パリの街角散歩です。カタツムリのようにゆっくりと迂回しながら、そして時間と空間をさまよいながら歩き回ります。


2016年4月8日金曜日

散歩R(28-3) 文豪ヴィクトル・ユゴー晩年の住居 Demeure de la vieillesse de Victor Hugo(9区サン=ジョルジュ地区)

☆クリシー通り21番地 (21, rue de Clichy, 9e)
《文豪ヴィクトル・ユゴー晩年の住居》 (Demeure de la vieillesse de Victor Hugo)

(c) Google Map Streetview
 21, rue de Clichy, 9e
21番地の建物には、文豪ヴィクトル・ユゴー(Victor Hugo, 1802-1885)が1874年から1878年までの約4年間住まいとしていた。彼の72歳から76歳までの老年期にあたる。

ユゴーは若くして詩人としての名声を確立し、ロマン主義の盛期には劇作家として古典演劇の伝統を打破する中心的な役割を果たした。七月王政期にはルイ=フィリップに重用されて貴族院議員となり、政治活動に没入した。二月革命後に台頭したルイ=ナポレオン、後のナポレオン3世とは政治的な信条の違いから政敵となり、1851年12月のクーデターの際に、パリを脱出してベルギーに亡命した。以後約20年間、英領ジャージー島、ガーンジー島での亡命生活が続く。つまり年齢にすると50~60代の期間、ユゴーの存在はパリの社会からは全く消え去っていたのである。しかし、その亡命期間中に文学的には彼の代表作とされる長編小説『レ・ミゼラブル』(Les Misérables)(「悲惨な人々」の意味)をベルギーで出版し、大きな反響を得た。

普仏戦争の敗戦とナポレオン3世の廃位により、第3共和政が発足するとユゴーはフランスに戻る決心をし、人々の歓声に迎えられた。彼は生涯を通して住まいを転々とする生活を送り、30代のヴォージュ広場の館時代以外はほとんど2~3年以内に転居している。帰還後も数カ所を転々としたが、このクリシー通り21番地では約4年間の生活が続いた。この間に上院議員への当選を果たし、論客としての活動に復帰した。彼は70歳を越えてもこうした旺盛な行動力にあふれていたが、1878年6月に突然脳卒中の発作に見舞われ、療養のために再びガーンジー島へ赴くことになる。

Le salon de Victor Hugo: 21 rue de Clichy
Dessin d'après nature par Adrien Marie
La chronique illustrée
(↑)上掲は「クリシー通り21番地のヴィクトル・ユゴーのサロン」と題される当時のイラストである。政界や文学界の要人たちがユゴーの許を訪ねて歓談している様子が描かれている。老雄のユゴーは中央に立って来客と語り、普仏戦争で奮闘した政治家のガンベッタ(Léon Gambetta, 1838-1882)の姿も右手前で足を組んでいるのが見える。左手前の2人の子供はユゴーの孫のジョルジュとジャンヌである。ジョルジュが後年記述したことによれば、「祖父は3階の広いアパルトマンに住んでいてすべての窓がひっそりしたチボリ通り(現アテーヌ通り)に面していた。」とある。(PRR, LAI, Wiki)



かたつむりの道すじ:㉒ブランシュ通り~㉓モンセー通り~㉔クリシー通り~㉕リエージュ通り~
㉖アムステルダム通り~㉗ミラン通り~㉘クリシー通り(再)~㉙アテーヌ通り (c) Google Map


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