パリの街角散歩です。カタツムリのようにゆっくりと迂回しながら、そして時間と空間をさまよいながら歩き回ります。


2016年3月29日火曜日

散歩R(27) ミラン通り Rue de Milan, 9e(9区サン=ジョルジュ地区)

アムステルダム通りから再び横に折れてミラン通りに入る。ミラン(Milan)は、イタリアのミラノのフランス語表記である。この通りにも逸話・旧蹟はないので、2~3の何となくイタリア趣味が感じられる面白い建物を見て歩く。


☆ミラン通り19番地 (19, rue de Milan, 9e)

19番地の門飾りの上部に神話に出てくるグリフォン(griffon)、胴体は獅子で頭と翼は鷲、という動物が外向きの対で乗っている。その下にはギリシア悲劇で使われるようなバッカスの仮面が置かれている。まるで内外を魔物から守るという意図が表れた装飾である。
(c) Google Map Streetview
 19, rue de Milan, 9e


☆ミラン通り9番地 (9, rue de Milan, 9e)

3階建ての個人の邸宅としての優雅な建物である。集合住宅の多いパリの市中においては珍しい。
(c) Google Map Streetview
 9, rue de Milan, 9e


☆ミラン通り1番地 (1, rue de Milan, 9e)

迷路模様のような珊瑚模様の石壁が施され、風格十分の集合住宅である。
(c) Google Map Streetview
 1, rue de Milan, 9e

2016年3月27日日曜日

散歩R(26-2) アムステルダム通り Rue d'Amsterdam, 8e / 9e(9区サン=ジョルジュ地区)

アムステルダム通りは、クリシー広場からサン=ラザール駅を経てオスマン大通りに至る南北縦貫路としては重要な通りである。街路の両側には、昔ほど活気があるわけではないが、小規模店舗が立ち並んでいる。この通りは8区と9区の境界になっていて、西側奇数番地が8区に、東側偶数番地が9区に分けられる。


(c) Google Map Streetview
 41, rue d'Amsterdam, 8e
☆アムステルダム通り41番地 (41, rue d'Amsterdam, 8e)

41番地の門飾りには、番地標を両側から支える一対の小児像が見られる。下部には酒神バッカスのような頭部像があるが、グーグルでは個人の顔と誤認してボカシが入ってしまい残念。











☆アムステルダム通り39番地 (39, rue d'Amsterdam, 8e)

その隣にある39番地では、番地標の両側が鳳凰のような神鳥に守られ、花房飾りに女神頭があしらわれている。
(c) Google Map Streetview
 39, rue d'Amsterdam, 8e

☆アムステルダム通り33番地 (33, rue d'Amsterdam, 8e)

この地域ではまれな見事な男女の門柱像(アトラント atlante)である。下半身が大蛇で蔦に絡んでいるのも珍しい。

(c) Google Map Streetview
 33, rue d'Amsterdam, 8e
*参考Link : Parisarchitecture (パリの建築彫刻を紹介する仏語のブログ)
Atlantes 33 rue d'Amsterdam
http://bauduin01.canalblog.com/archives/2010/07/24/18660125.html
http://p5.storage.canalblog.com/57/51/764270/55460925.pdf

2番目のpdf ファイルには4階のバルコニーの下に2人の小天使の装飾も見られる。

2016年3月25日金曜日

散歩R(25) リエージュ通り Rue de Liège, 9e(9区サン=ジョルジュ地区)

ユーロプ地区(Quartier de l'Europe) の境界にあたるリエージュ通りに入る。リエージュ(Liège)はベルギー東部の中都市で、人口約20万人。ナポレオン時代にフランスに併合されていたが、その後オランダ領を経て1830年にベルギーの一地方として独立した。1914年に第一次大戦が勃発し、ドイツ軍がベルギー経由でフランスに進攻する作戦においてリエージュを攻めたが、頑強な抵抗に遭い苦戦を強いられた。フランスはその栄誉をたたえて、パリのこの通りを「リエージュ通り」と変えることに決めた。元の通りの名前は「ベルリン通り」だった。

サン=ラザール駅の北側一帯の地域では、ヨーロッパの主要都市名が通りの名前としてつけられている。パリの通りの名前の表記法は、大きく分けて ''rue xxx'' と ''rue de xxx'' の2種類に分けられる。 どういう場合に de が入るのかが疑問である。多少の例外はあるが、地名(例:ポントワーズPontoise)、地方名(例:ノルマンディ Normandie)、あるいは普通名詞(例:平和 la Paix)を伴うものは、de が付けられる。また軍人の「~将軍」などの階級 (Général, Maréchal, Commandant)がついた人名の場合も de を伴う。
逆に人名(例:エルネスト・ルナン Ernest Renan)、偉人(例:ヴィクトル・ユゴーVictor Hugo)、聖人(例:聖ヴァンサンSaint-Vincent)などは、貴族であらかじめ de が入っている人を除けば、de を伴わずに直接 rue xxx となる。


☆リエージュ通り1番地 (1, rue de Liège, 9e)

入口の木の扉上部に嵌められた唐草模様とバルコニーの鉄格子の唐草模様が美しい。2階まで伸びる門飾りも品が良い。

(c) Google Map Streetview
 1, rue de Liège, 9e






































(c) Google Map Streetview
 5, rue de Liège, 9e
☆リエージュ通り5番地 (5, rue de Liège, 9e)

外見的には貴族の館に似せて建てられたものと思われる。資料を探しても由緒を語るものは出てこない。

フランス語の慣用表現で「サン・ジストワール」(sans histoire)という言い方があるが、取り立てて「歴史的な逸話なし」という意味である。波風の立たない平穏な歴史で、何も語る必要がない場合に使われる。
ここの通りもそうした建物が多いので、もっぱら建築物ウォッチで街歩きを楽しむということになる。

(c) Google Map Streetview
 7, rue de Liège, 9e








☆リエージュ通り7番地 (7, rue de Liège, 9e)

上の5番地と隣り合わせの建物で、こちらも由緒はわからない。現在はパーティ用の貸ホールとして使われている。



(c) Google Map Streetview
 10, rue de Liège, 9e





☆リエージュ通り10番地 (10, rue de Liège, 9e)

通りの反対側の10番地の門飾りは、控えめながら、やや重そうな花房飾りが見られる。




(c) Google Map Streetview
 13, rue de Liège, 9e


☆リエージュ通り13番地 (13, rue de Liège, 9e)

13番地の門飾りはユーモラスな動物の顔に見える。タヌキの太鼓腹かもしれない。1898年の建造、建築士はアントナン・フランドル(Antonin Flandre)の銘が見られる。












☆リエージュ通り18番地 (18, rue de Liège, 9e)

18番地の門飾りは非常に小さいので目立たないが、よく見るとタツノオトシゴのような半身人像が背中合わせに寝そべっている格好である。
(c) Google Map Streetview
 18, rue de Liège, 9e

2016年3月23日水曜日

散歩R(24) クリシー通り Rue de Clichy, 9e (2e partie)(9区サン=ジョルジュ地区)

クリシー通りに出るが、リエージュ通りに入るまでのごくわずかな区間のみの通過となる。

(c) Google Map Streetview
 40, rue de Clichy, 9e

☆クリシー通り40番地 (40, rue de Clichy, 9e)
《グランド・コメディ座》(Théâtre de la Grande Comédie)

40番地と42番地にまたがる古い大きな建物に新作喜劇専門の小劇場《グランド・コメディ座》(Théâtre de la Grande Comédie)が2005年から開設されている。客席数が400と100の2つの舞台がある。ほとんど歴史がない新しい劇場らしく、ホームページでも詳細な説明は出ていない。









☆クリシー通り44番地 (44, rue de Clichy, 9e)
PA00088946 © Monuments historiques, 1992
(c) Google Map Streetview
 44, rue de Clichy, 9e

19世紀前半に建てられたということで歴史的建造物に指定されているようだ。3階まではシンプルな装飾で、4階となる屋上に増築されたような小屋根の家が乗っかっているのが珍しい。内部には現在フィットネスクラブの設備があるのが意外だ。この建物はリエージュ通りからの突き当りとなる。

















かたつむりの道すじ:㉒ブランシュ通り~㉓モンセー通り~㉔クリシー通り~㉕リエージュ通り~
㉖アムステルダム通り~㉗ミラン通り~㉘クリシー通り(再)~㉙アテーヌ通り (c) Google Map

2016年3月22日火曜日

散歩R(23-3) 画家モネの滞留先 Pied-à-terre à Paris de Monet proche de la gare Saint-Lazare(9区サン=ジョルジュ地区)


(c) Google Map Streetview
 17, rue Moncey, 9e
☆モンセー通り17番地 (17, rue Moncey, 9e)
《画家モネの滞留先 》(Pied-à-terre à Paris de Monet)

1870年6月、29歳のモネ(Claude Monet, 1840-1926)はカミーユと正式に結婚する。しかしその翌月に普仏戦争が勃発し、敗戦の混乱を避けてロンドンに渡る。その間、父親及び世話になった伯母のルカードル夫人が相次いで亡くなる。友人の画家バジル(Jean-Frédéric Bazille, 1841-1870)も戦死した。ロンドンではドービニー(Charles-François Daubigny, 1817-1878)の紹介で画商のデュラン=リュエルを知ることができた。

1871年パリ=コミューンの混乱後、モネは帰国し、パリ西郊のアルジャントゥィユ
(Argenteuil)の一軒家に住んでセーヌ河畔での制作に励む。

1873年に美術愛好家で絵も描くカイユボット(Gustave Caillebotte, 1848-1894)と知り合いになり、彼の家族の屋敷があるパリ南東郊外イェール川のほとりで制作に没頭した。カイユボットらの支援によってサロンに認められない若い画家たち(つまり印象派)による第1回展覧会を翌1874年に開催する。

Claude Monet : Le Pont d'Europe, Gare Saint-Lazare (1877)
Paris, Musée Marmottan
1877年1月にカイユボットの名義で借りたモンセー通り17番地の1階の部屋をモネのために使わせてもらうことになり、モネはそこに滞在して前年から描き始めていたサン=ラザール駅構内と周辺のユーロプ橋の風景の連作に集中することになった。発展する都市の変貌と鉄道網の発達による文明の活気とがモネの制作意欲を掻き立てたのだと思われる。すでにモネはアルジャントゥィユ時代に鉄橋を走る列車を何点か描いていた。
サン=ラザール駅を中心とする連作は全部で12点を数えるが、そのうち8点はその年4月からの第3回印象派展に出品されたというのだから、モネとしてはごく短期間にこれだけの作品を精力的に描き上げたものである。

◇パリ蝸牛散歩内の関連記事:
9区サン=ジョルジュ地区(21-5)画家クロード・モネ青年時代の住居
Demeure de jeune peintre Claude Monet
☆ジャン=バティスト・ピガール通り18番地 (18, rue Jean-Baptiste-Pigalle, 9e)
http://promescargot.blogspot.jp/2016/03/21-5-demeure-de-jeune-peintre-claude.html


2016年3月19日土曜日

散歩R(23-2) モンセー通り Rue Moncey, 9e(9区サン=ジョルジュ地区)

モンセー通り (Rue Moncey)の名前は、フランス革命期からナポレオン時代にかけての軍人ボン・アドリアン・ジャノ・ド・モンセー(Bon Adrien Jeannot de Moncey, 1754-1842)にちなんでいる。彼はスイス国境に近いモンセー出身で、フランス革命時に国防軍に加わり、1804年に50歳で元帥、1808年にコネッリアーノ公爵(Duc de Conegliano)、1809年にフランドル方面軍の司令官となった。特にモンセーの名前が記憶されたのは、1814年のナポレオン退位直前のパリ攻防戦である。パリ防衛軍の司令官だった彼はクリシー城門でロシア軍を迎え撃って奮戦した。王政復古後は恩赦を受け、貴族院議員となった。(DNR)


Carte postale ancienne sans mention d'éditeur :
Marseille - La Cannebière
@Wikimédia commons
☆モンセー通り3番地 (3, rue Moncey, 9e)

間口の広い建物である。窓の上部にCGFTの4つのボタンのような刻銘装飾が見える。ここには1875年12月に設立された《フランス路面電車総合会社》(Compagnie générale française de tramways)の本社が1953年まであった。路面電車はパリ市内では早々に地下鉄に取って代わられたが、フランス各地の中都市では第2次大戦後まで運行が続けられた。この会社が営業権を支配したのはルアーヴル、マルセイユ(→)、ナンシー、オルレアンで総距離数34万kmを超えた。

(c) Google Map Streetview
 3, rue Moncey, 9e
またこの建物は、第2次大戦のドイツ軍のパリ占領期間中にキャバレー《ル・シェエラザード》 (Cabaret Le Shéhérazade)として使用され、ナチの将校たちが通いつめた場所であった。(PRR)



☆モンセー通り4番地 (4, rue Moncey, 9e)

向い側の4番地の建物には、3階のバルコニーを支える持送りの装飾が肉厚の粘土細工を思わせる花飾りが見えて、やや粗野な趣になっている。

(c) Google Map Streetview
 4, rue Moncey, 9e

2016年3月18日金曜日

散歩R(23-1) モーパッサンの役人時代の住居 Demeure de Maupassant comme l'employé aux ministères(9区サン=ジョルジュ地区)

ブランシュ通りを上った最初の角を左折してモンセー通りに入る。ブランシュ通りの先については、別の散歩ルートで取り上げる予定。

(c) Google Map Streetview
 2, rue Moncey, 9e
☆モンセー通り2番地 (2, rue Moncey, 9e)
《モーパッサンの役人時代の住居》
(Demeure de Maupassant comme l'employé aux ministères)

角の向いの2番地の家に20歳になったばかりのギィ・ド・モーパッサン(Guy de Maupassant, 1850-1893) が住み始めた建物である。1870年の普仏戦争ではノルマンディの義勇兵として兵站部や砲兵隊に加わったが、プロシア軍との戦いに敗れて退役となった。当初の予定だった大学で法律を学ぶ機会も失い、パリで海軍省の事務官となった。モンセー通りの住居は1階の北向きの狭苦しいアパルトマンで、日本で言えば6畳間のワンルームだった。

彼が熱中して楽しんだことは、毎週土曜日にパリ西郊のセーヌ河畔での仲間たちとのボート遊び(canotage)と狩猟だった。そしてその活動で得た観照や着想をもとに短編小説を書き始めた。

Dessin Anonyme : Le Canotage
Projet d'illustration entre 1847 et 1874 / Marseille, MuCEM,
Musée des Civilisations de l'Europe et de la Méditerranée
Crédit Photo (C) RMN-Grand Palais (MuCEM) / Franck Raux





彼は母の知人であった文豪フロベール(Gustave Flaubert, 1821-1880)の指導を受けながら作家修行を続けたが、1875年2月に24歳で最初の短編が雑誌に掲載された。
この頃から彼は、フロベールの家で日曜日に定期的に開かれる集まりに加わり、ゴンクール、ドーデ、ゾラ、トゥルゲーネフなどの作家たちとの交流を深めて行く。

翌1876年7月には、旧ブレダ地区のクローゼル通り17番地に引っ越すことになる。(LAI, PRR)


◇パリ蝸牛散歩内の関連記事:
9区サン=ジョルジュ地区( 7-3 )作家モーパッサンの旧居
☆クローゼル通り17番地 (17, rue Clauzel, 9e) 
http://promescargot.blogspot.jp/2015/10/93-7-3-rue-clauzel-9e.html


2016年3月15日火曜日

散歩R(22-2) ブランシュ通り Rue Blanche, 9e(9区サン=ジョルジュ地区)

ブランシュ通り(Rue blanche)は直訳すれば「白い通り」。色がついた通りの名前は珍しい。恐らく昔、モンマルトルの採石場から石材を運ぶ荷車が頻繁にこの通りを通ったので、その粉が落ちて道が白くなったことに由来したのだと言われている。(DNR)


☆ブランシュ通り24/26番地 (24/26, rue Blanche, 9e)

消防署(Sapeurs-Pompiers)、ナポレオン時代には兵舎があった。1902年に現在のように建て替えられた。 仏和辞典によると、サプァー(sapeur)はもともと土木工兵の意味があった。現在では、「サプァー=ポンピエ」(Sapeur-Pompier)で消防夫、その複数形で消防署となる。

(c) Google Map Streetview
 26, rue Blanche, 9e






























Hôtel de Choudens par MOSSOT
— Travail personnel. Sous licence CC BY 3.0
via Wikimedia Commons
☆ブランシュ通り21番地
(21, rue Blanche, 9e)
《シューダンス館》
(Hôtel de Choudens)
PA00088913
© Monuments historiques, 1992

よく知られた楽譜出版社シューダンス(Éditions Choudens)の経営者であったポール・ド・シューダンス(Paul de Choudens, 1850-1925)は、自身がオペラの台本作家でもあり、広範囲の楽譜の出版の中でもオペラのスコアに力を入れた。特にグノーの「ファウスト」、ビゼーの「カルメン」、オッフェンバックの「ホフマン物語」等の販売を伸ばしたことにより大きな財を成した。
彼が1901年にプティ・パレ(Petit Palais)の設計でも有名な建築家シャルル・ジロー(Charles Girault, 1851-1932)に頼んで建てたのがこの居館で、ベル=エポック時代の典型的な資産家の邸宅であった。その後一時期、国立演劇芸術上級学校(École nationale supérieure des Arts et de Technique du Théâtre)が入っていた。現在はシューダンス一族の手から離れている。




(c) Google Map Streetview
 25, rue Blanche, 9e
☆ブランシュ通り25番地 (25, rue Blanche, 9e)
《在パリ・ドイツ・プロテスタント教会》
(Église évangélique allemande de Paris)

この地域に住むドイツ人のための教会である。1894年に建設され、百年以上の歴史がある。内部は、ドイツ各地の教会で見られるように簡素な装飾で、カトリック教会とは大きく異なる。比較論で言えば、冷え冷えとした感じである。
(c) Google Map Streetview
 25, rue Blanche, 9e












☆ブランシュ通り33番地 (33, rue Blanche, 9e)

この建物の建築家もビガール通り11番地の2と同じアンリ・カンボン(Henri Cambon)である。1903年と刻まれている。窓枠の曲線が壁面の曲線との一体感を生み出している。豪壮な建物である。

(c) Google Map Streetview
 33, rue Blanche, 9e

2016年3月14日月曜日

散歩R(22-1) テアトル・ド・パリ(パリ劇場)Théâtre de Paris(9区サン=ジョルジュ地区)


☆ブランシュ通り15番地 (15, rue Blanche, 9e)
《テアトル・ド・パリ(パリ劇場)》 (Théâtre de Paris)
PA00089005 © Monuments historiques, 1992

この地域一帯は19世紀中頃まで「ティヴォリ」(Tivoli)と呼ばれる野外遊戯場が設けられて、屋外でのダンスホール、仮面・仮装舞踏会場、あるいはローラースケート場などの人々の娯楽の場であった。
Théâtre de Paris, 15 rue Blanche, Paris 9
Wikimedia Commons / Mu
1891年に《新劇場》(ヌーヴォ・テアトル Nouveau-Théâtre)という名前で劇場が建てられ、俳優兼演出家のルニェ=ポー(Lugné-Poe, 1869-1940)が支配人として、北欧の劇作家イプセンやストリンドベリの戯曲を積極的に取り上げてフランスへの紹介に努めた。

1899年10月28日にはこの劇場でワーグナー(Richard Wagner, 1813-1883)の楽劇『トリスタンとイゾルデ』(Tristan et Yseult)の全曲がフランスで初めて上演された。
指揮はラムルー管弦楽団を創設したシャルル・ラムルー(Charles Lamoureux, 1834-1899)だった。
Pierre Bonnard : Le Concert Lamoureux
(vers 1895)
Toulouse, Fondation Bemberg
Crédit Photo (C) RMN-Grand Palais
/ Mathieu Rabeau
Droits d'auteur: (C) ADAGP


彼はかつてパドルー管弦楽団のヴァイオリン奏者だったが、人々にクラシック音楽の感動を与え続けるには自前のオーケストラが欠かせないと決断し、ラムルー管弦楽団(Orchestre Lamoureux)の母体となる《新コンサート協会》(Société des Nouveaux Concerts)を1881年に設立し、その指揮者として定期的なコンサートを開いた。彼はワーグナーの音楽に心酔しており、コンサートの曲目にフランスの作曲家の曲と共にワーグナーやブラームス、ベートーヴェンなどの紹介に努めた。しかし当時のフランスでは、普仏戦争の敗戦後の時期で反独感情の高まりがあり、1887年の楽劇『ローエングリン』(Lohengrin)の演奏会形式での上演にあたっては、上演反対のデモによる混乱で危うく中止となる瀬戸際だった。しかしラムルーの熱意は聴衆の支持を受け、予定通りのフランス初の公演が実現したのだった。

ラムルーは持病のため1897年に指揮者の座を女婿のシュヴィヤール(Camille Chevillard, 1859-1923)に譲っていたが、1899年にオペラ歌手たちからの要請で『トリスタン』の全曲初演に関わり、(歌唱はフランス語版ではあったが)成功理に終わった。彼はその2カ月後の12月21日に死去した。65歳だった。

(→)右掲はピエール・ボナール(Pierre Bonnard, 1867-1947)作の『コンセール・ラムルー』(Le Concert Lamoureux)演奏会風景である。

Une fête offerte à Mme Réjane, costume de 'Sylvie'
à New York par M. James Hyde
Document iconographique
@BnF Gallica



20世紀に入って1906年に、当時サラ・ベルナールに匹敵する人気を誇っていた女優レジャーヌがこの劇場を買収して《レジャーヌ劇場》(Théâtre Réjane)と改名して興行した。

レジャーヌは、本名ガブリエル=シャルロット・レジュ(Gabrielle-Charlotte Réju, dite Réjane, 1856-1920)といい、パリ生まれの女優で当初は喜劇女優として当り役のサルドゥ作「無遠慮夫人」(Madame Sans-Gêne, 1893)などで人気を博した。その後、アントワーヌの自由劇場の影響を受け、自然主義的な劇作品「ジェルミニー・ラセルトゥ」(ゴンクール)、「パリの女」(ベック)、「人形の家」(イプセン)などに取り組んだ。1895年以降、長期にわたる米国公演には「無遠慮夫人」を引っ提げて行き、絶大な評価を得て彼女は国際的な名声をかち得た。

(c) Google Map Streetview
 15, rue Blanche, 9e

レジャーヌが引退した1919年以降に《テアトル・ド・パリ(パリ劇場)》 (Théâtre de Paris)となり、支配人や経営者が代りながらも現在に至っている。この劇場には約300席の小劇場が併設されたが、最近その小劇場の名前がレジャーヌを記念する《サル・レジャーヌ》(Salle Réjane)に変えられた。

◇参考Link : 100年前のフランスの出来事
(1)芸術家のラントレ(4)演劇界 (1906.09)
http://france100.exblog.jp/3478551/
(劇団の花形俳優が座長のような形で劇場の支配人をしたり、劇場施設を買い取って自分の所有物にしてしまうことは、19世紀末の演劇界に多く見られたようだ)

(2)レジャーヌ劇場のこけら落とし (1906.12.15)
http://france100.exblog.jp/4076262


かたつむりの道すじ:㉒ブランシュ通り~㉓モンセー通り~㉔クリシー通り~㉕リエージュ通り~
㉖アムステルダム通り~㉗ミラン通り~㉔クリシー通り(再)~㉘アテーヌ通り (c) Google Map

2016年3月12日土曜日

散歩R(21-6) ジャン=バティスト・ピガール通り Rue Jean-Baptiste-Pigalle, 9e(9区サン=ジョルジュ地区)

ピガールという名前は、通りの坂を上った先にあるピガール広場(Place Pigalle)がパリで最も下品で危険な歓楽街の地名として定着しているが、その由来は元々この通りの坂下に住んでいたロココ時代の彫刻家ピガール(Jean-Baptiste Pigalle, 1714-1785)に拠っている。通りの名前は1803年からずっと単なる「ピガール通り」(Rue Pigalle)だったが、その後、評判の悪い地名としてのイメージを払拭しようとする意図から、1993年以降はフルネームの「ジャン=バティスト・ピガール通り」(Rue Jean-Baptiste Pigalle)に変更された。ピガール通りを中心とするトリニテ教会の裏手にあたる一帯は、19世紀には貴族や政治家や実業家たちが美しく魅力的な舞台女優やバレエ・ダンサーを囲って住まわせる妾宅(プティト・メゾン petite-maison)が立ち並ぶ所でもあった。(CVP)



☆ジャン=バティスト・ピガール通り25/27番地 (25/27, rue Jean-Baptiste-Pigalle, 9e)

広壮な建物である。2階と3階のバルコニーをつなぐ持ち送りには羊歯(シダ)の植物模様の装飾と口輪のついた獅子があしらわれている。
(c) Google Map Streetview
 27, rue Jean-Baptiste-Pigalle, 9e




































☆ジャン=バティスト・ピガール通り17番地 (17, rue Jean-Baptiste-Pigalle, 9e)
(c)Photo Emoulu bc17fa, 2003

























(c) Google Map Streetview
 17, rue Jean-Baptiste-Pigalle, 9e
17番地は歴史的建造物には指定されていないが、ベル・エポック調の凝った美しい装飾が施された建物である。上部に《サル・ルモワヌ》(Salles Lemoine)という刻銘が残っているのが見える。
ルモワヌ出版社(Éditions Henry Lemoine)は、1772年に作曲家兼ヴァイオリン奏者であったアントワーヌ=マルセル・ルモワヌ(Antoine Marcel Lemoine)が創業した楽譜出版社であり、以降200年を超える今日に至るまでルモワヌ一族が代々事業を継承している。
1867年に当時の社主アシル・ルモワヌ(Achille Lemoine)がこの場所に建築家のアルトゥール=スタニスラス・ディエ(Arthur-Stanislas Diet)に頼んで最新鋭の印刷所兼本店を建て、音楽関係の複製画なども販売した。

現在はここには別の会社が入り、住居にもなっており、ルモワヌ社はバスティーユ地区に移っていて現代作曲家の作品などの出版とともに、演奏活動の企画も行っている。

*参考Link : Editions Henry Lemoine
https://www.henry-lemoine.com/fr/apropos/



☆ジャン=バティスト・ピガール通り11番地の2 (11bis, rue Jean-Baptiste-Pigalle, 9e)

ちょっと見つけにくいが、バルコニーの下支えとしての窓飾りに小怪獣の頭部が埋め込まれているのが面白い。
(c)Photo Emoulu bc17f, 2003
この建物の壁には建築士カンボン(Henri Cambon)の名前が刻まれている。彼は19世紀末から20世紀初頭のいわゆるベル・エポック時代に活躍し、パリ市街の方々に当時流行した装飾を施している。(↓)下掲の持送り(バルコニーの下支え)にバラの花蔓をあしらったのも評判を呼んだと思われる。
(c)Photo Emoulu bc16fa, 2013

2016年3月9日水曜日

散歩R(21-5) 画家クロード・モネ青年時代の住居 Demeure de jeune peintre Claude Monet(9区サン=ジョルジュ地区)

☆ジャン=バティスト・ピガール通り18番地 (18, rue Jean-Baptiste-Pigalle, 9e)
《画家クロード・モネ青年時代の住居》(Demeure de jeune peintre Claude Monet)
(c) Google Map Streetview
 18, rue Jean-Baptiste-Pigalle, 9e

1859年4月に18歳の青年クロード・モネ(Claude Monet, 1840-1926)は、ノルマンディから画家になるためにパリにやって来た。地元のル・アーヴルでモネは高校生でありながら、風刺画・戯画(caricatures)を描いて評判になり、相当な収入を得ていた。美術商の店で画家のブーダン(Eugène Boudin, 1824-1898)を紹介され、彼と一緒に戸外での風景画の制作を始めた。その少し前にモネは母親を亡くし、伯母のルカードル夫人(Mme Lecadre)の世話になっていたが、彼女は美術愛好家で、自分も絵を描いており、若いモネの才能を見抜いて、絵画の道に進むよう励ましたのだった。

モネはピガール通り18番地に身を落ち着け、サロン(官展)に通って、ドービニー(Charles-François Daubigny, 1817-1878)やコロー(Jean-Baptiste Camille Corot, 1796-1875)の風景画に感銘を受けた。またブーダンに紹介されたトロワイヨン(Constant Troyon, 1810-1865)を訪ね、忠告に従ってシュイス画塾(Académie Suisse)に入ることにした。彼はそこで後に印象派の仲間となるピサロ(Camille Pissarro, 1830-1903)とギヨーマン(Armand Guillaumin, 1841-1927)と出会った。

また近くにあった「ブラスリ・デ・マルティール」(Brassserie des Martyrs)にたむろする若い芸術家たちとの交友を深め、特に写実主義を提唱するクールベ(Gustave Courbet, 1819-1877)を知り、その取り巻きに加わった。
Claude Monet : Cour de ferme en Normandie (1863)
Paris, musée d'Orsay
Crédit Photo (C) RMN-Grand Palais (musée d'Orsay) /
 René-Gabriel Ojéda

彼は一度兵役でパリを離れたが、1862年に再び戻り、今度はグレール画塾(Atelier de Glayres)に入った。そこではシスレー(Alfred Sisley, 1839-1899)、ルノワール(Auguste Renoir, 1841-1919)、バジル(Jean-Frédéric Bazille, 1841-1870)に出会った。特にバジルとは親友となった。

(←)左掲はこの時期に描いた『ノルマンディの農家の中庭』(1863)である。まだ印象派的な描き方は現れていないが、バルビゾン派を継承する明るさがある。

モネは24歳の1865年にサロンに初入選となり、翌1866年にも妻カミーユをモデルにした『緑衣の女』を出展して評判を得た。この時のサロンのカタログには、モネの住所がピガール通り1番地
(1, rue Jean-Baptiste-Pigalle, 9e)と記載されている。このピガール通り一帯は、モネの青年期の活動の舞台だったと言える。(LAI)


◇パリ蝸牛散歩内の関連記事:
9区サン=ジョルジュ地区( 6-1 )マルティール通り Rue des Martyrs, 9e
http://promescargot.blogspot.jp/2015/10/93-6-1-rue-des-martyrs-9e.html
《ブラスリー・デ・マルティール跡》


2016年3月7日月曜日

散歩R(21-4) サンドとショパンの住居 Demeure de George Sand avec Chopin(9区サン=ジョルジュ地区)

☆ジャン=バティスト・ピガール通り20番地 (20, rue Jean-Baptiste-Pigalle, 9e)
《サンドとショパンの住居 》(Demeure de George Sand avec Chopin)

(c) Google Map Streetview
 20, rue Jean-Baptiste-Pigalle, 9e

地中海のマジョルカ島からフランスに戻ったショパンとサンドは、1839年の夏の間サンドの故郷のノアンの館で過ごした。医師から命じられたショパンの静養期間が終わる10月に二人はパリに戻る。サンドは子供たちとピガール通りの16番地(現在の20番地)に引越し、ショパンはマドレーヌ教会の裏手にあるトロンシェ通りに住居を見つけてもらった。
ショパンはすぐにピアノのレッスンを再開した。夕方トロンシェ通りの家でレッスンを終えると、辻馬車でピガール通りのサンドの家まで行き、夕食を取り、サロンでくつろいだ。

サンドの家のサロンは、床全体に敷きつめられた茶色のカーペット、褐色の樫材に装飾が施された古風な家具、壁には絵が何点かと茶褐色の畝模様のある布地が掛けられ、椅子は茶色のビロード地の座布で、落ち着いた調和のとれた部屋だった。サンドはしばしばオスマン風の長椅子にくつろいで、煙草をくゆらしながら来客を迎えた。

※追記: Flickr.com に20番地の碑銘(Plaque)の拡大写真が載っていたのでLinkを紹介する。
Monceau : George Sand & Frédéric Chopin plaque - 20 rue Pigalle, Paris
https://www.flickr.com/photos/monceau/24700285819/in/photostream/
Peinture réalisée d'après l'esquisse préliminaire du
portrait de George Sand et Frédéric Chopin
par Eugène Delacroix, dans une tentative de
reproduire l'œuvre divisée à la fin du XIXe siècle.
@Wikimedia commons

サンドの家には画家のドラクロワ、文豪バルザック、女優のマリー・ドルヴァル、歌手のポーリーヌ・ヴィアルドなどが訪れた。特にドラクロワは親交があり、音楽も大いに愛好したので、ショパンとは遅くまで語り合うことが多かった。ショパンは次第にサンドの家にいることが多くなり、一年後にはピガール通りに住んで、トロンシェの家はレッスン室、仕事場、応接室として使われた。

(→)右掲は、ドラクロワが描いたサンドとショパンの肖像画であるが、二人の愛が破綻した後、二つに分割されて売られたために、後に再構成して作られた絵である。

ここでの生活は約3年間続いた。この期間にショパンは久々にピアノのリサイタルを2回開いた。チケットは完売となり、当日はパリの熱狂的な聴衆から大きな喝采を受けた。出版された作品も、ピアノ・ソナタ第2番、幻想曲、バラード、前奏曲など非常に多く、彼の生涯中でも創作の絶頂期であったと言える。
一方のサンドも旅行記『マジョルカの冬』(Un hiver à Majorque) 、長編小説『歌姫コンスエロ』(Consuelo)など精力的に作品を発表している。

1842年彼らはここからほど近い瀟洒なスクヮル・ドルレアンに転居する。(LAI, PRR, Wiki)

◇パリ蝸牛散歩内の関連記事:
9区サン=ジョルジュ地区(14-1)ショパンとサンドの住居(スクヮル・ドルレアン)
(Demeure de Chopin et de George Sand au square d'Orléans)
http://promescargot.blogspot.jp/2016/01/14-1.html


2016年3月5日土曜日

散歩R(21-3) ナビ派青年画家たちのアトリエ跡 Ancien emplacement de l'atelier de jeunes Nabis(9区サン=ジョルジュ地区)

☆ジャン=バティスト・ピガール通り28番地 (28, rue Jean-Baptiste-Pigalle, 9e)
《ナビ派青年画家たちのアトリエ跡》(Ancien emplacement de l'atelier de jeunes Nabis)
(c) Google Map Streetview
 28, rue Jean-Baptiste-Pigalle, 9e

28番地には、1890年から「ナビ派」(Les Nabis)と称する若い画家たちのうち、ピエール・ボナール(Pierre Bonnard, 1867-1947)、エドゥアール・ヴュイヤール(Édouard Vuillard, 1868-1940)、モーリス・ドニ(Maurice Denis, 1870-1943)の3人が共同でアトリエを借りていた。入口上部に碑銘板(plaque)が掛かっているが、Googleでは一部不鮮明で読みにくい。当時彼らはまだ20代そこそこで、一緒にジュリアン画塾で学び、アカデミスムの停滞と印象派の成熟に立ち向かい、新たな世代として絵画を改革しよう意気込んでいた。

彼らナビ派の若者たちはゴーギャン(Paul Gauguin, 1848-1903)から受けた啓示を護符(Talisman)のように奉持した。それは「絵画とはいかなる対象物であるよりも前に、まず一定の秩序に配置された色彩に覆われた平面である。」というような内容である。「ナビ」(Nabi)とはヘブライ語で預言者を意味するが、新しい芸術世界の到来をメンバーのそれぞれがその活動によって預言するのだという心意気からであった。万博などの機会に西欧にもたらされた日本の浮世絵の平面的な表現手法も大きな影響を与えた。

※追記: Flickr.com に碑銘(Plaque)の鮮明な拡大写真が載っていたのでLinkを紹介する。
Monceau
Bonnard, Denis et Vuillard plaque - 28 rue Pigalle, Paris
https://www.flickr.com/photos/monceau/25041604356/in/photostream/

Pierre Bonnard :Crépuscule ou La Partie de croquet
Paris, musée d'Orsay (1892)
Crédit Photo (C) RMN-Grand Palais (musée d'Orsay)
 / Hervé Lewandowski Droits d'auteur:(C) ADAGP

(←)左掲はこの時期にボナールが描いた『夕暮またはクロケのゲーム』(Crépuscule ou La Partie de croquet, 1892)である。彼の父親と妹、そしてその夫となる作曲家のクロード・テラス(Claude Terrasse, 1867-1923)がモデルとなっている。
画面に凹凸が感じられず、夕暮という時間に印象派の画家ならば、夕陽の輝きや光と影を表現するのが不可欠だが、ここにはその要素はまったく含まれていない。25歳のボナール初期の注目作である。

彼らのアトリエにはほどなくして俳優で演出家で劇場支配人となった同年代のリュニェ=ポー(Lugné-Poe, 1869-1940)が合流した。彼は当時のあらゆる芸術活動を誘引し、連携させるという共同事業の中核的な役割を果たした一人である。1893年にヴュイヤールを巻き込んで「作品座」(Théâtre de l'Œuvre) という劇場をクリシー地区に創設し、斬新な象徴主義的な演劇に取り組んだ。最初の演目はメーテルランク(Maurice Maeterlinck, 1862-1949)の『ペレアスとメリザンド』(Pélleas et Mélisande)だった。
Edouard Vuillard : La Farce du Pâté et de la tarte (1892)
Saint-Germain-en-Laye, musée Maurice Denis - Le Prieuré
Crédit Photo (C) RMN-Grand Palais / Benoît Touchard

(→)右掲はヴュイヤールが1892年に描いた中世フランスの笑劇『パテとタルト』(La Farce du Pâté et de la tarte) の舞台装置画で、ナビ派の仲間たちによる人形劇として上演された。

1896年には奇才アレフレッド・ジャリ(Alfred Jarry, 1873-1907)の戯曲『ユビュ王』(Ubu roi)を上演するために、舞台装置やポスター・デザインをボナール、ヴュイヤール、ランソン、セリュジエらに依頼した。音楽はボナールの義弟にあたるクロード・テラスが担当した。


Maurice Denis :
Madame Ranson au chat (1892)
Musée départemental Maurice-Denis
« Le Prieuré »
Wikimedia Commons






ナビ派の若者たちは頻繁に顔を合わせる芸術論を戦わせたが、仲間の一人ポール・ランソン(Paul Ranson, 1861-1909)の15区モンパルナス大通りにある自宅およびアトリエに集まることが多かった。彼らはそのサロンを「聖堂」(Le Temple)と、そしてランソン夫人を「聖堂の光」と呼んだ。
(←)モーリス・ドニがこの時期に描いた『ランソン夫人と猫』(Mme Ranson au chat, 1892)は当時流行した室内装飾に用いられた装飾画板(パノー・デコラティフ Panneau décoratif) で、我々日本人にとっては、襖絵や屏風絵を模した彼らの絵画表現なのだと直感する。ここでも平板的な描画として、大正ロマンの竹久夢二の絵を連想させる。22歳の完成度に驚かされる。(LAI, PRR)


*参考Link :100年前のフランスの出来事:
(1) モーリス・ドニの絵、ドイツへ(1906.03.07)
http://france100.exblog.jp/1219649/

(2)演劇俳優組合救急基金のための慈善公演「ユビュ王」 (1908.02.15)
http://france100.exblog.jp/7655066/


2016年3月3日木曜日

散歩R(21-2) 作曲家バンジャマン・ゴダールの家 Maison de compositeur Benjamin Godard(9区サン=ジョルジュ地区)


☆ジャン=バティスト・ピガール通り34番地 (34, rue Jean-Baptiste-Pigalle, 9e)
《作曲家バンジャマン・ゴダールの家》 (Maison de compositeur Benjamin Godard)
PA00088968 © Monuments historiques, 1992
(c) Google Map Streetview
 34, rue Jean-Baptiste-Pigalle, 9e

この場所には大革命前の1787年頃にフリーメイスンの秘教的団体の「レザミ・レユニ」(Les Amis réunis)の施設があったという。《集友会》とでも訳せばいいのだろうか。(CVP)

現在の建物は19世紀以降のもので、歴史的建造物に指定されている。19世紀後半に活躍した作曲家バンジャマン・ゴダール(Benjamin Godard, 1849-1895)の住居だった。ゴダールは裕福なユダヤ系商人の家に生まれ、親はこの家の他にパリ北西郊外のタヴェルニー(Taverny)に広大な屋敷を所有し、父親はその土地の町長だったこともある。

早くからパリ音楽院に学んだが、作曲家としてよりもヴァイオリニストして知られるようになり、ベルギー出身の名手ヴュータン
(Henri Vieuxtemps, 1820-1881)の弟子としてドイツでの公演に同伴した。作曲は16歳でヴァイオリン・ソナタ(第1番)を発表して以来、28歳の1878年のパリ万博に合わせて実施されたパリ市の作曲コンクールで1位となるなど、交響曲、協奏曲、室内楽曲を含めた多くの作品を生み出し、そのいくつかは万博会場で演奏、紹介された。
Jocelyn, opéra en 4 actes d'après Lamartine,
musique de Benjanin Godard :
L'affiche par A. Courtines
@BnF Gallica



ゴダールの代表作とされるオペラ『ジョスラン』(Jocelyn)はロマン派の詩人ラマルティヌ(Alphonse de Prat de Lamartine, 1790-1869)の長詩から題材を取ったもので、1888年2月にブリュッセルのモネ歌劇場で初演され、その半年後にパリでも上演された。現在では、その中のアリアが「ジョスランの子守歌」(Berceuse de Jocelyn)として親しまれているに過ぎない。
彼は40歳過ぎに結核を患い、南仏のカンヌに転地療養を試みたが、1895年1月に死去した。まだ45歳だった。

彼は音楽界においては中堅どころの作曲家として活躍したが、作風としてはグノーやサン=サーンスに近いフランス・ロマン派の標準的な感情表現の枠内に留まったためか、あまり目立たないままに忘れ去られたきらいがある。埋もれた傑作としては、自身得意としたヴァイオリンのための協奏曲2曲が挙げられる。特に晩年の第2番の濃密な語り口は聴き応えがある。


◇参考Youtube -
(1) ジョスランの子守歌(チェロと弦楽合奏)
Godard : "Berceuse" from Jocelyn, for Cello & strings
https://www.youtube.com/watch?v=brgNigEoOOA

(2)ジョスランの子守歌(往年のソプラノ歌手リタ・シュトライヒ)
Rita Streich - Berceuse de Jocelyn
https://www.youtube.com/watch?v=mk84NUWOvEE

(3)ゴダール「ヴァイオリン協奏曲第2番ト短調作品131」
Benjamin Godard - Violin Concerto No. 2 in G minor, Op. 131
https://www.youtube.com/watch?v=cYJLQ4YnmMw


かたつむりの道すじ:⑱ラ・ブリュィエール通り~⑲エネ通り&ポール・エスキュディエ通り~
⑳シャプタル通り~㉑ジャン=バティスト・ピガール通り (c) Google Map