パリの街角散歩です。カタツムリのようにゆっくりと迂回しながら、そして時間と空間をさまよいながら歩き回ります。


2015年11月7日土曜日

散歩R(10-1) 女流詩人ルイーズ・コレのサロン Emplacement du salon de Louise Colet, poétesse(9区サン=ジョルジュ地区)

 坂を下がってノートルダム・ド・ロレット通りに入る。ノートルダム・ド・ロレット教会の裏手から始まり、ロレット地区(Quartier Lorette)の中心を斜めに上ってくる背骨のような街路である。散歩者は右手に折れて坂をすこし上がっていく。


☆アンリ・モニエ通り2番地 (2, rue Henri-Monnier, 9e)
(c) Google Map Streetview
 38, rue Notre-Dame de Lorette, 9e

☆ノートルダム・ド・ロレット通り38番地 (38, rue Notre-Dame de Lorette, 9e) 《女流詩人ルイーズ・コレのサロン》(Emplacement du salon de Louise Colet, poétesse)

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掲載写真の左手上のトゥドゥーズ広場から下りてきて、ノートルダム・ド・ロレット通りとの角の家(薬局がある)が19世紀中頃に盛んだった文芸サロンの主催者の一人、女流詩人のルイーズ・コレ(Louise Colet, 1810-1876)の住まいであった。
彼女は南仏で生まれ、早くして父親を亡くし、プロヴァンスの母親の実家で育った。少女時代から並々ならぬ詩才を発揮し、2歳年上の音楽家イポリット・コレ(Hippolyte Colet, 1808-1851)と24歳で結婚してパリに出た。(PRR)

夫のイポリットもまだ若く、国立パリ音楽院の作曲科教授だったボヘミア出身のアントン・ライヒャ(アントワーヌ・レィシャ、Anton Reicha, 1770-1836) の補助教員の職だった。家ではフルートの個人教授をしていた。1840年にようやく和声学の教授に任命される。

Louise Colet, née Revoil, poétesse
le dessin par Franz Xaver Winterhalter
Versailles, Châteaux de Versailles et de Trianon
Crédit : Photo (C) RMN-Grand Palais / Gérard Blot
妻のルイーズは、見ての通りの容姿端麗で、彼女自身そのことをよく知りつつ、サロンを通して文学界の要人たちとの交友を深め、自身の詩集がアカデミー詩作賞(Prix de poésie de l'Académie française)(和風に言えば学術院賞)に選出されるように働きかけた。普通に考えてみても20代で、詩集を何冊も出していない状況で選出されるはずがないと思うが、1839年に受賞となり、奨励金を獲得する。彼女はその後もさらに3回受賞するが、これは文学史上でも異例の出来事で、19世紀にこれだけ評価された詩人が現代ではほとんど知られていない事実も興味深いものがある。簡単に言えば「色仕掛け」で賞を取ったのか、としか思えない。

確かにその通りで、当時アカデミーの重鎮だった哲学者のヴィクトル・クザン(Victor Cousin, 1792-1867)と親密な関係となり、クザンが各方面に働きかけた結果ということが知れわたった。引続いてルイーズが妊娠し、1840年に30歳で女児を出産すると、パリで風刺雑誌「雀蜂」(Les Guêpes)を主宰していた文筆家のアルフォンス・カル(Alphonse Karr, 1808-1890)は、夫のイポリットが認知しないと主張しているのを知り、雑誌に「蚊の一刺し」(une piqûre de cousin)という題で彼女とクザンの関係を揶揄する記事を載せた。これに逆上した彼女は、台所から包丁を持ち出し、隠し持ってカルの家を訪ね、「お話したいことがあります」と伝えた。ワイシャツ姿のカルは部屋に案内しようと振り向いたところ、ルイーズは急いで包丁を取り出し、その背中を刺したのだった。幸いにも手元が狂ってカルは軽傷で済んだ。1840年6月15日のことだった。当時はまだ新聞メディアが発達しておらず、こうした三面記事的な事件も大々的に報道されることはなかった。負傷したカルは告訴することなく、凶器の包丁を額に入れ、「ルイーズ・コレ夫人から・・・背中にもらったもの」と書いて書斎に飾っていたという。(クザン cousin は普通名詞では「従兄弟」だが、「蚊」という意味もある)

ルイーズ・コレには「美人の」(La Belle Madame Colet)という形容詞が必ず付いたが、そのほかに「気性の激しい」(volcanique)とも称された。日常的にもすぐカッとなる女性だったと思われる。彼女には、このあと若き文芸青年だったフロベールとの長い熱愛関係の話が続くが、場所を変えて掲載したい。

*出典:Les Muses Romantiques par Marcel Boutenon; La Revue Hebdomadaire 1926.04 p.103-104 @BnF Gallica
*参考Link : "Musica et memoria"  Hippolyte Colet (仏文)
*参考Link :100年前のフランスの出来事: アルフォンス・カールの胸像(1906.04.08)