かたつむりの道すじ(9区サン=ジョルジュ地区)@Google Map |
パリの街角散歩です。カタツムリのようにゆっくりと迂回しながら、そして時間と空間をさまよいながら歩き回ります。
2016年4月20日水曜日
2016年4月17日日曜日
散歩R(30-2) エスティエンヌ・ドルヴ広場 Place d'Estienne d'Orves, 9e(9区サン=ジョルジュ地区)
いよいよサン=ジョルジュ地区の散歩の最後となった。トリニテ教会の前の広場は戦前までは「トリニテ広場」(Place de la Trinité)と呼ばれていた。1944年にパリがナチ独軍の占領から解放された直後に、その3年前にレジスタンスの闘士の先駆けとしてドイツ軍に銃殺されたフランス海軍の士官エスティエンヌ・ドルヴ(Honoré d'Estienne d'Orves, 1901-1941)を記念してこの広場に名付けることにしたのである。広場の中に記念碑がある。(DNR)
☆エスティエンヌ・ドルヴ広場2番地 (2, place d'Estienne d'Orves, 9e)
☆サン=ラザール通り71番地 (71, rue Saint-Lazare, 9e)
☆シャトーダン通り60番地 (60, rue de Châteaudun, 9e)
PA00088950 © Monuments historiques, 1992
広場の東端に大きな建物がある。地下鉄の出入口のすぐ前にある。1868年と建築士シャルル・フォレスト(Charles Forest)の名前が刻まれている歴史的建造物。正面入口の大きな馬車門の両脇に見事なアトラント柱像がある。これはナント出身の彫刻家ジョゼフ=ミシェル・カイエ(Joseph-Michel Caillé, 1836-1881)の作である。彼は45歳で早世した。
ルノワール(Auguste Renoir, 1841-1919) は30代の頃、近くのサン=ジョルジュ通り35番地にアトリエを構えており、1874年の第1回印象派展を開催する準備に追われていたが、このトリニテ教会の前の広場で風景画を何点か描いている。(←)左掲はそのうちの一点だが、いかにも楽しげなパリ風景である。人物はユトリロの描き方に似ている。
日本のひろしま美術館に別の「トリニテ広場」の絵があるので紹介する。
http://www.hiroshima-museum.jp/collection/eu/renoir.html
◇パリ蝸牛散歩内の関連記事:
9区サン=ジョルジュ地区(16-3) ルノワールのアトリエ
Emplacement de l'atelier d'Auguste Renoir
http://promescargot.blogspot.jp/2016/01/16-3.html
☆エスティエンヌ・ドルヴ広場2番地 (2, place d'Estienne d'Orves, 9e)
☆サン=ラザール通り71番地 (71, rue Saint-Lazare, 9e)
☆シャトーダン通り60番地 (60, rue de Châteaudun, 9e)
PA00088950 © Monuments historiques, 1992
広場の東端に大きな建物がある。地下鉄の出入口のすぐ前にある。1868年と建築士シャルル・フォレスト(Charles Forest)の名前が刻まれている歴史的建造物。正面入口の大きな馬車門の両脇に見事なアトラント柱像がある。これはナント出身の彫刻家ジョゼフ=ミシェル・カイエ(Joseph-Michel Caillé, 1836-1881)の作である。彼は45歳で早世した。
(c)Photo Emoulu bc16fa, 2013 |
(c)Photo Emoulu bc16fa, 2013 |
Auguste Renoir - Place de la Trinité (1875) Collection particulière Wikimédia commons |
日本のひろしま美術館に別の「トリニテ広場」の絵があるので紹介する。
http://www.hiroshima-museum.jp/collection/eu/renoir.html
◇パリ蝸牛散歩内の関連記事:
9区サン=ジョルジュ地区(16-3) ルノワールのアトリエ
Emplacement de l'atelier d'Auguste Renoir
http://promescargot.blogspot.jp/2016/01/16-3.html
2016年4月16日土曜日
散歩R(30-1) 聖トリニテ教会 Église Sainte-Trinité(9区サン=ジョルジュ地区)
☆エスティエンヌ・ドルヴ広場 (Place d'Estienne d'Orves, 9e)
《聖トリニテ教会》 (Église Sainte-Trinité)
PA00088906 © Monuments historiques, 1992
散歩者のルートからすれば、教会の裏手にあたるトリニテ通りから後陣に入る入口が手っ取り早いかもしれない。
(c)Photo Emoulu bc11fa, 2013 |
この教会は1867年にオスマン男爵によるパリ改造計画の一環として、グラン・ブルヴァールのイタリアン大通りから北に真っすぐ伸びるショセ=ダンタン通りが、オスマン大通りを横切ってサン=ラザール通りまで至る先に、この教会の正面が見通せるように建てられた。
パリの都市計画にはこうした「デブーシェ」(出口débouché)の美観、つまり道路の行き着く先に現れるランドマーク(repère)の存在を効果的に採り入れていたことがわかる。
正面中央にそびえる高さ65mの堂々たる鐘楼の存在感は大きい。建築家のバリュ(Théodore Ballu, 1817-1885)が16世紀のイタリア・ルネサンス様式を模して設計したものとされる。
(c)Photo Emoulu bc14a, 2013 |
教会内部の大オルガン(Grandes orgues)は1869年に名匠カヴァイエ=コル(Aristide Cavaillé-Coll, 1811-1899)によって作られたもので、特に現代作曲家オリヴィエ・メシアン(Olivier Messiaen, 1908-1992)が23歳から亡くなるまでの61年間、この教会のオルガン奏者であったことが記憶されている。
Pierre-Paul Rubens - La Trinité Neubourg, Bayerische Staatsgemäldesammlungen Photo (C) BPK, Berlin, Dist. RMN-Grand Palais / image BStGS |
「トリニテ」(Trinité)とはフランス語で「三位一体」の意味で、父なる神、子なるキリスト、聖霊の三つの位格による神の本質を示すものとされる。(←)左掲のルーベンスの作品にみられるように、聖霊は「鳩」として象徴的に表わされている。
(c)Photo Emoulu bc14f, 2013 |
(c)Photo Emoulu bc13fa, 2013 |
教会の前は気持ちのいい小公園(Square de la Trinité)になっている。特に花咲く春から夏にかけての季節は美しい。
2016年4月15日金曜日
散歩R(29-2) アテーヌ通り Rue d'Athènes, 9e(9区サン=ジョルジュ地区)
(c) Google Map Streetview 3bis, rue d'Athènes, 9e |
PA00088921 © Monuments historiques, 1992
3階のバルコニーの下の持送りのところにある男神頭像の両脇に建築家のアンリ・ローズ父子(Roze-Henri et fils)の記銘がある。1857年の建築で歴史的建造物に指定されている。かなり古典的な建築装飾である。
(c) Google Map Streetview 4bis, rue d'Athènes, 9e |
☆アテーヌ通り6番地 (6, rue d'Athènes, 9e)
現在の建物は4番地の2(4bis)と6番地がつながっていて、双子のように同じ装飾の入口が並んでいる。第一次大戦後の時期に《相互保険基金》(Caisse d'Assurances Mutuelles)という半官半民のような保障機関が入っていた。
その前のベル・エポック時代には、プランタン百貨店(Grands Magasins du Printemps)の創業者ジュール・ジャリュゾ(Jules Jaluzot, 1834-1916)が1890年に建てた立派な居館があった。彼は28歳で舞台女優と結婚し、そのかなりの額の持参金を元手に1865年にプランタン・デパートを開業し、巧みな経営手腕で成功者となった。保守派の国会議員としても何度か選出されている。しかし、1905年に起きた砂糖相場の暴落により、債務の返済のため、彼はこの館を売却せざるを得ない状況に追い込まれた。その後建物は解体され、現在のような集合住宅に建て替えられた。(PRR, Wiki)
2016年4月13日水曜日
散歩R(29-1) サラ・ベルナールの若年期の住居 Ancienne demeure de jeune Sarah Bernhardt(9区サン=ジョルジュ地区)
クリシー通りを離れる前に、アテーヌ通りに立ち寄ることとする。アテーヌ(Athènes)はアテネのフランス語読みである。ユゴーの老年期の家の角からアテーヌ通りの横丁に入る。
☆アテーヌ通り1番地の2 (1bis, rue d'Athènes, 9e)
《サラ・ベルナールの若年期の住居》(Demeure de jeune Sarah Bernhardt)
PA00088920 © Monuments historiques, 1992
1番地の2は細長い高さの建物で、現在は1階部分が駐車用ガレージになっていてあまり見栄えがしない。2階から上は唐草模様と仮面像の細かな装飾が見える。この建物は19世紀後半期のものと思われる。歴史的建造物に指定された理由は、一時流行した新ルネサンス様式の建物であることと、大女優のサラ・ベルナール(Sarah Bernhardt, 1844-1923)がまだ若い女優だった頃に住んでいた場所だったからかも知れない。
サラ・ベルナールは1862年17歳でパリ演劇院(コンセルヴァトワール)を卒業し、コメディ・フランセーズに入ったが、4年後に団員と喧嘩をして退団させられ、オデオン座に移った。1869年『通りすがり』(Le Passant)で初めて大成功を収めて注目された。
この家に住んでいたのはこの駆け出しの時代ではないかと思われる。当時の文化庁の記録簿に女優のロジーヌ・ベルナール(Rosine Bernard)がこの住所に登録していたと記載されていたからである。このロジーヌという名前はアンリエット、サラ、マリーとともに彼女の本名の一つとされ、姓のベルナールもフランス人風に(便宜的に)変えていた。
20代後半の頃でも彼女は才能のある女優として知られてはいたが、舞台の役回りで興味を引く演目がまだ少なかったため、彫刻を学び、画塾に通って、サロンに出展するまでになった。また恋愛を通して多くの芸術家と交流した。俳優仲間ではムネ=シュリー、リュシアン・ギトリ、劇作家のヴィクトル・ユゴー(Victor Hugo, 1802-1885)、画家ではギュスターヴ・ドレ(Gustave Doré, 1832-1883)、ジョルジュ・クレランが次々と愛人となった。(↑)上掲は、ギュスターヴ・ドレが描いた「うら若いサラ・ベルナール」の肖像画である。
彼女が大女優への道を歩み出すのは、普仏戦争後の1872年にユゴーの『リュイ・ブラス』(Ruy Blas)の公演での大成功以降で、ユゴーからは《黄金の声》(La voix d'or)と称賛された。これによってコメディ・フランセーズから呼び戻され、ラシーヌの『フェードル』(Phèdre)やユゴーの『エルナニ』(Hernani)でも成功を重ね、《女神》(La Divine)とか、《演劇の女帝》(Impératrice du théâtre)と冠せられるまでに至る。
☆アテーヌ通り1番地の2 (1bis, rue d'Athènes, 9e)
《サラ・ベルナールの若年期の住居》(Demeure de jeune Sarah Bernhardt)
PA00088920 © Monuments historiques, 1992
1番地の2は細長い高さの建物で、現在は1階部分が駐車用ガレージになっていてあまり見栄えがしない。2階から上は唐草模様と仮面像の細かな装飾が見える。この建物は19世紀後半期のものと思われる。歴史的建造物に指定された理由は、一時流行した新ルネサンス様式の建物であることと、大女優のサラ・ベルナール(Sarah Bernhardt, 1844-1923)がまだ若い女優だった頃に住んでいた場所だったからかも知れない。
Paris 9ème arrondissement - Immeuble 1bis rue d'Athènes Own work MOSSOT Creative Commons Attribution 3.0 Unported license. |
Gustave Doré : Portrait de Sarah Bernhardt jeune Paris, Bibliothèque nationale de France (BnF) Photo (C) RMN-Grand Palais / Agence Bulloz |
サラ・ベルナールは1862年17歳でパリ演劇院(コンセルヴァトワール)を卒業し、コメディ・フランセーズに入ったが、4年後に団員と喧嘩をして退団させられ、オデオン座に移った。1869年『通りすがり』(Le Passant)で初めて大成功を収めて注目された。
この家に住んでいたのはこの駆け出しの時代ではないかと思われる。当時の文化庁の記録簿に女優のロジーヌ・ベルナール(Rosine Bernard)がこの住所に登録していたと記載されていたからである。このロジーヌという名前はアンリエット、サラ、マリーとともに彼女の本名の一つとされ、姓のベルナールもフランス人風に(便宜的に)変えていた。
20代後半の頃でも彼女は才能のある女優として知られてはいたが、舞台の役回りで興味を引く演目がまだ少なかったため、彫刻を学び、画塾に通って、サロンに出展するまでになった。また恋愛を通して多くの芸術家と交流した。俳優仲間ではムネ=シュリー、リュシアン・ギトリ、劇作家のヴィクトル・ユゴー(Victor Hugo, 1802-1885)、画家ではギュスターヴ・ドレ(Gustave Doré, 1832-1883)、ジョルジュ・クレランが次々と愛人となった。(↑)上掲は、ギュスターヴ・ドレが描いた「うら若いサラ・ベルナール」の肖像画である。
彼女が大女優への道を歩み出すのは、普仏戦争後の1872年にユゴーの『リュイ・ブラス』(Ruy Blas)の公演での大成功以降で、ユゴーからは《黄金の声》(La voix d'or)と称賛された。これによってコメディ・フランセーズから呼び戻され、ラシーヌの『フェードル』(Phèdre)やユゴーの『エルナニ』(Hernani)でも成功を重ね、《女神》(La Divine)とか、《演劇の女帝》(Impératrice du théâtre)と冠せられるまでに至る。
2016年4月10日日曜日
散歩R(28-4) クリシー通り(再) Rue de Clichy, 9e (1ère partie)(9区サン=ジョルジュ地区)
(c) Google Map Streetview
19, rue de Clichy, 9e
|
サラ=ベルナールの旧居のクリシー通り側の入口が19番地となっている。ここの装飾もなかなか凝っている。獅子が咥える鉄輪に番地表示板が下がり、シンプルな唐草模様があしらわれている。門柱の一対の女神頭像と相まって小さな入口ながらも一見に値する。
(c) Google Map Streetview 12, rue de Clichy, 9e |
☆クリシー通り12番地 (12, rue de Clichy, 9e)
2階の窓際に置かれた花鉢がそこに住まう人の感性を彷彿とさせる。気持のいい門飾りになっている。
(c) Google Map Streetview 10, rue de Clichy, 9e |
☆クリシー通り10番地 (10, rue de Clichy, 9e)
《旧ウェンデル館》 (Ancien Hôtel de Wendel)
10番地の建物は現在小学校となっている。建物としては大きいが装飾を極力抑えた簡素な外観である。
一般にみられるように学校の正面出入口には国旗が掲げられ、
(c) Google Map Streetview 10, rue de Clichy, 9e |
壁面に「自由・平等・博愛」(Liberté, Égalité, Fraternité) の標語が彫られている。この建物のもう一つの特徴は、入口の床の敷石が木製(Pavés des bois)であることが珍しいとされている。(PRR)
(c) Google Map Streetview 10, rue de Clichy, 9e |
(c) Google Map Streetview 21, rue de Clichy, 9e |
建物に沿ってクリシー通りから狭い裏通りのトリニテ通りに入ると、トリニテ教会の後陣を前に、ゆったりした中庭に面して建つ居館の偉容に少し驚く。なぜか歴史的建造物には指定されていないが、毎年11月に開催される《文化財の日》(Journée de patrimoine)には、普段非公開の建物の内部を見学することができる。
◇参考Link : Evous france: Se promener, Paris 9e ; L'hôtel Wendel en photographies(ウェンデル館の写真)
http://www.evous.fr/La-saga-d-une-dynastie-industrielle-les-Wendel,1149214.html
2016年4月8日金曜日
散歩R(28-3) 文豪ヴィクトル・ユゴー晩年の住居 Demeure de la vieillesse de Victor Hugo(9区サン=ジョルジュ地区)
☆クリシー通り21番地 (21, rue de Clichy, 9e)
《文豪ヴィクトル・ユゴー晩年の住居》 (Demeure de la vieillesse de Victor Hugo)
21番地の建物には、文豪ヴィクトル・ユゴー(Victor Hugo, 1802-1885)が1874年から1878年までの約4年間住まいとしていた。彼の72歳から76歳までの老年期にあたる。
ユゴーは若くして詩人としての名声を確立し、ロマン主義の盛期には劇作家として古典演劇の伝統を打破する中心的な役割を果たした。七月王政期にはルイ=フィリップに重用されて貴族院議員となり、政治活動に没入した。二月革命後に台頭したルイ=ナポレオン、後のナポレオン3世とは政治的な信条の違いから政敵となり、1851年12月のクーデターの際に、パリを脱出してベルギーに亡命した。以後約20年間、英領ジャージー島、ガーンジー島での亡命生活が続く。つまり年齢にすると50~60代の期間、ユゴーの存在はパリの社会からは全く消え去っていたのである。しかし、その亡命期間中に文学的には彼の代表作とされる長編小説『レ・ミゼラブル』(Les Misérables)(「悲惨な人々」の意味)をベルギーで出版し、大きな反響を得た。
普仏戦争の敗戦とナポレオン3世の廃位により、第3共和政が発足するとユゴーはフランスに戻る決心をし、人々の歓声に迎えられた。彼は生涯を通して住まいを転々とする生活を送り、30代のヴォージュ広場の館時代以外はほとんど2~3年以内に転居している。帰還後も数カ所を転々としたが、このクリシー通り21番地では約4年間の生活が続いた。この間に上院議員への当選を果たし、論客としての活動に復帰した。彼は70歳を越えてもこうした旺盛な行動力にあふれていたが、1878年6月に突然脳卒中の発作に見舞われ、療養のために再びガーンジー島へ赴くことになる。
(↑)上掲は「クリシー通り21番地のヴィクトル・ユゴーのサロン」と題される当時のイラストである。政界や文学界の要人たちがユゴーの許を訪ねて歓談している様子が描かれている。老雄のユゴーは中央に立って来客と語り、普仏戦争で奮闘した政治家のガンベッタ(Léon Gambetta, 1838-1882)の姿も右手前で足を組んでいるのが見える。左手前の2人の子供はユゴーの孫のジョルジュとジャンヌである。ジョルジュが後年記述したことによれば、「祖父は3階の広いアパルトマンに住んでいてすべての窓がひっそりしたチボリ通り(現アテーヌ通り)に面していた。」とある。(PRR, LAI, Wiki)
《文豪ヴィクトル・ユゴー晩年の住居》 (Demeure de la vieillesse de Victor Hugo)
(c) Google Map Streetview 21, rue de Clichy, 9e |
ユゴーは若くして詩人としての名声を確立し、ロマン主義の盛期には劇作家として古典演劇の伝統を打破する中心的な役割を果たした。七月王政期にはルイ=フィリップに重用されて貴族院議員となり、政治活動に没入した。二月革命後に台頭したルイ=ナポレオン、後のナポレオン3世とは政治的な信条の違いから政敵となり、1851年12月のクーデターの際に、パリを脱出してベルギーに亡命した。以後約20年間、英領ジャージー島、ガーンジー島での亡命生活が続く。つまり年齢にすると50~60代の期間、ユゴーの存在はパリの社会からは全く消え去っていたのである。しかし、その亡命期間中に文学的には彼の代表作とされる長編小説『レ・ミゼラブル』(Les Misérables)(「悲惨な人々」の意味)をベルギーで出版し、大きな反響を得た。
普仏戦争の敗戦とナポレオン3世の廃位により、第3共和政が発足するとユゴーはフランスに戻る決心をし、人々の歓声に迎えられた。彼は生涯を通して住まいを転々とする生活を送り、30代のヴォージュ広場の館時代以外はほとんど2~3年以内に転居している。帰還後も数カ所を転々としたが、このクリシー通り21番地では約4年間の生活が続いた。この間に上院議員への当選を果たし、論客としての活動に復帰した。彼は70歳を越えてもこうした旺盛な行動力にあふれていたが、1878年6月に突然脳卒中の発作に見舞われ、療養のために再びガーンジー島へ赴くことになる。
Le salon de Victor Hugo: 21 rue de Clichy Dessin d'après nature par Adrien Marie La chronique illustrée |
かたつむりの道すじ:㉒ブランシュ通り~㉓モンセー通り~㉔クリシー通り~㉕リエージュ通り~ ㉖アムステルダム通り~㉗ミラン通り~㉘クリシー通り(再)~㉙アテーヌ通り (c) Google Map |
2016年4月5日火曜日
散歩R(28-2) カジノ・ド・パリ劇場 Théâtre de Casino de Paris(9区サン=ジョルジュ地区)
☆クリシー通り16番地 (16, rue de Clichy, 9e)
《カジノ・ド・パリ劇場》(Théâtre de Casino de Paris)
PA00089008 © Monuments historiques, 1992
(c) Google Map Streetview 16, rue de Clichy, 9e |
カジノ・ド・パリ劇場は大胆なアーチ型の正面とアール・デコ風のモザイク窓に特徴がある。カジノとは元々イタリア語の「小さな家」の意味だそうで、ここは賭博場ではない。19世紀の末頃に「演舞場」、「園遊会場」として名付けられた。現在の建物は1917年に建築家のマルセル・ウーダン(Marcel Oudin, 1882-1936)によって初期の鉄筋コンクリート建築の1500席の劇場として建てられた。
元来ここの土地はルイ15世の時代に広大な貴族の庭園に設けられた園遊会場であり、「フォリー・リシュリュー」(Folie-Richelieu)と呼ばれた。フォリー(folie)は普通名詞では、狂気、狂乱、熱狂の意味で、音感の似ているフォワール(foire)がお祭り、縁日、遊園地なのだが、それよりも羽目を外した乱痴気騒ぎをする場所だと言いたかったのかもしれない。
(↓)下掲のポスター絵は19世紀末のベル・エポック時代のものだが、劇場でのレヴュのほかに長大な遊歩回廊(プロムノワールpromenoir)の中にカフェやダンスホールがあったことがうかがえる。仮装舞踏会、仮面舞踏会も頻繁に開かれていた。
第一次大戦後のいわゆるアール・デコの時代には、ミスタンゲット(Mistingett)やモーリス・シュヴァリエ(Maurice Chevalier)、そしてジョゼフィン・ベイカー(Josephine Baker)などの大スターのレヴュが全盛となった。
*参考Link : Casino de Paris: Histoire d'une salle mystique(カジノ・ド・パリの略史・仏語)
https://www.casinodeparis.fr/fr/histoire
Affiche de Casino de Paris, 16, rue de Clichy par Georges Coutau @BnF Gallica |
2016年4月1日金曜日
散歩R(28-1) 作曲家エネスコの住居 Demeure de compositeur Enesco(9区サン=ジョルジュ地区)
☆クリシー通り26/28番地 (26/28, rue de Clichy, 9e)
《作曲家エネスコの住居》(Demeure de compositeur et virtuoso Enesco)
再びクリシー通りに入ると、目の前の広壮な建物が目に留まる。28番地の表示の上に碑銘板が見える。「この家にルーマニア出身のすぐれた音楽家ジョルジュ・エネスコ(Georges Enesco, 1881-1955)が1908年から1955年に亡くなるまで住んでいた。」とある。エネスコはルーマニア語ではエネスク(George Enescu)だが、終生パリを中心に活躍したので、フランス風表記のジョルジュ・エネスコが浸透している。
エネスコは4歳からヴァイオリンを弾きはじめ、またたく間にその才能を開花させた。8歳でウィーン音楽院に学び、12歳足らずでヴァイオリンの神童として舞台に立ち、称賛されていた。1895年14歳でパリに赴く。日本にいる身からは想像もつかないが、ルーマニアは東欧にありながらもラテン系民族の国家であり、昔からフランスと文化的に親密な関係にあったことがその背景でもあったと思われる。パリ音楽院では作曲をマスネとフォーレに師事し、ヴァイオリンをマルシックに学んだ。彼はそこで多くの交遊関係を築き、コルトー、ティボー、カザルスの他、ラヴェル、シュミット、デュカスとも親しくなった。彼は10代の学生でありながらも数多くの作曲を行い、交響曲から室内楽、ピアノ曲まで広範囲に及んだ。
彼の代表作とされる2つの『ルーマニア狂詩曲』
(Rhapsodie roumaine)も21歳で作られ、ルーマニアの民俗音楽の要素を多く取り入れて広く親しまれている。彼はクリシー通りの家に落ち着いたのは27歳であり、以後74歳で死去するまで、パリが活動の拠点となった。作曲のほかヴァイオリン奏者、指揮者として欧州各地を何度も巡演し、米国にも長く滞在することもあった。またヴァイオリン演奏の指導者としても多くの演奏家を輩出した。(←)彼の演奏は今日でも歴史的遺産として聴かれている。
※ Flickr.com に28番地にある碑銘(Plaque)の拡大写真が載っていたのでLinkを紹介する。
Monceau : Georges Enesco plaque, 28 rue de Clichy, Paris
https://www.flickr.com/photos/monceau/24749446650
《作曲家エネスコの住居》(Demeure de compositeur et virtuoso Enesco)
再びクリシー通りに入ると、目の前の広壮な建物が目に留まる。28番地の表示の上に碑銘板が見える。「この家にルーマニア出身のすぐれた音楽家ジョルジュ・エネスコ(Georges Enesco, 1881-1955)が1908年から1955年に亡くなるまで住んでいた。」とある。エネスコはルーマニア語ではエネスク(George Enescu)だが、終生パリを中心に活躍したので、フランス風表記のジョルジュ・エネスコが浸透している。
エネスコは4歳からヴァイオリンを弾きはじめ、またたく間にその才能を開花させた。8歳でウィーン音楽院に学び、12歳足らずでヴァイオリンの神童として舞台に立ち、称賛されていた。1895年14歳でパリに赴く。日本にいる身からは想像もつかないが、ルーマニアは東欧にありながらもラテン系民族の国家であり、昔からフランスと文化的に親密な関係にあったことがその背景でもあったと思われる。パリ音楽院では作曲をマスネとフォーレに師事し、ヴァイオリンをマルシックに学んだ。彼はそこで多くの交遊関係を築き、コルトー、ティボー、カザルスの他、ラヴェル、シュミット、デュカスとも親しくなった。彼は10代の学生でありながらも数多くの作曲を行い、交響曲から室内楽、ピアノ曲まで広範囲に及んだ。
彼の代表作とされる2つの『ルーマニア狂詩曲』
(Rhapsodie roumaine)も21歳で作られ、ルーマニアの民俗音楽の要素を多く取り入れて広く親しまれている。彼はクリシー通りの家に落ち着いたのは27歳であり、以後74歳で死去するまで、パリが活動の拠点となった。作曲のほかヴァイオリン奏者、指揮者として欧州各地を何度も巡演し、米国にも長く滞在することもあった。またヴァイオリン演奏の指導者としても多くの演奏家を輩出した。(←)彼の演奏は今日でも歴史的遺産として聴かれている。
※ Flickr.com に28番地にある碑銘(Plaque)の拡大写真が載っていたのでLinkを紹介する。
Monceau : Georges Enesco plaque, 28 rue de Clichy, Paris
https://www.flickr.com/photos/monceau/24749446650
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