パリの街角散歩です。カタツムリのようにゆっくりと迂回しながら、そして時間と空間をさまよいながら歩き回ります。


2015年11月1日日曜日

散歩R(9-1) 旧ブレダ通り Ancienne rue Bréda(9区サン=ジョルジュ地区)

Une enseigne du quartier Bréda - Edmond Texier :
Tableau de Paris, Chap.44, 1852-53 @ BnF-Gallica
19世紀末までは「ブレダ通り」(Rue Bréda) と呼ばれ、これまで通ってきたクローゼル通りと共に「ブレダ地区」(Quatier Bréda) として知られた。この時代は、現在パリで最も有名な(悪名の高い)歓楽街であるピガール広場やクリシー大通りの大衆娯楽地域が盛んになる前であって、この「ブレダ地区」や「ロレット地区」が歓楽街の代名詞であった。
右掲(→)は「ブレダ地区のある看板」として当時の『パリ絵解き事典』(Tableau de Paris)で紹介されたイラストで、1840年代の頃と思われる。言わゆる「飾り窓の女」の見られる「色街」である。

この地域に住んで、自らの美貌と知性を武器に富裕な政治家や実業家たちのその時々の愛妾として暮らした女性たちのことを「ロレット」(La lorette)と呼んだ。バルザックの『人間喜劇』の作品中にも描かれている。

参考Link :アンリ・ミュルジェ『若き芸術家(ボエーム)たちの生活情景』(Scènes de la vie de Bohème)より第6話「ミュゼット嬢」



Monnier Henry Bonaventure (1805-1877)
Moeurs administratives : M. le chef de division donnant une audience
Photo (C) BnF, Dist. RMN-Grand Palais / image BnF
現在の通りの名前の由来となったアンリ・モニエ (Henry Monnier, 1805-1877) は文筆家、風刺画家として知名度が高かった。パリで生まれ育ち、はじめは公証人役場の書記として働いていたが、描いたデッサン画が評判を呼び、たちまち新聞や小説の挿絵、さらには連作画集の注文が殺到した。

 彼は当時の世相を背景とした典型的な人物像を創り出した。いずれも粗野で滑稽でいやらしい気質を備えながら、どこか憎めないという「そこいらによく見かける人物」で、それを『民衆の生活風景』(Scènes populaires)、『ジョゼフ・プリュドムの回想録』(Mémoires de Joseph Prudomme)などで痛烈に描き出し、果ては寸劇まで自分で書き上げて、自身がその人物の役になりきって演ずるまでになった。上掲(↑)は連作画集『お役人の生態』から「陳情を聞く局長」の場面である。



(c) Google Map Streetview
 16, rue Henry-Monnier, 9e
☆アンリ・モニエ通り16番地 (16, rue Henri-Monnier, 9e)
《レストラン「ディノショー」跡》

 ナヴァラン通りとの角に第2帝政時代(ナポレオン3世)に「ディノショー」(Dinochau)という小さなレストランがあった。当時は売れない芸術家たちの溜まり場として、詩人のボードレール(Charles Baudelaire, 1821-1867)、画家のクールベ(Gustave Courbet, 1821-1877)、マネ(Edouard Manet, 1832-1883)、「ラ・ボエーム」の原作を書いた作家ミュルジェ(Henry Murger, 1822-1861)や、グルメ作家のはしりのモンスレ(Charles Monselet, 1825-1888)、新聞小説作家のポンソン・デュ・テラィユ(Pierre Alexis Ponson-du-Terrail, 1829-1871)、風刺画家のアンドレ・ジル(André Gill, 1840-1885)などが顔を連ね、店主のディノショー(Dinochau)は、将来見込みのあると判断した作家、画家、音楽家、彫刻家、政治家、ジャーナリスト等に対して「無制限のツケ」で食事を提供したので、彼らからは大いに感謝された。もちろん見込み外れや濫用もあったため、経営的には大きな損失を生み、店主の死後は廃業となった。(MGP, PRR, LAI)

「ディノショーのお蔭でミュルジェは飢えずに済んだ。生きている限りはこの実直な親父のところでささやかな食事にありつけた。彼の財布は空だったが、ディノショーは構わなかった。彼の未来の担保に甘んじていたのだ。」(Grâce à Dinochau, Murger n'a pas eu faim : tant qu'il a vécu, il a trouvé à la table de l'honnête restaurateur un modeste repas;  sa bourse était vide : peu importait à Dinochau, qui se contentait d'une hypothèque sur l'avenir. - Courrier du Palais; P489 Le monde illustré #225 au 1861/08/03) @BnF Gallica

参考Link : Le Paris pittoresque - Cafés, Hôtels, Restaurants - Dinochaux (仏文)