パリの街角散歩です。カタツムリのようにゆっくりと迂回しながら、そして時間と空間をさまよいながら歩き回ります。


2017年11月23日木曜日

散歩Q(7-1) 画家ドガの旧居 Ancienne demeure de Degas(クリシー広場~ユーロプ界隈)

☆ブランシュ通り77番地 (77, rue Blanche, 9e)
画家ドガの住居跡 Ancienne demeure de Degas
(c) Google Map Streetview
 77, rue Blanche, 9e

ドゥエ通りは南北に走るブランシュ通りと交差する。左に折れてブランシュ広場に向かって上がるとすぐに77番地の建物がある。ここに印象派の画家エドガー・ドガ(Edgar Degas, 1834-1917)が一時期住んでいた。

ドガの母親は仏領植民地だった米国ルイジアナのニューオーリンズ(仏語でヌーヴェル・オルレアン)で生まれ育っていたので、親戚も多く、また実弟ルネも綿花産業に携わっていた。ドガは1872年の秋から約半年間現地を訪れ、見知らぬ土地の風物や人々に触れたものの、ほとんど馴染むことはなく、新しい世界へ画題を広げようとは思わなかった。むしろパリの街中での生活を懐かしむ心情に捉われた。帰国後1873年の3月から1876年までドガはこの家に住んだ。40歳前後のこの時期には、印象派の第1回目の展覧会(1874年4月)を開催するにあたって、中心メンバーのルノワールやモネ、ピサロなどと頻繁に会合を開いたり、会員組織を設立したりして友人知人に参加を呼びかけていた。

作家のエドモン・ド・ゴンクール(Edmond de Goncourt, 1822-1896)がドガのもとを訪れたのは印象派展の直前、1874年2月13日のことで、その日の彼の日記(Journal)にはドガの芸術に関する長文の論評をしたため、その末尾は次のように締めくくっている。
「このドガという風変りな独身男は、病気がちで、神経症で、失明するかもしれないと悩む眼病持ちなのだが、感性が卓越した人物で、物事からはね返ってくる特質を受け止めるのだ。私がこれまで会った中でも最もよく現代生活を、この人生の魂を、写し取る人物である。」
(Un original garçon que ce Degas, un maladif, un névrosé, un ophtamique à un point qu'il craint de perdre la vue, mais par cela même un être éminemment sensitif, et recevant le contrecoup du caractère des choses. C'est jusqu'à présent l'homme que j'ai vu les mieux attraper, dans la copie de la vie moderne, l'âme de cette vie.)

Edgar Degas - La classe de danse, ca 1873
National Gallery of Art, Washington
Corcoran Collection 
右掲(→)はこの時期のドガの作品「ダンスの教室」である。
レッスン風景の絵としてはこれまであまり目にすることがないもので、新鮮な感じがする。光の柔らかさが全体に広がっていて印象派的なのびやかな表現になっていると思う。


◇パリ蝸牛散歩内の関連記事:

散歩R(16-3) ルノワールのアトリエ Emplacement de l'atelier d'Auguste Renoir(9区サン=ジョルジュ地区)☆サン=ジョルジュ通り35番地 (35, rue Saint-Georges, 9e)
http://promescargot.blogspot.jp/2016/01/16-3.html

散歩R(11-2) ルピック伯爵の家 Ancienne demeure du comte Lepic(9区サン=ジョルジュ地区)☆ラ・ロシュフコー通り46番地 (46, rue de La Rochefoucauld, 9e)
http://promescargot.blogspot.jp/2015/11/11-2.html




2017年8月3日木曜日

散歩Q(6-4) 画家フロマンタンのアトリエ跡 Emplacement de l'atelier de Fromentin(クリシー広場~ユーロプ界隈)

☆ドゥエ通り40番地の2 (40 bis, rue de Douai, 9e)
画家フロマンタンのアトリエ跡 Emplacement de l'atelier d'Eugène Fromentin

(c) Google Map Streetview
 40 bis, rue de Douai, 9e
40番地の2には画家のウジェーヌ・フロマンタン(Eugène Fromentin, 1820-1876)がアトリエの一つを構えていた。

20代以降、アルジェリアに何度も旅行をしたが、その際に魅了された異国の風物を描いた作品でサロンに認められ、人気を集めた。19世紀にはロマン主義の風潮が隆盛を極め、東方趣味(orientalisme)や異国情緒(exotisme)に満ちた文学や絵画、音楽がもてはやされた。

下掲は(↓)彼の代表作の一つ『青サギ狩り』(La chasse au héron)の絵だが、雄大な空間の広がりのある構図に引きつけられる。しかしながらフロマンタンの作品には感情表現の掘り下げが希薄で、表面的な意味での「絵に描いたような」風物しか見えてこないのが残念だ。
Fromentin : La chasse au héron (1865)
Chantilly, musée Condé
Crédit Photo (C) RMN-Grand Palais  / Harry Bréjat

それを補完するかのように彼は文筆家としての才能も発揮し、旅行記『サハラ砂漠の夏』(Un été dans le Sahara)、半自伝的な心理小説の傑作『ドミニク』(Dominique)、で高い評価を得た。美術史家としても晩年オランダに旅行した後、レンブラントなどを論評した『昔日の巨匠たち』(Les Maîtres d'autrefois)を著した。

このドゥエ通りの少し先に、フロマンタンの名前を冠した小さな通り(rue Fromentin, 9e)も現存している。

2017年7月27日木曜日

散歩Q(6-3) ヴィアルド家のサロン跡 Emplacement du Salon de Viardot(クリシー広場~ユーロプ界隈)

☆ドゥエ通り50番地 (50, rue de Douai, 9e)
《ヴィアルド家のサロン跡》 Emplacement du Salon de Viardot
(c) Google Map Streetview
 50bis et 50, rue de Douai, 9e

50番地の建物は19世紀末の時代にヴィアルド家の住居があり、その家でのサロンには大勢の文化人、作家、音楽家、画家が出入りした。
主人のルイ・ヴィアルド(Louis Viardot, 1800-1883)は、新聞や雑誌の編集者を経て、イタリア歌劇を上演するヴァンタドゥール座(Salle Ventadour)の支配人となった。文学をはじめ美術や音楽に造詣が深く、特にスペイン語を得意とし、『ドン・キホーテ』の仏語訳を自ら出版した。卓越した魅力ある個性の持ち主で、広い交遊関係を築いていた。

1840年に彼はスペイン出身の著名なオペラ歌手ガルシアの次女ポーリーヌ(Pauline Viardot-Garcia, 1821-1910)と結婚した。彼女の13歳年上の姉マリア・マリブラン(Maria Malibran, 1808-1836)は、美声と美貌を兼ね備えた歌手として名声を誇ったが、28歳の若さで夭折した。その遺志を継ぐかのようにポーリーヌは1839年にオペラ歌手としてのデビュを果たした。17歳だった。
Portrait de Mme Pauline Viardot-
Garcia, l'illustration d'une revue
@BnF Gallica
女流作家のジョルジュ・サンド(George Sand, 1804-1876)は、ポーリーヌと親密な交友関係にあったが、彼女をモデルとした長編小説『歌姫コンシュエロ』(Consuéro, 1843)を書いている。

1840~50年代はポーリーヌ・ヴィアルドの全盛期だった。1849年にはマイヤベーア(Giacomo Mayerbeer, 1791-1864)が歌劇『預言者』(Le Prophète)で彼女のために重要な役を用意した。また若手作曲家として彼女から支援を受けていたグノー(Charles Gounod, 1818-1893)は1851年に歌劇『サフォ』(Sapho)で有名なアリアを書いた。
1859年にはベルリオーズ(Hector Berlioz, 1803-1869)が、グルックの歌劇『オルフェオ』(Orpheé)
をメゾ=ソプラノ用に改編して彼女を主役として上演させた。(↓)下掲の版画はその時の様子を描いたものである。更に若年のサン=サーンス(Camille Saint-Saëns, 1835-1921)も歌劇『サムソンとダリラ』(Samson et Dalila)のアリアを献呈している。

2ème acte d' Orphée de Gluck au Théâtre Lyrique, 1859
Estampe de V. Folquier, @ BnF Gallica
















彼女はまた優れたピアニストでもあった。パリで活躍していたリスト(Franz Liszt, 1811-1886)からの厳しい指導を受け、16歳でリサイタルをするほどで、その手腕をショパン
Salon de Mme Viardot en 1853
Gravure par W.Best, @ Bnf département Musique Est
も高く評価していた。
(←)左掲は1853年のヴィアルド夫人のサロンの様子を描いたもので、文化人の多く住む新アテネ地区(Nouvelle-Athène)の中にあったヴィアルド家のサロンには多くの有名人が集い、音楽に耳を傾け、芸術的な会話を楽しんだ。

1843年の冬、彼女が夫ルイを伴って、ロシアのサン=ペテルスブール(ペテルブルク)にイタリア座の巡業に赴いた時、その公演に熱狂的に惹かれた聴衆の中に、文豪ツルゲーネフ(Ivan Tourgueniev, 1818-1883)がいた。ツルゲーネフはロシアの大地主の地方貴族の家に生まれ、若い頃から外国で教育を受けていた。彼は一時ポーリーヌとの恋愛関係にあったが、その後もヴィアルド夫妻との親密な交友関係を生涯持ち続けることになる。
ルイ・ヴィアルドとはロシア文学をフランスに紹介するための協力を惜しまず、ルイはロシア語には疎かったが、当時ロシアの宮廷や社交界ではフランス語が広く使用されていたため、ロシア人がフランス語に言い換えてくれる文章を、適当に補正するだけで翻訳が成り立ったのだった。
Plaque d'Ivan Tourguéniev au 50 bis de la rue de Douai, 9e
@Wikimédia commons

ツルゲーネフはその革新的な思想ゆえに、ロシアの官憲の検閲が厳しく、思うような文筆活動が妨げられたので、思い切ってヴィアルドを頼ってフランスに滞在することが多くなる。彼の代表作の一つ『猟人日記』もヴィアルド家の所有する田舎の城館で書き上げられた。1871年以降65歳で死去する1883年まで、彼はドゥエ通り50番地のヴィアルド家と同じ建物の別の階に居を構えた。(→)右掲の碑銘板はそれを記念するものだが、なぜか50番地の2(50 bis) のほうに掲げられている。

2017年3月15日水曜日

散歩Q(6-2) ドゥエ通り Rue de Douai, 9e (西半分)Partie ouest(クリシー広場~ユーロプ界隈)

ベルリオーズ公園の北側を東西に伸びるドゥエ通りは、クリシー大通りと平行する一本南の裏通りなので車の往来も少ない。名前の由来となったドゥエ(Douai)はフランス北部の町で、起源はローマ帝国の植民地時代に遡る。中世には大学も置かれたという。ユーロプ地区にあるが、ヨーロッパの主要都市の一つとして名付けられたのではないようだ。(DNR)


(c) Google Map Streetview
 59, rue de Douai, 9e
☆ドゥエ通り59番地 (59, rue de Douai, 9e)

前述の画家ボナールの住居があった65番地の2軒隣の59番地は3階建ての古い小さな住居が残っている。120年前くらいの19世紀末のものらしく、小規模ながらも当時流行したネオ・ルネサンス風の優雅な窓飾りが目に留まる。


(c) Google Map Streetview
 42, rue de Douai, 9e





☆ドゥエ通り42番地 (42, rue de Douai, 9e)

戸口の上にある2階の窓にフランス国旗が掲出されている。国かパリ市の公共機関の施設になっているらしい。ここには19世紀末(1896-1900)に《ラ・ルロット》(La Roulotte)という名前の歌謡劇場(キャバレ=テアトル)があった。シャンソン歌手で作詞・作曲もしたジョルジュ・シャルトン(Georges Charton)が支配人となって営業し、多数の有名シャンソンが創唱された。(PRR)
Auguste Roedel : Affiche de La Roulotte,
Cabaret-Théâtre @BnF Gallica









《ラ・ルロット》の元々の意味は、地方を巡業して歩く旅芸人たちが乗る大型の馬車のことで、右掲(→)のポスターでもカルメンのような女性が馬車の後部にある出入口の階段に腰をかけてトランプ占いをしているのがわかる。

*参考サイト:BnF Gallica 所収の『赤十字の歌』(Chanson de la Croix Rouge)
http://gallica.bnf.fr/ark:/12148/btv1b8594948z

(c) Google Map Streetview
 39, rue de Douai, 9e






☆ドゥエ通り39番地 (39, rue de Douai, 9e)

通りの向い側の39番地には、玄関飾りの羊歯(シダ)模様が見事である。






(c) Google Map Streetview
 35, rue de Douai, 9e


☆ドゥエ通り35番地 (35, rue de Douai, 9e)
☆ブランシュ通り90番地
(90, rue Blanche, 9e)

ドゥエ通りがブランシュ通りと交差する角の南東側にパン屋がある。《オー・デリス・デュ・ムーラン》(Aux Délices du Moulin)という店名で「粉引きの愉楽」とでも訳するのだろうか。店の入口にある嵌め絵の装飾が老舗らしさを演出している。昼はパンや菓子を買い求める人で結構混雑している。


かたつむりの道すじ:④ブリュッセル通り~⑤アドルフ・マックス広場~
⑥ドゥエ通り~⑦ブランシュ通り~⑧カレ通り~⑨バリュ通り
 (c) Google Map


2017年3月11日土曜日

散歩Q(6-1) 画家ボナールの住居跡 Ancienne demeure de Pierre Bonnard(クリシー広場~ユーロプ界隈)

☆ドゥエ通り65番地 (65, rue de Douai, 9e)
《画家ピエール・ボナールの旧居》 Ancienne demeure de Pierre Bonnard

(c) Google Map Streetview
 65, rue de Douai, 9e
ベルリオーズ公園の北側は、ドゥエ通り(Rue de Douai)の一部になっていて、西側はクリシー広場に通じている。

現在クリシー広場にあるパテ社の映画館の入った大きな建物が見える手前の65番地(クレープ屋がある)は、ナビ派出身の画家ピエール・ボナール(Pierre Bonnard, 1867-1947)が一時期住んでいた場所である。(PRR)

1898年から画商のアンブロワーズ・ヴォラール(Ambroise Vollard, 1866-1939)は、ナビ派のボナール、ヴュイヤール、モーリス・ドニなど同世代の若手の優れた画家たちに依頼し、『パリ生活の諸相』(Quelques aspects de la Vie de Paris, 1899)と題した版画集を出版した。全4巻で計画され、各人が12点の彩色リトグラフでパリの生活風景を制作し、高い評価を獲得した。
Pierre Bonnard : La Place Clichy
(la vue présumée de la rue de Douai)
@Quizz Paris en peinture

ボナールがここに住んだのも30代初めのこの時期で、クリシー広場界隈の風物画や風景画も多く描かれた。右掲(→)は、比較的遠景のクリシー広場の絵だが、住居のあったドゥエ通りから描いたのではないかと思われる。印象派の技法を受け継ぎながらもボナール独特の味わいがある。

この時期の傑作の一つとされるのが、下掲(↓)「クリシー広場」の店先風景である。ボナールの得意とする暖色系の明るい色彩の中に、描かれた街中の女性たちの身体の微妙なしなり方が魅力的だ。
Pierre Bonnard : La Place de Clichy (1912)
@ Wikiart





ボナールは、65番地の家に住んだ後も同じ通りの向い側60番地に住み続けた。現在はリセの建物の一部になっている。近くに親友のヴュイヤール(Edouard Vuillard, 1868-1940)も住んでいたので、この界隈での生活がとても気に入ったのだろう。

◇パリ蝸牛散歩内の関連記事:
(2-5)クリシー広場(再2)Place de Clichy (suite)
http://promescargot.blogspot.jp/2016/07/2-5place-de-clichy-suite.html


2017年2月8日水曜日

散歩Q(5-3) エクトル・ベルリオーズ小公園 Square Hector-Berlioz(クリシー広場~ユーロプ界隈)


Berlioz Statue in Paris, 1918
Scrupture par Alfred Lenoir
Wikimedia Commons
☆エクトル・ベルリオーズ小公園 (Square Hector-Berlioz)

 四方を街路とアパルトマンの建物で囲まれた、辻公園とも言えそうなのがベルリオーズ小公園である。ロマン派の作曲家エクトル・ベルリオーズ(Hector Berlioz, 1803-1869)が亡くなるまでの晩年をこの近くのカレ通りの家で過ごしたことを記念して募金が行われ、彫刻家のアルフレッド・ルノワール(Alfred Lenoir, 1920)によるベルリオーズの銅像が1886年に建てられた。しかしながらこの像はナチス独軍の占領下の1941年に取り壊された。戦後、新しい石像が作られたのが現在のものである。写真を比べてみると古い方が作曲家自身の雰囲気をよく伝えているように思う。

緑に囲まれた公園は、児童遊園になっており、地域住民の憩いの場でもある。(↓)下掲の画像では緑陰の中にベルリオーズの彫像が立っているのが見える。

19世紀の中頃まではこの地域は畑や庭園が広がっていた。特に大革命前の1760年に、ヴェルサイユにあった王室のトリアノン離宮に似せた城館と庭園を作って「フォリー・ブキシエール」(Folie-Bouxière)と称し、貴族たちの園遊会場として使われた。
  ↑On peut aperçevoir la nouvelle stature de Berlioz
dans l'ombre verdoyante
(c) Google Map Streetview
Square Hector Berlioz

大革命時に一時荒廃したが、王政復古時代の1826年に改めて3代目の「新チボリ遊園」(Nouveau Tivoli)として市民の遊興地となった。

チボリ遊園は当初はサン=ラザール通り沿いにあったが、急速なパリの都市化に従い、少しずつ北側の敷地に移転し、最後はこのクリシー広場近くまで移された。ベルリオーズ小公園の一帯は当時は遊園内の泉水のある憩いの場であったが、その頃の名残がうかがえる。

新チボリ遊園ではダンス・ホールや見世物のアトラクションのほかに人気があったのは「鳩撃ち遊戯」(Tirage au pigeon vivant)であった。
Affiche de Jules Grün
@BnF Gallica

狩猟の盛んだった欧州の伝統にもとづくもので、1831年に英国から導入された。元々は鳥猟の練習のため、生きた鳩を飛び立たせて猟銃で狙い撃ちし、撃ち落とした数を競う競技となった。ここでは10年間で30万羽の鳩が撃たれたという記録が残っている。右掲(→)は、当時の鳩撃ちの教習所(École de Tir aux pigeons)のポスターであるが、場所はベルギーの保養地シメー(Chimay-villegiature)のものである。

1840年以降はパリの都市化による居住地の造成が進み、新チボリ遊園一帯も街区に細分化され、遊園は姿を消した。

「鳩撃ち」も、1880年以降は(動物愛護の観点からか)クレー・ピジョン(Clay pigeon)という陶器製の鳩を放出させて射撃するという方法に変わり、現在のクレー射撃の競技に続いている。


◇パリ蝸牛散歩内の関連記事:
☆クリシー通り16番地 (16, rue de Clichy, 9e)
《カジノ・ド・パリ劇場》(Théâtre de Casino de Paris)
http://promescargot.blogspot.jp/2016/04/28-2-theatre-de-casino-de-paris.html



2017年1月2日月曜日

散歩Q(5-2) 画家ヴュイヤールのアトリエ跡 Emplacement de l'atelier de Vuillard, intimiste(クリシー広場~ユーロプ界隈)

☆アドルフ・マックス広場6番地 (6, place Adolphe Max, 9e)
《親密派の画家ヴュイヤールのアトリエ跡》 Emplacement de l'atelier de Vuillard, intimiste

(c) Google Map Streetview
 6, place Adolphe Max, 9e
広場に面した6番地には、親密派の画家として知られるエドゥアール・ヴュイヤール(Édouard Vuillard, 1868-1940)が最晩年の10数年を送った家がある。

目の前の小公園(ベルリオーズ公園Square Berlioz)を見下ろす絶好の家で、彼が40代の頃に描いた『ヴァンティミル広場』の装飾パネル画以来、この家に住むことが憧れとなっていた。

この家は、しばらくの間南西部バイヨンヌ出身のアカデミー派の肖像画家レオン・ボナ(Léon Bonnat, 1833-1922)の活動拠点だった。

◇パリ蝸牛散歩内の関連記事:
☆アドルフ・マクス広場(旧ヴァンティミル広場)Place Adolphe-Max (Ancien Place Vintimille)
http://promescargot.blogspot.jp/2016/11/5-1place-adolphe-max-ancien-place.html

Édouard Vuillard: Panneaux décoratifs
La bibliothèque et La table de travail
exposés au salon d'automne, 1905
Paris, Petit Palais, musée des Beaux-Arts de la Ville de Paris
Crédit Photo (C) RMN-Grand Palais / Agence Bulloz

ヴュイヤールの作風は「親密派」とか「内面派」と呼ばれるが、これは主義主張ではなく、フランス語で「アンティミスム」(intimisme)とか「アンティミスト」(intimiste)という、「内輪」とか「内向的」という意味の通り、専ら身近な家庭的な題材をいつくしみに満ちた視点で捉え、画面に表わした性向だと言われている。

(←)左掲は、1905年の「秋のサロン展」(Salon d'automne)に出されて評判を得た装飾画板『書斎』と『仕事机』で、平板的で地味な、曖昧な色調の室内で手仕事にいそしむ婦人たちの姿を描いている。

作家のアンドレ・ジィド(André Gide,
1869-1951)は当時の「美術雑誌」(ガゼット・デ・ボーザール Gazette des Beaux-Arts) に寄稿した「秋のサロン展を歩く」という評論の中でヴュイヤールの作品を大いに称賛している。

「彼は自らを心底から語っている。より直截的に作者と語り合っているこうした作品を私はあまり知らない。・・・その会話とは、彼が内緒話をするように本当に低い声で語り、相手がそれを聞こうと身を傾けるようなものなのだ。」
(Il se raconte intimement. Je connais peu d'œuvres où la conversation avec l'auteur soit plus directe. - - - Cela vient surtout de ce qu'il parle à voix presque basse, comme il sied pour la confidence, et qu'on se penche pour l'écouter.) André Gide : "Promenade au Salon d'Automne," Gazette des Beaux-Arts, Déc. 1905 @Gallica BnF


Vuillard : Démolition rue de Calais
Pau, musée des Beaux-Arts
Crédit Photo (C) RMN-Grand Palais / Benoît Touchard
☆カレ通り26番地 (26, rue de Calais, 9e)
 アドルフ・マックス広場3番地 (3, place Adolphe Max, 9e)
《画家ヴュイヤールの住居跡》 (Emplacement de domicile de Vuillard)

実は広場の東南角にあった建物にこの直前までヴュイヤールは住んでいたが、そこが建て替えのために取り壊されることになって、6番地に移ったのである。ここは角にあるため2つの住居表示がある。現在の建物の広場側3番地に記念銘板(Plaque)が掛かっている。珍しくも石板には彼の自画像の絵もついている。
「画家エドゥアール・ヴュイヤールはこの建物のあった場所に1908年7月から1926年9月まで住んでいた。」
« Le peintre Édouard Vuillard (1868-1940) a vécu à l'emplacement de cet immeuble de juillet 1908 à septembre 1926. »

*Wiki commons : Plaques in Paris, 9e arrondissement
https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Plaques_in_Paris_9e_arrondissement#/media/File:Plaque_%C3%89douard_Vuillard,_Place_Adolphe-Max,_Paris_9.jpg

彼はこの建物に愛着があったようで、新しい住居から見た古い建物の取り壊しの様子を(↑)「カレ通りの取り壊し」(La démolition rue de Calais)と題した何枚かの下絵に残している。



2016年11月6日日曜日

散歩Q(5-1) アドルフ・マクス広場(旧ヴァンティミル広場)Place Adolphe-Max (Ancien Place Vintimille)(クリシー広場~ユーロプ界隈)

☆アドルフ・マクス広場 (Place Adolphe Max, 9e)
《エクトル・ベルリオーズ公園》 (Square Hector Berlioz)

(c) Google Map Streetview
 rue de Bruxelles, 9e
vers la place Adolphe Max
ブリュッセル通りの先を行くと小さな広場に出る。アドルフ・マクス広場である。すぐ近くのクリシー大通りの喧騒から外れた閑静な広場で、中央部は幼児のための遊具が備わった小さな公園になっている。

アドルフ・マクス(Adolphe Max, 1869-1939) は、第一次世界大戦勃発時にベルギーの首都ブリュッセルの市長だった人で、当時中立国だったベルギーにドイツ軍が進攻してきたため徹底抗戦の立場を取り、首都の防衛に尽力した。降伏後もドイツ軍の軛の下での市政の執行を拒否し、大戦中はドイツで獄中生活を送った。その勇猛果敢な行動に対しパリは名誉市民(Citoyen d'honneur de Paris)の称号を与えた。ブリュッセル通りにつながるこの広場に彼の名前を冠するようになったのは第二次世界大戦中の1940年(パリ陥落直前)のことだったが、それまではヴァンティミル広場(Place Vintimille)と呼ばれており、戦後もしばらく旧名のほうが通用していた。

Edouard Vuillard, Place Vintimille, 1911
 National Gallery of Art, Washington DC, USA

ヴァンティミル(Vintimille) とは、南仏コート=ダジュールの海岸沿いのイタリア側にある国境の町ヴェンティミッリア(Ventimiglia)のフランス語読みであるが、そもそもはそこのヴァンティミル伯爵家がパリに持っていた敷地がこの地域であったのが由来とされている。通りの一つにも同じ名前がついているが、それは現在でも残っている。


左掲(←)はナビ派の画家エドゥアール・ヴュイヤール(Edouard Vuillard, 1868-1940)が44歳のときに描いた5連の装飾板画(Panneau décoratif)『ヴァンティミル広場』(Place Vintimille, 1911)である。日本の屏風絵のような感じがするが、当時は個人の邸宅のサロンや食堂の壁の羽目板画として流行していた。秋の日の穏やかな街角風景で、親しみやすく心が和む。ヴュイヤールはこの場所が気に入っていたようで、広場を見下すこの視点の家に後年59歳の頃に引っ越してくる。

◇パリ蝸牛散歩内の関連記事:
☆ジャン=バティスト・ピガール通り28番地 (28, rue Jean-Baptiste-Pigalle, 9e)
《ナビ派青年画家たちのアトリエ跡》(Ancien emplacement de l'atelier de jeunes Nabis)
http://promescargot.blogspot.jp/2016/03/21-3-ancien-emplacement-de-latelier-de.html


蛇足になるが、この広場は作家ジョルジュ・シムノン(Georges Simenon, 1903-1989)の生んだ一連の《メグレ警視》(Commissaire Maigret)シリーズの中の一作『メグレと若い女の死』(Maigret et la jeune morte, 1954)の事件現場としても登場する。

窃盗団の男たちへの30時間近くかけた取り調べが午前3時に終わって、夜食でも取りに行こうとしたところに電話が入る。クリシー大通り裏手の小さな広場で若い女の死体が発見されたという。まだ家に寝に帰る気になれなかったメグレは部下のジャンヴィエと現場へ向かう。

「ブランシュ広場のすぐ近くにあるヴァンティミル広場は平穏な離れ小島のようだった。警察の車が一台停まっていた。ちっぽけな公園の柵の近くに5~6人が立っていて地面に横たわった明るい色の形体を取り囲んでいた。」(À deux pas de la place Blanche, la place Vintimille était comme un îlot paisible. Un car de la police stationnait. Près de la grille du square minuscule, quatre ou cinq hommes se tenaient debout autour d'une forme claire étendue sur le sol. (c)Georges Simenon - Maigret et la jeune morte, Chap.1er)

※参考Link : 「メグレ警視のパリ」No.72 「メグレと若い女の死」
http://www.geocities.jp/maigretparis/enquetes/maig72jeune.html


2016年10月20日木曜日

散歩Q(4) 文豪エミール・ゾラの居館跡 Emplacement de la demeure d'Émile Zola(クリシー広場~ユーロプ界隈)

☆ブリュッセル通り21番地の2 (21bis, rue de Bruxelles, 9e)
《文豪エミール・ゾラの居館跡》 Emplacement de la demeure d'Émile Zola

(c) Google Map Streetview
 21bis, rue de Bruxelles, 9e
クリシー通りからT字路で入る横丁がブリュッセル通りである。19世紀後半に自然主義文学の巨匠として文壇に君臨したエミール・ゾラ(Émile Zola, 1840-1902)が1887年から1902年に亡くなるまでの15年間、この建物に住んでいた。窓の間に碑銘板が見える。

ゾラが不慮の死を遂げたのは1902年9月29日朝のことである。その前日、ゾラ夫妻は夏の間じゅう過ごしていたパリ西郊にあるメダンの別荘からこの家に戻ってきた。使用人の話によれば、夕食時も快活で、一緒に連れ帰った愛犬2匹をなでながら、近づく冬の季節をパリの街中で過ごすための買い物や催し物の心積もりを語り合ったという。

翌朝9時近くになっても夫妻が起き出してこないのに気づいた家政婦が2階の寝室のドアを叩いたが、返事がなく、不安に駆られてすぐに家令や料理婦に異常を知らせた。ちょうど配管の修理に来ていた作業員も一緒に2階に上がり、ドアをこじ開けた。部屋の中は暗いままだった。カーテンと窓を開けると、床の絨毯の上にゾラが倒れているのが見つかった。夫人はベッドの中で苦しそうな息をしていた。家中が大騒ぎになった。急いで数人の医者が呼ばれたが、ゾラはまもなく死亡が確認され、夫人は一命を取りとめることができた。室内で寝ていた愛犬2匹も嘔吐していたが無事だった。ゾラの遺骸は隣の部屋のベッドに運ばれた。

この日のこの界隈は野次馬と新聞記者たちで一日中騒然としていた。様々な憶測が飛び交った。警察の捜査が行われ、検死医の診断では、ゾラの死因は一酸化炭素中毒による事故死とされた。地下にある暖房装置は故障していて使われておらず、そこからの空気は来ていなかった。一方で前日使用人が寝室の湿気を取り除くために暖炉に豆炭を燃やしており、その燃えかすが見つかった。その豆炭の不完全燃焼による一酸化炭素ガスが部屋に滞留したため、ゾラ夫妻は睡眠中に息苦しさで目を覚ました。ゾラは起き上がって水か薬を飲もうと歩きだしたが、すぐに倒れて気を失った。夫人はそれに気づいていたが、動けずにベッドの中で気を失った。一酸化炭素の濃度は床の底辺部のほうが濃いので、ゾラは倒れたまま死に至ったのである。

翌9月30日のパリの新聞各紙は揃って文豪の死を報じた。(↓)下掲の「マタン」(Le Matin)紙はとりわけ第1面全部と2面の半分を『エミール・ゾラの悲劇的な死』のために費やした。当時の新聞にはまだ写真は使われておらず、ほとんどが文字のみの紙面が普通であった。イラスト画像が入ることも珍しかった。




















Le Matin 1902.09.30
@BnF Gallica
































Edouard Manet : Emile Zola, Écrivain (1868)
Paris, Musée d'Orsay
Crédit Photo (C) RMN-Grand Palais (musée d'Orsay)
 / Hervé Lewandowski

エミール・ゾラ(Émile Zola, 1840-1902)はパリのイタリア人技師の子として生まれた。その後南仏で育ったが、22歳からパリの大手出版社アシェットで勤務しながら、文筆生活を始めた。20代では『テレーズ・ラカン』(Thérèse Raquin, 1865)などで注目され、また印象派の画家たち特にエドゥアール・マネとの交友があり、彼らを擁護する美術評論も書いた。1870年代からは、自然科学的(遺伝学的)な要素を盛り込んだルーゴン=マッカール家の家系図にもとづく壮大な『ルーゴン=マッカール叢書』(Les Rougon-Macquart)全20作の世界を書き上げた。その中には、パリの社会の底辺層を赤裸々に描いた『居酒屋』(l'Assommoir)や高級娼婦の生態を描いた『ナナ』(Nana)なども含まれる。

こうして当代随一の作家としての声価を確立したゾラが1898年1月13日に「オーロル」(曙)紙(L'Aurore) で発表した仏大統領宛の公開質問状「私は弾劾する」(J'accuse !) は、ドレフュス事件をめぐるフランス国内の論争に拍車をかけることとなった。独スパイの容疑で有罪となったドレフュス大尉は軍部の陰謀による冤罪だ、として再審を求める親ドレフュス派と、ユダヤ系市民の排斥運動に乗じて嫌疑は正しいとする反ドレフュス派とが、国を二分して争っていた。

「オーロル」(曙)紙は1897年に創刊されたばかりの新聞で、ジョルジュ・クレマンソーが主筆を務めていた。彼と親しかったゾラは、国家権力の欺瞞を暴くために敢然と論陣を張り、ドレフュス擁護の運動に積極的に関与した。その結果、ドレフュスは1899年に特赦によって自由の身となったが、本当の無罪を勝ち取るために再審の運動は続けていた。ゾラは急死したが、再審は1906年まで持ち越された。


※参考Link:「100年前のフランスの出来事」ゾラ関連記事

(1)ドレフュス事件の再審 :1906年6月15日(金)親反両派の抗争略史を記載
http://france100.exblog.jp/2518659/

(2)ドレフュス事件、第2回目の再審:1906年7月12日(木)無罪判決
http://france100.exblog.jp/2789852/

(3)メダンの文豪ゾラの館のその後:1907年9月28日(土)
http://france100.exblog.jp/6457981/



2016年8月18日木曜日

散歩Q(3-2) オリエント・カフェ跡 Emplacement du Café d'Orient(クリシー広場~ユーロプ界隈)

☆クリシー通り81番地 (81, rue de Clichy, 9e)

(c) Google Map Streetview
 81, rue de Clichy, 9e
この場所に現在は新しいビルが建てられている。19世紀末にはここに「オリエント」という名前のごく普通のカフェ(カフェ・ドリアンCafé d'Orient) があったというが、ネット上でもそのカフェの存在を語る情報は今のところ確認できない。唯一の典拠は、パリの街角の歴史をデータベースで紹介するサイト《Paris Révolutionnaire》(PRR)だけである。

ここには、1870年代後半からステファヌ・マラルメ(Stéphane Mallarmé,1842-1898)を中心に当時の若い詩人たちが集う場所となった。マラルメは早くから詩作を試み、これまでの主観的で感情表現が濃いロマン主義の詩に対し、客観的で感動を抑制した詩的表現を目ざした高踏派に共感し、24歳の時に『現代高踏詩集』(Le Parnasse contemporain, 1866) に自作が所収された。英語教師でもあった彼は地方勤務のあと、1871年からパリのコンドルセ高校(Lycée Condorcet)に転勤となり、パリで活発な文筆活動とともに多くの文人たちとの交流を深めた。当時の彼の住まいはここから数分のモスクゥ通りで、サン=ラザール駅近くの学校までは徒歩通勤だった。


Brasserie allemande
Émile Goudeau & Pierre Vidal
"Paris qui consomme" 1896
Wikimédia Commons

彼の詩は言葉の精緻を極めたもので、長い時間をかけて推敲に推敲を重ねた凝縮された表現だと高く評価された。しかし、34歳の1876年に作った『半獣神の午後』(L'Après-midi d'un faune)が「第3次現代高踏詩集」に拒絶されたことにより、マラルメは、これまでの高踏派の潮流に対抗して新たな詩作りを目ざそうとする若い詩人たちとの交流を深めることとなった。この「オリエント」もそうした集いの場の一つで、詩人で雑誌編集者のギュスターヴ・カーン(Gustave Kahn, 1859-1936) やパリに出てきたばかりの青年作家のモーリス・バレス(Maurice Barrès, 1862-1923)などがいて、その後このグループは象徴派(Symboliste)と呼ばれるようになった。

(←)左掲は『消費するパリ』という画文集にある「ドイツ風ビヤホール」(ブラスリー・アルマンド)のイラストで、直接の関係はないが、マラルメたちが集まって話し込んだというカフェの雰囲気を連想させる。

◇パリ蝸牛散歩内の関連記事:
9区サン=ジョルジュ地区(20-4)作家モーリス・バレスの青年期の住居
Demeure de Maurice Barrès
http://promescargot.blogspot.jp/2016/02/20-4_23.html


Albert Dubois-Pillet : Village près de Bonnières
Wikimédia Commons
また、このカフェは数年後の1884年に創立された《独立美術家協会》(Société des artistes indépendants)いわゆる「アンデパンダン」展の主体となった点描派の画家たちの主要拠点となった。創立メンバーには、スーラ、シニャック、ピサロ、アングランに加えて、アルベール・デュボワ=ピレ(Albert Dubois-Pillet, 1846-1890)がおり、彼は軍人で潔癖性でも知られ、点描画の技法を誰よりも忠実に反映させた絵を描いた。(→)右掲は、セーヌ下流『ボニエール付近の村』の黄昏を描いた名品である。

この画家たちは、やがて新印象主義(Néo-Impressionnisme)と呼ばれるようになったが、その理論的背景には雑誌『独立評論』(La Revue indépentdante)の存在が大きかった。この雑誌の編集者としても上記のギュスターヴ・カーンが関わっていた。


◇パリ蝸牛散歩内の関連記事:
クリシー広場~ユーロプ界隈(2-3)点描派シニャックのアトリエ跡
Emplacement de l'atelier de Paul Signac, pointilliste
http://promescargot.blogspot.jp/2016/06/2-3-emplacement-de-latelier-de-paul.html
クリシー広場~ユーロプ界隈(2-4)点描派スーラのアトリエ跡
Emplacement de l'atelier de Georges Seurat
http://promescargot.blogspot.jp/2016/07/2-4-emplacement-de-latelier-de-georges.html

2016年7月31日日曜日

散歩Q(3-1) クリシー通り、賭博遊戯場 セルクル・ド・ジュー Cercle de jeux(クリシー広場~ユーロプ界隈)

☆クリシー通り84番地 (84, rue de Clichy, 9e)
《賭博遊戯場 セルクル・ド・ジュー》 Cercle de jeux - Clichy Montmartre

(c) Google Map Streetview
 84, rue de Clichy, 9e
クリシー広場から南に下る街路の一つがクリシー通りである。広場からすぐの84番地に《賭博遊技場・セルクル・ド・ジュー》(Cercle de jeux)がある。この施設は、第2次大戦後の1947年にまず撞球場(アカデミー・ド・ビヤール)(Académie de billard)として始められた。このアカデミーという言葉は「会員の集う場所」という意味で、必ずしも学術的な用語ではなく使われている。ビリヤード(Billiards)はフランス語表記では”Billard”で「ビヤール」と発音する。ここでは、フランスで広く行われているブロット(Belote)というトランプ・ゲームのほかにポーカー、バカラ、ルーレットなどが追加されて、普通の賭博遊技場として現在に至っている。

正面入口には一対の男柱像(アトラントAtlantes)が据えられて三角破風を支えている。作者は不明で、顔が下を向いていて表情もよく見えない。

賭博場というと、温泉地や保養地での豪華で贅沢なカジノの施設が思い浮かぶが、このパリの街角ではむしろ懐古的な雰囲気が感じられる。金に飽かせた世界中の富豪たちが集まって、札束を湯水のように蕩尽する光景とは程遠いローカルな感じがする。

(c) Google Map Streetview
 84, rue de Clichy, 9e


Émile Goudeau & Pierre Vidal
"Paris qui consomme" 1896
Wikimédia Commons
この建物は、100年以上前のベル・エポック時代には大衆レストラン「ブイヨン・デュヴァル」(Bouillon Duval)の店舗として使われていた。アレクサンドル・デュヴァル(Alexandre Duval, 1847-1922)が始めた労働者向けの廉価なレストランで、一杯のスープ(un bouillon)と一皿の決まった肉料理(un plat unique de viande)が出された。この店はパリのみならず、フランス各都市にも広がり、史上初のチェーン展開したレストランとなった。

「ブイヨン」は鶏ガラの出し汁を意味するような単語だが、デュヴァルの店の名前から、安食堂の意味でも使われるようになった。

(→)右掲は19世紀末のパリのガイドブックの一つ『消費するパリ』(Paris qui consomme, 1896)に掲載された「ブイヨン・デュヴァル」の店内風景である。創業当初の労働者向けの安食堂というよりは、かなり品のいい気軽なレストランの雰囲気となっている。




*参考Link: Wiki Commons Category: Paris qui consomme (1893) by Goudeau & Vidal
https://commons.wikimedia.org/wiki/Category:Paris_qui_consomme_(1893)_by_GOUDEAU

2016年7月14日木曜日

散歩Q(2-5) クリシー広場(再2)Place de Clichy (suite)クリシー広場~ユーロプ界隈

☆クリシー広場12番地 (12, place de Clichy, 9e)
 レストラン「シャルロ」 (Restaurant Charlot, Roi des coquillages)

 クリシー広場の方に引き返し、大通りの南側に渡る。通り沿いに立ち並ぶ建物の中で、12番地には海産物料理で有名なレストラン《シャルロ》(Charlot)がある。「シャルロ」は人名のシャルル(Charles)の愛称形であり、フランスでは名優チャップリン(Charles Chaplin)を指すことでも知られているが、苗字としてシャルロという人も少なくない。このレストランは、別名『貝類の王様』(Roi des coquillage) と称しているように、南仏を中心とした海産物の料理(特にブイヤベースbouillabaisse)を得意としている。また冬場には、生牡蠣を主体とした「海の幸盛り合わせ」(Plateau de Fruits de mer)を味わうために人々が押しかける。この店では客が普通の肉料理を注文する方が間違っている(とされている。)

店舗の内装もなかなか凝っていて、広々としたアールデコ調の雰囲気がある。建物の入口にある店の名前の看板にもアールデコの時代に流行した字体がそのまま使われている。建物上部に孔雀の羽を広げたような感じの果実の房らしい装飾が見える。この鳥は磯鴫(イソシギcharlot de plage)のつもりなのかもしれない。
(c) Google Map Streetview
 12, place de Clichy, 9e
Edouard Manet
Vue prise près de la Place Clichy (1878)
Dickinson Gallery, London & New York
Wikimedia commons


クリシー広場は意外にも多くの画家たちによって風景画として、あるいは生活風景の場所として描かれている。

(←)左掲はエドゥアール・マネ(Edouard Manet, 1832-1883)が描いた『クリシー広場からの眺め』(Vue prise de la Place Clichy) という作品であるが、晩年の同じ時期に描かれた『ラトゥイユ親父の店』(Chez le père Lathuille)に比べれば、絵具をたっぷり使って街角の風景をすばやい筆致で描いている。マネは画家としての活動と、日常生活の両方をこのクリシー広場を中心とした地域の中で過ごした。


◇パリ蝸牛散歩内の関連記事:
☆クリシー並木通り7番地 (7, avenue de Clichy, 17e)
《 ラトゥイユ親父の店跡 》 (Ancien emplacement du Restaurant, Chez le père Lathuille)
http://promescargot.blogspot.jp/2016/05/1-2-ancien-emplacement-du-restaurant-du.html






Paul Signac : Place de Clichy
The Metropolitan Museum of Art, New York
Photo (C) The Metropolitan Museum of Art, Dist. RMN-Grand Palais /
image of the MMA

新印象派・点描派の画家ポール・シニャック(Paul Signac, 1863-1935)もクリシー広場の目の前の通り沿いの建物にアトリエを構えていた。

(→)右掲の『クリシー広場』の絵にはモンセ―元帥の銅像を見通せる広い通りを点描法で描いている。しかし、点描画法はどうしても朝もやの淡い色彩としか感じさせないものである。


◇パリ蝸牛散歩内の関連記事:
クリシー広場~ユーロプ界隈(2-3)点描派シニャックのアトリエ跡 Emplacement de l'atelier de Paul Signac, pointilliste
http://promescargot.blogspot.jp/2016/06/2-3-emplacement-de-latelier-de-paul.html


Pierre Bonnard : La Place Clichy et le Sacré-Cœur, 1895

おそらくクリシー広場周辺の風景を最も沢山描いたのは、ピエール・ボナール(Pierre Bonnard, 1867-1947)ではないだろうか。
クリシー広場から少し東に入った路地のドゥエ通りに住んでいた彼の日常生活の場はこの広場周辺であった。(←)左掲は『クリシー広場とサクレ・クール寺院』という作品で、雨模様の天気でありながら広場のあちらこちらでくり広げられる市場や雑踏の風景をモンセー元帥の記念碑とともに遠景としてサクレ・クール寺院を描いている。親しみやすい絵である。彼は広場を題材とした連作も手がけている。

実際にサクレ・クール寺院が見えるのは広場の西側のバティニョル大通りからクリシー広場に向かって歩く途上であり、広場からさらにモンマルトルに近づくと建物に隠れて見えなくなる。


※参考サイトLink:「画家たちの見たクリシー広場」La place Clichy vue par les peintres(仏語)
http://france.jeditoo.com/IleDeFrance/Paris/18eme/place%20de%20Clichy.htm

2016年7月6日水曜日

散歩Q(2-4) 点描派スーラのアトリエ跡 Emplacement de l'atelier de Georges Seurat(クリシー広場~ユーロプ界隈)

☆クリシー大通り128番地の2 (128bis, boulevard de Clichy, 18e)
(c) Google Map Streetview
 128bis, boulevard de Clichy, 18e
《点描派スーラのアトリエ跡》 (Emplacement de l'atelier de Georges Seurat)

この建物は、シニャックのアトリエがあった130番地のすぐ隣である。ジョルジュ・スーラ(Georges Seurat, 1859-1891)は1884年の秋頃からこの建物の6階にアトリエを構えていた。
当時24歳のスーラは、最初の大作『アニエールの水浴』(Une baignade, Asnières)をサロンに応募したが、落選となったため、若手のシニャックらと共に自分たちで展覧会を開こうと《独立芸術家協会》(Société des artistes indépendants) を創立して、アンデパンダン展(Salon des indépendants) を開催した。

彼は引き続いて『グランド・ジャット島の日曜日の午後』の制作に取り掛かって、2年近くの時間をかけて、当時パリ北西郊外にある行楽地だったセーヌ河畔の島に何度も出かけ、スケッチや下絵を何枚も描いた。
Seurat : Un Dimanche après-midi à l'île de la Grande Jatte (1884-85)
Chicago Art Institute
Wikimédia Commonns
またそれと並行して、色彩理論の研究、例えば隣り合った色の配置が生み出す視覚効果について研究を深め、この作品で初めて点描画法を取り入れた。
この大作は、印象派の長老ピサロの推薦で1886年の第8回印象派展に出展されたが、様々な意見の大きな反響を引き起こした。

印象派の新たな動きとなる《新印象派》(Néo-impressionnisme)の記念碑的な作品となった。




Seurat : Les Poseuses
Fondation Barnes, Philadelphia, USA
Wikimédia Commons



1887年からは、彼は『ポーズする女たち』に取り掛かったが、この絵に描かれた背景は、まさにこの建物の6階にあったスーラのアトリエそのものであった。背景の左側に『グランド・ジャット島』の完成された絵の一部を入れているのもスーラの自信の顕れかもしれない。
三人の女たちは、モデルを三人三様のポーズに立たせたものではなく、一人ずつ個別に描いたものを組み合わせたと思われる。それは、前作の河畔の人々の姿がある日の午後の一瞬を描いたものではなく、時間軸を重ねて、計算された配置によって画面が構成されたのと同様に、三人の姿も組み合わされたものだと思われるからである。
いずれの作品にしても、人々の姿は幻想的で、肉惑を感じさせない。それは点描画法による視覚効果を突き詰めた新印象派の画家たちの特徴かもしれない。

スーラはこのアトリエに友人のフォラン(Jean-Louis Forain, 1852-1931)の風刺画やギヨーマン(Armand Guillaumin, 1841-1927)の絵画を飾っていたが、当時ポスター画家として大人気だったシェレ(Jules Chéret, 1836-1932)によって描かれた女性の流れるように踊る姿と身のこなしの軽快さに心酔していた。(LAI)

かたつむりの道すじ:①クリシー並木通り~②クリシー広場・クリシー大通り~③クリシー通り~
④ブリュッセル通り~⑤アドルフ・マックス広場~⑥ドゥエ通り~⑦ブランシュ通り~⑧カレ通り~
⑨バリュ通り~⑩ヴァンティミル通り~⑪クリシー通り(再)
 (c) Google Map


2016年6月29日水曜日

散歩Q(2-3) 点描派シニャックのアトリエ跡 Emplacement de l'atelier de Paul Signac, pointilliste(クリシー広場~ユーロプ界隈)

☆クリシー大通り130番地 (130, boulevard de Clichy, 18e)

Paul Signac : La Neige, boulevard de Clichy, 1886
Institute of art, Minneapolis, USA
大通り沿いの次の130番地の建物は、1884年に竣工した大きな集合住宅となっている。3連の同じような狭い戸口がついており、いずれにも建築士フランク(A.F.Frank)という名前が刻まれている。

点描派の画家ポール・シニャック(Paul Signac, 1863-1935)は1886年から1888年までの約2年間、この建物にアトリエを構えていた。彼が23歳から25歳の時期で、その2年前に知り合った4歳年上の画家ジュルジュ・スーラ(Georges Seurat, 1859-1891)とともに、新たな絵画技法となる分割描法(divisionnisme) や点描画法(pointillisme)を目ざして色彩理論を突き詰め、仲間たちとの議論に熱中していた。
(c) Google Map Streetview
 130, boulevard de Clichy, 18e

(↑)上掲の絵は、『クリシー大通り、雪』と題されたこの時期の作品で、クリシー広場から大通りが大きく右にカーヴする地点の雪の日の情景を点描画法で描いたものである。彼のアトリエのすぐ目の前の道であり、右側の煉瓦造りの建物は、昔のパリの各市門のところに設けられていた入市税事務所(オクトロワOctroi)のように見える。

文才もあったシニャックは、文人たちの集まりにも熱心に参加したが、次第に無政府主義(anarchisme)の思想に傾倒し、同じ思想を持つ自然主義作家のポール・アレクシス(Paul Alexis)や印象派の長老カミーユ・ピサロ(Camille Pissarro, 1831-1903) と親しくなった。特にピサロはこの年1886年5月に開催される8回目の印象派展にシニャックとスーラの新たな技法による作品を加えようと画策し、従来の印象派のスタンスを取り続けるルノワールやモネたちと溝ができてしまう。結局この8回目が印象派展の最後となった。ピサロはこのあとしばらく若い年代と同じ点描画法を取り入れた作品を積極的に描いた。

Vincent van Gogh : Boulevard de Clichy (1887)
Van Gogh Museum, Amsterdam
Wikimédia commons






シニャックは鷹揚な性格で人当たりが良く、心を和ませるような穏やかな風景画の画風を保ち続けた。
ちょうどこの時期に画家としてパリにやってきたゴッホとも親しくなり、ゴッホも印象派の画家たちに共感し、点描・分割画法などの新しい技法による作品を描いた。(LAI)

2016年6月23日木曜日

散歩Q(2-2) クリシー広場 Place de Clichy(クリシー広場~ユーロプ界隈)

クリシー(Clichy)の地名は、パリのこの地域で広範囲にわたって使われている。その中心となるのがクリシー広場(Place de Clichy)である。そこから南の都心部へ下る道がクリシー通り(Rue de Clichy)、北の郊外へ伸びるクリシー並木通り(Avenue de Clichy)、そして徴税障壁の跡地を道路にしたクリシー大通り(Boulevard de Clichy)である。

クリシーは近世まではパリ郊外の村の名前だった。今のクリシー広場の辺りと思われるが、メロヴィング王朝のダゴベール王(Roi Dagobert)のお気に入りの居館があったという。17世紀には聖ヴァンサン・ド・ポール(St. Vincent de Paul)がクリシー教区の司教を務め、何回かの司教会議もここで開催された。大革命直前のルイ16世の時代にパリの周囲に徴税のための障壁が設けられ、市内に持ち込む商品へ関税がかけられるようになった。これが「バリエール」(Barrière バリア)で、クリシーにもパリ市の境界となる市門の一つがあった。

E.G.Grandjean - La place Clichy en 1896
Paris, musée Carnavalet
Crédit Photo (C) RMN-Grand Palais / Agence Bulloz



























クリシー広場が歴史的に有名になったのは、ナポレオン時代の1814年3月30日、敗走するフランス軍を追い詰めて連合国軍がパリに攻め込んだが、この市門を守っていたモンセー元帥指揮する部隊が頑強に抗戦し、最後まで戦ったという史実である。
(↑)上掲は、「1896年のクリシー広場」の風景画だが、120年経った今でもその趣が残っている。モンセー元帥の記念像の足の形から判断すると、この絵はクリシー広場の南から北に向かって描かれたもので、正面奥の一角が当時「カフェ・ゲルボワ」や「ラトゥイユ親父の店」、そして「タヴェルヌ・ド・パリ」があったクリシー並木通りである。作者のグランジャン(Edmond-Georges Grandjean, 1844-1908)はこの他にもパリの19世紀末の風景を絵葉書のように描いて通俗的な人気があった。


☆クリシー広場14番地 (14, place de Clichy, 18e)
 ブラスリー「ウェプレー」 (Brasserie Wepler)
(c) Google Map Streetview
 14, place de Clichy, 18e

広場に面した一角にあるブラスリーの老舗「ウェプレー」(Wepler)の紅い日除けの帆布がこの広場のランドマークとなっている。1881年創業とあるので、すでに130年以上の伝統がある。上掲のグランジャンの絵の右端にも、当時は紅でなく薄緑色だがこの店の日除けが描かれている。

ブラスリー(Brasserie)は高級レストランに比べれば気軽に食事ができる店のスタイルで、一般的に広場や繁華街の一角に紅い日除けの帆布を張り、広い客席を抱えて、素早く、親しみやすいサービスをしてくれる。料理は伝統的・定番的なものがほとんどなのがブラスリーの宿命で、シェフの手の込んだ調理や創作味は期待しない方がいい。この店も冬場には、生牡蠣と海の幸の盛り合わせ(Plateau de fruits de mer)を出してくれる。


☆クリシー大通り140番地 (140, boulevard de Clichy, 18e)
 映画館《パテ=ウェプレー》(Pathé-Wepler)
(c) Google Map Streetview
 140, boulevard de Clichy, 18e




















ブラスリーの隣にある大きな映画館の建物で、《パテ=ウェプレー》(Pathé-Wepler)と呼ばれている。ここから住所表示がクリシー大通りに変わる。広場が大通りの延長なのだ。
第2次大戦後の1956年に1600席以上の大映画館として建てられた。まさに映画文化の最盛期の時代で、当時フランスの映画産業の頂点にあったパテ社の所有する巨大な上映館の代表格であった。今でも建物の壁面に《 PATHE 》と彫られた文字が残っているのが見える。1994年以降はシネマコンプレックス(multiplexe) として改装され、12の上映室(salle)で2000を超える客席を擁している。


☆クリシー大通り134番地 (134, boulevard de Clichy, 18e)
(c) Google Map Streetview
 134, boulevard de Clichy, 18e

その隣接する134番地の広壮なアパルトマンの建物は、ベルエポック時代の1904年から1906年にかけて建築家のルネ・ディジョルジュ(René Digeorge)によって建てられた。建物の両端にある出入口のバルコニーの曲線と花蔓模様の装飾に時代の気品が感じられる。









ここの壁面に奇妙な(→)
模様がつけられているが、いわゆる街角アートの一つらしい。
日本で1980年前後に大流行したコンピュータ・ゲームのキャラクター(例えばインベーダー)のイラストと同じものが用いられている。それがパリを中心とする欧州各都市に多数蔓延している「インベーダー・アート」(Invader Art)である。誰が何のために?がわからないが街角は間違いなく「侵略」されている。

*参考Link: Wikipedia : Invader (artiste)
https://fr.wikipedia.org/wiki/Invader_(artiste) (仏語)

https://en.wikipedia.org/wiki/Invader_(artist) (英語)