パリの街角散歩です。カタツムリのようにゆっくりと迂回しながら、そして時間と空間をさまよいながら歩き回ります。


2015年12月29日火曜日

散歩R(13-3) デュマの大舞踏会の家 Demeure de Dumas Père, lors de son grand bal masqué à 1833 (9区サン=ジョルジュ地区)

☆サン=ラザール通り40番地 40 rue Saint-Lazare, 9e
(c) Google Streetview
40 rue Saint-Lazare, 9e
《文豪デュマの大舞踏会の家》

サン=ラザール通り(右手)とテブー通り(左手)の交差する角は、現在郵便局の建物となっている。昔はここが40番地で、当時あった建物の4階にデュマが1831年から1833年までの2年余り住んでいた。当時はこの建物もステータスの高い住宅地「スクヮル・ドルレアン」(Square d'Orleans)の一角であった。その後「スクヮル・ドルレアン」の入口はテブー通り80番地に変えられた、右(→)画像で左手の青い交通標識の右に黒い入口が見える。

この時期のデュマは女優のベル・クレルサメ
と同棲しており、1831年3月に娘マリー・アレクサンドリヌ(Marie-Alexandrine)が生まれ、デュマはこれを認知した。引き続いて6年前に生まれていた息子のアレクサンドル・デュマ(フィス)(Alexandre Dumas fils, 1824-1895)も初めて認知した。この1831年にはデュマは29歳で、5月にポルト・サン=マルタン座で初演した『アントニー』(Antony)が前例のないほどの大成功を収め、130回もの公演を重ねた。主演はマリー・ドルヴァル(Marie Dorval)とボカージュ(Bocage)だった。
さらにその翌年1832年5月には『ネールの塔』(La Tour de Nesle)が前作をさらに上回る未曽有の成功をもたらした。かくしてデュマはまず手始めにロマン主義演劇の頂点に立ったのだった。


Le carnaval des boulevards en 1828
Illustration par Bertall, @BnF Gallica

これらの戯曲の大成功を祝して、デュマは1833年3月30日に盛大な仮装舞踏会を催した。デュマの一生は大金を稼いだり、借金取りに追われたりと、浮沈の激しい劇的な生活の連続であったが、この時も儲けた金に飽かせて馬鹿騒ぎの催しを企てた。ちょうどこの日がパリの「謝肉祭」(カルナヴァル, Carnaval)の日であって、自宅に700名を超える招待客を呼んだものの、全員が入れるはずはなく、一部は朝の9時から楽隊を先頭に大通りまで仮装行列を繰り出し、大通りでのカルナヴァルの群衆に合流したりした。デュマの家では絶えず入れ替わり立ち代わり客が出入りし、夜中まで餐宴が続けられたという。(↑)上掲のイラストは「1828年の大通りの謝肉祭」の様子を描いたベルタル(Bertall)の版画だが、この時代の風俗をうかがい知ることができる。(CVP, PRR)

2015年12月27日日曜日

9区サン=ジョルジュ地区(13-2)女優マリー・ドルヴァルの家

☆サン=ラザール通り44番地 44 rue Saint-Lazare, 9e
Marie Dorval dans le rôle de
Marion de Lorme, héroïne du drame de
Victor Hugo; Documents iconographique
@BnF  Gallica
《女優マリー・ドルヴァルの家》

マリー・ドルヴァル(Marie Dorval, 1798-1849)の名前はロマン主義文学における劇作品の革新に深く結びついている。彼女は俳優の両親のもとに生まれたが、父親は妻子を見捨てて出奔し、母親は病死し、親戚に育てられながら子役で舞台に立った。16歳で結婚したが、夫も5年後に旅先で病死した。彼女は20歳で2人の子供を産みながら、未亡人となった。地方の劇団で活動しているうちにパリのポルト・サン=マルタン座との契約を得てパリに出た。
彼女が女優としての名声を確立したのは1827年29歳
のときで、その演技に伝統的な古典派の芸術性よりも感受性あふれる性格表現と情熱の発露がまさっていたことで、パリの観衆の熱烈な支持を得た。
(→)右掲は、ヴィクトル・ユゴー(Victor Hugo, 1802-1885)の5幕の韻文劇『マリオン・ドロルム』の主役として1831年に初演された時のマリー・ドルヴァルの姿である。当時のロマン派劇作家としては、ヴィクトル・ユゴーが『クロムウェル』(1827)、『エルナニ』(1830)、『マリー・テューダー』などでロマン主義運動の先頭に立ち、アレクサンドル・デュマ(Alexandre Dumas, 1802-1870)も『アンリ三世とその宮廷』(1829)、『アントニー』(1831)などで競い合った。マリー・ドルヴァルはこれらの戯曲の公演でそのほとんどの主役となった。一時期、デュマとは愛人関係があったが、その後彼に紹介されたアルフレッド・ド・ヴィニー(Alfred de Vigny, 1797-1863)と熱烈なかつ波乱に満ちた恋愛関係となり、1838年まで続いた。

Rue Saint-Lazare, n° 44 : Maison habitée par Mme Dorval, 1837 :
estampe / APM [Potémont] ; Dessin de M. Régnier
ちょうどこの時期に彼女はこの44番地の家に住んでいた。(←)左掲は1837年当時の石版画で、有名人はその肖像画と共にその住まいも好んで紹介されたものと思われる。まだまだ鄙びた地方都市の一軒家という風情である。

実は、彼女の肖像画も沢山出されたが、正直「美貌の女優」と言えるものはほとんどなく、(大体が怖そうなキツイ顔で)上掲のものが「最良」とされている。ユゴーは彼女を評して「美人じゃない、彼女は美人以上だ!」(Elle n'est pas belle ... elle plus que belle!)と語ったという。しかし、たとえ美しくなくともその舞台芸術は「恋多き女性」(femme amoureuse)の伝説と共に歴史に語り継がれている。
(c) Google Map Streetview,
44 rue Saint-Lazare, 9e

(←)左掲は現在のサン=ラザール通り44番地の様子である。ほとんど特徴のない普通のビルで目立たない。入口の横に「パリの歴史」(Histoire de Paris)と書かれた史跡案内板が設置されている。これは言うまでもなく「この場所に女優のマリー・ドルヴァルが住んでいた。」という内容が書かれている。
単純にボートをこぐ櫂のような形をしている。この表示板は、現在制作者から厳しい著作権上の制限を受けていて、表示板を直接的な対象物として画像を掲載するのを禁じている。ただし、この画像のように家の建物を写したときに「たまたま」一緒に写ってしまった、という程度ならば大目にみてもらえるという判断が示されている。

*参考サイト:Panneau Histoire de Paris(仏文)
https://fr.wikipedia.org/wiki/Panneau_Histoire_de_Paris





*参考Link :100年前のフランスの出来事: 戯曲「マリオン・ドロルム」の再演 (1907.04.22)
http://france100.exblog.jp/5221951/


*参考サイト:Breizh Femmes - Histoire(s) - Marie Dorval(仏文)
http://www.breizhfemmes.fr/index.php/10-histoire-s/107-histoire-s-marie-dorval



2015年12月25日金曜日

散歩R(13-1) サン=ラザール通り Rue Saint-Lazare, 9e(9区サン=ジョルジュ地区)

(c) Google Map Streetview,
perspective de la rue Saint-Lazare

トゥール・デ・ダム通りの途中からラ・ロシュフコー通りまで戻って、坂を下るとサン=ラザール通りに出る。右に曲がると整然とした通りが見通せる。

サン=ラザール(Saint-Lazare)通りは1000年以上前から存在する古い道路である。普通に考えれば、サン=ラザールとはイエスが奇跡を起こしたうちの一つとして聖書に「ラザロの蘇生」として知られている人物が思い浮かぶのだが、ここではまったく別の聖人ラザロのことを指すことが初めてわかった。


Les paraboles : Le mauvais riche et le pauvre Lazare
Sujet tiré du Nouveau Testament
Documents iconographiques, @BnF Gallica

ルカ福音書に「金持ちとラザロ」のたとえ話として記されている。金持ちは良い身なりをして毎日宴会を開いていたが、貧者のラザロは外で物乞いをしていた。犬はその男の腫物を舐めた。やがてどちらにも死が訪れ、金持ちは地獄に落ち、貧乏人は天国に迎えられた、という教訓話である。(Les paraboles : Le mauvais riche et le pauvre Lazare)⇒
ラザロは中世においては一般に、癩病患者として考えられ、あたかも実在の人物だったかのように聖人の列に加えられ、癩病患者と乞食の守護聖人となった。
~ジェイムズ・ホール『西洋美術解読事典』(河出書房新社)から引用

この道路の東に向かってだいぶ先に、紀元1110年頃から修道会の運営する「聖ラザロの家」(Maison de Saint Lazare)と称する癩病患者のための施設があったことが名前の由来である。そこは約400年間続き、その後司祭館となったり、監獄となったり、女性の犯罪者の更生施設となったりした。現在では、反対の方角の西の先にあるサン=ラザール駅が名前としての知名度が一番高い。

面白い名前の店としては、「イヴの気質」(La naturelle d'Eve)という意味だろうが、女性の興味をひきそうな分野の書物・雑誌を集めている本屋さんがある。上の画像の左側、黄緑色の外観。
もっと先の郵便局の角には「偶然」(L'Hasard)という小さなレストラン・バーがある。マリヴォーの戯曲『愛と偶然の戯れ』(Le jeu de l'amour et du hasard)を連想する。


(c) Google Map Streetview,
54 rue Saint-Lazare, 9e

☆サン=ラザール通り54番地 54 rue Saint-Lazare, 9e

ラ・ロシュフコー通りとの角にある家である。馬車門の上部装飾の花模様が美しい。

左側のカフェ・レストランの名前が「ル・ラロシュ」(Le Laroche)になっている。昔、坂の上にあった画家たちの溜まり場「ル・ラロシュ」と同じ名前である。[ サン=ジョルジュ地区(10-9) 参照 ]

(c) Google Map Streetview,
56 rue Saint-Lazare, 9e







☆サン=ラザール通り56番地 56 rue Saint-Lazare, 9e

通りから奥まった場所に住む居住者のための通路がある。当然袋小路で、トゥール・デ・ダム通りの「マルス嬢の館」や「ヴェルネの館」などの屋敷がそれぞれ所有する中庭にある裏門とつながっている。









☆サン=ラザール通り58番地 58 rue Saint-Lazare, 9e
 PA00088981 © Monuments historiques, 1992
« Hôtel de style toscan » par MOSSOT
— Travail personnel. Sous licence CC BY 3.0
via Wikimedia Commons

1829年に建てられた歴史的建造物である。パリには珍しい多色装飾(ポリクロミー Polychromie)が特徴で、トスカーナ風と評されている。

ここには歴史画家のポール・ドラロシュ(Paul Delaroche, 1797-1856)が1839年まで約10年間住んでおり、その後トゥール・デ・ダム通りの7番地に引っ越した。 [ サン=ジョルジュ地区(12-4)参照 ]















☆サン=ラザール通り60番地 60 rue Saint-Lazare, 9e

19世紀末から20世紀初頭にかけてパリの街角には規模の大きい白亜の石造建築が数多く建てられた。この建物もその一つで、1899年に建築士のロブロ(P. Lobrot)の設計による都市建築で店舗、事務所、住居の複合体としての建物である。正門の上部の装飾も堂々としている。いわゆるユルバニスム(Urbanisme)によるパリの都市景観がこの時期に一つの隆盛期を迎えたと言えるのかもしれない。

散歩者はここから折り返してサン=ラザール通りを東に向かう。


(c) Google Map Streetview,
60 rue Saint-Lazare, 9e









































かたつむりの道すじ:⑪ラ・ロシュフコー通り~⑫ラ・トゥール・デ・ダム通り~
⑬サン=ラザール通り~⑭テブー通り~⑮ドーマル通り (c) Google Map


2015年12月23日水曜日

散歩R(12-5) 名優タルマの館 Hôtel de Talma, célèbre acteur(9区サン=ジョルジュ地区)

☆ラ・トゥール・デ・ダム通り9番地 (9, rue de la Tour des Dames, 9e)  
《名優タルマの館》(Hôtel Talma)
PA00088919  © Monuments historiques, 1992 

« Hôtel Talma », 9 rue de la Tour des Dames, 9e
By MOSSOT (Own work) CC BY 3.0,
via Wikimedia Commons
この館は1820年に当時の著名な俳優フランソワ=ジョゼフ・タルマ(François-Joseph Talma, 1763-1826)のために建てられた。彼はここで晩年の6年間を過ごし63歳で世を去った。タルマは、18世紀末から19世紀初頭にかけて活躍した演劇界を代表する名優であった。この家の内装はドラクロワに依頼された。

ドラクロワはタルマの舞台衣装姿の肖像画も描いている。(↓)ラシーヌの悲劇『ブリタニキュス』の中のローマ皇帝ネロの役の姿である。
Eugène Delacroix : Talma au rôle de Néron
dans Britannicus, tragédie de Jean Racine
Collection de la Comédie Française,
via Wikimedia Commons






タルマは舞台衣装の改革に取り組み、それまで普通の衣服を着ていた古代ギリシア・ローマ時代を背景とした劇作品の演技において、できるだけその時代の衣装を、つまりトーガと呼ばれる長衣や編上げの草履(←絵参照)を身に着けることを推し進めた。

さらに古典主義の古臭く大げさに誇張された朗唱法を改革し、詩句の語り口の自然な節回しを心がけた。

彼の朗々とした発声と堂々とした演技は、身体的にも皇帝ナポレオンに似通っていたのは確かだったようで、ナポレオン自身もかタルマを贔屓とし、遠征先まで劇団を呼び寄せて上演させたこともあった。

Hamlet, tragédie de Jean-François Ducis :
Talma (Hamlet) et Joséphine Duchesnois (Gertrude)
Paris : Comédie-Française, 23-05-1807
Paris, Bibliothèque nationale de France (BnF)



(→)右掲は、『ハムレット』を演じるタルマとその相手役(ハムレットの母親ゲルトルード)を演じるジョゼフィーヌ・デュシェノワの舞台絵で、1807年5月23日のコメディ・フランセーズでの公演である。この時代のフランスでは、シェークスピアの戯曲はフランス語に忠実に翻訳するのではなく、劇の大筋だけを残して、フランス人劇作家がフランス語の韻文の台詞を新しく書き下ろして上演する形が定着しており、フランスの観客にはそうしなければ受け入れるのが難しかったのだと思われる。この『ハムレット』もそうで、ジャン=フランソワ・デュシ(Jean-François Ducis, 1733-1816)という劇作家が他にも『ロメオとジュリエット』、『リア王』、『マクベス』、『オセロ』などを翻案して作っている。

王政復古となって、輝かしかったタルマの地位にも陰りが出たが、1820年この館に移り住んだ以降でも、新たな作品に取り組む姿勢は変わらず、『マリー・スチュアート』、『シャルル6世』などで新たな喝采を博した。しかし、その最後の成功の数日後にタルマは死去した。

アレクサンドル・デュマは、タルマを非常に尊敬し、未整理のまま残された彼の自伝や覚書を編集し、自ら長大な序文を付けて出版している。(CVP, DNR, LAI)


2015年12月21日月曜日

9区サン=ジョルジュ地区(12-4)画家ドラロシュの館


☆ラ・トゥール・デ・ダム通り7番地 (7, rue de la Tour des Dames, 9e) 《画家ポール・ドラロシュの館》
(c)Google Streetview
7, rue de la Tour des Dames, 9e

5番地の隣の建物もあまり目立たないが、19世紀前半、特にルイ=フィリップの7月王政(Monarchie de Juillet, 1830-1848)時代に評価の高かった歴史画家ポール・ドラロシュ(Paul Delaroche, 1797-1856)が住んだ家である。

彼はパリの絵画鑑定士の息子として生まれ、20代でサロンに入選を果たし、ロマン派絵画の先駆者ジェリコーと親交があった。ドラロシュは歴史上の出来事の一場面を、劇的な効果を生み出すように描き出す才能があり、30歳で画家としての地位を確立した。古典派の端整な画風の中にこうしたロマン派的な劇的要素を加味したことで、一般大衆に愛好され、ある意味で軽蔑の混じった評言としてしばしば「中庸派」(L'école du juste milieu)と呼ばれた。



Paul Delaroche :  Napoléon à Fontainebleau,
le 31 mars 1814 / Paris, Musée de l'Armée
Crédit : Photo (C) Paris - Dist. RMN-Grand Palais
 / image musée de l'Armée






1840年頃からこの7番地の館に住んだが、隣家の大画家オラース・ヴェルネ(Horace Vernet, 1789-1863)とも親しく交友があり、その娘ルイーズ(Louise Vernet, 1814-1845)とは17の年齢差はありながら、熱愛の末に1843年に結婚し、姻戚となった。

後年には多くの肖像画に取り組み、この分野に才能を発揮した。彼の描く肖像画の人物には強い視線を感じさせるものが多いのが特徴で、それは必ずしも正面の描き手の画家に向けられたものではなく、描かれた人物のその時の心理状態をうかがわせるものが感じられる。

右掲(→)は『フォンテーヌブローのナポレオン、1814年3月31日』と題された有名な歴史的人物画で、退位を決めた「失意のナポレオン」の表情を巧みに描き出している。しかもその鋭い視線の先には、復権の野望をすでにうかがわせる。

Delaroche : Hérodiade (1843)
Cologne, Wallraf-Richartz Museum
via Wikimedia Commons



(←)左掲は『エロディアド』(ヘロディア)。聖書に書かれたヘロディアとは、サロメの母親のことで、サロメが王の前で踊って褒美に何か、ときかれた時に、洗礼者ヨハネの首を所望するようにとサロメをそそのかした人物である。19世紀後半から世紀末にかけては「サロメ」のテーマが文学、絵画、演劇、音楽と広範囲に取り上げられたが、そのほとんどが1870年以降であるのに対し、ドラロシュはその先駆けとなる作品を1843年に描いていたことになる。生首を前にして斜め下を見据えた彼女の視線も、氷のような不気味な美しさである。

ドラロシュは1832年に35歳の若さで芸術アカデミーの会員に選ばれた。近くのラヴァル通り(現在のヴィクトル・マセ通り)にアトリエを構え、弟子として風景画家のドービニー、バルビゾン派のミレー、歴史画家のジェロームなど多くの画家を育成した。(CVP, DNR, LAI)




2015年12月19日土曜日

9区サン=ジョルジュ地区(12-3)画家ヴェルネ一族の館

☆ラ・トゥール・デ・ダム通り5番地 (5, rue de la Tour des Dames, 9e)  《画家ヴェルネ一族の館》



(c)Photo Emoulu bc24a, 2003
5番地の建物は歴史的建造物になっていないが、この通りにふさわしい品格のある門構えで、18世紀から歴史画家として有名だったカルル・ヴェルネ(Carle Vernet, 1758-1836) とその子のオラース・ヴェルネ(Horace Vernet, 1789-1863)の親子が住んでいた館である。

Anonyme : Joseph, Carle
et Horace Vernet, peintres français
Paris, musée d'Orsay
Crédit Photo (C) RMN-Grand Palais
 / Hervé Lewandowski








実は一代前のジョゼフ・ヴェルネ(Joseph Vernet, 1714-1789) もまた大革命前の時代の高名な海洋画家として知られていたので、実質三代にわたって大画家を輩出した一族ということになる。

後世から見れば単に「これはヴェルネの絵だ」と言うだけでは事が足らず、父か、子か、孫かを補足する必要がある。

Joseph Vernet : Tempête avec naufrage
Allemagne, Munich, Bayerische Staatsgemäldesammlungen, Alte Pinakothek
Crédit Photo (C) BPK, Berlin, Dist. RMN-Grand Palais / image BStGS








まず最初のジョセフ・ヴェルネ(Joseph Vernet, 1714-1789)は、アヴィニョンで生まれ、南仏とローマで絵の修行をし、マルセイユに定住し、フランスの風景画史上最高の画家とされたクロード・ロラン(Claude Lorrain, 1600-1682)に強く影響を受けた港湾の風景画を多く描いた。1753年からパリに移り、ルイ15世からフランスの主要な22の港の絵の連作「フランス諸港」の注文を受け、そのうちの15までを完成させた。彼は風光明媚な港の風景を描く一方で、暴風雨に見舞われた難破船や月光に照らされた港の夜景などのロマン派的な物語性のある作品も多く残している。(DNR)

Carle Vernet : Chasse au daim pour la Saint-Hubert en 1818, dans les bois
de Meudon / Passage de l'eau dans l'étang de Ville d'Avray
Paris, musée du Louvre
Crédit Photo (C) RMN-Grand Palais

次のカルル・ヴェルネ(Carle Vernet, 1758-1836)は、その生涯の大半が大革命とナポレオンによる戦争の連続であった時代で、戦争画の開拓者とも言われ、歴史的・軍事的な記録画を多く残した。また彼は馬の動きを巧みに描くことも得意だった。1816年に芸術アカデミー会員に選ばれた。(DNR)

(→)右掲は、王政復古後の1818年にパリ郊外のムードンの森で行われた鹿狩りの様子を描いたもので、まるで軍隊の演習のように大規模な人馬と猟犬の様々な動きが大画面に表わされている。

Horace Vernet : Louis-Philippe, duc d'Orléans, nommé lieutenant général du royaume, quitte à cheval le Palais Royal pour se rendre à l'hôtel de ville de Paris, le 31 juillet 1830 - épisode de la Révolution de 1830
Versailles, châteaux de Versailles et de Trianon
Crédit Photo (C) RMN-Grand Palais (Château de Versailles) / Gérard Blot
最後のオラース・ヴェルネ(Horace Vernet, 1789-1863)は、当初祖父の画風を踏襲した海洋画を描き、次いで父と同じようにナポレオンの英雄的な勝利と栄光を再検証するかのように「ジュマップ」、「イエナ」、「ワグラム」、「フリートランド」、などの戦いの絵を再現した。(↑)上掲は「1830年の七月革命において新王に選ばれたオルレアン公ルイ=フィリップが騎乗してパレ・ロワイヤルを出てパリ市役所に向かう場面」という歴史的瞬間を人民の熱狂とともに描き出している。彼はこうした大画面に広がる戦闘や革命の光景の中に、非常に多くの兵士や市民の様々な動きを描き分け、その集合体としてのエネルギーを見る者に及ぼす力量があった。

彼も1826年37歳で芸術アカデミーの会員となったのに加え、1829年にはローマのフランス・アカデミー館の館長を務めた。この5番地の館は芸術家たちのあまり気取らない自由な交遊の場となった。(LAI, CVP, DNR)

(↓)下掲は、フランスが1830年代にアルジェリアを植民地化するために軍隊を送り込み、各地で戦闘が繰り広げられたことをもとに、国威発揚の意味でヴェルネに描かせた作品の一つである。
画題は「1837年のアルジェリア征服の挿話」とあり、コンスタンティーヌ(Constantine)の要衝を攻めとる場面である。縦長の構図に迫力がある。実際は苦戦に次ぐ苦戦であったという。


Horace Vernet : Episode de la conquête de l'Algérie en 1837
Versailles, châteaux de Versailles et de Trianon
Crédit  Photo (C) RMN-Grand Palais (Château de Versailles) / Gérard Blot

2015年12月17日木曜日

9区サン=ジョルジュ地区(12-2)花形女優デュシェノワ嬢の館


☆トゥール・デ・ダム通り3番地 3 rue de la Tour des Dames, 9e
《花形女優デュシェノワ嬢の館》
PA00088915  © Monuments historiques, 1992 

この建物は元々パリ16区のトロカデロ付近にあったヴァランティノワ城館(Hôtel de Valentinois)を解体する時に、その一部をこの場所に移築したもので、大革命以前の郊外の貴族の城館を都会の真中で目にする意外さとともに、半円形の建物の美しい形が印象深い歴史的建造物である。「デュシェノワ嬢の館」(Hôtel de Mademoiselle Duchesnois)と呼ばれている。 
(c)Phot3 Emoulu bc25f, 2003
デュシェノワ嬢(Mademoiselle Duchesnois, 1777-1835)は、本名をカトリーヌ=ジョゼフィーヌ・ラファン(Catherine-Joséphine Rafin)といい、フランス北部の町に生まれた。初めは小間使いやお針子として働いていたが、地方の素人劇団に加わることで演劇への情熱に目覚め、パリに上京して演劇の勉強をした。1802年に25歳でラシーヌの悲劇「フェードル」で主役を演じて華々しい成功を収めた。彼女の評価は急速に高まり、名優タルマ(François-Joseph Talma, 1763-1826)の相手役をつとめ、悲劇のヒロインとしての完璧な才能を発揮することになった。
Joséphine Duchesnois
document iconographique
@BnF Gallica

彼女は1804年にコメディ・フランセーズの正団員となったが、同時期の悲劇女優として人気のあったジョルジュ嬢(Mademoiselle George, 1787-1867)とはライバル同士となり、激しい競合を演じた。ジョルジュ嬢は一時期ナポレオンの愛人であり、皇帝となった後も彼女を支援したのに対し、デュシェノワ嬢は名前が同じだった皇妃ジョゼフィーヌの庇護を受けた。

彼女はこの建物を1822年に購入し、45歳から54歳までの約12年間暮らし、サロンを開いた。喜劇女優のマルス嬢は2年後に隣の館に住むようになったが、分野が異なるので張り合うわけではなかったようだ。むしろ、この界隈がタルマを含めて最高の演劇人が住まいとすることで「新アテネ地区」(Nouvelle Athène)の評価は一層高まった。

彼女は1833年に55歳で舞台から引退し、その2年後57歳で死去した。(CVP)







2015年12月15日火曜日

9区サン=ジョルジュ地区(12-1)大女優マルス嬢の館


(c) Google Streetview
Rue de la Tour des Dames, 9e
ラ・ロシュフコー通り12番地の向い側に一本の通りがТ字路として出ている。これがラ・トゥール・デ・ダム通りである。特にこの通りの南側は昔からの貴族の邸宅と思われる低層の屋敷が続いて落ち着いた佇まいを見せている。「ラ・トゥール・デ・ダム」(La tour des dames)の意味は直訳で「婦人たちの塔」となるが、15世紀の頃から野原の小道だったところにモンマルトルの尼僧院の所有する風車小屋があって、それを「塔」と呼んだことに由来するようだ。風車小屋は1822年に取り壊されて、その頃からこの地域の宅地開発が行われた。19世紀前半にはここに多くの芸術家や文人が住んだので「ヌーヴェル・アテーヌ」(Nouvelle Athène)と呼ばれるようになった。






☆ラ・トゥール・デ・ダム通り1番地 (1, rue de la Tour des Dames, 9e)  
☆ラ・ロシュフコー通り7番地 (7, rue de La Rochefoucauld, 9e)
《大女優マルス嬢の家》
PA00088916 © Monuments historiques, 1992 


« Hôtel de Mademoiselle Mars » par MOSSOT
— Travail personnel. Sous licence CC BY 3.0
via Wikimedia Commons

通りの角にある建物で、歴史的建造物として『マルス嬢の館』(Hôtel de Mademoiselle Mars)と呼ばれている。

この建物は当初1780年頃に建てられ、ブーゲンヴィル館と呼ばれたが、ナポレオン時代のあと、1820年にグーヴィオン=サンシール元帥(Maréchal Gouvion-Saint-Cyr, 1764-1830)の住まいとなった。彼は大革命時代からナポレオン時代にかけて活躍した軍人で、ナポレオンに必ずしも忠誠を示したわけでなかったために、王政復古後も侯爵としての地位を保つことができた。

1824年に当時大女優として確固たる人気を誇っていたマルス嬢(Mademoiselle Mars, 1779-1847)がこの館を買い取り、その住まいとした。彼女の本名は、アンヌ=フランソワーズ・ブーテ(Anne-Françoise Boutet)だが、舞台俳優の両親を持ち、1792年に14歳で初舞台を踏んだ。マルスの名前は母親の芸名から用いた。以降、彼女はモリエールやマリヴォーの戯曲で、無邪気な娘役から恋する女役、さらには男を虜にする魅力たっぷりの熟女役などを得意とし、1799年には20歳の若さでコメディ・フランセーズの正団員となった。パリの観衆は彼女の魅力と知性と女優としての演技を賞賛した。

Capet, Marie-Gabrielle : Portrait présumé de Melle Mars
Paris, musée du Louvre, D.A.G.
Crédit Photo (C) Musée du Louvre,
Dist. RMN-Grand Palais / Martine Beck-Coppola
ナポレオンの庇護を受けたために王政復古の時代には彼女の地位を貶めようとする動きがあった。しかしルイ18世は彼女の才能を評価して年金の支給を決定した。

彼女は多くの貴金属の装身具や宝石を所有し、舞台で演技するときはそれらの一部を必ず身につけて出ていた。
1814年のナポレオンの退位と連合軍のパリ入城の時には、植物採集用の胴乱のようなブリキの容器を40個作らせて、その中に宝石と貴金属を入れ、家の中のわからない場所に隠したという。

彼女が住んだこの館でも1827年10月19日に、すべての宝石と装身具が盗難にあうという事件が起きた。その日彼女は仲間の俳優のところに夕食に出かけ、小間使いと御者も別の用事で不在だったところで、先に戻った小間使いが盗難の発見者となった。その晩、この通りをうろつく不審な男の姿が目撃された。捜査の結果、ジュネーヴで宝石商に盗品を持ち込んだ男が逮捕され、その男の妻が小間使いだったことが判明した。(CVP)

上掲(↑)は、マリー=ガブリエル・カペー(Marie-Gabrielle Capet, 1761-1818) という女流画家によるマルス嬢と推定される肖像画である。


2015年12月13日日曜日

散歩R (11-10) 彫刻家ピガールの家 Ancienne maison de Pigalle, sculpteur(9区サン=ジョルジュ地区)

☆ラ・ロシュフコー通り12番地 (12, rue de La Rochefoucauld, 9e)
(c) Google Map Streetview,
12, rue de La Rochefoucauld, 9e
《彫刻家ピガールの家》Ancienne maison de Pigalle, sculpteur

この建物の中庭の奥に18世紀の彫刻家ピガール(Jean-Baptiste Pigalle, 1714-1785)が晩年の3年間を過ごし、71歳で死去した家があったとされる。

ピガールという名前は、パリで最も下品で危険な歓楽街の地名として定着しているが、その由来は元々この地域に住んでいたこの彫刻家ピガールに拠っている。

この家の周辺は、大革命以前は丘の傾斜地に畑が広がり、粉引きの風車小屋が並び立つパリ郊外の風景であり、老彫刻家が余生を送る田舎家としてはほど良い環境であったと思われる。(CVP)


Pigalle : Mercure attachant ses talonnières
Crédit : Photo (C) Musée du Louvre,
Dist. RMN-Grand Palais / Thierry Ollivier








ピガールは1744年30歳の時に制作した『翼のある踵をつけるメルクリウス神』(Mercure attachant ses talonnières)が国王ルイ15世およびその寵姫ポンパドゥール夫人の興味を引き、宮廷から重用されて多くの胸像や銅像、記念碑などの作品を残した。

ここの家にはその後1829年頃に外交官で旅行家、文筆家であったアストルフ・ド・キュスティーヌ侯爵(Astolphe, marquis de Custine, 1790-1857)も住んでいた。(CVP)
参考に彼の箴言が載っている「フランス箴言集」のサイトを紹介する。
http://promescargot.blog.fc2.com/blog-category-33.html


2015年12月11日金曜日

散歩R(11-9) ギュスターヴ・モロー美術館 Musée Gustave Moreau(9区サン=ジョルジュ地区)

☆ラ・ロシュフコー通り14番地 (14, rue de La Rochefoucauld, 9e)
《ギュスターヴ・モロー美術館》Musée Gustave Moreau
PA00088994  © Monuments historiques, 1992




(c)Photo Emoulu bc25, 2013
14番地の建物はギュスターヴ・モロー美術館である。19世紀後半に活躍したギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau, 1826-1898)は、独自の絵画世界を創り上げ、その幻想味あふれる作品は多くの人々を魅了した。比類のない想像力、構成力、描写力を持つ孤高の画家とも言える。

4階建ての個人住宅だが、政府機関の建築家だった彼の父親の好みに合った折衷的な装飾に特徴がある。3階の三角破風の窓の周囲は、珍しく赤煉瓦に取り囲まれている。両親がこの家を購入したのは1853年、モローが27歳の時で、すでに前年にサロンに初入選しており、父親はモローが画家としての道を歩むことを支援するために広いアトリエも確保できるこの家で一緒に暮らすことにしたのである。



(c) Photo Emoulu  bc26f, 2013






モローはドラクロワに画家としての進路を相談したり、シャセリオに師事したりしたが、2人ともこのサン=ジョルジュ地区、別名《新アテネ地区》(ヌーヴェル・アテーヌ Nouvelle Athène)に住んでいた。

G.Moreau : Triomphe d'Alexandre le Grand
Musée Gustave Moreau, Paris
Crédit : Photo (C) RMN-Grand Palais / René-Gabriel Ojéda

モローの描いた作品のほとんどは、神話や聖書および古代史の伝承を題材としたもので、均整の取れた男女の姿態の抑制された美しさに目を惹かれる。さらにその背景や群像の微細な箇所に至るまで装飾を施し、あるいは空間を埋め尽くす壮大な構築物の存在感は見る者を飽きさせない。

(→)右掲は『アレクサンドロス大王の凱旋』(Triomphe d'Alexandre le Grand)と題する大作で、美術館の3階に螺旋階段を上がったところに飾られていたと記憶する。インドまで大遠征をして王たちを屈服させたアレクサンドロス大王が須弥壇のような玉座に収まっている。このようにモローの作品には、東洋の佛教画あるいは曼荼羅に通じる宗教性、神秘性を感じることができる。

Portrait
Paris, Musée Gustave Moreau
Crédit : Photo (C) RMN-Grand Palais
 / René-Gabriel Ojéda



身体が弱かったモローは、それでも若い頃は社交界に出入りしたり、近隣のカフェで若い画家たちと議論に加わることがあった。しかし次第に自宅に閉じこもるようになり、ごく少数の親しい友人、知人たちとの交友のみで、絵画の制作と読書と思索に多くの時間を傾けた。

彼は妻帯することはなかったが、長年密かに情を通わせたアレクサンドリヌ・デュルー(Alexandrine Dureux)という女性の存在が明らかとなった。(←)左掲は『肖像画』(Portrait)という単純な画題で「誰の」という表記が省かれたものだが、モローとしては非常に珍しい人物画である。風景画家のコローにも『真珠の髪飾りの女』という珍しい肖像画の名作があるが、それに匹敵する隠れた名作であると思う。このモデルは秘められた愛人のアレクサンドリヌではないかと思ってみたりしている。








2015年12月9日水曜日

散歩R(11-8) 芸術家の家(その2)グノー Maison des artistes (suite) Gounod(9区サン=ジョルジュ地区)

☆ラ・ロシュフコー通り17番地 (17, rue de La Rochefoucauld, 9e)
《芸術家の家》(その2)

(3)《作曲家グノーの住まい》Ancienne demeure de Gounod

作曲家シャルル・グノー(Charles Gounod, 1818-1893)が1866年頃から1879年頃まで住んでいたのは通りに面した1階の質素なアパルトマンだった。彼はこの1866年に47歳で芸術アカデミー(Académie des Beaux-Arts)の会員に選出されたばかりで、偶然かどうかは不明だが、恩師のアレヴィと同じ建物に約20年後に住むことになった。フランスのアカデミーでは全体で毎年、年報(Annuaire)を出していて、活動報告や会員の交代、住所録などが記録されており、当時の会員の住所を確認することができる。
Première représentation de Faust, opéra de Charles Gounod : illustration de presse / gravure de Lefman
Acte 5e, deuxième tableau, Décoration de MM Cambon et Thierry
@BnF, département Bibliothèque-musée de l'opéra, Estampes Scènes

グノーは20代では教会のオルガニストを務め、専ら宗教音楽を作曲していたが、1850年以降は当時フランスで盛んに楽しまれたオペラを中心とした劇音楽に傾注するようになった。彼の代表作とされるオペラ『ファウスト』(Faust)(フランス語では「フォースト」と発音するようだ)は1859年3月19日にリリク劇場(Théâtre Lyrique)で初演されて以来、フランス語のオペラとしては史上最多の上演回数を誇る。(↑)上掲は初演時の「ファウスト」の舞台の様子を伝えた絵入り新聞の銅版画で、その壮大さに圧倒される。


(Détail de la gravure de Lefman)
1860年代の後半はグノーの生涯でも最も成功に満ちた時期となった。1867年のパリ万博の年に初演となったオペラ『ロメオとジュリエット』(Roméo et Juliette)も大成功を収めたのに加え、1869年には『ファウスト』の改訂版、つまりグランド・オペラとしてそれまでの台詞の部分を叙唱(レシタティフ、récitatif)に置き換え、さらにバレエを付け加えてこのオペラの評価を不動のものとした。

最近の名演奏として知られるのは、2008年の南仏オランジュ音楽祭(Chorégies d'Orange)での公演で、Youtubeでは全曲のものと、第3幕の愛の二重唱の場面とが見聞きできる。ロベルト・アラーニャ(ファウスト)、インヴァ・ムラ(マルグリート)、ルネ・パーペ(メフィストフェレス)である。

Faust aux Chorégies d'Orange 2008
Inva Mula - Roberto Alagna - Faust - part 1/2
https://www.youtube.com/watch?v=2p5KrxPAqik

Inva Mula - Roberto Alagna - René Pape - Faust - part 2/2
https://www.youtube.com/watch?v=cormPayyosA


2015年12月7日月曜日

散歩R (11-7) 芸術家の家(その1)アレヴィ、カバネル Maison des artistes - Halévy, Cabanel(9区サン=ジョルジュ地区)



(c) Google Map Streetview,
17, rue de La Rochefoucauld, 9e
☆ラ・ロシュフコー通り17番地 (17, rue de La Rochefoucauld, 9e) 《芸術家の家》(その1)
Maison des artistes

この17番地の建物は、18世紀の末頃に建てられた一見して他の建物と比べて何の変哲もない一般住居だが、多くの芸術家たちが代わるがわる住みついた家として知られる。いわば「芸術家の家」(Maison des artistes)である。


(1)《作曲家アレヴィの住居》
 Ancienne demeure d'Halévy, compositeur

ジャック=フロマンタル・アレヴィ(Jacques-Fromental Halévy, 1799-1862)は、19世紀中頃に活躍したフランスのオペラ作曲家である。今では知名度が低い。40を超える作品のほとんどがオペラもしくは劇音楽だが、現代まで上演が続けられているのは、1835年、36歳の時に初演され、大成功を収めたオペラ「ユダヤの女」(La Juive)くらいであり、あとはほとんど忘れ去られている。(彼自身がユダヤ人家系であったため、第2次大戦のナチスによる弾圧で多くの芸術家が歴史から不当に抹殺されたことも原因の一つかもしれない。)


Décoration du 4e acte de Charles VI
Document iconographique
@BnF Gallica
1827年28歳でパリ音楽院の和声学の教授となり、その後対位法と作曲も教え、弟子の中にはグノーやビゼーがいた。また1836年には芸術アカデミーの会員に選出された。この家に住んだのは1841年から1847年までの約6年間で、42歳から48歳の彼の活動の最盛期にあたる。(PRR, LAI)

右掲(→)は、この時期の1843年にオペラ座で上演された「シャルル6世」の舞台装置画で、中世の百年戦争直前のフランス王家内の抗争を描いたスペクタクル歌劇だった。現在ではコンサート形式でしばしば一部が取り上げられている。

アレヴィの「ユダヤの女」(La juive)の中のアリア「ラシェルよ、神の恵みにより」(Rachel, quand du Seigneur) は、フランス歌劇の名曲アリアの一つとして今も広く取り上げられている。Youtube(↓)でドミンゴによる歌唱が見られるが、この演奏には前置きの叙唱部分も入っていて興味深い。

「ユダヤの女」(La juive) 1835
Plácido Domingo - Rachel, quand du Seigneur (1998)
https://www.youtube.com/watch?v=Nc_UOU2vA3c



(2)《アカデミーの代表的な画家カバネルのアトリエ》Emplacement de l'atelier de Cabanel, peintre académicien

アレクサンドル・カバネル(Alexandre Cabanel, 1823-1889) の名前は現代ではあまり知られていないが、19世紀後半の第2帝政時代および第3共和政時代には、フランス美術アカデミーの伝統を受け継いだ画家として、当時最も高く評価されていた一人であった。この家の中庭の樅の木の植込みの奥に1855年頃から1870年代半ばまでアトリエを構えていたという。

彼の名を一躍有名にしたのは1863年のサロンに出品した「ヴィーナスの誕生」(Naissance de Vénus)である。(下記リンク ↓ 参照) 神話の女神に題材を借りて煽情的な姿態を露わにした女性の姿は、大きなセンセーションを巻き起こした。

Cabanel : Cléopâtre essayant des poisons
sur des condamnés à mort (1887)
Musée royal des beaux-arts d'Anvers
Wikimedia Commons


ナポレオン3世は即座に国庫に買い上げた。同じ年にサロンに落選したエドゥアール・マネの「オランピア」(Olympia)は、実社会の風俗としての娼婦の横たわる裸像の赤裸々な表現に人々は嫌悪感を露わにした。いずれも美術史上の大きな事件であった。

カバネルの絵は、それを見る人々の感情をぎりぎりのところで節度を保たせる巧みさがあったと言えるかもしれない。右掲(→)の晩年64歳の作品「死刑囚に毒を試すクレオパトラ」(1887)にしても、頽廃と残酷さのどちらも感じさせない美しい歴史画であるのが何とも不思議に思う。彼は美術学校の教授としても非常に多くの若い画家たちを育てた。(LAI, PRR)


「ヴィーナスの誕生」Wikimedia Commons, Category:The Birth of Venus by Alexandre Cabanel
https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:The_Birth_of_Venus_by_Alexandre_Cabanel


2015年12月5日土曜日

散歩R (11-6) ラヴァレット伯爵邸 Ancien Hôtel de Lavalette (9区サン=ジョルジュ地区)




☆ラ・ロシュフコー通り19番地 (19, rue de La Rochefoucauld, 9e)
PA00088973  © Monuments historiques, 1992
« Immeuble 19, rue de La Rochefoucauld, 9e» par MOSSOT
— Travail personnel. Sous licence CC BY 3.0
via Wikimedia Commons

大きな馬車門と上階のバルコニーに特徴がある。特に装飾的な建物ではないが、格調が高い歴史的建造物。1753年の建造とも言われている。ナポレオン軍の士官や参謀として遠征に加わり、その後郵政長官を務め、国務院に入った政府高官ラヴァレット伯爵アントワーヌ=マリー・シャマン(Antoine-Marie Chamans, comte de Lavalette, 1769-1830)の居館であった。

彼の妻は、エミリー=ルイーズ・ド・ボーアルネ(Emilie-Louise de Beauharnais, 1781-1855)といい、皇妃ジョゼフィーヌの姪にあたり、1800年以降はその侍女となった。有名なダヴィドの「ナポレオンの戴冠式」の絵には、ひざまずく皇妃ジョゼフィーヌの背後で衣装の裾を支える2人の女官(ラ・ロシュフコー夫人とラヴァレット夫人)の姿に描かれている。下掲(↓)部分。
David, Jacques Louis :Sacre de l'empereur Napoléon Ier
 et couronnement de l'impératrice Joséphine
Le 2 décembre 1804 dans la cathédrale Notre-Dame de Paris
Crédit  Photo (C) Musée du Louvre, Dist. RMN-Grand Palais
 / Angèle Dequier






リュクサンブール美術館所蔵のダヴィドのデッサンにはこの大作の下絵がある。
(L’impératrice Joséphine à genoux, avec Mme de La Rochefoucauld et Mme de Lavalette)

この夫妻には娘が生まれたが、皇妃が代母となってジョゼフィーヌと名付けられた。

この夫妻には驚異的な脱獄事件の逸話がある。

Les Evasions célèbres - Le Comte de
Lavalette_ Hachette 1907@BnF-Ĝallica








1815年、ナポレオンのエルバ島脱出と百日天下のあと、ラヴァレット伯爵はその計画に加担した罪で捕えられ、死刑の宣告を受けた。伯爵夫人は様々なつてを頼って助命嘆願をしたが、受け入れられず、刑の執行の前夜を迎えた。
夫人は娘のジョゼフィーヌを伴い、夫と最後の晩餐をするからとコンシュルジュリー牢獄を訪ねた。そこで夫人は自分の服を脱いで夫に着せ、夫の服を着て牢獄に残ったのである。伯爵は妻の服を着たまま娘に付き添われ、担ぎ駕に乗って首尾よく脱出に成功した。右掲(→)は、西洋史における有名な脱出事件の数々を集めた書物の挿絵で、その説明に「妻の服を着たラヴァレット氏は駕篭に乗るまでに守備隊の兵士たちの前を通らなければならなかった。」とある。

牢獄に残った伯爵夫人は1カ月後に釈放された。伯爵は英仏の仲間の助けにより、ドイツのバイエルン王国へ亡命したが、1822年恩赦となって帰国した。自身の「回想録」(Mémoires)にこの事件の詳細が語られている。また夫人はその後、精神に変調をきたし、残りの40年間を家に閉じこもって過ごしたと考えられている。

Portrait de madame de Forget
Vernet Horace (1789-1863)
Blois, château, musée des Beaux-Arts
Crédit: Photo (C) RMN-Grand Palais
/ René-Gabriel Ojéda
さて脱獄事件に加担した娘のジョゼフィーヌ(Joséphine de Lavalette, baronne de Forget; 1802-1886)は当時13歳の少女であった。彼女は1817年15歳で若い国務院監査官のフランソワ・アレクサンドル・ド・フォルジェ男爵と結婚した。
1836年に夫が息子の一人と共に水死(自殺?)するという事件に見舞われ、フォルジェ男爵夫人は34歳で残った2人の息子とともに未亡人となった。
その少し前から彼女は画家のドラクロワ(Eugène Delacroix, 1798-1863)と知り合うようになった。ドラクロワが4歳年上の遠縁の従兄妹同士ということもあって親密な関係となり、画家は彼女の家での夕食に何度も足を運んだ。ちょうどドラクロワが目と鼻の先のノートルダム・ド・ロレット通りにアトリエを構えていた時期に、画家の日記帳にはたびたび「Jで夕食」と記されている。彼女との往復書簡には愛情表現に満ちたものが多く、ドラクロワが世を去る1863年まで生涯を通じて親交が続いた。(CVP, MRP)

ドラクロワは、なぜか彼女の顔の素描しか残していない。左掲(←)の肖像画は、やはり近所に住んでいた有名な画家オラース・ヴェルネ(Horace Vernet, 1789-1863)によって描かれたものである。