パリの街角散歩です。カタツムリのようにゆっくりと迂回しながら、そして時間と空間をさまよいながら歩き回ります。


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2016年7月6日水曜日

散歩Q(2-4) 点描派スーラのアトリエ跡 Emplacement de l'atelier de Georges Seurat(クリシー広場~ユーロプ界隈)

☆クリシー大通り128番地の2 (128bis, boulevard de Clichy, 18e)
(c) Google Map Streetview
 128bis, boulevard de Clichy, 18e
《点描派スーラのアトリエ跡》 (Emplacement de l'atelier de Georges Seurat)

この建物は、シニャックのアトリエがあった130番地のすぐ隣である。ジョルジュ・スーラ(Georges Seurat, 1859-1891)は1884年の秋頃からこの建物の6階にアトリエを構えていた。
当時24歳のスーラは、最初の大作『アニエールの水浴』(Une baignade, Asnières)をサロンに応募したが、落選となったため、若手のシニャックらと共に自分たちで展覧会を開こうと《独立芸術家協会》(Société des artistes indépendants) を創立して、アンデパンダン展(Salon des indépendants) を開催した。

彼は引き続いて『グランド・ジャット島の日曜日の午後』の制作に取り掛かって、2年近くの時間をかけて、当時パリ北西郊外にある行楽地だったセーヌ河畔の島に何度も出かけ、スケッチや下絵を何枚も描いた。
Seurat : Un Dimanche après-midi à l'île de la Grande Jatte (1884-85)
Chicago Art Institute
Wikimédia Commonns
またそれと並行して、色彩理論の研究、例えば隣り合った色の配置が生み出す視覚効果について研究を深め、この作品で初めて点描画法を取り入れた。
この大作は、印象派の長老ピサロの推薦で1886年の第8回印象派展に出展されたが、様々な意見の大きな反響を引き起こした。

印象派の新たな動きとなる《新印象派》(Néo-impressionnisme)の記念碑的な作品となった。




Seurat : Les Poseuses
Fondation Barnes, Philadelphia, USA
Wikimédia Commons



1887年からは、彼は『ポーズする女たち』に取り掛かったが、この絵に描かれた背景は、まさにこの建物の6階にあったスーラのアトリエそのものであった。背景の左側に『グランド・ジャット島』の完成された絵の一部を入れているのもスーラの自信の顕れかもしれない。
三人の女たちは、モデルを三人三様のポーズに立たせたものではなく、一人ずつ個別に描いたものを組み合わせたと思われる。それは、前作の河畔の人々の姿がある日の午後の一瞬を描いたものではなく、時間軸を重ねて、計算された配置によって画面が構成されたのと同様に、三人の姿も組み合わされたものだと思われるからである。
いずれの作品にしても、人々の姿は幻想的で、肉惑を感じさせない。それは点描画法による視覚効果を突き詰めた新印象派の画家たちの特徴かもしれない。

スーラはこのアトリエに友人のフォラン(Jean-Louis Forain, 1852-1931)の風刺画やギヨーマン(Armand Guillaumin, 1841-1927)の絵画を飾っていたが、当時ポスター画家として大人気だったシェレ(Jules Chéret, 1836-1932)によって描かれた女性の流れるように踊る姿と身のこなしの軽快さに心酔していた。(LAI)

かたつむりの道すじ:①クリシー並木通り~②クリシー広場・クリシー大通り~③クリシー通り~
④ブリュッセル通り~⑤アドルフ・マックス広場~⑥ドゥエ通り~⑦ブランシュ通り~⑧カレ通り~
⑨バリュ通り~⑩ヴァンティミル通り~⑪クリシー通り(再)
 (c) Google Map


2016年6月29日水曜日

散歩Q(2-3) 点描派シニャックのアトリエ跡 Emplacement de l'atelier de Paul Signac, pointilliste(クリシー広場~ユーロプ界隈)

☆クリシー大通り130番地 (130, boulevard de Clichy, 18e)

Paul Signac : La Neige, boulevard de Clichy, 1886
Institute of art, Minneapolis, USA
大通り沿いの次の130番地の建物は、1884年に竣工した大きな集合住宅となっている。3連の同じような狭い戸口がついており、いずれにも建築士フランク(A.F.Frank)という名前が刻まれている。

点描派の画家ポール・シニャック(Paul Signac, 1863-1935)は1886年から1888年までの約2年間、この建物にアトリエを構えていた。彼が23歳から25歳の時期で、その2年前に知り合った4歳年上の画家ジュルジュ・スーラ(Georges Seurat, 1859-1891)とともに、新たな絵画技法となる分割描法(divisionnisme) や点描画法(pointillisme)を目ざして色彩理論を突き詰め、仲間たちとの議論に熱中していた。
(c) Google Map Streetview
 130, boulevard de Clichy, 18e

(↑)上掲の絵は、『クリシー大通り、雪』と題されたこの時期の作品で、クリシー広場から大通りが大きく右にカーヴする地点の雪の日の情景を点描画法で描いたものである。彼のアトリエのすぐ目の前の道であり、右側の煉瓦造りの建物は、昔のパリの各市門のところに設けられていた入市税事務所(オクトロワOctroi)のように見える。

文才もあったシニャックは、文人たちの集まりにも熱心に参加したが、次第に無政府主義(anarchisme)の思想に傾倒し、同じ思想を持つ自然主義作家のポール・アレクシス(Paul Alexis)や印象派の長老カミーユ・ピサロ(Camille Pissarro, 1831-1903) と親しくなった。特にピサロはこの年1886年5月に開催される8回目の印象派展にシニャックとスーラの新たな技法による作品を加えようと画策し、従来の印象派のスタンスを取り続けるルノワールやモネたちと溝ができてしまう。結局この8回目が印象派展の最後となった。ピサロはこのあとしばらく若い年代と同じ点描画法を取り入れた作品を積極的に描いた。

Vincent van Gogh : Boulevard de Clichy (1887)
Van Gogh Museum, Amsterdam
Wikimédia commons






シニャックは鷹揚な性格で人当たりが良く、心を和ませるような穏やかな風景画の画風を保ち続けた。
ちょうどこの時期に画家としてパリにやってきたゴッホとも親しくなり、ゴッホも印象派の画家たちに共感し、点描・分割画法などの新しい技法による作品を描いた。(LAI)

2016年3月9日水曜日

散歩R(21-5) 画家クロード・モネ青年時代の住居 Demeure de jeune peintre Claude Monet(9区サン=ジョルジュ地区)

☆ジャン=バティスト・ピガール通り18番地 (18, rue Jean-Baptiste-Pigalle, 9e)
《画家クロード・モネ青年時代の住居》(Demeure de jeune peintre Claude Monet)
(c) Google Map Streetview
 18, rue Jean-Baptiste-Pigalle, 9e

1859年4月に18歳の青年クロード・モネ(Claude Monet, 1840-1926)は、ノルマンディから画家になるためにパリにやって来た。地元のル・アーヴルでモネは高校生でありながら、風刺画・戯画(caricatures)を描いて評判になり、相当な収入を得ていた。美術商の店で画家のブーダン(Eugène Boudin, 1824-1898)を紹介され、彼と一緒に戸外での風景画の制作を始めた。その少し前にモネは母親を亡くし、伯母のルカードル夫人(Mme Lecadre)の世話になっていたが、彼女は美術愛好家で、自分も絵を描いており、若いモネの才能を見抜いて、絵画の道に進むよう励ましたのだった。

モネはピガール通り18番地に身を落ち着け、サロン(官展)に通って、ドービニー(Charles-François Daubigny, 1817-1878)やコロー(Jean-Baptiste Camille Corot, 1796-1875)の風景画に感銘を受けた。またブーダンに紹介されたトロワイヨン(Constant Troyon, 1810-1865)を訪ね、忠告に従ってシュイス画塾(Académie Suisse)に入ることにした。彼はそこで後に印象派の仲間となるピサロ(Camille Pissarro, 1830-1903)とギヨーマン(Armand Guillaumin, 1841-1927)と出会った。

また近くにあった「ブラスリ・デ・マルティール」(Brassserie des Martyrs)にたむろする若い芸術家たちとの交友を深め、特に写実主義を提唱するクールベ(Gustave Courbet, 1819-1877)を知り、その取り巻きに加わった。
Claude Monet : Cour de ferme en Normandie (1863)
Paris, musée d'Orsay
Crédit Photo (C) RMN-Grand Palais (musée d'Orsay) /
 René-Gabriel Ojéda

彼は一度兵役でパリを離れたが、1862年に再び戻り、今度はグレール画塾(Atelier de Glayres)に入った。そこではシスレー(Alfred Sisley, 1839-1899)、ルノワール(Auguste Renoir, 1841-1919)、バジル(Jean-Frédéric Bazille, 1841-1870)に出会った。特にバジルとは親友となった。

(←)左掲はこの時期に描いた『ノルマンディの農家の中庭』(1863)である。まだ印象派的な描き方は現れていないが、バルビゾン派を継承する明るさがある。

モネは24歳の1865年にサロンに初入選となり、翌1866年にも妻カミーユをモデルにした『緑衣の女』を出展して評判を得た。この時のサロンのカタログには、モネの住所がピガール通り1番地
(1, rue Jean-Baptiste-Pigalle, 9e)と記載されている。このピガール通り一帯は、モネの青年期の活動の舞台だったと言える。(LAI)


◇パリ蝸牛散歩内の関連記事:
9区サン=ジョルジュ地区( 6-1 )マルティール通り Rue des Martyrs, 9e
http://promescargot.blogspot.jp/2015/10/93-6-1-rue-des-martyrs-9e.html
《ブラスリー・デ・マルティール跡》


2016年2月1日月曜日

散歩R(18-5) 画家ゴーギャン独身時代の住居 Ancienne demeure de jeune peintre Gauguin avant son mariage(9区サン=ジョルジュ地区)


(c) Google Map Streetview
 15, rue La Bruyère, 9e
☆ラ・ブリュイエール通り15番地 (15, rue La Bruyère, 9e)  
《画家ゴーギャン独身時代の住居》

普仏戦争後の1871年、ゴーギャン(Paul Gauguin, 1848-1903)は海軍を除隊してパリにやって来た。23歳だった。パリに住んでいた母親は4年前に41歳で死去しており、母と親しくしていた実業家のギュスターヴ・アロザ(Gustave Arosa)の紹介で、ベルタン商会の株式仲買人として働き始める。ゴーギャンはそこで真面目に働いたので、安定した収入を得て、この15番地の家に翌1872年から住んだ。勤務先がラフィット通りで、画廊が多かったためか、絵画に興味を持ち始めたゴーギャンは、休みの日には美術に造詣が深かったアロザ自身から手ほどきを受けた。そのアロザの家で出会ったデンマーク人女性のメット=ソフィ・ガット(Mette-Sophie Gatt)と1873年11月22日に結婚する。9区の区役所で婚姻届に署名し、区長の祝福を受け、その近くの贖罪教会でミサを挙げた。
Gauguin: Sous-Bois(St Cloud) 1873
@paul-gauguin.net
夫婦は早速新居を探し、近くのサン=ジョルジュ広場に面した瀟洒なアパルトマンに1874年の年明け早々に引っ越すことになる。(LAI)

(→)右掲は1873年に描かれた『森の草地(サン=クルー)』の絵で、作品としては最初期にあたる。まだ印象派の第1回展覧会の前年なので、ゴーギャンが自分でパリ郊外に出かけて行って描いたものだが、すでにコローやピサロの画風に共通するものがうかがえる。展覧会でピサロと知り合って意気投合するのも当然である。

◇パリ蝸牛散歩内の関連記事:
9区サン=ジョルジュ地区(17-2)《画家ゴーギャンの新婚家庭》
http://promescargot.blogspot.jp/2016/01/17-2.html


2016年1月13日水曜日

散歩R(16-3) ルノワールのアトリエ Emplacement de l'atelier d'Auguste Renoir(9区サン=ジョルジュ地区)

☆サン=ジョルジュ通り35番地 (35, rue Saint-Georges, 9e)
《画家ルノワールのアトリエ》 (Emplacement de l'atelier d'Auguste Renoir)
(c) Google Map Streetview
 35, rue Saint-Georges, 9e

1873年、32歳のルノワール(Auguste Renoir, 1841-1919)は、画商のデュラン=リュエルに何点かの絵を買ってもらって得たお金をもとに35番地の最上階6階にアトリエを構えることができた。この家にはすでに弟のエドモン(Edmond)が住んでいた。ここには新たな絵画表現という目的を共有するモネ、ピサロ、ドガ、シスレー、ギヨーマン、セザンヌなどの画家たちが集まる場所となり、彼ら独自のグループによる展覧会を開こうと、その年の12月27日にいわゆる「実行委員会」のような法人組織を立ち上げた。仮の代表には、彼らと親しい近所の画商マルタン親父(Père Martin)ことピエール・マルタン(Pierre Martin)が指名された。このアトリエを中心に準備のための会議が重ねられた。

Renoir : L'Atelier de la rue Saint-Georges (1876)
The Norton Simon Museum, USA
@Wikimedia commons




まだこの時には《印象派》(Impressionniste)という名称は使われていない。第1回目の展覧会は1874年4月15日から1カ月間、キャプシーヌ大通りにあった写真家ナダールのスタジオ跡で開催された。参加者は29名、出展作品は165点となった。

彼らの作品はこれまでのフランス絵画の伝統と技法に真っ向から対立する立場が鮮明であったため、サロンには毎年落選を続けていたので、彼らの独自の展覧会は嘲笑と蔑視の対象となった。展覧会の収支も大幅な赤字となった。

(←)左掲の絵はルノワールが1876年に描いた『サン=ジョルジュ通りのアトリエ』という作品だが、画家のアトリエ紹介というよりも印象派の画家たちの会合の様子が描かれており、世間の無理解に屈服することなく、その後も展覧会を開催し続けた彼らの情熱をうかがい知る貴重な絵である。計8回に及ぶ印象派展によって彼らの評価は次第に高まり、フランス美術の潮流を逆に支配することになる。このアトリエは印象派のゆりかごでもあったと思う。(LAI, PRR)


2015年11月17日火曜日

散歩R(10-6) コウノトリの家、画家ピサロの旧居 Ancienne demeure du peintre Pissarro, dite Maison de cigogne(9区サン=ジョルジュ地区)

☆ノートルダム・ド・ロレット通り49番地 (49, rue Notre-Dame de Lorette, 9e)
《コウノトリの家》  PA00088966  © Monuments historiques, 1977
《画家ピサロの旧居》

ちょうど通りの向い側にもう一つ歴史的建造物に登録された建物がある。バルコニーの持ち送りと窓飾りの組合せで、翼を広げた一対のコウノトリを立体的にあしらっていて、見る者を感心させる。その姿からこの家を勝手に「コウノトリの家」(メゾン・ド・シゴーニュ、Maison de cigogne)と呼ぶことにしている。1847年の建造、建築士はシアンテプ(L.Cienthep)と刻銘されている。その上階の装飾には獅子頭も見える。

(c)Photo Emoulu bc07, 2013


(c)Photo Emoulu bc07c, 2013
この家は、カリブ海の島から画家を目指してパリにやって来た25歳のカミーユ・ピサロ(Camille Pissarro, 1830-1903) が住みはじめたところでもある。折りしも1855年のパリ万博の時で、展示されていた当時の巨匠たち、ドラクロワやコロー、クールベの作品に感銘を受けた。
彼の父親は裕福な商人で、少年ピサロをパリのリセの寄宿舎に入れたのがそもそものきっかけで、ピサロは画家の道を歩むために親の許しを得て、パリに再び戻り、美術学校や様々な画塾に通うことになる。(LAI)

C.Pissarro : La côte des Jalais à Pontoise (1867)
Etats-Unis, New-York, The Metropolitan Museum of Art
Photo (C) The Metropolitan Museum of Art, Dist.
RMN-Grand Palais / image of the MMA
1859年に初めてサロンに入選し、その後は年ごとに入選と落選を交互に繰り返した。入選には、当時最も理解を示した画家のドービニーの意見の助けもあった。

(←)左掲は「ポントワーズのジャレの丘」で30代の傑作の一つである。前景の道路を歩く日傘をさした婦人の姿が当時流行った風俗である。この頃から彼の作風が確立され、サロンの審査員の理解が得られないながらも、郊外の村での生活を拠点とし、経済的に自立できるようになっていった。