パリの街角散歩です。カタツムリのようにゆっくりと迂回しながら、そして時間と空間をさまよいながら歩き回ります。


2016年10月20日木曜日

散歩Q(4) 文豪エミール・ゾラの居館跡 Emplacement de la demeure d'Émile Zola(クリシー広場~ユーロプ界隈)

☆ブリュッセル通り21番地の2 (21bis, rue de Bruxelles, 9e)
《文豪エミール・ゾラの居館跡》 Emplacement de la demeure d'Émile Zola

(c) Google Map Streetview
 21bis, rue de Bruxelles, 9e
クリシー通りからT字路で入る横丁がブリュッセル通りである。19世紀後半に自然主義文学の巨匠として文壇に君臨したエミール・ゾラ(Émile Zola, 1840-1902)が1887年から1902年に亡くなるまでの15年間、この建物に住んでいた。窓の間に碑銘板が見える。

ゾラが不慮の死を遂げたのは1902年9月29日朝のことである。その前日、ゾラ夫妻は夏の間じゅう過ごしていたパリ西郊にあるメダンの別荘からこの家に戻ってきた。使用人の話によれば、夕食時も快活で、一緒に連れ帰った愛犬2匹をなでながら、近づく冬の季節をパリの街中で過ごすための買い物や催し物の心積もりを語り合ったという。

翌朝9時近くになっても夫妻が起き出してこないのに気づいた家政婦が2階の寝室のドアを叩いたが、返事がなく、不安に駆られてすぐに家令や料理婦に異常を知らせた。ちょうど配管の修理に来ていた作業員も一緒に2階に上がり、ドアをこじ開けた。部屋の中は暗いままだった。カーテンと窓を開けると、床の絨毯の上にゾラが倒れているのが見つかった。夫人はベッドの中で苦しそうな息をしていた。家中が大騒ぎになった。急いで数人の医者が呼ばれたが、ゾラはまもなく死亡が確認され、夫人は一命を取りとめることができた。室内で寝ていた愛犬2匹も嘔吐していたが無事だった。ゾラの遺骸は隣の部屋のベッドに運ばれた。

この日のこの界隈は野次馬と新聞記者たちで一日中騒然としていた。様々な憶測が飛び交った。警察の捜査が行われ、検死医の診断では、ゾラの死因は一酸化炭素中毒による事故死とされた。地下にある暖房装置は故障していて使われておらず、そこからの空気は来ていなかった。一方で前日使用人が寝室の湿気を取り除くために暖炉に豆炭を燃やしており、その燃えかすが見つかった。その豆炭の不完全燃焼による一酸化炭素ガスが部屋に滞留したため、ゾラ夫妻は睡眠中に息苦しさで目を覚ました。ゾラは起き上がって水か薬を飲もうと歩きだしたが、すぐに倒れて気を失った。夫人はそれに気づいていたが、動けずにベッドの中で気を失った。一酸化炭素の濃度は床の底辺部のほうが濃いので、ゾラは倒れたまま死に至ったのである。

翌9月30日のパリの新聞各紙は揃って文豪の死を報じた。(↓)下掲の「マタン」(Le Matin)紙はとりわけ第1面全部と2面の半分を『エミール・ゾラの悲劇的な死』のために費やした。当時の新聞にはまだ写真は使われておらず、ほとんどが文字のみの紙面が普通であった。イラスト画像が入ることも珍しかった。




















Le Matin 1902.09.30
@BnF Gallica
































Edouard Manet : Emile Zola, Écrivain (1868)
Paris, Musée d'Orsay
Crédit Photo (C) RMN-Grand Palais (musée d'Orsay)
 / Hervé Lewandowski

エミール・ゾラ(Émile Zola, 1840-1902)はパリのイタリア人技師の子として生まれた。その後南仏で育ったが、22歳からパリの大手出版社アシェットで勤務しながら、文筆生活を始めた。20代では『テレーズ・ラカン』(Thérèse Raquin, 1865)などで注目され、また印象派の画家たち特にエドゥアール・マネとの交友があり、彼らを擁護する美術評論も書いた。1870年代からは、自然科学的(遺伝学的)な要素を盛り込んだルーゴン=マッカール家の家系図にもとづく壮大な『ルーゴン=マッカール叢書』(Les Rougon-Macquart)全20作の世界を書き上げた。その中には、パリの社会の底辺層を赤裸々に描いた『居酒屋』(l'Assommoir)や高級娼婦の生態を描いた『ナナ』(Nana)なども含まれる。

こうして当代随一の作家としての声価を確立したゾラが1898年1月13日に「オーロル」(曙)紙(L'Aurore) で発表した仏大統領宛の公開質問状「私は弾劾する」(J'accuse !) は、ドレフュス事件をめぐるフランス国内の論争に拍車をかけることとなった。独スパイの容疑で有罪となったドレフュス大尉は軍部の陰謀による冤罪だ、として再審を求める親ドレフュス派と、ユダヤ系市民の排斥運動に乗じて嫌疑は正しいとする反ドレフュス派とが、国を二分して争っていた。

「オーロル」(曙)紙は1897年に創刊されたばかりの新聞で、ジョルジュ・クレマンソーが主筆を務めていた。彼と親しかったゾラは、国家権力の欺瞞を暴くために敢然と論陣を張り、ドレフュス擁護の運動に積極的に関与した。その結果、ドレフュスは1899年に特赦によって自由の身となったが、本当の無罪を勝ち取るために再審の運動は続けていた。ゾラは急死したが、再審は1906年まで持ち越された。


※参考Link:「100年前のフランスの出来事」ゾラ関連記事

(1)ドレフュス事件の再審 :1906年6月15日(金)親反両派の抗争略史を記載
http://france100.exblog.jp/2518659/

(2)ドレフュス事件、第2回目の再審:1906年7月12日(木)無罪判決
http://france100.exblog.jp/2789852/

(3)メダンの文豪ゾラの館のその後:1907年9月28日(土)
http://france100.exblog.jp/6457981/



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