パリの街角散歩です。カタツムリのようにゆっくりと迂回しながら、そして時間と空間をさまよいながら歩き回ります。


2017年1月2日月曜日

散歩Q(5-2) 画家ヴュイヤールのアトリエ跡 Emplacement de l'atelier de Vuillard, intimiste(クリシー広場~ユーロプ界隈)

☆アドルフ・マックス広場6番地 (6, place Adolphe Max, 9e)
《親密派の画家ヴュイヤールのアトリエ跡》 Emplacement de l'atelier de Vuillard, intimiste

(c) Google Map Streetview
 6, place Adolphe Max, 9e
広場に面した6番地には、親密派の画家として知られるエドゥアール・ヴュイヤール(Édouard Vuillard, 1868-1940)が最晩年の10数年を送った家がある。

目の前の小公園(ベルリオーズ公園Square Berlioz)を見下ろす絶好の家で、彼が40代の頃に描いた『ヴァンティミル広場』の装飾パネル画以来、この家に住むことが憧れとなっていた。

この家は、しばらくの間南西部バイヨンヌ出身のアカデミー派の肖像画家レオン・ボナ(Léon Bonnat, 1833-1922)の活動拠点だった。

◇パリ蝸牛散歩内の関連記事:
☆アドルフ・マクス広場(旧ヴァンティミル広場)Place Adolphe-Max (Ancien Place Vintimille)
http://promescargot.blogspot.jp/2016/11/5-1place-adolphe-max-ancien-place.html

Édouard Vuillard: Panneaux décoratifs
La bibliothèque et La table de travail
exposés au salon d'automne, 1905
Paris, Petit Palais, musée des Beaux-Arts de la Ville de Paris
Crédit Photo (C) RMN-Grand Palais / Agence Bulloz

ヴュイヤールの作風は「親密派」とか「内面派」と呼ばれるが、これは主義主張ではなく、フランス語で「アンティミスム」(intimisme)とか「アンティミスト」(intimiste)という、「内輪」とか「内向的」という意味の通り、専ら身近な家庭的な題材をいつくしみに満ちた視点で捉え、画面に表わした性向だと言われている。

(←)左掲は、1905年の「秋のサロン展」(Salon d'automne)に出されて評判を得た装飾画板『書斎』と『仕事机』で、平板的で地味な、曖昧な色調の室内で手仕事にいそしむ婦人たちの姿を描いている。

作家のアンドレ・ジィド(André Gide,
1869-1951)は当時の「美術雑誌」(ガゼット・デ・ボーザール Gazette des Beaux-Arts) に寄稿した「秋のサロン展を歩く」という評論の中でヴュイヤールの作品を大いに称賛している。

「彼は自らを心底から語っている。より直截的に作者と語り合っているこうした作品を私はあまり知らない。・・・その会話とは、彼が内緒話をするように本当に低い声で語り、相手がそれを聞こうと身を傾けるようなものなのだ。」
(Il se raconte intimement. Je connais peu d'œuvres où la conversation avec l'auteur soit plus directe. - - - Cela vient surtout de ce qu'il parle à voix presque basse, comme il sied pour la confidence, et qu'on se penche pour l'écouter.) André Gide : "Promenade au Salon d'Automne," Gazette des Beaux-Arts, Déc. 1905 @Gallica BnF


Vuillard : Démolition rue de Calais
Pau, musée des Beaux-Arts
Crédit Photo (C) RMN-Grand Palais / Benoît Touchard
☆カレ通り26番地 (26, rue de Calais, 9e)
 アドルフ・マックス広場3番地 (3, place Adolphe Max, 9e)
《画家ヴュイヤールの住居跡》 (Emplacement de domicile de Vuillard)

実は広場の東南角にあった建物にこの直前までヴュイヤールは住んでいたが、そこが建て替えのために取り壊されることになって、6番地に移ったのである。ここは角にあるため2つの住居表示がある。現在の建物の広場側3番地に記念銘板(Plaque)が掛かっている。珍しくも石板には彼の自画像の絵もついている。
「画家エドゥアール・ヴュイヤールはこの建物のあった場所に1908年7月から1926年9月まで住んでいた。」
« Le peintre Édouard Vuillard (1868-1940) a vécu à l'emplacement de cet immeuble de juillet 1908 à septembre 1926. »

*Wiki commons : Plaques in Paris, 9e arrondissement
https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Plaques_in_Paris_9e_arrondissement#/media/File:Plaque_%C3%89douard_Vuillard,_Place_Adolphe-Max,_Paris_9.jpg

彼はこの建物に愛着があったようで、新しい住居から見た古い建物の取り壊しの様子を(↑)「カレ通りの取り壊し」(La démolition rue de Calais)と題した何枚かの下絵に残している。



2016年11月6日日曜日

散歩Q(5-1) アドルフ・マクス広場(旧ヴァンティミル広場)Place Adolphe-Max (Ancien Place Vintimille)(クリシー広場~ユーロプ界隈)

☆アドルフ・マクス広場 (Place Adolphe Max, 9e)
《エクトル・ベルリオーズ公園》 (Square Hector Berlioz)

(c) Google Map Streetview
 rue de Bruxelles, 9e
vers la place Adolphe Max
ブリュッセル通りの先を行くと小さな広場に出る。アドルフ・マクス広場である。すぐ近くのクリシー大通りの喧騒から外れた閑静な広場で、中央部は幼児のための遊具が備わった小さな公園になっている。

アドルフ・マクス(Adolphe Max, 1869-1939) は、第一次世界大戦勃発時にベルギーの首都ブリュッセルの市長だった人で、当時中立国だったベルギーにドイツ軍が進攻してきたため徹底抗戦の立場を取り、首都の防衛に尽力した。降伏後もドイツ軍の軛の下での市政の執行を拒否し、大戦中はドイツで獄中生活を送った。その勇猛果敢な行動に対しパリは名誉市民(Citoyen d'honneur de Paris)の称号を与えた。ブリュッセル通りにつながるこの広場に彼の名前を冠するようになったのは第二次世界大戦中の1940年(パリ陥落直前)のことだったが、それまではヴァンティミル広場(Place Vintimille)と呼ばれており、戦後もしばらく旧名のほうが通用していた。

Edouard Vuillard, Place Vintimille, 1911
 National Gallery of Art, Washington DC, USA

ヴァンティミル(Vintimille) とは、南仏コート=ダジュールの海岸沿いのイタリア側にある国境の町ヴェンティミッリア(Ventimiglia)のフランス語読みであるが、そもそもはそこのヴァンティミル伯爵家がパリに持っていた敷地がこの地域であったのが由来とされている。通りの一つにも同じ名前がついているが、それは現在でも残っている。


左掲(←)はナビ派の画家エドゥアール・ヴュイヤール(Edouard Vuillard, 1868-1940)が44歳のときに描いた5連の装飾板画(Panneau décoratif)『ヴァンティミル広場』(Place Vintimille, 1911)である。日本の屏風絵のような感じがするが、当時は個人の邸宅のサロンや食堂の壁の羽目板画として流行していた。秋の日の穏やかな街角風景で、親しみやすく心が和む。ヴュイヤールはこの場所が気に入っていたようで、広場を見下すこの視点の家に後年59歳の頃に引っ越してくる。

◇パリ蝸牛散歩内の関連記事:
☆ジャン=バティスト・ピガール通り28番地 (28, rue Jean-Baptiste-Pigalle, 9e)
《ナビ派青年画家たちのアトリエ跡》(Ancien emplacement de l'atelier de jeunes Nabis)
http://promescargot.blogspot.jp/2016/03/21-3-ancien-emplacement-de-latelier-de.html


蛇足になるが、この広場は作家ジョルジュ・シムノン(Georges Simenon, 1903-1989)の生んだ一連の《メグレ警視》(Commissaire Maigret)シリーズの中の一作『メグレと若い女の死』(Maigret et la jeune morte, 1954)の事件現場としても登場する。

窃盗団の男たちへの30時間近くかけた取り調べが午前3時に終わって、夜食でも取りに行こうとしたところに電話が入る。クリシー大通り裏手の小さな広場で若い女の死体が発見されたという。まだ家に寝に帰る気になれなかったメグレは部下のジャンヴィエと現場へ向かう。

「ブランシュ広場のすぐ近くにあるヴァンティミル広場は平穏な離れ小島のようだった。警察の車が一台停まっていた。ちっぽけな公園の柵の近くに5~6人が立っていて地面に横たわった明るい色の形体を取り囲んでいた。」(À deux pas de la place Blanche, la place Vintimille était comme un îlot paisible. Un car de la police stationnait. Près de la grille du square minuscule, quatre ou cinq hommes se tenaient debout autour d'une forme claire étendue sur le sol. (c)Georges Simenon - Maigret et la jeune morte, Chap.1er)

※参考Link : 「メグレ警視のパリ」No.72 「メグレと若い女の死」
http://www.geocities.jp/maigretparis/enquetes/maig72jeune.html


2016年10月20日木曜日

散歩Q(4) 文豪エミール・ゾラの居館跡 Emplacement de la demeure d'Émile Zola(クリシー広場~ユーロプ界隈)

☆ブリュッセル通り21番地の2 (21bis, rue de Bruxelles, 9e)
《文豪エミール・ゾラの居館跡》 Emplacement de la demeure d'Émile Zola

(c) Google Map Streetview
 21bis, rue de Bruxelles, 9e
クリシー通りからT字路で入る横丁がブリュッセル通りである。19世紀後半に自然主義文学の巨匠として文壇に君臨したエミール・ゾラ(Émile Zola, 1840-1902)が1887年から1902年に亡くなるまでの15年間、この建物に住んでいた。窓の間に碑銘板が見える。

ゾラが不慮の死を遂げたのは1902年9月29日朝のことである。その前日、ゾラ夫妻は夏の間じゅう過ごしていたパリ西郊にあるメダンの別荘からこの家に戻ってきた。使用人の話によれば、夕食時も快活で、一緒に連れ帰った愛犬2匹をなでながら、近づく冬の季節をパリの街中で過ごすための買い物や催し物の心積もりを語り合ったという。

翌朝9時近くになっても夫妻が起き出してこないのに気づいた家政婦が2階の寝室のドアを叩いたが、返事がなく、不安に駆られてすぐに家令や料理婦に異常を知らせた。ちょうど配管の修理に来ていた作業員も一緒に2階に上がり、ドアをこじ開けた。部屋の中は暗いままだった。カーテンと窓を開けると、床の絨毯の上にゾラが倒れているのが見つかった。夫人はベッドの中で苦しそうな息をしていた。家中が大騒ぎになった。急いで数人の医者が呼ばれたが、ゾラはまもなく死亡が確認され、夫人は一命を取りとめることができた。室内で寝ていた愛犬2匹も嘔吐していたが無事だった。ゾラの遺骸は隣の部屋のベッドに運ばれた。

この日のこの界隈は野次馬と新聞記者たちで一日中騒然としていた。様々な憶測が飛び交った。警察の捜査が行われ、検死医の診断では、ゾラの死因は一酸化炭素中毒による事故死とされた。地下にある暖房装置は故障していて使われておらず、そこからの空気は来ていなかった。一方で前日使用人が寝室の湿気を取り除くために暖炉に豆炭を燃やしており、その燃えかすが見つかった。その豆炭の不完全燃焼による一酸化炭素ガスが部屋に滞留したため、ゾラ夫妻は睡眠中に息苦しさで目を覚ました。ゾラは起き上がって水か薬を飲もうと歩きだしたが、すぐに倒れて気を失った。夫人はそれに気づいていたが、動けずにベッドの中で気を失った。一酸化炭素の濃度は床の底辺部のほうが濃いので、ゾラは倒れたまま死に至ったのである。

翌9月30日のパリの新聞各紙は揃って文豪の死を報じた。(↓)下掲の「マタン」(Le Matin)紙はとりわけ第1面全部と2面の半分を『エミール・ゾラの悲劇的な死』のために費やした。当時の新聞にはまだ写真は使われておらず、ほとんどが文字のみの紙面が普通であった。イラスト画像が入ることも珍しかった。




















Le Matin 1902.09.30
@BnF Gallica
































Edouard Manet : Emile Zola, Écrivain (1868)
Paris, Musée d'Orsay
Crédit Photo (C) RMN-Grand Palais (musée d'Orsay)
 / Hervé Lewandowski

エミール・ゾラ(Émile Zola, 1840-1902)はパリのイタリア人技師の子として生まれた。その後南仏で育ったが、22歳からパリの大手出版社アシェットで勤務しながら、文筆生活を始めた。20代では『テレーズ・ラカン』(Thérèse Raquin, 1865)などで注目され、また印象派の画家たち特にエドゥアール・マネとの交友があり、彼らを擁護する美術評論も書いた。1870年代からは、自然科学的(遺伝学的)な要素を盛り込んだルーゴン=マッカール家の家系図にもとづく壮大な『ルーゴン=マッカール叢書』(Les Rougon-Macquart)全20作の世界を書き上げた。その中には、パリの社会の底辺層を赤裸々に描いた『居酒屋』(l'Assommoir)や高級娼婦の生態を描いた『ナナ』(Nana)なども含まれる。

こうして当代随一の作家としての声価を確立したゾラが1898年1月13日に「オーロル」(曙)紙(L'Aurore) で発表した仏大統領宛の公開質問状「私は弾劾する」(J'accuse !) は、ドレフュス事件をめぐるフランス国内の論争に拍車をかけることとなった。独スパイの容疑で有罪となったドレフュス大尉は軍部の陰謀による冤罪だ、として再審を求める親ドレフュス派と、ユダヤ系市民の排斥運動に乗じて嫌疑は正しいとする反ドレフュス派とが、国を二分して争っていた。

「オーロル」(曙)紙は1897年に創刊されたばかりの新聞で、ジョルジュ・クレマンソーが主筆を務めていた。彼と親しかったゾラは、国家権力の欺瞞を暴くために敢然と論陣を張り、ドレフュス擁護の運動に積極的に関与した。その結果、ドレフュスは1899年に特赦によって自由の身となったが、本当の無罪を勝ち取るために再審の運動は続けていた。ゾラは急死したが、再審は1906年まで持ち越された。


※参考Link:「100年前のフランスの出来事」ゾラ関連記事

(1)ドレフュス事件の再審 :1906年6月15日(金)親反両派の抗争略史を記載
http://france100.exblog.jp/2518659/

(2)ドレフュス事件、第2回目の再審:1906年7月12日(木)無罪判決
http://france100.exblog.jp/2789852/

(3)メダンの文豪ゾラの館のその後:1907年9月28日(土)
http://france100.exblog.jp/6457981/



2016年8月18日木曜日

散歩Q(3-2) オリエント・カフェ跡 Emplacement du Café d'Orient(クリシー広場~ユーロプ界隈)

☆クリシー通り81番地 (81, rue de Clichy, 9e)

(c) Google Map Streetview
 81, rue de Clichy, 9e
この場所に現在は新しいビルが建てられている。19世紀末にはここに「オリエント」という名前のごく普通のカフェ(カフェ・ドリアンCafé d'Orient) があったというが、ネット上でもそのカフェの存在を語る情報は今のところ確認できない。唯一の典拠は、パリの街角の歴史をデータベースで紹介するサイト《Paris Révolutionnaire》(PRR)だけである。

ここには、1870年代後半からステファヌ・マラルメ(Stéphane Mallarmé,1842-1898)を中心に当時の若い詩人たちが集う場所となった。マラルメは早くから詩作を試み、これまでの主観的で感情表現が濃いロマン主義の詩に対し、客観的で感動を抑制した詩的表現を目ざした高踏派に共感し、24歳の時に『現代高踏詩集』(Le Parnasse contemporain, 1866) に自作が所収された。英語教師でもあった彼は地方勤務のあと、1871年からパリのコンドルセ高校(Lycée Condorcet)に転勤となり、パリで活発な文筆活動とともに多くの文人たちとの交流を深めた。当時の彼の住まいはここから数分のモスクゥ通りで、サン=ラザール駅近くの学校までは徒歩通勤だった。


Brasserie allemande
Émile Goudeau & Pierre Vidal
"Paris qui consomme" 1896
Wikimédia Commons

彼の詩は言葉の精緻を極めたもので、長い時間をかけて推敲に推敲を重ねた凝縮された表現だと高く評価された。しかし、34歳の1876年に作った『半獣神の午後』(L'Après-midi d'un faune)が「第3次現代高踏詩集」に拒絶されたことにより、マラルメは、これまでの高踏派の潮流に対抗して新たな詩作りを目ざそうとする若い詩人たちとの交流を深めることとなった。この「オリエント」もそうした集いの場の一つで、詩人で雑誌編集者のギュスターヴ・カーン(Gustave Kahn, 1859-1936) やパリに出てきたばかりの青年作家のモーリス・バレス(Maurice Barrès, 1862-1923)などがいて、その後このグループは象徴派(Symboliste)と呼ばれるようになった。

(←)左掲は『消費するパリ』という画文集にある「ドイツ風ビヤホール」(ブラスリー・アルマンド)のイラストで、直接の関係はないが、マラルメたちが集まって話し込んだというカフェの雰囲気を連想させる。

◇パリ蝸牛散歩内の関連記事:
9区サン=ジョルジュ地区(20-4)作家モーリス・バレスの青年期の住居
Demeure de Maurice Barrès
http://promescargot.blogspot.jp/2016/02/20-4_23.html


Albert Dubois-Pillet : Village près de Bonnières
Wikimédia Commons
また、このカフェは数年後の1884年に創立された《独立美術家協会》(Société des artistes indépendants)いわゆる「アンデパンダン」展の主体となった点描派の画家たちの主要拠点となった。創立メンバーには、スーラ、シニャック、ピサロ、アングランに加えて、アルベール・デュボワ=ピレ(Albert Dubois-Pillet, 1846-1890)がおり、彼は軍人で潔癖性でも知られ、点描画の技法を誰よりも忠実に反映させた絵を描いた。(→)右掲は、セーヌ下流『ボニエール付近の村』の黄昏を描いた名品である。

この画家たちは、やがて新印象主義(Néo-Impressionnisme)と呼ばれるようになったが、その理論的背景には雑誌『独立評論』(La Revue indépentdante)の存在が大きかった。この雑誌の編集者としても上記のギュスターヴ・カーンが関わっていた。


◇パリ蝸牛散歩内の関連記事:
クリシー広場~ユーロプ界隈(2-3)点描派シニャックのアトリエ跡
Emplacement de l'atelier de Paul Signac, pointilliste
http://promescargot.blogspot.jp/2016/06/2-3-emplacement-de-latelier-de-paul.html
クリシー広場~ユーロプ界隈(2-4)点描派スーラのアトリエ跡
Emplacement de l'atelier de Georges Seurat
http://promescargot.blogspot.jp/2016/07/2-4-emplacement-de-latelier-de-georges.html

2016年7月31日日曜日

散歩Q(3-1) クリシー通り、賭博遊戯場 セルクル・ド・ジュー Cercle de jeux(クリシー広場~ユーロプ界隈)

☆クリシー通り84番地 (84, rue de Clichy, 9e)
《賭博遊戯場 セルクル・ド・ジュー》 Cercle de jeux - Clichy Montmartre

(c) Google Map Streetview
 84, rue de Clichy, 9e
クリシー広場から南に下る街路の一つがクリシー通りである。広場からすぐの84番地に《賭博遊技場・セルクル・ド・ジュー》(Cercle de jeux)がある。この施設は、第2次大戦後の1947年にまず撞球場(アカデミー・ド・ビヤール)(Académie de billard)として始められた。このアカデミーという言葉は「会員の集う場所」という意味で、必ずしも学術的な用語ではなく使われている。ビリヤード(Billiards)はフランス語表記では”Billard”で「ビヤール」と発音する。ここでは、フランスで広く行われているブロット(Belote)というトランプ・ゲームのほかにポーカー、バカラ、ルーレットなどが追加されて、普通の賭博遊技場として現在に至っている。

正面入口には一対の男柱像(アトラントAtlantes)が据えられて三角破風を支えている。作者は不明で、顔が下を向いていて表情もよく見えない。

賭博場というと、温泉地や保養地での豪華で贅沢なカジノの施設が思い浮かぶが、このパリの街角ではむしろ懐古的な雰囲気が感じられる。金に飽かせた世界中の富豪たちが集まって、札束を湯水のように蕩尽する光景とは程遠いローカルな感じがする。

(c) Google Map Streetview
 84, rue de Clichy, 9e


Émile Goudeau & Pierre Vidal
"Paris qui consomme" 1896
Wikimédia Commons
この建物は、100年以上前のベル・エポック時代には大衆レストラン「ブイヨン・デュヴァル」(Bouillon Duval)の店舗として使われていた。アレクサンドル・デュヴァル(Alexandre Duval, 1847-1922)が始めた労働者向けの廉価なレストランで、一杯のスープ(un bouillon)と一皿の決まった肉料理(un plat unique de viande)が出された。この店はパリのみならず、フランス各都市にも広がり、史上初のチェーン展開したレストランとなった。

「ブイヨン」は鶏ガラの出し汁を意味するような単語だが、デュヴァルの店の名前から、安食堂の意味でも使われるようになった。

(→)右掲は19世紀末のパリのガイドブックの一つ『消費するパリ』(Paris qui consomme, 1896)に掲載された「ブイヨン・デュヴァル」の店内風景である。創業当初の労働者向けの安食堂というよりは、かなり品のいい気軽なレストランの雰囲気となっている。




*参考Link: Wiki Commons Category: Paris qui consomme (1893) by Goudeau & Vidal
https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Paris_qui_consomme_(1893)_by_GOUDEAU

2016年7月14日木曜日

散歩Q(2-5) クリシー広場(再2)Place de Clichy (suite)クリシー広場~ユーロプ界隈

☆クリシー広場12番地 (12, place de Clichy, 9e)
 レストラン「シャルロ」 (Restaurant Charlot, Roi des coquillages)

 クリシー広場の方に引き返し、大通りの南側に渡る。通り沿いに立ち並ぶ建物の中で、12番地には海産物料理で有名なレストラン《シャルロ》(Charlot)がある。「シャルロ」は人名のシャルル(Charles)の愛称形であり、フランスでは名優チャップリン(Charles Chaplin)を指すことでも知られているが、苗字としてシャルロという人も少なくない。このレストランは、別名『貝類の王様』(Roi des coquillage) と称しているように、南仏を中心とした海産物の料理(特にブイヤベースbouillabaisse)を得意としている。また冬場には、生牡蠣を主体とした「海の幸盛り合わせ」(Plateau de Fruits de mer)を味わうために人々が押しかける。この店では客が普通の肉料理を注文する方が間違っている(とされている。)

店舗の内装もなかなか凝っていて、広々としたアールデコ調の雰囲気がある。建物の入口にある店の名前の看板にもアールデコの時代に流行した字体がそのまま使われている。建物上部に孔雀の羽を広げたような感じの果実の房らしい装飾が見える。この鳥は磯鴫(イソシギcharlot de plage)のつもりなのかもしれない。
(c) Google Map Streetview
 12, place de Clichy, 9e
Edouard Manet
Vue prise près de la Place Clichy (1878)
Dickinson Gallery, London & New York
Wikimedia commons


クリシー広場は意外にも多くの画家たちによって風景画として、あるいは生活風景の場所として描かれている。

(←)左掲はエドゥアール・マネ(Edouard Manet, 1832-1883)が描いた『クリシー広場からの眺め』(Vue prise de la Place Clichy) という作品であるが、晩年の同じ時期に描かれた『ラトゥイユ親父の店』(Chez le père Lathuille)に比べれば、絵具をたっぷり使って街角の風景をすばやい筆致で描いている。マネは画家としての活動と、日常生活の両方をこのクリシー広場を中心とした地域の中で過ごした。


◇パリ蝸牛散歩内の関連記事:
☆クリシー並木通り7番地 (7, avenue de Clichy, 17e)
《 ラトゥイユ親父の店跡 》 (Ancien emplacement du Restaurant, Chez le père Lathuille)
http://promescargot.blogspot.jp/2016/05/1-2-ancien-emplacement-du-restaurant-du.html






Paul Signac : Place de Clichy
The Metropolitan Museum of Art, New York
Photo (C) The Metropolitan Museum of Art, Dist. RMN-Grand Palais /
image of the MMA

新印象派・点描派の画家ポール・シニャック(Paul Signac, 1863-1935)もクリシー広場の目の前の通り沿いの建物にアトリエを構えていた。

(→)右掲の『クリシー広場』の絵にはモンセ―元帥の銅像を見通せる広い通りを点描法で描いている。しかし、点描画法はどうしても朝もやの淡い色彩としか感じさせないものである。


◇パリ蝸牛散歩内の関連記事:
クリシー広場~ユーロプ界隈(2-3)点描派シニャックのアトリエ跡 Emplacement de l'atelier de Paul Signac, pointilliste
http://promescargot.blogspot.jp/2016/06/2-3-emplacement-de-latelier-de-paul.html


Pierre Bonnard : La Place Clichy et le Sacré-Cœur, 1895

おそらくクリシー広場周辺の風景を最も沢山描いたのは、ピエール・ボナール(Pierre Bonnard, 1867-1947)ではないだろうか。
クリシー広場から少し東に入った路地のドゥエ通りに住んでいた彼の日常生活の場はこの広場周辺であった。(←)左掲は『クリシー広場とサクレ・クール寺院』という作品で、雨模様の天気でありながら広場のあちらこちらでくり広げられる市場や雑踏の風景をモンセー元帥の記念碑とともに遠景としてサクレ・クール寺院を描いている。親しみやすい絵である。彼は広場を題材とした連作も手がけている。

実際にサクレ・クール寺院が見えるのは広場の西側のバティニョル大通りからクリシー広場に向かって歩く途上であり、広場からさらにモンマルトルに近づくと建物に隠れて見えなくなる。


※参考サイトLink:「画家たちの見たクリシー広場」La place Clichy vue par les peintres(仏語)
http://france.jeditoo.com/IleDeFrance/Paris/18eme/place%20de%20Clichy.htm

2016年7月6日水曜日

散歩Q(2-4) 点描派スーラのアトリエ跡 Emplacement de l'atelier de Georges Seurat(クリシー広場~ユーロプ界隈)

☆クリシー大通り128番地の2 (128bis, boulevard de Clichy, 18e)
(c) Google Map Streetview
 128bis, boulevard de Clichy, 18e
《点描派スーラのアトリエ跡》 (Emplacement de l'atelier de Georges Seurat)

この建物は、シニャックのアトリエがあった130番地のすぐ隣である。ジョルジュ・スーラ(Georges Seurat, 1859-1891)は1884年の秋頃からこの建物の6階にアトリエを構えていた。
当時24歳のスーラは、最初の大作『アニエールの水浴』(Une baignade, Asnières)をサロンに応募したが、落選となったため、若手のシニャックらと共に自分たちで展覧会を開こうと《独立芸術家協会》(Société des artistes indépendants) を創立して、アンデパンダン展(Salon des indépendants) を開催した。

彼は引き続いて『グランド・ジャット島の日曜日の午後』の制作に取り掛かって、2年近くの時間をかけて、当時パリ北西郊外にある行楽地だったセーヌ河畔の島に何度も出かけ、スケッチや下絵を何枚も描いた。
Seurat : Un Dimanche après-midi à l'île de la Grande Jatte (1884-85)
Chicago Art Institute
Wikimédia Commonns
またそれと並行して、色彩理論の研究、例えば隣り合った色の配置が生み出す視覚効果について研究を深め、この作品で初めて点描画法を取り入れた。
この大作は、印象派の長老ピサロの推薦で1886年の第8回印象派展に出展されたが、様々な意見の大きな反響を引き起こした。

印象派の新たな動きとなる《新印象派》(Néo-impressionnisme)の記念碑的な作品となった。




Seurat : Les Poseuses
Fondation Barnes, Philadelphia, USA
Wikimédia Commons



1887年からは、彼は『ポーズする女たち』に取り掛かったが、この絵に描かれた背景は、まさにこの建物の6階にあったスーラのアトリエそのものであった。背景の左側に『グランド・ジャット島』の完成された絵の一部を入れているのもスーラの自信の顕れかもしれない。
三人の女たちは、モデルを三人三様のポーズに立たせたものではなく、一人ずつ個別に描いたものを組み合わせたと思われる。それは、前作の河畔の人々の姿がある日の午後の一瞬を描いたものではなく、時間軸を重ねて、計算された配置によって画面が構成されたのと同様に、三人の姿も組み合わされたものだと思われるからである。
いずれの作品にしても、人々の姿は幻想的で、肉惑を感じさせない。それは点描画法による視覚効果を突き詰めた新印象派の画家たちの特徴かもしれない。

スーラはこのアトリエに友人のフォラン(Jean-Louis Forain, 1852-1931)の風刺画やギヨーマン(Armand Guillaumin, 1841-1927)の絵画を飾っていたが、当時ポスター画家として大人気だったシェレ(Jules Chéret, 1836-1932)によって描かれた女性の流れるように踊る姿と身のこなしの軽快さに心酔していた。(LAI)

かたつむりの道すじ:①クリシー並木通り~②クリシー広場・クリシー大通り~③クリシー通り~
④ブリュッセル通り~⑤アドルフ・マックス広場~⑥ドゥエ通り~⑦ブランシュ通り~⑧カレ通り~
⑨バリュ通り~⑩ヴァンティミル通り~⑪クリシー通り(再)
 (c) Google Map