パリの街角散歩です。カタツムリのようにゆっくりと迂回しながら、そして時間と空間をさまよいながら歩き回ります。


2016年1月7日木曜日

9区サン=ジョルジュ地区(15-2)楽匠ワーグナーのパリ滞在先

☆ドーマル通り3番地 (3, rue d'Aumale, 9e)
《作曲家ワーグナーのパリ滞在中の家》

リヒャルト・ワーグナー(Richard Wagner, 1813-1883)が自作の歌劇『タンホイザー』(Tannhäuser)の上演を企ててパリにやってきたのは1859年9月、46歳の時のことで、さまざまな運動や工作を経て上演にこぎつけるまで約1年半かかった。結果は惨憺たる失敗となったものの、音楽史上に記憶される出来事となった。

ドイツで革命運動に加担して、政治犯としてスイスに亡命してから、ワーグナーは楽劇『トリスタンとイゾルデ』(Tristan und Isolde)を完成させていた。パリに出てすぐにワーグナーは社交界に紹介され、特に同じころに駐仏オーストリア大使夫人として着任したばかりのパウリーネ・フォン・メッテルニヒ(Pauline von Metternich, 1836-1921)のサロンで彼女の強力な支援を受けた。翌1860年1月にはイタリア座における管弦楽のみの演奏会で、ワーグナーの作品が彼自身の指揮で演奏された。歌劇『さまよえるオランダ人』序曲や歌劇『ローエングリン』序曲に加えて、完成したばかりの楽劇『トリスタンとイゾルデ』の前奏曲も取り上げられた。聴衆はおおむね熱心な反響を示したが、評論家たちは冷ややかだった。しかしながら3月には、外交的な配慮も含まれたが、ナポレオン3世から『タンホイザー』をオペラ座の演目として取り上げるようにとの勅命が出て、その準備が始まった。



(c) Google Map Streetview
 3, rue d'Aumale, 9e


















この滞在の初めの1年間、ワーグナーは、当時パリ郊外の野原だったシャン=ゼリゼ近くのニュートン通り16番地(16, rue Newton)に居を構えていたが、オスマン男爵の都市計画による道路の拡張工事のため立ち退きを余儀なくされ、1860年10月からこのドーマル通り3番地の家の3階に妻のミンナと共に移ってきたのである。「やむを得ず別の場所に家を探すことになって、ドーマル通りに陰気くさくてみすぼらしい住まいを見つけた。秋の終わりのひどい天候の時期に引っ越したが、この移転作業とオペラの稽古が重なって私は熱を出して倒れてしまった。」と彼は語っている。

彼には上演のための諸条件を優遇され、出演者たちは160回を超える稽古を課せられた。しかも毎回ワーグナーの立会いや指導を受けるものだった。ワーグナーも『タンホイザー』の改作に取り組み、特にフランスでのオペラ公演に必須とされたバレエの場面を付け加え、いわゆる「パリ版」(Version Parisienne)を作った。公演は1861年3月13日に皇帝ナポレオン3世夫妻の臨席のもとに行われた。しかしワーグナーの作品に反感を抱いたジョッキー・クラブの若い貴族たちによる執拗な妨害で劇の進行に差し障りが出た。その主な理由として、バレエが第1幕早々に演じられたことに腹を立てたことで、通常はオペラの進行の中での気分転換の意味で第2幕以降に演じられるのがパリの慣習だったという。恐らくそれだけではなく、音楽表現の過大な強烈さも好悪を二分したのだろう。結果として公演は3回のみで打ち切られ、完全な失敗となった。

(↓)下掲はパリ公演用に描かれた第2幕「歌合戦の間」の舞台装置画である。

Opéra - Tannhäuser : esquisse de décor de l'acte II : salle des chanteurs
/ Philippe Chaperon et Edouard Despléchin @BnF Gallica
パリではこの事件のあと、『タンホイザー』をもじったパロディ劇が早速ヴァリエテ座など数カ所で演じられた。オペラが終了となったあと、ワーグナーはそそくさとフランスを後にしたと書かれている伝記もあるが、この家に掛かっている碑銘によると1681年7月までは滞在していたという記録になっている。
政治犯としての罪科に対し、前年11年ぶりにやっと恩赦が出たばかりで、すぐには身を落ち着かせる場所が見つからなかったからだろうと思われる。それでも彼は4月~5月とドイツからオーストリアにかけて、次の機会つまり楽劇『トリスタン』の公演の可能性を探る旅をしている。飽くなき精神力の持ち主と言わざるを得ない。(MAH, PRR)


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