パリの街角散歩です。カタツムリのようにゆっくりと迂回しながら、そして時間と空間をさまよいながら歩き回ります。


2016年2月27日土曜日

散歩R(20-6) シャプタル通り Rue Chaptal, 9e(9区サン=ジョルジュ地区)

シャプタル通りは、フランス革命期からナポレオン時代に活躍した化学者ジャン=アントワーヌ・シャプタル(Jean-Antoine Chaptal, 1756-1832) にちなんでいる。1781年に化学薬品工場を開設し、産業界に塩酸や硫酸の製造過程の改善をもたらした。ただし外国から大金を積まれてもその製法の提供を拒んだ。革命期の1793年にはパリのグルネルにあった軍の弾薬工場の責任者となった。その後、内務大臣を経て、商工会議所の創設や公営質屋の改編、あるいはフランス国内の運河網の整備など政治家としての手腕も評価された。ワインの製造過程での「補糖」(砂糖を加える)という工程を考案してワインの賞味向上に貢献した。この工程は彼の名前を取って今でも「シャプタリザシォン」(chaptalisation)と呼ばれている。(DNR)


(c) Google Map Streetview
 15, rue Chaptal, 9e
☆シャプタル通り15番地 (15, rue Chaptal, 9e)
《メグレ警視若年期の張込み場所》

15番地はエネ通りとシャプタル通りが交わるT字路の東角になっている。そこに「ラネクス」(L'Annexe)という名前のやや古びたレストラン・バーがある。住宅街には珍しくぽつんと立っている店である。この店はジョルジュ・シムノン(Georges Simenon, 1903-1989)が書いた《メグレ警視シリーズ》の中の一作『メグレの初捜査』(La première enquête de Maigret)で、まだ駆出しのメグレが朝から夕方まで店の中から張込みをした場所として描かれている。

事件が起きたのは通りの角の反対側の館、つまり17番地(小説では17番地B)に住む富豪の一族で謎の失踪が起きたらしいということで、この店の窓際のテーブルに座り、屋敷の住人の動向を見張るという設定である。
シムノンは事件の現場となる街角を作品ごとに実地に細かく取材したようで、実在の家や店舗をその事件と結びつけて描くことを必ず行っていた。この店の名前は小説中では《古きカルヴァドス》(Vieux Calvados)となっている。


(c) Google Map Indoorview
 15, rue Chaptal, 9e
(→)右掲の店内の窓からはエネ通り側の館の中庭の鉄柵を見ることができる。

「《張込み》をするにも、人通りや店舗やカフェのお蔭で簡単な通りは多いが、シャプタル通りはそうではなかった。短くて幅広く、商店がなく、人や車もまるで通らなかった。」
(Il existe des rues où il est facile de se "planquer" grâce au mouvement, aux boutiques, aux cafés, mais la rue Chaptal n'est pas de celles-là, courte et large, sans commerce et, pour ainsi dire, sans passage. (c)Georges Simenon : La première enquête de Maigret ; Chap.3)




「幸いにも《古きカルヴァドス》が開いたところだった。エネ通りとの角にあって、この通りで身をひそめるには唯一の場所だった。」
(Heureusement que le Vieux Calvados venait d'ouvrir. C'était le seul endroit de la rue où trouver refuge, au coin de la rue Henner, ... (c)Georges Simenon : La première enquête de Maigret ; Chap.3)









☆シャプタル通り7番地 (7, rue Chaptal, 9e)

門飾りの花の浮彫がモダンな感じで目を引く。建築家アンリ・プチ(Henri Petit, 1856-1926)という銘が壁に刻まれている。この人は19世紀末以降、北アフリカのアルジェに渡って現地で長く活躍したので、この家はその直前の若い頃の設計と思われる。
(c)Photo Emoulu bc20a, 2013



























☆シャプタル通り3番地 (3, rue Chaptal, 9e)

(c)Photo Emoulu bc21, 2013

狭いながらも装飾的なベランダの手すりが特徴で、この通りの中でも丁寧な造りの建物である。














(c)Photo Emoulu bc21a, 2013











2016年2月25日木曜日

散歩R(20-5) 旧グーピル商会跡 L'ancien siège et la galerie de Goupil & Cie(9区サン=ジョルジュ地区)

☆シャプタル通り9番地 (9, rue Chaptal, 9e)
《旧グーピル商会跡》(Ancien emplacement de Goupil & Cie)
(c) Google Map Streetview
 9, rue Chaptal, 9e

9番地の建物にはグーピル商会(Goupil et Cie) の画廊があった。当時のブルジョワ階級のサロンと同じように贅沢な内装が施された広々とした空間の中央に大輪のシャンデリアで照らし出されたこの画廊は社交場としても使われた。画廊の所有する特別収蔵品や未公開の絵画などをそれとなく飾って見せながら、顧客と打ち解けて話を進める場所であった。

創業者のアドルフ・グーピル(Adolphe Goupil, 1806-1893)は最初モンマルトル大通りで出版社をしていたが、1850年前後から名画を複製した石版画やサロンで有名になった絵画の複製を販売し始め、事業が軌道に乗ると欧州各地に支店網を拡大した。その後、絵画そのものや彫刻まで取り扱うことになり、シャプタル通りに立派な画廊を構え、本店機能もこちらに移した。オランダにも支店ができたが、その際にゴッホの伯父にあたるフィンセント・ファン・ゴッホ(同名異人)が経営陣に加わった。
Galerie Goupil, rue Chaptal
Anonyme / Wikimédia commons

グーピル商会の後継者となるブッソ(Boussod)とヴァラドン(Valadon)は、エネ(Henner)、カバネル(Cabanel)、ボナ(Bonnat)、ルフェーヴル(Lefevbre)などのアカデミー派の定評ある画家たちの作品を集めるのに熱心だった。さらにこれらの画家たちは大半がこの「新アテネ地区」の住人でもあった。

1875年にオランダ出身のある店員が顧客とひと悶着を起こした。彼は横柄な態度で、嫌悪感を隠そうともせずにある絵を持ってきて見せたので、客の上品な身なりの婦人は、その不遜なふるまいに慣れていなかったこともあり、そのがさつなオランダ人を酷い店員だと決めつけてしまったのである。その悪いお手本の店員の名前は、フィンセント・ファン・ゴッホ(Vincent van Gogh, 1853-1890)だった。まだ彼が22歳の時で、最終的に画家としてパリに乗り込んでくる11年前の出来事である。

(c) Google Map Streetview
 9, rue Chaptal, 9e

伯父の計らいで甥にあたるゴッホ兄弟は早くからグーピル商会に入社した。ゴッホは16歳からハーグ支店で働きはじめ、以後ロンドンとパリに転勤した。上記の事件のように、本人のヤル気も低く、問題社員でもあり、無断欠勤を理由に翌年には解雇となった。一方弟のテオは、1878年のパリ万博を機にパリに転勤し、翌年にはモンマルトル大通りの支店長となった。

19世紀後半においても印刷技術は発達途上にあり、大衆の人気を集めた絵入り新聞や雑誌でも挿絵は石版画や銅版画のほとんど単色刷りであった。
Une mélodie de Schubert, peint par G. de Jonghe
photographié par Goupil & Cie, Paris
BnF Gallica

グーピル商会は手ごろな室内装飾用としての絵画の複製品を販売して成功したが、それには写真製版による印刷技術が確立したからである。

(→)左掲はグーピル商会が製作した複製画の一つで『シューベルトの歌曲』(Une mélodie de Schubert)というタイトルがついている。モノクロながら細部が鮮明に印刷されており、その一時代前までの版画による絵画の「模刻」に比べれば本物らしさに近づいた感じがして喜ばれたという。
タイトルの付け方も販売を左右する。『シューベルトの・・・』と付けただけで、そばで聴いている喪服の婦人が(例えば「セレナード」を聴いたように)メランコリックな気持になっている様子がうかがえてくる。しかし下掲(↓)の元々の絵のタイトルは『練習』(Exercice)であり、ある裕福な家庭での娘のピアノの練習風景を描いたものに過ぎない。
Gustave Léonhard de Jonghe: Exercice
@Wikimédia commons
グーピル商会で働いたゴッホは、こうした平穏無事で平和な家庭風景の絵ばかりがもてはやされるのに腹を立てたのかも知れない。

ベルギー出身でパリとロンドンで活躍した風俗画家ギュスターヴ=レオナール・ド・ジョング(Gustave Léonhard de Jonghe, 1829-1893)は、一般庶民からすれば憧れの、もしくは羨ましく思う有閑階級の美しい婦人たちの優雅な生活風景を次々に絵画市場に出していった数多くの画家の一人である。(LAI)







2016年2月23日火曜日

散歩R(20-4) 作家モーリス・バレスの青年期の住居 Demeure de l'écrivain Maurice Barrès à sa jeunesse(9区サン=ジョルジュ地区)

☆シャプタル通り14番地 (14, rue Chaptal, 9e)
《作家モーリス・バレスの青年期の住居》
(c) Google Map Streetview
 14, rue Chaptal, 9e

14番地には作家のモーリス・バレス(Maurice Barrès, 1862-1923) が1886年から1889年までの3年余り住んでいた。23歳から27歳までの青年期にあたる。

彼はロレーヌ地方出身で20歳からパリに上り、雑誌の記事を書きながら高踏派や象徴主義の詩人の集まりに出入りした。彼の文才は早くから開花し、この間26歳で三部作「自我礼拝」(Le Culte du moi)を発表した。

Barrès : Le Culte du moi
Livre de poche






その後彼は政治活動にも加わり、普仏戦争によって失われた故郷アルザス・ロレーヌ地方の奪還を訴える立場からも国粋主義的な傾向を強め、フランス国家の崩壊の危機(une menace de désintégration de la communauté nationale)を訴えた。1889年には出身地ナンシーの議員として選出された。またドレフュス事件では反ドレフュス派の旗頭として論戦に加わった。

1897年から彼の代表作となる「根こぎにされた人々」(デラシネLes Déracinés)を始めとする新しい三部作を書いた。これはもはや小説というよりも国土に対する忠誠の念を表わした思想書であった。1906年にはアカデミー会員に選出された。


*参考Link :100年前のフランスの出来事:
モーリス・バレスの新作小説『コレット・ボードシュ』 (1909.01)
http://france100.exblog.jp/11796182/


2016年2月21日日曜日

散歩R(20-3) ロマン派美術館 Musée de la Vie Romantique(9区サン=ジョルジュ地区)

☆シャプタル通り16番地 (16, rue Chaptal, 9e)
《ロマン派美術館》 (Musée de la Vie Romantique)
PA00088936 © Monuments historiques, 1992


(c)Photo Emoulu bc20f, 2013

16番地は木立の間に細い通路が奥に伸びている。そこに踏み込むだけで都会とは縁遠い田舎家の雰囲気を感じる。そこに「ロマン派美術館」がある。フランス語のタイトルから直訳すれば「ロマン派的生活展示館」となるが、そのほうがしっくり来る。

Hôtel Renan-Scheffer, actuellement musée de la vie romantique
Myrabella / Wikimedia Commons / CC-BY-SA-3.0

















奥の家には19世紀ロマン主義の盛んだった時期にオランダ出身の画家アリ・シェフェ(Ary Scheffer, 1795-1858)が30年近く住み続けた。宮廷画家だった父親を早く亡くし、母親と兄弟とともにパリに来て、アリはゲランに師事した。1819年24歳でサロン(官展)に入選して画家への道が開けたが、折りしもロマン主義絵画の隆盛期にあたり、親しくなったジェリコー(Théodore Géricault, 1791-1824)、やドラクロワ(Eugène Delacroix, 1798-1863) の目ざす思考に共感し、影響を受けた。
Faust et Marguerite, la promenade au jardin
(1846) Collection particulière
Wikimédia commons

しかしながら彼はロマン主義文学のゲーテやバイロンに題材を求めたものの、技法ではむしろアングル(Jean Auguste Dominique Ingres, 1780-1867)に近づいて行き、「冷たい古典主義」(Classicisme froid)と称された。(←)左掲は「ファウストとマルガレーテ」、手に手を取って庭園を散歩する場面である。奥にメフィストフェレスの姿も見える。1846年に描かれた「ファウスト」による連作の一つだが、ちょうどこの年にベルリオーズ(Hector Berlioz, 1803-1869)の劇物語『ファウストの劫罰』(La damnation de Faust)もオペラ・コミック座で初演された。

このシェフェの家は、当時「新アテネ地区」(ヌーヴェル・アテーヌ Nouvelle Athène)と呼ばれたこの地域に住む文人、画家、音楽家たちが頻繁に集う場所でもあったので、それにちなんだ展示を行っている。特にジョルジュ・サンドを中心とした記念品が多く、当時の生活を彷彿とさせる。

アリ・シェフェの姪と結婚したのが哲学者で作家のエルネスト・ルナン(Ernest Renan, 1823-1892)である。ルナンは最初神職者となるつもりで神学校で学んでいたが、1845年22歳の時に信仰心を失い、哲学と考古学の分野に進み、中東で発掘調査に従事した。ヘブライの文献を調べるうちに『イエスの生涯』(La vie de Jésus)を書き著した。これは当時イエスを神ではなく一人の人間として描いたことで、社会にに大きな衝撃を与えた。1879年にはアカデミー・フランセーズの会員に選出された。シェフェの家族の姻戚としてルナンの記念品も展示されている。
ルナンの言葉を一つ:「良い著作家は思っていることの半分程度しか言わないように仕組まれている。」(Un bon écrivain est obligé de ne dire à peu près que la moitié de ce qu'il pense.) (LAI, DNR, PRR, Wiki)

*参考サイト「フランス箴言集」:エルネスト・ルナン
http://promescargot.blog.fc2.com/blog-category-7.html




かたつむりの道すじ:⑱ラ・ブリュィエール通り~⑲エネ通り&ポール・エスキュディエ通り~
⑳シャプタル通り~㉑ジャン=バティスト・ピガール通り (c) Google Map




2016年2月19日金曜日

散歩R(20-2) 旧グラン=ギニョル座跡 Ancien emplacement du Théâtre Grand-Guignol(9区サン=ジョルジュ地区)

☆シャプタル通り20番地 (20, rue Chaptal, 9e)
《旧グラン=ギニョル座跡》 (Ancien emplacement du Théâtre Grand-Guignol)

(c) Google Map Streetview
 20, rue Chaptal, 9e
20番地から奥に細い袋小路が伸びている。その突当りに現在では薄黄色に塗られた劇場の建物が立っている。約百年前のベルエポック時代にはここがグラン=ギニョル座(Grand-Guignol)の劇場だった。この劇場の特色は、出し物が恐怖劇、残虐劇と言われるジャンルのもので、人間心理の暗黒面、つまり憎悪、嫉妬、猜疑心、憤怒などにもとづく犯罪、暴力、復讐、殺人、拷問、狂気の場面を舞台の上で繰り広げ、観客を圧倒することを狙いとしていた。

1899年から第一次大戦の直前まで支配人だったマックス・モーレー(Max Mauley, 1866-1947)の経営手腕と「恐怖劇のプリンス」と称されたアンドレ・ド・ロルド(André de Lorde, 1871-1942)を中心とした劇作家たちによって、大衆向けの娯楽演劇としてのグラン=ギニョル座の人気は定着した。
Le Grand Guignol à 9h tous les soirs
Affiche de Jules-Alexandre Grün
@BnF Gallica







「怖いもの見たさ」とは言え、大惨事や凶行を目の前にした人々が、為すすべもなく見守るという、大昔の公開処刑や闘技場と同じ性質の見世物が人々の気持をかきたてたのだと思う。アンドレ・ジィド(André Gide, 1869-1951)がロルド作の恐怖劇を別の劇場で見たときの感想を下記に掲載する。「観衆の高揚と喝采と恍惚」を傍で目にしたと語るが、群衆心理の恐ろしさを感じて逆に寒気がする。

現在の建物の「国際視覚劇場」(International Visual Theatre)と直訳できる劇場は、聾唖者のための演劇芸術活動の拠点となっているようだ。

*** 新潮文庫「ジイドの日記」第2巻、新庄嘉章・訳、1907年10月16日より引用:
昨日、パリに帰り、コポーの家で昼食をとった。食事が終るや、早速、コポーは私を、ジェミエ劇場の『コドマ氏』の総稽古に引っぱって行く。(…)トリスタン・ベルナールの劇をやる前に、ロルドによるマルティニック島の災害を舞台としたからくり劇がある。噴火は第一幕ではかなり調子よく行く。ところが、送風器の工合が悪くて、場内が煙だらけになった。(…)最後の幕は、偽文学的、非道徳的、反宗教的な主張を持っている。観衆は《劇が高潮して行く》ことを感じて、喝采を送り、恍惚となる。これにはほとんど嘔吐を催させる。


*参考Link :100年前のフランスの出来事:
(1)グラン・ギニョル座の劇作家アンドレ・ド・ロルド(1907.04)
http://france100.exblog.jp/5276820/
(2)アンドレ・ド・ロルドとシャルル・フォレーの新刊 (1908.04)
http://france100.exblog.jp/8210406/



2016年2月17日水曜日

散歩R(20-1) ニナのサロン 1er Salon artistique et littéraire de Nina de Callias(9区サン=ジョルジュ地区)

☆エネ通り13番地 (13, rue Henner, 9e) 
☆シャプタル通り17番地 (17, rue Chaptal, 9e)

(c) Google Map Streetview
 13, rue Henner, 9e
《ニナのサロン》(Salon artistique et littéraire de Nina de Callias)

エネ通りに戻って少し進むとシャプタル通りにぶつかる。左手の角の居館の中庭にエネ通りの13番地から出入りできる。なかなか立派なお屋敷の庭である。

第2帝政の末期、ニナ・ド・カリアス(Nina de Callias, 1843-1884)という女性がこの場所に文学・芸術サロンを盛大に開いていた。リヨンの裕福な弁護士の娘として生まれ、1864年、21歳のときに代表的な日刊紙「フィガロ」のコラム記者のエクトル・ド・カリアス伯爵(Le comte Hector de Callias)と結婚した。ニナはすでに毎年5万フランの金利を受け取れる財産を持っていた。当時の1フランを800円と類推しても年収4千万円となる。

結婚する直前までは、若気の至りからか「私はエクトルにすっかりのぼせてしまったの。」(Je suis toquée complétement d'Hector.)と友人に語っていたのだが、まもなく二人の性格と趣味の違いが明らかとなり、結婚生活は破綻した。伯爵は気ままな性格で、女漁りで飲んだくれで、その上、音楽が嫌いだった。一方のニナは有名なピアノ教師について学び、秀れたピアノ奏者でもあった。ピアノの小品も作曲したが、心酔するワーグナーの影響を受けて(「ワグネリゼ」wagnerisé されて)いた。
Nina de Villard-Callias au piano,
pastel de Charles Cros

彼女はまた詩作も行い、そのいくつかは1869年の『高踏派詩選』第2集に所収となった。「私のところに来るのに盛装は必要ないわ。詩の一篇だけで十分。」とニナは言明し、実際シャプタル通り17番地のサロンには普段着の客たちがくつろいでいた。後日書かれた多くの回想録には、当時のニナのサロンでの活気に満ちた楽し気な雰囲気がノスタルジックに描かれている。
(c) Google Map Streetview
 17, rue Chaptal, 9e












夫との別居後は、母親の旧姓から取ってニナ・ド・ヴィラール(Nina de Villard)と称した。作家で詩人のシャルル・クロス、カチュル・マンデス、貴族出自の作家ヴィリエ・ド・リラダン、画家のエドゥアール・マネ、詩人のヴェルレーヌなど多くの芸術家たちに霊感を与えた。

1870年の普仏戦争の敗戦とプロシア軍のパリ侵攻に際してニナは母親とともにスイスに逃れ、そこで3年過ごしたが、1873年にパリに戻り、17区のモワヌ通りでサロンを再開する。(LAI)


2016年2月15日月曜日

散歩R(19-2) フランス六人組の発足の地、作曲家ミヨーの住居 Lieu de naissance du "Groupe des Six"(9区サン=ジョルジュ地区)

エネ通り9番地の家は横丁の角になっていて、そこから短いポール・エスキュディエ通りがある。ポール・エスキュディエ(Paul Escudier, 1858-1931)は弁護士出身で、パリ市議会議員を経て、セーヌ県選出の国会議員となった。おそらくこの付近が住まいだったと想像する。この通りの番地の付け方が普通とは逆になっているのが不思議だ。一般的にパリの東西に走る通りは、東端から見て左側が1番地、右側が2番地となっていくのだが、この通りは西端から付けられている。従って5番地は通りの北側になっている。


☆ポール・エスキュディエ通り5番地 (5, rue Paul Escudier, 9e) 
《フランス六人組発足の地、作曲家ミヨーの住居》 (Lieu de naissance du "Groupe des Six")
(c) Google Map Streetview
 5, rue Paul Escudier, 9e

作曲家のダリウス・ミヨー(Darius Milhaud, 1892-1974) は南仏の裕福なユダヤ人家庭に生まれ、両親の影響で幼い時から音楽に親しみ、1909年にパリ音楽院に入った。
第一次大戦の最中の1916年頃、パリ音楽院で親しくしていた仲間の6人が毎週土曜日にミヨーの自宅に集まり、歓談する習慣となっていた。この集まりには同年代の詩人ジャン・コクトー(Jean Cocteau, 1889-1963)が加わり、ドビュッシーの印象主義やワーグナー崇拝の流れに支配されたフランスの音楽界に、新しい息吹きを創り出そうとする考えをもとに熱心な議論が進められた。六人組はミヨーの他に、年長のルイ・デュレー(Louis Durey, 1888-1979)、スイスから来たアルテュール・オネゲル(Arthur Honegger, 1892-1955)、女流作曲家のジェルメーヌ・タイユフェール(Germaine Tailleferre, 1892-1983)、パリ育ちのフランシス・プーランク(Francis Poulenc, 1899-1963)、早熟な作曲家ジョルジュ・オーリック(Georges Auric, 1899-1983)だった。いずれも20代の作曲家(プーランクとオーリックは当時17歳)だった。

「六人組」(Groupe des Six)の名前が初めて出たのは、その4年後の1920年、音楽評論家のアンリ・コレが彼ら全員によるピアノ曲集『六人のアルバム』(Album des Six)の発表に際して、雑誌の評論で「ロシアの国民楽派五人組」(Les Cinq russes)に対比させた「フランスの六人組」(Les Six français)と呼んだ時である。
J.E.Blanche : Le groupe des Six (1921)
@Rouen, Musée des Beaux-Arts

実際は6人とも各々の作風にはそれぞれ独特のものがあり、六人組の知名度が上がることで、互いの交遊を保ちながら個々の作曲家として大きく成長し、20世紀のフランス音楽界を代表する存在となって行った。

(→)右掲の絵は、画家ジャック=エミール・ブランシュ(Jacques-Émile Blanche, 1861-1942)が1921年に描いた『六人組』である。中央の女性はメンバーではないピアニストのマルセル・メイエ(Marcelle Meyer, 1897-1958)だが、同じパリ音楽院の出身で賛同者の一人である。メンバーの紅一点タイユフェールは左下に半身だけ描かれている。その上がミヨー、その横に横顔だけのオネゲル、画面奥に眼鏡のデュレー、右側に座っているのはオーリック、その上にプーランク、右上端にコクトーがいる。六人組の全員が20~30代の若々しい頃の姿をとらえた画像は貴重である。

この年の6月にはバレエ・スエドワから依頼された『エッフェル塔の花婿花嫁』(Les Mariés de la tour Eiffel)が初演となった。台本をコクトーが書き、当初は六人組全員で音楽を分担することが決まったが、土壇場でデュレーが不参加を表明し、急遽穴埋めの作曲をタイユフェールとミヨーとで行い、間に合わせた。デュレーはこのあと六人組から完全に離脱する。

◇参考Youtube - バレエ『エッフェル塔の花婿花嫁』全曲
Les Six: Les Mariés de la Tour Eiffel (Complete ballet) (1921)  
https://www.youtube.com/watch?v=7zc2FirtReE



2016年2月13日土曜日

散歩R(19-1) 詩人アポリネールの住居 1er demeure à Paris de Poète Apollinaire(9区サン=ジョルジュ地区)

散歩者はラ・ブリュィエール通りを引き返し、43番地の馬車門のところからT字路となっているエネ通り(Rue Henner)に入る。昔はレオニー通り(Rue Léonie)だったが、画家のジャン=ジャック・エネがすぐ近くに住んでいたのを記念して、エネ通りとなった。この一帯も閑静な住宅街である。

(c) Google Map Streetview
 9, rue Henner, 9e
☆エネ通り9番地 (9, rue Henner, 9e) 
《詩人アポリネールの住居》(1er demeure à Paris de Poète Apollinaire)

20世紀初頭に活躍した詩人ギヨーム・アポリネール(Guillaume Apollinaire, 1880-1918)が1907年から1909年までの約2年半の間ここに住んでいた。

アポリネールは(父親は不詳)、母親がポーランド人でローマに生まれたが、高校まで南仏で過ごし、19歳の1899年にパリに母親と異父弟とともにやって来た。本名はヴィルヘルム・アポリナリス・ド・コストロヴィツキー(Wilhelm Apollinaris de Kostrowitzky)だったが、フランス語風の通称「ギヨーム・アポリネール」を使った。一家はまもなくパリ西郊のル・ヴェジネ(Le Vésinet)に住むようになり、アポリネールは列車でパリに通って、様々な新聞社や雑誌社で記事を一行いくらの歩合制で書く仕事をする傍ら詩作を始めた。

1904年に彼は同年代の画家のピカソ(Pablo Picasso, 1881-1973)と知り合った。ピカソはパリに定住し始めた頃で、サン=ラザール駅近くのホテル「オースティンズ」(Austin's)の彼の部屋に仕事を終えたアポリネールが列車の時間を待つ間、訪れてしばらく話し込む日々があったという。

アポリネールは27歳となった1907年4月からエネ通りで一人暮らしを始める。雑誌の編集の仕事も頼まれたが、当時は雑誌そのものが継続して発行できるものは少なく、泡沫のように出ては消えるものがほとんどで、生活が安定しなかった。5月にピカソから女流画家のマリー・ローランサン
Marie Laurencin : Apollinaire et ses amis (1909)
Paris, Musée Picasso / Crédit Photo (C) Centre Pompidou,
MNAM-CCI, Dist. RMN-Grand Palais / Jean-Claude Planchet
Droits d'auteur: (C) ADAGP
(Marie Laurencin, 1883-1956)を紹介され、二人は恋に落ちた。

(→)右掲はローランサンが1909年に描いた『アポリネールと友人たち』という作品で、中央のアポリネールを取り囲むように(女性の方が多いが)友人たちが並んでいる。描く対象を様々な方向から捉えた要素を一つの絵の中にまとめ上げるというキュビスム的な手法の萌芽がうかがえる。

アポリネールは大柄な体格と物腰の品の良さ、趣味の幅広さ、奇抜な言動、さらに大食漢であることで友人たちを魅了し、作家のマックス・ジャコブ、アルフレッド・ジャリ、画家のピカソ、ヴラマンク、ドランなどとの交友を深めて行った。マリー・ローランサンとは結婚も考えたようだが、生活基盤の問題に加え、互いに自由な芸術活動の環境を考えれば、踏み切れなかったのではないかと思う。そして月日は流れる。

*参考サイト「フランス箴言集」:アポリネール
http://promescargot.blog.fc2.com/?q=apollinaire



☆エネ通り7番地 (7, rue Henner, 9e) 

手前の7番地にある門飾りには丁寧な細工の古典的な顔像が見られる。
(c)Photo Emoulu bc19fa, 2013













2016年2月11日木曜日

散歩R(18-10) 作曲家ベルリオーズの熟年期の住居 Demeure de compositeur Berlioz à l'âge mûr(9区サン=ジョルジュ地区)


(c) Google Map Streetview
 53, rue La Bruyère, 9e
☆ラ・ブリュイエール通り53番地 (53, rue La Bruyère, 9e) 
《作曲家ベルリオーズの熟年期の住居 》 (Le domicile de compositeur Berlioz dans la période d'âge mûr)

53番地には作曲家のベルリオーズ(Hector Berlioz, 1803-1869)が1849年から1856年までの7年余り、年齢で言うと45歳から52歳まで住んだ。当時すでに妻で元女優のハリエット(Harriet Smithson, 1800-1854)とは別居しており、愛人で歌手のマリー・レシオ(Marie Recio, 1814-1862)が母親を連れて一緒に暮らしていた。

マリー・レシオは本名をマリー=ジュヌヴィエーヴ・マルタン(Marie-Geneviève Martin)といい、スペイン人の母親の姓を芸名にしてオペラ歌手として1840年頃から活動していた。すぐさまベルリオーズは彼女と恋愛関係となり、オペラ座等に彼女を推薦する口利きをした。1842年にはベルリオーズが初めて国外公演を行うことになり、ベルギーに旅立つが、その際に彼女を同伴していって公演で歌わせたのが、ハリエットとの別居のきっかけとなった。(Berlioz: Mémoires Chap.51: Mais je ne partis pas seul, j'avais une compagne de voyage qui, depuis lors, m'a suivi dans mes diverses excursions. )

マリーは歌手としては平凡な才能しかなく、その歌唱がほとんど注目されることはなかった。ベルリオーズも自身の回想録で、最初の妻ハリエットとの大恋愛とその後の人生における記述に比べれば彼女の名前も存在も明かすことを避けたようで、あくまでも陰の愛人の立場だった。1854年に別居中だった妻のハリエットが長患いの末54歳で亡くなると、その半年後に正式に結婚する。
Hector Berlioz : Lithographe d'Étienne Carjat
1857, BnF département musique
「私は再婚した...そうしなければならなかったのだ。」
(Berlioz: Mémoires - Épilogue : Je suis remarié ... je le devais.)

ここに住んだ時代は二月革命の後で、ナポレオン3世が実権を掌握し、第2帝政が始まる時期であった。
ベルリオーズはロンドンでの事例に倣ってパリに「フィルハーモニック協会」(Société Philharmonique)を設立し、管弦楽コンサートを定着させようとしたが、長続きせず失敗した。
作曲では、オラトリオ『キリストの幼時』(L'Enfance de Christ)三部作とカンタータ『皇帝賛歌』(L'Impériale)を完成させた。彼は自分の芸術表現の手段として、数百人規模の大編成の管弦楽と合唱団を駆使して巨大な会場での大音響を目ざしたため、準備に人手と手間がかかり過ぎ、一部には彼の誇大妄想を指摘する人も出て、パリの音楽界では敬遠されていた。

 1855年にパリで開催された第1回万国博覧会はベルリオーズにとって絶好の機会となった。広大な主会場、産業宮での指揮の依頼が来たのは、終盤となった閉会式の1カ月前で、式典での演奏と翌日の記念コンサートを担当した。式典では総勢900人規模、また翌日の記念コンサートではハープ30台、管楽器奏者100人、合唱団700人など、全体で1250人、正指揮者ベルリオーズの他に5人の副指揮者が態勢を整え、上記の『皇帝賛歌』や『テ・デウム』などの自作品のほかベートーヴェン、ロッシーニ、マイヤベーア、グルックなどの作品が演奏された。聴衆は4万人を超え、コンサートは大成功を収めた。

Vue intérieure de la grande nef du Palais de l'Industrie Exposition universelle de 1855
Lithographe de Jules Arnout (1814-1868), Bibliothèque nationale de France
*参考文献:井上さつき著『音楽を展示する(パリ万博1855-1900)』法政大学出版局2009

2016年2月9日火曜日

散歩R(18-9) ジャン・コクトー幼少期の家 Maison d'enfance de Jean Cocteau(9区サン=ジョルジュ地区)


(c) Google Map Streetview
 45, rue La Bruyère, 9
☆ラ・ブリュイエール通り45番地 (45, rue La Bruyère, 9e) 
《 ジャン・コクトー幼少期の家 》

詩人、小説家、劇作家、評論家、グラフィックデザイナー、イラストレーター、画家、映画監督などなど、多芸多才の詩人ジャン・コクトー(Jean Cocteau, 1889-1963) はここの家で17歳までの幼少期を過ごした。
彼は1889年裕福なブルジョワ家庭に生まれたが、生地パリ西郊のメゾン・ラフィットは母方の祖父にあたる株式仲買人のウジェーヌ・ルコント(Eugène Lecomte)所有の屋敷であり、パリのこの家もそうだった。両親とも絵画や観劇の趣味があり、祖父も音楽演奏と美術品収集に熱心で、コクトーの豊富で多様な芸術への感性が養われたと思われる。
しかし8歳の時に、弁護士だった父親が55歳で突然ピストル自殺をするという悲劇に見舞われる。その後も彼はこの家で母親と姉と兄と祖父母とともに暮らし続けた。

J.E.Blanche - Portrait de Jean Cocteau (1912)
La maison de Jean Cocteau,
Milly-la-forêt


11歳から名門のリセ・コンドルセ(Lycée Condorcet)の中等部に入学する。この少年時代の体験が後年の小説『恐るべき子供たち』(Les Enfants terribles)の冒頭部に取り入れられている。13歳で高等部に進級後、学業にあまり身が入らず、学校を休んで芝居や遊び事に夢中になり、15歳を目前に退学処分となる。その後、家庭教師や私塾に通い、バカロレア(Baccalauréat 大学入学資格試験)に挑戦するが、17歳、18歳と2年連続で失敗し、大学進学を断念した。

その間、コクトーは詩を書いたり、文学サロンに出入りしたり、女優と関係を持ったりと、早熟ぶりを発揮し、1908年4月には18歳で自作の詩の朗読会をフェミナ劇場で開くことになった。

*参考Link:100年前のフランスの出来事
フェミナ劇場の落成 (1907.03.19)
http://france100.exblog.jp/4903576/

(↑)上掲は22歳の頃に描かれたコクトーの肖像画で、当時有名人・著名人の肖像画を次々と描いて評判を得ていた画家のジャック=エミール・ブランシュ(Jacques-Emile Blanche, 1861-1942)の作品である。いかにも良家の御曹司の横顔(これは右向きで成功している)で気品漂う姿に仕上がっている。


2016年2月7日日曜日

散歩R(18-8) 画家ジャン=ジャック・エネの住居 Demeure de peintre Jean-Jacques Henner(9区サン=ジョルジュ地区)



(c)Photo Emoulu bc18fa, 2013
☆ラ・ブリュイエール通り41番地 (41, rue La Bruyère, 9e) 
《画家ジャン=ジャック・エネの住居 》

アカデミー派の画家ジャン=ジャック・エネ(Jean-Jacques Henner, 1829-1905)はアトリエをピガール広場(Place Pigalle)11番地に構えていたが、この41番地を終生の住まいとした。その碑銘板が入口に掛けられている。



Nymphe debout, de dos se mirant dans
 l'eau / Paris, Musée J.J.Henner
Crédit Photo (c)RMN-Grand Palais
/ Tony Querrec


彼は1863年に34歳でサロン(官展)に初入選してたちまち評判となり、若手の中でも画壇が最も期待を寄せる画家の一人と称された。サロンでもてはやされた立場であっても、彼は近所のカフェに集まる印象派の画家たちとの交友を保った。(LAI, DNR, PRR)

◇パリ蝸牛散歩内の関連記事:
9区サン=ジョルジュ地区(10-9)カフェ・ル・ラロシュとパヴァール
http://promescargot.blogspot.jp/2015/11/10-9.html


エネは好んで肌が青白く消え入るような裸体画を描いたが、それらはしばしば詩情に満ち、次第に象徴主義の画家たちのような甘美な幻夢を思わせる作品が多くなった。
(←)左掲は『水面に映る自分に見とれて立つ妖精の後姿』という長い題だが、最晩年の1902年の作品である。


Portrait d'Eugénie-Marie Godiffet-
Caillard dite Germaine Dawis
Paris, Musée J.J.Henner
Crédit Photo (c)RMN Grand Palais
/ Franck Raux

彼はまた単純な横向きの肖像画も好んで描いた。(→)右掲は『ウジェニー=マリー・ゴディフェ=カイヤール、通称ジェルメーヌ・ダヴィの肖像』とこれまた長い名前の題である。不思議なのは、この女性をモデルにした同じ横向きの肖像画をエネは何年かにわたって少なくとも6点描いている。

*参考Link: Jean-Jacques Henner
Joconde - Portail des collections des musées de France

彼女は、ジェルメーヌ・ダヴィ(Germaine Dawis, 1857-1927)という名前の画家としても知られていた。20歳ですでにサロンに入選するという才能の持ち主だった。思うにエドゥアール・マネがベルト・モリゾをモデルにして何点かの作品を描いたように、エネも指導を受けに来たジェルメーヌをモデルにし続けたのだろう。親子ほどの年齢差があったので、恋愛沙汰があったかどうかは定かでない。肖像画からは芯の強そうな個性がうかがえる。ジェルメーヌ自身の作品は検索でも出て来るが、エネの色調にそっくりなのと、裸婦画が多いという共通点が見られる。しかし残念ながら至極凡庸である。

もう一つの疑問として「なぜ横向きの肖像画は左向きが多いのか?」が気になって仕方がない。一般論として「右利きの人は左向きの横顔が描きやすいが、右向きの横顔はなかなか描けない。」と言われている。これは経験則なのだろうが、横に線を引く場合でも、横に文字を書く場合でも左から右方向にはやりやすいが、右から左へはやりにくいのと同じ原理らしい。従って「右向きの横顔は左利きの画家ならば易しい」ということになる。



La porte cochère, 43 rue de La Bruyère, 9e
JLPC / Wikimedia Commons / CC-BY-SA-3.0

☆ラ・ブリュイエール通り43番地 (43, rue La Bruyère, 9e) 

隣の43番地は、二階まで突き抜ける堂々とした馬車門(Porte cochère)、つまり19世紀に馬車で中庭まで乗りつけることができた屋敷門である。この門の前がT字路になっており、画家のエネの名前を冠したエネ通り(Rue Henner)のほうからやってくると、この門にまっすぐ突き当たる。存在感のある門である。













2016年2月5日金曜日

散歩R(18-7) ラ・ブリュィエール通り(続き) Rue La Bruyère, 9e(9区サン=ジョルジュ地区)

ラ・ロシュフコー通りとの角からラ・ブリュィエール通りを直進する。そのまま次のピガール通りとの角を過ぎると、興味を引く装飾の建物が続く。


(c) Google Map Streetview
 36, rue La Bruyère, 9e
☆ラ・ブリュイエール通り36番地 (36, rue La Bruyère, 9e)

門飾りの唐草模様も一応のレベルだが、3階にはバルコニーが作られている。その下の窓枠上部に控え目な球体の装飾が見える。1861年の建築で設計者セディユ(Sédille)の刻銘がある。
19世紀後半に活躍した建築家にポール・セディユ(Paul Sédille, 1836-1900)という人がいる。彩色タイルを多用した建築物で知られ、プランタン百貨店(Magasins du Printemps)などの美しい装飾で有名な建物を残した。もしこの人の設計であれば、年代的にまだ駆け出しの25歳の時の仕事と思われる。しかし、それにしては型にはまった古風なスタイルなので、同じく建築家だった父親のシャルル=ジュール・セディユ(Charles-Jules Sédille)の仕事ではなかったか、と思ったりもする。

(c) Google Map Streetview
 38, rue La Bruyère, 9e









☆ラ・ブリュイエール通り38番地 (38, rue La Bruyère, 9e) 

左隣の38番地の門飾りは独創的である。設計者の名前はわからないが、宇宙人のヘルメットを思わせる面白さがある。鉄格子の装飾も見事だ。





(c) Google Map Streetview
 39, rue La Bruyère, 9e

☆ラ・ブリュイエール通り39番地 (39, rue La Bruyère, 9e) 

その向い側の39番地の門飾りは古めかしくなる。画像ではあまりはっきり見えないが、番地の小看板を挟んだ両側に、外向きになった仮面の横顔が見える。この意匠は同じものが他所の建物にも使われていたような気がするので改めて紹介したい。



※追記: Flickr.com に鮮明な拡大写真が載っていたのでLinkを紹介する。

Monceau
39 amidst faces, property number
https://www.flickr.com/photos/monceau/24418026423



☆ラ・ブリュイエール通り42番地 (42, rue La Bruyère, 9e) 

42番地の戸口は小ぢんまりとしている。小悪魔のような顔から果実や作物の房飾りを繋ぎ出しているのがユニークだ。
(c)Photo Emoulu bc18f, 2013

2016年2月3日水曜日

散歩R(18-6) ラ・ブリュィエール通り Rue La Bruyère, 9e(9区サン=ジョルジュ地区)

この通りの名前となったラ・ブリュィエール(Jean de La Bruyère, 1645-1696)についてまだ言及していなかった。彼は17世紀、ルイ14世の時代にパリの裕福なブルジョワ家庭に生まれた。ポワチエの大学で法律を学んだあと、20歳でパリの弁護士会に登録した。しかし彼は訴訟事が嫌いで、8年後に退会している。1684年39歳のときに王族の大コンデ公(Le grand Condé, Louis II de Bourbon, 1621-1686)の16歳になる孫ルイ3世の養育係となった。2年後にその大コンデ公が亡くなり、この仕事は終わったが、後継ぎの公爵は彼を屋敷付けの貴人として遇したので、ラ・ブリュィエールはじっくりと読書と著作に励んだ。『人さまざま、または当世風俗誌』(Les Caractères ou les Mœurs de ce siècle)は、達意の文体と鋭い分析で当時の宮廷貴族から聖職者、平民の生態や性格を処世訓、省察、人物描写などの形で書き綴ったもので、1688年の初版から亡くなる年の1696年まで9版の改訂と増巻を重ねた。(DNR)

この通りの名前は1824年に付けられたが、この地域は19世紀前半に住宅地として開発されるまではパリの郊外の畑作地だったので、本人とはまったく関係がない。箴言家として最も有名なラ・ロシュフコーの一族の名前がついた古い通りが先にあったので、それに十字に交わる通りに彼の名前が付けられたのかもしれない。

*参考サイト「フランス箴言集」:ラ・ブリュィエール
http://promescargot.blog.fc2.com/blog-category-18.html

(c) Google Map Streetview
 9, rue La Bruyère, 9e

☆ラ・ブリュイエール通り9番地 (9, rue La Bruyère, 9e)

珊瑚の一種のような迷路模様をあしらった両側の壁面が目立つ。門飾りのアラベスク模様と鉄格子の模様も繊細である。









(c) Google Map Streetview
 17, rue La Bruyère, 9e

☆ラ・ブリュイエール通り17番地 (17 rue La Bruyère, 9e)

カエルのおどけた顔を思わせるような門飾りである。こうした抽象と具象の中間的な紋様もパリには多い。



(c) Google Map Streetview
 21, rue La Bruyère, 9e





☆ラ・ブリュイエール通り21番地 (21 rue La Bruyère, 9e) 

まず門飾りの中央に鬼の面のような仮面がにらみを利かせていて面白い。上階の窓脇の唐草模様も凝っている。









(c) Google Map Streetview
 26, rue La Bruyère, 9e




☆ラ・ブリュイエール通り26番地 (26, rue La Bruyère, 9e) 《画家ルノワールの住居》
☆ラ・ロシュフコー通り33番地 (33, rue de La Rochefoucauld, 9e)

◇パリ蝸牛散歩内の関連記事:
9区サン=ジョルジュ地区 (11-4) 画家ルノワールの住居
http://promescargot.blogspot.jp/2015/12/11-4.html


かたつむりの道すじ:⑱ラ・ブリュィエール通り~⑲エネ通り&ポール・エスキュディエ通り~
⑳シャプタル通り~㉑ジャン=バティスト・ピガール通り (c) Google Map





2016年2月1日月曜日

散歩R(18-5) 画家ゴーギャン独身時代の住居 Ancienne demeure de jeune peintre Gauguin avant son mariage(9区サン=ジョルジュ地区)


(c) Google Map Streetview
 15, rue La Bruyère, 9e
☆ラ・ブリュイエール通り15番地 (15, rue La Bruyère, 9e)  
《画家ゴーギャン独身時代の住居》

普仏戦争後の1871年、ゴーギャン(Paul Gauguin, 1848-1903)は海軍を除隊してパリにやって来た。23歳だった。パリに住んでいた母親は4年前に41歳で死去しており、母と親しくしていた実業家のギュスターヴ・アロザ(Gustave Arosa)の紹介で、ベルタン商会の株式仲買人として働き始める。ゴーギャンはそこで真面目に働いたので、安定した収入を得て、この15番地の家に翌1872年から住んだ。勤務先がラフィット通りで、画廊が多かったためか、絵画に興味を持ち始めたゴーギャンは、休みの日には美術に造詣が深かったアロザ自身から手ほどきを受けた。そのアロザの家で出会ったデンマーク人女性のメット=ソフィ・ガット(Mette-Sophie Gatt)と1873年11月22日に結婚する。9区の区役所で婚姻届に署名し、区長の祝福を受け、その近くの贖罪教会でミサを挙げた。
Gauguin: Sous-Bois(St Cloud) 1873
@paul-gauguin.net
夫婦は早速新居を探し、近くのサン=ジョルジュ広場に面した瀟洒なアパルトマンに1874年の年明け早々に引っ越すことになる。(LAI)

(→)右掲は1873年に描かれた『森の草地(サン=クルー)』の絵で、作品としては最初期にあたる。まだ印象派の第1回展覧会の前年なので、ゴーギャンが自分でパリ郊外に出かけて行って描いたものだが、すでにコローやピサロの画風に共通するものがうかがえる。展覧会でピサロと知り合って意気投合するのも当然である。

◇パリ蝸牛散歩内の関連記事:
9区サン=ジョルジュ地区(17-2)《画家ゴーギャンの新婚家庭》
http://promescargot.blogspot.jp/2016/01/17-2.html