パリの街角散歩です。カタツムリのようにゆっくりと迂回しながら、そして時間と空間をさまよいながら歩き回ります。


2016年1月21日木曜日

散歩R(17-3) ティエール図書館 La Bibliothèque Thiers(9区サン=ジョルジュ地区)

☆サン=ジョルジュ広場27番地 (27, place Saint-Georges, 9e)
Jardin de l'Hôtel Thiers
par Tangopaso, Travail personnel -
 Sous licence CC BY 3.0 via Wikimedia Commons
《ティエール図書館》 (La Bibliothèque Thiers)

広場の南側に地下鉄サン=ジョルジュ駅の出入口があるが、その目の前に《ティエール図書館》 (La Bibliothèque Thiers)の立派な建物がある。

1824年以降、裕福な両替商のアレクシス・ドーヌ(Alexis Dosne, 1789-1849)がこの地域一帯の土地を買って住宅地として売り出した。1827年、当時歴史家およびジャーナリストとして活躍していた30歳のアドルフ・ティエール(Adolphe Thiers, 1797-1877)がドーヌ家と親しく付き合うことになり、特にドーヌの妻ユリディス(Euridyce)とは秘められた関係が始まった。彼女は32歳だった。

"Habitation de Mr. A. Thiers"
Alexandre Laya, Études historiques sur la vie privée, politique et
littéraire de M. A. Thiers, t. I, Paris, 1846.
Gravure par Daubigny @Wikimédia Commons
6年後の1833年にティエールはドーヌ家の長女エリーズ(Élise)と結婚するが、彼女はやっと15歳で、持参金とともにサン=ジョルジュ広場に面したこの居館を供与され、ティエールはたちまち大きな財産を得ることとなった。しかも義母となったユリディスとの関係もしばらく続くことになる。さらにドーヌ家の次女フェリシィ(Félicie)もほどなくティエールと関係していることが知られるようになって、世間では彼らの私生活を揶揄する小唄まで歌われたり、バルザックの小説のモデル(『ゴリオ爺さん』のラスティニャック)として描かれたりした。(←)左掲は当時のサン=ジョルジュ広場とティエールの居館の版画である。
ティエールは代表作『フランス革命史』(Histoire de la Révolution française)などの高い評価によって1834年に歴史家としてアカデミー会員に選ばれる他に、七月王政の閣僚にも抜擢された。ナポレオン3世の退位と普仏戦争の敗戦によって第三共和政が始まるが、その初代大統領としてティエールが選ばれた。しかしドイツとの講和条約の内容を不満とするパリの民衆が蜂起したパリ=コミューンの騒乱に際して、このティエールの館は取り壊しに遭い、1875年に現在の建物に再建された。

ティエールとエリーズの死後、最後に残ったフェリシィがこの建物をフランス学士院に寄贈し、大革命後19世紀のフランス史に関する文献や資料を多数収める図書館として現在に至っている。


*参考Link : フランス学士院、ティエール図書館(仏語)
Institut de France : Bibliothèque Thiers
http://www.institut-de-france.fr/fr/patrimoine-musees/biblioth%C3%A8que-thiers

*参考Wikipedia : ゴリオ爺さん
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%B4%E3%83%AA%E3%82%AA%E7%88%BA%E3%81%95%E3%82%93

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