☆サン=ジョルジュ通り51番地 (51, rue Saint-Georges, 9e)
《テアトル・サン=ジョルジュ》 (Théâtre St.Georges)(c)Photo Emoulu bc09, 2013 |
サン=ジョルジュ通りを北に向かって広場のほうに上がってくると、その手前に小さなサン=ジョルジュ劇場の建物が目に入る。
この劇場は、以前「レ・ザナール」(Les Annales)という週刊の政治文芸評論誌の出版社の建物だったものを劇場用に改装して1929年2月にこけら落しが行われた。以後現在まで90年近い歴史を持っている。初めの数カ月はグラン=ギニョル座を継承するような恐怖劇の路線だったが、まもなくブルヴァール喜劇の人気作を取り上げるようになり、何代もの主宰者が変わっても喜劇を専門のジャンルとする伝統となって、行き届いた演出と優れた出演者だという定評がある。
(c) Google Map Streetview 51, rue Saint-Georges, 9e |
(トロンプルィユ, Trompe-l'œil)で描かれている。
窓枠や手すりまでも近くで見れば嘘だとわかるが、狭い劇場だからこその建築家の知恵だったようだ。
なおこの劇場の建物は、フランソワ・トリュフォー(François Truffaut, 1932-1984)が1980年に作った映画『終電車』(Le Dernier métro)の撮影に使われた。
「人生には笑いが必要だ」と言われるように、この劇場の財産とも言うべき演目一覧 (Théâtre Saint-Georges - Toutes les pièces) を見ると「笑い」をいかに人々にもたらすかという劇場の使命をうかがい知ることができる。(残念なのはフランス語の言葉の壁で、喜劇映画の字幕付きのような条件でなければ一緒に笑えないことだ。)
Journal de l'université des Annales, du 15/12/1910 |
1907年1月10日にイヴォンヌ・サルセー(本名マドレーヌ・ブリッソン Madeleine Brisson) は、この建物に「レザナール大学」(Université des Annales) と称する婦女子向けの講演会形式の教養企画を立ち上げた。
Le Figro au 10 Jan. 1907 @BnF Gallica |
(←)左掲は同日付の新聞「フィガロ」の第1面に載った記事の一部である。
[ レザナール誌の読者から 《従妹のイヴォンヌ・サルセー》 という筆名でよく知られているアドルフ・ブリッソン夫人は、その素晴らしい行動力によって「大学の設立」という驚くべき複雑かつ見事な事績を成し遂げた。本日、サン=ジョルジュ通り51番地にその門が開かれる。
レザナール大学は若い女性たち向けに作られた。実践的かつ文学的な教育を彼女らに与えることを目指している。つまり、魅力的な女性を、洗練された家庭婦人を、あるいは活力と知性を持って人生の様々な状況において意思表示のできる力強い女性を形成することを目的としている。 ](以下略)
講座の科目は、裁縫、服飾、速記タイプ術、家政学から、フランス文学、外国文学、衛生学、道徳、歴史、音楽、美術と多種多様に拡がっており、錚々たる講師陣には各アカデミーの会員までも加わる充実度で、たちまち盛況となった。マドレーヌ・ブリッソンの業績はフランスにおけるフェミニスム運動の歴史にはあまり注目されてはいないが、当時は大きな影響力を及ぼしていたと思う。
大学は第一次大戦後に別の場所に移転したため、大講堂だった場所をサン=ジョルジュ劇場用に改装することになったという。
*参考Link :100年前のフランスの出来事:
(1) 文士たちの決闘(1907.03.20) アドルフ・ブリッソンの決闘事件
(2) サダヤッコのパリ再演 (1907.12.08) レザナール大学講座への出演