パリの街角散歩です。カタツムリのようにゆっくりと迂回しながら、そして時間と空間をさまよいながら歩き回ります。


2016年7月31日日曜日

散歩Q(3-1) クリシー通り、賭博遊戯場 セルクル・ド・ジュー Cercle de jeux(クリシー広場~ユーロプ界隈)

☆クリシー通り84番地 (84, rue de Clichy, 9e)
《賭博遊戯場 セルクル・ド・ジュー》 Cercle de jeux - Clichy Montmartre

(c) Google Map Streetview
 84, rue de Clichy, 9e
クリシー広場から南に下る街路の一つがクリシー通りである。広場からすぐの84番地に《賭博遊技場・セルクル・ド・ジュー》(Cercle de jeux)がある。この施設は、第2次大戦後の1947年にまず撞球場(アカデミー・ド・ビヤール)(Académie de billard)として始められた。このアカデミーという言葉は「会員の集う場所」という意味で、必ずしも学術的な用語ではなく使われている。ビリヤード(Billiards)はフランス語表記では”Billard”で「ビヤール」と発音する。ここでは、フランスで広く行われているブロット(Belote)というトランプ・ゲームのほかにポーカー、バカラ、ルーレットなどが追加されて、普通の賭博遊技場として現在に至っている。

正面入口には一対の男柱像(アトラントAtlantes)が据えられて三角破風を支えている。作者は不明で、顔が下を向いていて表情もよく見えない。

賭博場というと、温泉地や保養地での豪華で贅沢なカジノの施設が思い浮かぶが、このパリの街角ではむしろ懐古的な雰囲気が感じられる。金に飽かせた世界中の富豪たちが集まって、札束を湯水のように蕩尽する光景とは程遠いローカルな感じがする。

(c) Google Map Streetview
 84, rue de Clichy, 9e


Émile Goudeau & Pierre Vidal
"Paris qui consomme" 1896
Wikimédia Commons
この建物は、100年以上前のベル・エポック時代には大衆レストラン「ブイヨン・デュヴァル」(Bouillon Duval)の店舗として使われていた。アレクサンドル・デュヴァル(Alexandre Duval, 1847-1922)が始めた労働者向けの廉価なレストランで、一杯のスープ(un bouillon)と一皿の決まった肉料理(un plat unique de viande)が出された。この店はパリのみならず、フランス各都市にも広がり、史上初のチェーン展開したレストランとなった。

「ブイヨン」は鶏ガラの出し汁を意味するような単語だが、デュヴァルの店の名前から、安食堂の意味でも使われるようになった。

(→)右掲は19世紀末のパリのガイドブックの一つ『消費するパリ』(Paris qui consomme, 1896)に掲載された「ブイヨン・デュヴァル」の店内風景である。創業当初の労働者向けの安食堂というよりは、かなり品のいい気軽なレストランの雰囲気となっている。




*参考Link: Wiki Commons Category: Paris qui consomme (1893) by Goudeau & Vidal
https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Paris_qui_consomme_(1893)_by_GOUDEAU

2016年7月14日木曜日

散歩Q(2-5) クリシー広場(再2)Place de Clichy (suite)クリシー広場~ユーロプ界隈

☆クリシー広場12番地 (12, place de Clichy, 9e)
 レストラン「シャルロ」 (Restaurant Charlot, Roi des coquillages)

 クリシー広場の方に引き返し、大通りの南側に渡る。通り沿いに立ち並ぶ建物の中で、12番地には海産物料理で有名なレストラン《シャルロ》(Charlot)がある。「シャルロ」は人名のシャルル(Charles)の愛称形であり、フランスでは名優チャップリン(Charles Chaplin)を指すことでも知られているが、苗字としてシャルロという人も少なくない。このレストランは、別名『貝類の王様』(Roi des coquillage) と称しているように、南仏を中心とした海産物の料理(特にブイヤベースbouillabaisse)を得意としている。また冬場には、生牡蠣を主体とした「海の幸盛り合わせ」(Plateau de Fruits de mer)を味わうために人々が押しかける。この店では客が普通の肉料理を注文する方が間違っている(とされている。)

店舗の内装もなかなか凝っていて、広々としたアールデコ調の雰囲気がある。建物の入口にある店の名前の看板にもアールデコの時代に流行した字体がそのまま使われている。建物上部に孔雀の羽を広げたような感じの果実の房らしい装飾が見える。この鳥は磯鴫(イソシギcharlot de plage)のつもりなのかもしれない。
(c) Google Map Streetview
 12, place de Clichy, 9e
Edouard Manet
Vue prise près de la Place Clichy (1878)
Dickinson Gallery, London & New York
Wikimedia commons


クリシー広場は意外にも多くの画家たちによって風景画として、あるいは生活風景の場所として描かれている。

(←)左掲はエドゥアール・マネ(Edouard Manet, 1832-1883)が描いた『クリシー広場からの眺め』(Vue prise de la Place Clichy) という作品であるが、晩年の同じ時期に描かれた『ラトゥイユ親父の店』(Chez le père Lathuille)に比べれば、絵具をたっぷり使って街角の風景をすばやい筆致で描いている。マネは画家としての活動と、日常生活の両方をこのクリシー広場を中心とした地域の中で過ごした。


◇パリ蝸牛散歩内の関連記事:
☆クリシー並木通り7番地 (7, avenue de Clichy, 17e)
《 ラトゥイユ親父の店跡 》 (Ancien emplacement du Restaurant, Chez le père Lathuille)
http://promescargot.blogspot.jp/2016/05/1-2-ancien-emplacement-du-restaurant-du.html






Paul Signac : Place de Clichy
The Metropolitan Museum of Art, New York
Photo (C) The Metropolitan Museum of Art, Dist. RMN-Grand Palais /
image of the MMA

新印象派・点描派の画家ポール・シニャック(Paul Signac, 1863-1935)もクリシー広場の目の前の通り沿いの建物にアトリエを構えていた。

(→)右掲の『クリシー広場』の絵にはモンセ―元帥の銅像を見通せる広い通りを点描法で描いている。しかし、点描画法はどうしても朝もやの淡い色彩としか感じさせないものである。


◇パリ蝸牛散歩内の関連記事:
クリシー広場~ユーロプ界隈(2-3)点描派シニャックのアトリエ跡 Emplacement de l'atelier de Paul Signac, pointilliste
http://promescargot.blogspot.jp/2016/06/2-3-emplacement-de-latelier-de-paul.html


Pierre Bonnard : La Place Clichy et le Sacré-Cœur, 1895

おそらくクリシー広場周辺の風景を最も沢山描いたのは、ピエール・ボナール(Pierre Bonnard, 1867-1947)ではないだろうか。
クリシー広場から少し東に入った路地のドゥエ通りに住んでいた彼の日常生活の場はこの広場周辺であった。(←)左掲は『クリシー広場とサクレ・クール寺院』という作品で、雨模様の天気でありながら広場のあちらこちらでくり広げられる市場や雑踏の風景をモンセー元帥の記念碑とともに遠景としてサクレ・クール寺院を描いている。親しみやすい絵である。彼は広場を題材とした連作も手がけている。

実際にサクレ・クール寺院が見えるのは広場の西側のバティニョル大通りからクリシー広場に向かって歩く途上であり、広場からさらにモンマルトルに近づくと建物に隠れて見えなくなる。


※参考サイトLink:「画家たちの見たクリシー広場」La place Clichy vue par les peintres(仏語)
http://france.jeditoo.com/IleDeFrance/Paris/18eme/place%20de%20Clichy.htm

2016年7月6日水曜日

散歩Q(2-4) 点描派スーラのアトリエ跡 Emplacement de l'atelier de Georges Seurat(クリシー広場~ユーロプ界隈)

☆クリシー大通り128番地の2 (128bis, boulevard de Clichy, 18e)
(c) Google Map Streetview
 128bis, boulevard de Clichy, 18e
《点描派スーラのアトリエ跡》 (Emplacement de l'atelier de Georges Seurat)

この建物は、シニャックのアトリエがあった130番地のすぐ隣である。ジョルジュ・スーラ(Georges Seurat, 1859-1891)は1884年の秋頃からこの建物の6階にアトリエを構えていた。
当時24歳のスーラは、最初の大作『アニエールの水浴』(Une baignade, Asnières)をサロンに応募したが、落選となったため、若手のシニャックらと共に自分たちで展覧会を開こうと《独立芸術家協会》(Société des artistes indépendants) を創立して、アンデパンダン展(Salon des indépendants) を開催した。

彼は引き続いて『グランド・ジャット島の日曜日の午後』の制作に取り掛かって、2年近くの時間をかけて、当時パリ北西郊外にある行楽地だったセーヌ河畔の島に何度も出かけ、スケッチや下絵を何枚も描いた。
Seurat : Un Dimanche après-midi à l'île de la Grande Jatte (1884-85)
Chicago Art Institute
Wikimédia Commonns
またそれと並行して、色彩理論の研究、例えば隣り合った色の配置が生み出す視覚効果について研究を深め、この作品で初めて点描画法を取り入れた。
この大作は、印象派の長老ピサロの推薦で1886年の第8回印象派展に出展されたが、様々な意見の大きな反響を引き起こした。

印象派の新たな動きとなる《新印象派》(Néo-impressionnisme)の記念碑的な作品となった。




Seurat : Les Poseuses
Fondation Barnes, Philadelphia, USA
Wikimédia Commons



1887年からは、彼は『ポーズする女たち』に取り掛かったが、この絵に描かれた背景は、まさにこの建物の6階にあったスーラのアトリエそのものであった。背景の左側に『グランド・ジャット島』の完成された絵の一部を入れているのもスーラの自信の顕れかもしれない。
三人の女たちは、モデルを三人三様のポーズに立たせたものではなく、一人ずつ個別に描いたものを組み合わせたと思われる。それは、前作の河畔の人々の姿がある日の午後の一瞬を描いたものではなく、時間軸を重ねて、計算された配置によって画面が構成されたのと同様に、三人の姿も組み合わされたものだと思われるからである。
いずれの作品にしても、人々の姿は幻想的で、肉惑を感じさせない。それは点描画法による視覚効果を突き詰めた新印象派の画家たちの特徴かもしれない。

スーラはこのアトリエに友人のフォラン(Jean-Louis Forain, 1852-1931)の風刺画やギヨーマン(Armand Guillaumin, 1841-1927)の絵画を飾っていたが、当時ポスター画家として大人気だったシェレ(Jules Chéret, 1836-1932)によって描かれた女性の流れるように踊る姿と身のこなしの軽快さに心酔していた。(LAI)

かたつむりの道すじ:①クリシー並木通り~②クリシー広場・クリシー大通り~③クリシー通り~
④ブリュッセル通り~⑤アドルフ・マックス広場~⑥ドゥエ通り~⑦ブランシュ通り~⑧カレ通り~
⑨バリュ通り~⑩ヴァンティミル通り~⑪クリシー通り(再)
 (c) Google Map