パリの街角散歩です。カタツムリのようにゆっくりと迂回しながら、そして時間と空間をさまよいながら歩き回ります。


2017年11月23日木曜日

散歩Q(7-1) 画家ドガの旧居 Ancienne demeure de Degas(クリシー広場~ユーロプ界隈)

☆ブランシュ通り77番地 (77, rue Blanche, 9e)
画家ドガの住居跡 Ancienne demeure de Degas
(c) Google Map Streetview
 77, rue Blanche, 9e

ドゥエ通りは南北に走るブランシュ通りと交差する。左に折れてブランシュ広場に向かって上がるとすぐに77番地の建物がある。ここに印象派の画家エドガー・ドガ(Edgar Degas, 1834-1917)が一時期住んでいた。

ドガの母親は仏領植民地だった米国ルイジアナのニューオーリンズ(仏語でヌーヴェル・オルレアン)で生まれ育っていたので、親戚も多く、また実弟ルネも綿花産業に携わっていた。ドガは1872年の秋から約半年間現地を訪れ、見知らぬ土地の風物や人々に触れたものの、ほとんど馴染むことはなく、新しい世界へ画題を広げようとは思わなかった。むしろパリの街中での生活を懐かしむ心情に捉われた。帰国後1873年の3月から1876年までドガはこの家に住んだ。40歳前後のこの時期には、印象派の第1回目の展覧会(1874年4月)を開催するにあたって、中心メンバーのルノワールやモネ、ピサロなどと頻繁に会合を開いたり、会員組織を設立したりして友人知人に参加を呼びかけていた。

作家のエドモン・ド・ゴンクール(Edmond de Goncourt, 1822-1896)がドガのもとを訪れたのは印象派展の直前、1874年2月13日のことで、その日の彼の日記(Journal)にはドガの芸術に関する長文の論評をしたため、その末尾は次のように締めくくっている。
「このドガという風変りな独身男は、病気がちで、神経症で、失明するかもしれないと悩む眼病持ちなのだが、感性が卓越した人物で、物事からはね返ってくる特質を受け止めるのだ。私がこれまで会った中でも最もよく現代生活を、この人生の魂を、写し取る人物である。」
(Un original garçon que ce Degas, un maladif, un névrosé, un ophtamique à un point qu'il craint de perdre la vue, mais par cela même un être éminemment sensitif, et recevant le contrecoup du caractère des choses. C'est jusqu'à présent l'homme que j'ai vu les mieux attraper, dans la copie de la vie moderne, l'âme de cette vie.)

Edgar Degas - La classe de danse, ca 1873
National Gallery of Art, Washington
Corcoran Collection 
右掲(→)はこの時期のドガの作品「ダンスの教室」である。
レッスン風景の絵としてはこれまであまり目にすることがないもので、新鮮な感じがする。光の柔らかさが全体に広がっていて印象派的なのびやかな表現になっていると思う。


◇パリ蝸牛散歩内の関連記事:

散歩R(16-3) ルノワールのアトリエ Emplacement de l'atelier d'Auguste Renoir(9区サン=ジョルジュ地区)☆サン=ジョルジュ通り35番地 (35, rue Saint-Georges, 9e)
http://promescargot.blogspot.jp/2016/01/16-3.html

散歩R(11-2) ルピック伯爵の家 Ancienne demeure du comte Lepic(9区サン=ジョルジュ地区)☆ラ・ロシュフコー通り46番地 (46, rue de La Rochefoucauld, 9e)
http://promescargot.blogspot.jp/2015/11/11-2.html




2017年8月3日木曜日

散歩Q(6-4) 画家フロマンタンのアトリエ跡 Emplacement de l'atelier de Fromentin(クリシー広場~ユーロプ界隈)

☆ドゥエ通り40番地の2 (40 bis, rue de Douai, 9e)
画家フロマンタンのアトリエ跡 Emplacement de l'atelier d'Eugène Fromentin

(c) Google Map Streetview
 40 bis, rue de Douai, 9e
40番地の2には画家のウジェーヌ・フロマンタン(Eugène Fromentin, 1820-1876)がアトリエの一つを構えていた。

20代以降、アルジェリアに何度も旅行をしたが、その際に魅了された異国の風物を描いた作品でサロンに認められ、人気を集めた。19世紀にはロマン主義の風潮が隆盛を極め、東方趣味(orientalisme)や異国情緒(exotisme)に満ちた文学や絵画、音楽がもてはやされた。

下掲は(↓)彼の代表作の一つ『青サギ狩り』(La chasse au héron)の絵だが、雄大な空間の広がりのある構図に引きつけられる。しかしながらフロマンタンの作品には感情表現の掘り下げが希薄で、表面的な意味での「絵に描いたような」風物しか見えてこないのが残念だ。
Fromentin : La chasse au héron (1865)
Chantilly, musée Condé
Crédit Photo (C) RMN-Grand Palais  / Harry Bréjat

それを補完するかのように彼は文筆家としての才能も発揮し、旅行記『サハラ砂漠の夏』(Un été dans le Sahara)、半自伝的な心理小説の傑作『ドミニク』(Dominique)、で高い評価を得た。美術史家としても晩年オランダに旅行した後、レンブラントなどを論評した『昔日の巨匠たち』(Les Maîtres d'autrefois)を著した。

このドゥエ通りの少し先に、フロマンタンの名前を冠した小さな通り(rue Fromentin, 9e)も現存している。

2017年7月27日木曜日

散歩Q(6-3) ヴィアルド家のサロン跡 Emplacement du Salon de Viardot(クリシー広場~ユーロプ界隈)

☆ドゥエ通り50番地 (50, rue de Douai, 9e)
《ヴィアルド家のサロン跡》 Emplacement du Salon de Viardot
(c) Google Map Streetview
 50bis et 50, rue de Douai, 9e

50番地の建物は19世紀末の時代にヴィアルド家の住居があり、その家でのサロンには大勢の文化人、作家、音楽家、画家が出入りした。
主人のルイ・ヴィアルド(Louis Viardot, 1800-1883)は、新聞や雑誌の編集者を経て、イタリア歌劇を上演するヴァンタドゥール座(Salle Ventadour)の支配人となった。文学をはじめ美術や音楽に造詣が深く、特にスペイン語を得意とし、『ドン・キホーテ』の仏語訳を自ら出版した。卓越した魅力ある個性の持ち主で、広い交遊関係を築いていた。

1840年に彼はスペイン出身の著名なオペラ歌手ガルシアの次女ポーリーヌ(Pauline Viardot-Garcia, 1821-1910)と結婚した。彼女の13歳年上の姉マリア・マリブラン(Maria Malibran, 1808-1836)は、美声と美貌を兼ね備えた歌手として名声を誇ったが、28歳の若さで夭折した。その遺志を継ぐかのようにポーリーヌは1839年にオペラ歌手としてのデビュを果たした。17歳だった。
Portrait de Mme Pauline Viardot-
Garcia, l'illustration d'une revue
@BnF Gallica
女流作家のジョルジュ・サンド(George Sand, 1804-1876)は、ポーリーヌと親密な交友関係にあったが、彼女をモデルとした長編小説『歌姫コンシュエロ』(Consuéro, 1843)を書いている。

1840~50年代はポーリーヌ・ヴィアルドの全盛期だった。1849年にはマイヤベーア(Giacomo Mayerbeer, 1791-1864)が歌劇『預言者』(Le Prophète)で彼女のために重要な役を用意した。また若手作曲家として彼女から支援を受けていたグノー(Charles Gounod, 1818-1893)は1851年に歌劇『サフォ』(Sapho)で有名なアリアを書いた。
1859年にはベルリオーズ(Hector Berlioz, 1803-1869)が、グルックの歌劇『オルフェオ』(Orpheé)
をメゾ=ソプラノ用に改編して彼女を主役として上演させた。(↓)下掲の版画はその時の様子を描いたものである。更に若年のサン=サーンス(Camille Saint-Saëns, 1835-1921)も歌劇『サムソンとダリラ』(Samson et Dalila)のアリアを献呈している。

2ème acte d' Orphée de Gluck au Théâtre Lyrique, 1859
Estampe de V. Folquier, @ BnF Gallica
















彼女はまた優れたピアニストでもあった。パリで活躍していたリスト(Franz Liszt, 1811-1886)からの厳しい指導を受け、16歳でリサイタルをするほどで、その手腕をショパン
Salon de Mme Viardot en 1853
Gravure par W.Best, @ Bnf département Musique Est
も高く評価していた。
(←)左掲は1853年のヴィアルド夫人のサロンの様子を描いたもので、文化人の多く住む新アテネ地区(Nouvelle-Athène)の中にあったヴィアルド家のサロンには多くの有名人が集い、音楽に耳を傾け、芸術的な会話を楽しんだ。

1843年の冬、彼女が夫ルイを伴って、ロシアのサン=ペテルスブール(ペテルブルク)にイタリア座の巡業に赴いた時、その公演に熱狂的に惹かれた聴衆の中に、文豪ツルゲーネフ(Ivan Tourgueniev, 1818-1883)がいた。ツルゲーネフはロシアの大地主の地方貴族の家に生まれ、若い頃から外国で教育を受けていた。彼は一時ポーリーヌとの恋愛関係にあったが、その後もヴィアルド夫妻との親密な交友関係を生涯持ち続けることになる。
ルイ・ヴィアルドとはロシア文学をフランスに紹介するための協力を惜しまず、ルイはロシア語には疎かったが、当時ロシアの宮廷や社交界ではフランス語が広く使用されていたため、ロシア人がフランス語に言い換えてくれる文章を、適当に補正するだけで翻訳が成り立ったのだった。
Plaque d'Ivan Tourguéniev au 50 bis de la rue de Douai, 9e
@Wikimédia commons

ツルゲーネフはその革新的な思想ゆえに、ロシアの官憲の検閲が厳しく、思うような文筆活動が妨げられたので、思い切ってヴィアルドを頼ってフランスに滞在することが多くなる。彼の代表作の一つ『猟人日記』もヴィアルド家の所有する田舎の城館で書き上げられた。1871年以降65歳で死去する1883年まで、彼はドゥエ通り50番地のヴィアルド家と同じ建物の別の階に居を構えた。(→)右掲の碑銘板はそれを記念するものだが、なぜか50番地の2(50 bis) のほうに掲げられている。

2017年3月15日水曜日

散歩Q(6-2) ドゥエ通り Rue de Douai, 9e (西半分)Partie ouest(クリシー広場~ユーロプ界隈)

ベルリオーズ公園の北側を東西に伸びるドゥエ通りは、クリシー大通りと平行する一本南の裏通りなので車の往来も少ない。名前の由来となったドゥエ(Douai)はフランス北部の町で、起源はローマ帝国の植民地時代に遡る。中世には大学も置かれたという。ユーロプ地区にあるが、ヨーロッパの主要都市の一つとして名付けられたのではないようだ。(DNR)


(c) Google Map Streetview
 59, rue de Douai, 9e
☆ドゥエ通り59番地 (59, rue de Douai, 9e)

前述の画家ボナールの住居があった65番地の2軒隣の59番地は3階建ての古い小さな住居が残っている。120年前くらいの19世紀末のものらしく、小規模ながらも当時流行したネオ・ルネサンス風の優雅な窓飾りが目に留まる。


(c) Google Map Streetview
 42, rue de Douai, 9e





☆ドゥエ通り42番地 (42, rue de Douai, 9e)

戸口の上にある2階の窓にフランス国旗が掲出されている。国かパリ市の公共機関の施設になっているらしい。ここには19世紀末(1896-1900)に《ラ・ルロット》(La Roulotte)という名前の歌謡劇場(キャバレ=テアトル)があった。シャンソン歌手で作詞・作曲もしたジョルジュ・シャルトン(Georges Charton)が支配人となって営業し、多数の有名シャンソンが創唱された。(PRR)
Auguste Roedel : Affiche de La Roulotte,
Cabaret-Théâtre @BnF Gallica









《ラ・ルロット》の元々の意味は、地方を巡業して歩く旅芸人たちが乗る大型の馬車のことで、右掲(→)のポスターでもカルメンのような女性が馬車の後部にある出入口の階段に腰をかけてトランプ占いをしているのがわかる。

*参考サイト:BnF Gallica 所収の『赤十字の歌』(Chanson de la Croix Rouge)
http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/btv1b8594948z

(c) Google Map Streetview
 39, rue de Douai, 9e






☆ドゥエ通り39番地 (39, rue de Douai, 9e)

通りの向い側の39番地には、玄関飾りの羊歯(シダ)模様が見事である。






(c) Google Map Streetview
 35, rue de Douai, 9e


☆ドゥエ通り35番地 (35, rue de Douai, 9e)
☆ブランシュ通り90番地
(90, rue Blanche, 9e)

ドゥエ通りがブランシュ通りと交差する角の南東側にパン屋がある。《オー・デリス・デュ・ムーラン》(Aux Délices du Moulin)という店名で「粉引きの愉楽」とでも訳するのだろうか。店の入口にある嵌め絵の装飾が老舗らしさを演出している。昼はパンや菓子を買い求める人で結構混雑している。


かたつむりの道すじ:④ブリュッセル通り~⑤アドルフ・マックス広場~
⑥ドゥエ通り~⑦ブランシュ通り~⑧カレ通り~⑨バリュ通り
 (c) Google Map


2017年3月11日土曜日

散歩Q(6-1) 画家ボナールの住居跡 Ancienne demeure de Pierre Bonnard(クリシー広場~ユーロプ界隈)

☆ドゥエ通り65番地 (65, rue de Douai, 9e)
《画家ピエール・ボナールの旧居》 Ancienne demeure de Pierre Bonnard

(c) Google Map Streetview
 65, rue de Douai, 9e
ベルリオーズ公園の北側は、ドゥエ通り(Rue de Douai)の一部になっていて、西側はクリシー広場に通じている。

現在クリシー広場にあるパテ社の映画館の入った大きな建物が見える手前の65番地(クレープ屋がある)は、ナビ派出身の画家ピエール・ボナール(Pierre Bonnard, 1867-1947)が一時期住んでいた場所である。(PRR)

1898年から画商のアンブロワーズ・ヴォラール(Ambroise Vollard, 1866-1939)は、ナビ派のボナール、ヴュイヤール、モーリス・ドニなど同世代の若手の優れた画家たちに依頼し、『パリ生活の諸相』(Quelques aspects de la Vie de Paris, 1899)と題した版画集を出版した。全4巻で計画され、各人が12点の彩色リトグラフでパリの生活風景を制作し、高い評価を獲得した。
Pierre Bonnard : La Place Clichy
(la vue présumée de la rue de Douai)
@Quizz Paris en peinture

ボナールがここに住んだのも30代初めのこの時期で、クリシー広場界隈の風物画や風景画も多く描かれた。右掲(→)は、比較的遠景のクリシー広場の絵だが、住居のあったドゥエ通りから描いたのではないかと思われる。印象派の技法を受け継ぎながらもボナール独特の味わいがある。

この時期の傑作の一つとされるのが、下掲(↓)「クリシー広場」の店先風景である。ボナールの得意とする暖色系の明るい色彩の中に、描かれた街中の女性たちの身体の微妙なしなり方が魅力的だ。
Pierre Bonnard : La Place de Clichy (1912)
@ Wikiart





ボナールは、65番地の家に住んだ後も同じ通りの向い側60番地に住み続けた。現在はリセの建物の一部になっている。近くに親友のヴュイヤール(Edouard Vuillard, 1868-1940)も住んでいたので、この界隈での生活がとても気に入ったのだろう。

◇パリ蝸牛散歩内の関連記事:
(2-5)クリシー広場(再2)Place de Clichy (suite)
http://promescargot.blogspot.jp/2016/07/2-5place-de-clichy-suite.html


2017年2月8日水曜日

散歩Q(5-3) エクトル・ベルリオーズ小公園 Square Hector-Berlioz(クリシー広場~ユーロプ界隈)


Berlioz Statue in Paris, 1918
Scrupture par Alfred Lenoir
Wikimedia Commons
☆エクトル・ベルリオーズ小公園 (Square Hector-Berlioz)

 四方を街路とアパルトマンの建物で囲まれた、辻公園とも言えそうなのがベルリオーズ小公園である。ロマン派の作曲家エクトル・ベルリオーズ(Hector Berlioz, 1803-1869)が亡くなるまでの晩年をこの近くのカレ通りの家で過ごしたことを記念して募金が行われ、彫刻家のアルフレッド・ルノワール(Alfred Lenoir, 1920)によるベルリオーズの銅像が1886年に建てられた。しかしながらこの像はナチス独軍の占領下の1941年に取り壊された。戦後、新しい石像が作られたのが現在のものである。写真を比べてみると古い方が作曲家自身の雰囲気をよく伝えているように思う。

緑に囲まれた公園は、児童遊園になっており、地域住民の憩いの場でもある。(↓)下掲の画像では緑陰の中にベルリオーズの彫像が立っているのが見える。

19世紀の中頃まではこの地域は畑や庭園が広がっていた。特に大革命前の1760年に、ヴェルサイユにあった王室のトリアノン離宮に似せた城館と庭園を作って「フォリー・ブキシエール」(Folie-Bouxière)と称し、貴族たちの園遊会場として使われた。
  ↑On peut aperçevoir la nouvelle stature de Berlioz
dans l'ombre verdoyante
(c) Google Map Streetview
Square Hector Berlioz

大革命時に一時荒廃したが、王政復古時代の1826年に改めて3代目の「新チボリ遊園」(Nouveau Tivoli)として市民の遊興地となった。

チボリ遊園は当初はサン=ラザール通り沿いにあったが、急速なパリの都市化に従い、少しずつ北側の敷地に移転し、最後はこのクリシー広場近くまで移された。ベルリオーズ小公園の一帯は当時は遊園内の泉水のある憩いの場であったが、その頃の名残がうかがえる。

新チボリ遊園ではダンス・ホールや見世物のアトラクションのほかに人気があったのは「鳩撃ち遊戯」(Tirage au pigeon vivant)であった。
Affiche de Jules Grün
@BnF Gallica

狩猟の盛んだった欧州の伝統にもとづくもので、1831年に英国から導入された。元々は鳥猟の練習のため、生きた鳩を飛び立たせて猟銃で狙い撃ちし、撃ち落とした数を競う競技となった。ここでは10年間で30万羽の鳩が撃たれたという記録が残っている。右掲(→)は、当時の鳩撃ちの教習所(École de Tir aux pigeons)のポスターであるが、場所はベルギーの保養地シメー(Chimay-villegiature)のものである。

1840年以降はパリの都市化による居住地の造成が進み、新チボリ遊園一帯も街区に細分化され、遊園は姿を消した。

「鳩撃ち」も、1880年以降は(動物愛護の観点からか)クレー・ピジョン(Clay pigeon)という陶器製の鳩を放出させて射撃するという方法に変わり、現在のクレー射撃の競技に続いている。


◇パリ蝸牛散歩内の関連記事:
☆クリシー通り16番地 (16, rue de Clichy, 9e)
《カジノ・ド・パリ劇場》(Théâtre de Casino de Paris)
http://promescargot.blogspot.jp/2016/04/28-2-theatre-de-casino-de-paris.html



2017年1月2日月曜日

散歩Q(5-2) 画家ヴュイヤールのアトリエ跡 Emplacement de l'atelier de Vuillard, intimiste(クリシー広場~ユーロプ界隈)

☆アドルフ・マックス広場6番地 (6, place Adolphe Max, 9e)
《親密派の画家ヴュイヤールのアトリエ跡》 Emplacement de l'atelier de Vuillard, intimiste

(c) Google Map Streetview
 6, place Adolphe Max, 9e
広場に面した6番地には、親密派の画家として知られるエドゥアール・ヴュイヤール(Édouard Vuillard, 1868-1940)が最晩年の10数年を送った家がある。

目の前の小公園(ベルリオーズ公園Square Berlioz)を見下ろす絶好の家で、彼が40代の頃に描いた『ヴァンティミル広場』の装飾パネル画以来、この家に住むことが憧れとなっていた。

この家は、しばらくの間南西部バイヨンヌ出身のアカデミー派の肖像画家レオン・ボナ(Léon Bonnat, 1833-1922)の活動拠点だった。

◇パリ蝸牛散歩内の関連記事:
☆アドルフ・マクス広場(旧ヴァンティミル広場)Place Adolphe-Max (Ancien Place Vintimille)
http://promescargot.blogspot.jp/2016/11/5-1place-adolphe-max-ancien-place.html

Édouard Vuillard: Panneaux décoratifs
La bibliothèque et La table de travail
exposés au salon d'automne, 1905
Paris, Petit Palais, musée des Beaux-Arts de la Ville de Paris
Crédit Photo (C) RMN-Grand Palais / Agence Bulloz

ヴュイヤールの作風は「親密派」とか「内面派」と呼ばれるが、これは主義主張ではなく、フランス語で「アンティミスム」(intimisme)とか「アンティミスト」(intimiste)という、「内輪」とか「内向的」という意味の通り、専ら身近な家庭的な題材をいつくしみに満ちた視点で捉え、画面に表わした性向だと言われている。

(←)左掲は、1905年の「秋のサロン展」(Salon d'automne)に出されて評判を得た装飾画板『書斎』と『仕事机』で、平板的で地味な、曖昧な色調の室内で手仕事にいそしむ婦人たちの姿を描いている。

作家のアンドレ・ジィド(André Gide,
1869-1951)は当時の「美術雑誌」(ガゼット・デ・ボーザール Gazette des Beaux-Arts) に寄稿した「秋のサロン展を歩く」という評論の中でヴュイヤールの作品を大いに称賛している。

「彼は自らを心底から語っている。より直截的に作者と語り合っているこうした作品を私はあまり知らない。・・・その会話とは、彼が内緒話をするように本当に低い声で語り、相手がそれを聞こうと身を傾けるようなものなのだ。」
(Il se raconte intimement. Je connais peu d'œuvres où la conversation avec l'auteur soit plus directe. - - - Cela vient surtout de ce qu'il parle à voix presque basse, comme il sied pour la confidence, et qu'on se penche pour l'écouter.) André Gide : "Promenade au Salon d'Automne," Gazette des Beaux-Arts, Déc. 1905 @Gallica BnF


Vuillard : Démolition rue de Calais
Pau, musée des Beaux-Arts
Crédit Photo (C) RMN-Grand Palais / Benoît Touchard
☆カレ通り26番地 (26, rue de Calais, 9e)
 アドルフ・マックス広場3番地 (3, place Adolphe Max, 9e)
《画家ヴュイヤールの住居跡》 (Emplacement de domicile de Vuillard)

実は広場の東南角にあった建物にこの直前までヴュイヤールは住んでいたが、そこが建て替えのために取り壊されることになって、6番地に移ったのである。ここは角にあるため2つの住居表示がある。現在の建物の広場側3番地に記念銘板(Plaque)が掛かっている。珍しくも石板には彼の自画像の絵もついている。
「画家エドゥアール・ヴュイヤールはこの建物のあった場所に1908年7月から1926年9月まで住んでいた。」
« Le peintre Édouard Vuillard (1868-1940) a vécu à l'emplacement de cet immeuble de juillet 1908 à septembre 1926. »

*Wiki commons : Plaques in Paris, 9e arrondissement
https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Plaques_in_Paris_9e_arrondissement#/media/File:Plaque_%C3%89douard_Vuillard,_Place_Adolphe-Max,_Paris_9.jpg

彼はこの建物に愛着があったようで、新しい住居から見た古い建物の取り壊しの様子を(↑)「カレ通りの取り壊し」(La démolition rue de Calais)と題した何枚かの下絵に残している。