パリの街角散歩です。カタツムリのようにゆっくりと迂回しながら、そして時間と空間をさまよいながら歩き回ります。


2015年11月17日火曜日

散歩R(10-6) コウノトリの家、画家ピサロの旧居 Ancienne demeure du peintre Pissarro, dite Maison de cigogne(9区サン=ジョルジュ地区)

☆ノートルダム・ド・ロレット通り49番地 (49, rue Notre-Dame de Lorette, 9e)
《コウノトリの家》  PA00088966  © Monuments historiques, 1977
《画家ピサロの旧居》

ちょうど通りの向い側にもう一つ歴史的建造物に登録された建物がある。バルコニーの持ち送りと窓飾りの組合せで、翼を広げた一対のコウノトリを立体的にあしらっていて、見る者を感心させる。その姿からこの家を勝手に「コウノトリの家」(メゾン・ド・シゴーニュ、Maison de cigogne)と呼ぶことにしている。1847年の建造、建築士はシアンテプ(L.Cienthep)と刻銘されている。その上階の装飾には獅子頭も見える。

(c)Photo Emoulu bc07, 2013


(c)Photo Emoulu bc07c, 2013
この家は、カリブ海の島から画家を目指してパリにやって来た25歳のカミーユ・ピサロ(Camille Pissarro, 1830-1903) が住みはじめたところでもある。折りしも1855年のパリ万博の時で、展示されていた当時の巨匠たち、ドラクロワやコロー、クールベの作品に感銘を受けた。
彼の父親は裕福な商人で、少年ピサロをパリのリセの寄宿舎に入れたのがそもそものきっかけで、ピサロは画家の道を歩むために親の許しを得て、パリに再び戻り、美術学校や様々な画塾に通うことになる。(LAI)

C.Pissarro : La côte des Jalais à Pontoise (1867)
Etats-Unis, New-York, The Metropolitan Museum of Art
Photo (C) The Metropolitan Museum of Art, Dist.
RMN-Grand Palais / image of the MMA
1859年に初めてサロンに入選し、その後は年ごとに入選と落選を交互に繰り返した。入選には、当時最も理解を示した画家のドービニーの意見の助けもあった。

(←)左掲は「ポントワーズのジャレの丘」で30代の傑作の一つである。前景の道路を歩く日傘をさした婦人の姿が当時流行った風俗である。この頃から彼の作風が確立され、サロンの審査員の理解が得られないながらも、郊外の村での生活を拠点とし、経済的に自立できるようになっていった。