パリの街角散歩です。カタツムリのようにゆっくりと迂回しながら、そして時間と空間をさまよいながら歩き回ります。


2016年4月1日金曜日

散歩R(28-1) 作曲家エネスコの住居 Demeure de compositeur Enesco(9区サン=ジョルジュ地区)

☆クリシー通り26/28番地 (26/28, rue de Clichy, 9e)
《作曲家エネスコの住居》(Demeure de compositeur et virtuoso Enesco)

再びクリシー通りに入ると、目の前の広壮な建物が目に留まる。28番地の表示の上に碑銘板が見える。「この家にルーマニア出身のすぐれた音楽家ジョルジュ・エネスコ(Georges Enesco, 1881-1955)が1908年から1955年に亡くなるまで住んでいた。」とある。エネスコはルーマニア語ではエネスク(George Enescu)だが、終生パリを中心に活躍したので、フランス風表記のジョルジュ・エネスコが浸透している。


エネスコは4歳からヴァイオリンを弾きはじめ、またたく間にその才能を開花させた。8歳でウィーン音楽院に学び、12歳足らずでヴァイオリンの神童として舞台に立ち、称賛されていた。1895年14歳でパリに赴く。日本にいる身からは想像もつかないが、ルーマニアは東欧にありながらもラテン系民族の国家であり、昔からフランスと文化的に親密な関係にあったことがその背景でもあったと思われる。パリ音楽院では作曲をマスネとフォーレに師事し、ヴァイオリンをマルシックに学んだ。彼はそこで多くの交遊関係を築き、コルトー、ティボー、カザルスの他、ラヴェル、シュミット、デュカスとも親しくなった。彼は10代の学生でありながらも数多くの作曲を行い、交響曲から室内楽、ピアノ曲まで広範囲に及んだ。

彼の代表作とされる2つの『ルーマニア狂詩曲』
(Rhapsodie roumaine)も21歳で作られ、ルーマニアの民俗音楽の要素を多く取り入れて広く親しまれている。彼はクリシー通りの家に落ち着いたのは27歳であり、以後74歳で死去するまで、パリが活動の拠点となった。作曲のほかヴァイオリン奏者、指揮者として欧州各地を何度も巡演し、米国にも長く滞在することもあった。またヴァイオリン演奏の指導者としても多くの演奏家を輩出した。(←)彼の演奏は今日でも歴史的遺産として聴かれている。






※ Flickr.com に28番地にある碑銘(Plaque)の拡大写真が載っていたのでLinkを紹介する。
Monceau : Georges Enesco plaque, 28 rue de Clichy, Paris
https://www.flickr.com/photos/monceau/24749446650

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