多くの芸術家たちに霊感を与えた。

1870年の普仏戦争の敗戦とプロシア軍のパリ侵攻に際してニナは母親とともにスイスに逃れ、そこで3年過ごしたが、1873年にパリに戻り、17区のモワヌ通りでサロンを再開する。(LAI)


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