☆アンリ・モニエ通り2番地 (2, rue Henri-Monnier, 9e)
(c) Google Map Streetview 38, rue Notre-Dame de Lorette, 9e |
☆ノートルダム・ド・ロレット通り38番地 (38, rue Notre-Dame de Lorette, 9e) 《女流詩人ルイーズ・コレのサロン》(Emplacement du salon de Louise Colet, poétesse)
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掲載写真の左手上のトゥドゥーズ広場から下りてきて、ノートルダム・ド・ロレット通りとの角の家(薬局がある)が19世紀中頃に盛んだった文芸サロンの主催者の一人、女流詩人のルイーズ・コレ(Louise Colet, 1810-1876)の住まいであった。
彼女は南仏で生まれ、早くして父親を亡くし、プロヴァンスの母親の実家で育った。少女時代から並々ならぬ詩才を発揮し、2歳年上の音楽家イポリット・コレ(Hippolyte Colet, 1808-1851)と24歳で結婚してパリに出た。(PRR)
夫のイポリットもまだ若く、国立パリ音楽院の作曲科教授だったボヘミア出身のアントン・ライヒャ(アントワーヌ・レィシャ、Anton Reicha, 1770-1836) の補助教員の職だった。家ではフルートの個人教授をしていた。1840年にようやく和声学の教授に任命される。
Louise Colet, née Revoil, poétesse le dessin par Franz Xaver Winterhalter Versailles, Châteaux de Versailles et de Trianon Crédit : Photo (C) RMN-Grand Palais / Gérard Blot |
確かにその通りで、当時アカデミーの重鎮だった哲学者のヴィクトル・クザン(Victor Cousin, 1792-1867)と親密な関係となり、クザンが各方面に働きかけた結果ということが知れわたった。引続いてルイーズが妊娠し、1840年に30歳で女児を出産すると、パリで風刺雑誌「雀蜂」(Les Guêpes)を主宰していた文筆家のアルフォンス・カル(Alphonse Karr, 1808-1890)は、夫のイポリットが認知しないと主張しているのを知り、雑誌に「蚊の一刺し」(une piqûre de cousin)という題で彼女とクザンの関係を揶揄する記事を載せた。これに逆上した彼女は、台所から包丁を持ち出し、隠し持ってカルの家を訪ね、「お話したいことがあります」と伝えた。ワイシャツ姿のカルは部屋に案内しようと振り向いたところ、ルイーズは急いで包丁を取り出し、その背中を刺したのだった。幸いにも手元が狂ってカルは軽傷で済んだ。1840年6月15日のことだった。当時はまだ新聞メディアが発達しておらず、こうした三面記事的な事件も大々的に報道されることはなかった。負傷したカルは告訴することなく、凶器の包丁を額に入れ、「ルイーズ・コレ夫人から・・・背中にもらったもの」と書いて書斎に飾っていたという。(クザン cousin は普通名詞では「従兄弟」だが、「蚊」という意味もある)
ルイーズ・コレには「美人の」(La Belle Madame Colet)という形容詞が必ず付いたが、そのほかに「気性の激しい」(volcanique)とも称された。日常的にもすぐカッとなる女性だったと思われる。彼女には、このあと若き文芸青年だったフロベールとの長い熱愛関係の話が続くが、場所を変えて掲載したい。
*出典:Les Muses Romantiques par Marcel Boutenon; La Revue Hebdomadaire 1926.04 p.103-104 @BnF Gallica
*参考Link : "Musica et memoria" Hippolyte Colet (仏文)
*参考Link :100年前のフランスの出来事: アルフォンス・カールの胸像(1906.04.08)