パリの街角散歩です。カタツムリのようにゆっくりと迂回しながら、そして時間と空間をさまよいながら歩き回ります。


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2016年10月20日木曜日

散歩Q(4) 文豪エミール・ゾラの居館跡 Emplacement de la demeure d'Émile Zola(クリシー広場~ユーロプ界隈)

☆ブリュッセル通り21番地の2 (21bis, rue de Bruxelles, 9e)
《文豪エミール・ゾラの居館跡》 Emplacement de la demeure d'Émile Zola

(c) Google Map Streetview
 21bis, rue de Bruxelles, 9e
クリシー通りからT字路で入る横丁がブリュッセル通りである。19世紀後半に自然主義文学の巨匠として文壇に君臨したエミール・ゾラ(Émile Zola, 1840-1902)が1887年から1902年に亡くなるまでの15年間、この建物に住んでいた。窓の間に碑銘板が見える。

ゾラが不慮の死を遂げたのは1902年9月29日朝のことである。その前日、ゾラ夫妻は夏の間じゅう過ごしていたパリ西郊にあるメダンの別荘からこの家に戻ってきた。使用人の話によれば、夕食時も快活で、一緒に連れ帰った愛犬2匹をなでながら、近づく冬の季節をパリの街中で過ごすための買い物や催し物の心積もりを語り合ったという。

翌朝9時近くになっても夫妻が起き出してこないのに気づいた家政婦が2階の寝室のドアを叩いたが、返事がなく、不安に駆られてすぐに家令や料理婦に異常を知らせた。ちょうど配管の修理に来ていた作業員も一緒に2階に上がり、ドアをこじ開けた。部屋の中は暗いままだった。カーテンと窓を開けると、床の絨毯の上にゾラが倒れているのが見つかった。夫人はベッドの中で苦しそうな息をしていた。家中が大騒ぎになった。急いで数人の医者が呼ばれたが、ゾラはまもなく死亡が確認され、夫人は一命を取りとめることができた。室内で寝ていた愛犬2匹も嘔吐していたが無事だった。ゾラの遺骸は隣の部屋のベッドに運ばれた。

この日のこの界隈は野次馬と新聞記者たちで一日中騒然としていた。様々な憶測が飛び交った。警察の捜査が行われ、検死医の診断では、ゾラの死因は一酸化炭素中毒による事故死とされた。地下にある暖房装置は故障していて使われておらず、そこからの空気は来ていなかった。一方で前日使用人が寝室の湿気を取り除くために暖炉に豆炭を燃やしており、その燃えかすが見つかった。その豆炭の不完全燃焼による一酸化炭素ガスが部屋に滞留したため、ゾラ夫妻は睡眠中に息苦しさで目を覚ました。ゾラは起き上がって水か薬を飲もうと歩きだしたが、すぐに倒れて気を失った。夫人はそれに気づいていたが、動けずにベッドの中で気を失った。一酸化炭素の濃度は床の底辺部のほうが濃いので、ゾラは倒れたまま死に至ったのである。

翌9月30日のパリの新聞各紙は揃って文豪の死を報じた。(↓)下掲の「マタン」(Le Matin)紙はとりわけ第1面全部と2面の半分を『エミール・ゾラの悲劇的な死』のために費やした。当時の新聞にはまだ写真は使われておらず、ほとんどが文字のみの紙面が普通であった。イラスト画像が入ることも珍しかった。




















Le Matin 1902.09.30
@BnF Gallica
































Edouard Manet : Emile Zola, Écrivain (1868)
Paris, Musée d'Orsay
Crédit Photo (C) RMN-Grand Palais (musée d'Orsay)
 / Hervé Lewandowski

エミール・ゾラ(Émile Zola, 1840-1902)はパリのイタリア人技師の子として生まれた。その後南仏で育ったが、22歳からパリの大手出版社アシェットで勤務しながら、文筆生活を始めた。20代では『テレーズ・ラカン』(Thérèse Raquin, 1865)などで注目され、また印象派の画家たち特にエドゥアール・マネとの交友があり、彼らを擁護する美術評論も書いた。1870年代からは、自然科学的(遺伝学的)な要素を盛り込んだルーゴン=マッカール家の家系図にもとづく壮大な『ルーゴン=マッカール叢書』(Les Rougon-Macquart)全20作の世界を書き上げた。その中には、パリの社会の底辺層を赤裸々に描いた『居酒屋』(l'Assommoir)や高級娼婦の生態を描いた『ナナ』(Nana)なども含まれる。

こうして当代随一の作家としての声価を確立したゾラが1898年1月13日に「オーロル」(曙)紙(L'Aurore) で発表した仏大統領宛の公開質問状「私は弾劾する」(J'accuse !) は、ドレフュス事件をめぐるフランス国内の論争に拍車をかけることとなった。独スパイの容疑で有罪となったドレフュス大尉は軍部の陰謀による冤罪だ、として再審を求める親ドレフュス派と、ユダヤ系市民の排斥運動に乗じて嫌疑は正しいとする反ドレフュス派とが、国を二分して争っていた。

「オーロル」(曙)紙は1897年に創刊されたばかりの新聞で、ジョルジュ・クレマンソーが主筆を務めていた。彼と親しかったゾラは、国家権力の欺瞞を暴くために敢然と論陣を張り、ドレフュス擁護の運動に積極的に関与した。その結果、ドレフュスは1899年に特赦によって自由の身となったが、本当の無罪を勝ち取るために再審の運動は続けていた。ゾラは急死したが、再審は1906年まで持ち越された。


※参考Link:「100年前のフランスの出来事」ゾラ関連記事

(1)ドレフュス事件の再審 :1906年6月15日(金)親反両派の抗争略史を記載
http://france100.exblog.jp/2518659/

(2)ドレフュス事件、第2回目の再審:1906年7月12日(木)無罪判決
http://france100.exblog.jp/2789852/

(3)メダンの文豪ゾラの館のその後:1907年9月28日(土)
http://france100.exblog.jp/6457981/



2016年7月14日木曜日

散歩Q(2-5) クリシー広場(再2)Place de Clichy (suite)クリシー広場~ユーロプ界隈

☆クリシー広場12番地 (12, place de Clichy, 9e)
 レストラン「シャルロ」 (Restaurant Charlot, Roi des coquillages)

 クリシー広場の方に引き返し、大通りの南側に渡る。通り沿いに立ち並ぶ建物の中で、12番地には海産物料理で有名なレストラン《シャルロ》(Charlot)がある。「シャルロ」は人名のシャルル(Charles)の愛称形であり、フランスでは名優チャップリン(Charles Chaplin)を指すことでも知られているが、苗字としてシャルロという人も少なくない。このレストランは、別名『貝類の王様』(Roi des coquillage) と称しているように、南仏を中心とした海産物の料理(特にブイヤベースbouillabaisse)を得意としている。また冬場には、生牡蠣を主体とした「海の幸盛り合わせ」(Plateau de Fruits de mer)を味わうために人々が押しかける。この店では客が普通の肉料理を注文する方が間違っている(とされている。)

店舗の内装もなかなか凝っていて、広々としたアールデコ調の雰囲気がある。建物の入口にある店の名前の看板にもアールデコの時代に流行した字体がそのまま使われている。建物上部に孔雀の羽を広げたような感じの果実の房らしい装飾が見える。この鳥は磯鴫(イソシギcharlot de plage)のつもりなのかもしれない。
(c) Google Map Streetview
 12, place de Clichy, 9e
Edouard Manet
Vue prise près de la Place Clichy (1878)
Dickinson Gallery, London & New York
Wikimedia commons


クリシー広場は意外にも多くの画家たちによって風景画として、あるいは生活風景の場所として描かれている。

(←)左掲はエドゥアール・マネ(Edouard Manet, 1832-1883)が描いた『クリシー広場からの眺め』(Vue prise de la Place Clichy) という作品であるが、晩年の同じ時期に描かれた『ラトゥイユ親父の店』(Chez le père Lathuille)に比べれば、絵具をたっぷり使って街角の風景をすばやい筆致で描いている。マネは画家としての活動と、日常生活の両方をこのクリシー広場を中心とした地域の中で過ごした。


◇パリ蝸牛散歩内の関連記事:
☆クリシー並木通り7番地 (7, avenue de Clichy, 17e)
《 ラトゥイユ親父の店跡 》 (Ancien emplacement du Restaurant, Chez le père Lathuille)
http://promescargot.blogspot.jp/2016/05/1-2-ancien-emplacement-du-restaurant-du.html






Paul Signac : Place de Clichy
The Metropolitan Museum of Art, New York
Photo (C) The Metropolitan Museum of Art, Dist. RMN-Grand Palais /
image of the MMA

新印象派・点描派の画家ポール・シニャック(Paul Signac, 1863-1935)もクリシー広場の目の前の通り沿いの建物にアトリエを構えていた。

(→)右掲の『クリシー広場』の絵にはモンセ―元帥の銅像を見通せる広い通りを点描法で描いている。しかし、点描画法はどうしても朝もやの淡い色彩としか感じさせないものである。


◇パリ蝸牛散歩内の関連記事:
クリシー広場~ユーロプ界隈(2-3)点描派シニャックのアトリエ跡 Emplacement de l'atelier de Paul Signac, pointilliste
http://promescargot.blogspot.jp/2016/06/2-3-emplacement-de-latelier-de-paul.html


Pierre Bonnard : La Place Clichy et le Sacré-Cœur, 1895

おそらくクリシー広場周辺の風景を最も沢山描いたのは、ピエール・ボナール(Pierre Bonnard, 1867-1947)ではないだろうか。
クリシー広場から少し東に入った路地のドゥエ通りに住んでいた彼の日常生活の場はこの広場周辺であった。(←)左掲は『クリシー広場とサクレ・クール寺院』という作品で、雨模様の天気でありながら広場のあちらこちらでくり広げられる市場や雑踏の風景をモンセー元帥の記念碑とともに遠景としてサクレ・クール寺院を描いている。親しみやすい絵である。彼は広場を題材とした連作も手がけている。

実際にサクレ・クール寺院が見えるのは広場の西側のバティニョル大通りからクリシー広場に向かって歩く途上であり、広場からさらにモンマルトルに近づくと建物に隠れて見えなくなる。


※参考サイトLink:「画家たちの見たクリシー広場」La place Clichy vue par les peintres(仏語)
http://france.jeditoo.com/IleDeFrance/Paris/18eme/place%20de%20Clichy.htm

2016年5月22日日曜日

散歩Q(1-2) ラトゥイユ親父の店跡 Ancien emplacement du Restaurant du Père Lathuille(クリシー広場~ユーロプ界隈)

☆クリシー並木通り7番地 (7, avenue de Clichy, 17e)
《 ラトゥイユ親父の店跡 》 (Ancien emplacement du Restaurant, Chez le père Lathuille)

(c) Google Map Streetview
 7, avenue de Clichy, 17e

「カフェ・ゲルボワ」の一つ手前の7番地には、「ラトゥイユ親父の店」(Chez le père Lathuille) があった。現在では7番地と9番地が一緒になって衣料品店が入った大きな建物になっている。その向かって左半分のところにもボートの櫂のような「パリの歴史案内板」が立っている。

エドゥアール・マネ(Edouard Manet, 1832-1883) はこのレストランを題名とした絵を描いたのは1879年、47歳の時で、51歳で病死する4年前のことである。(晩年の作と言うには早過ぎる。)彼らが隣の「カフェ・ゲルボワ」に頻繁に出入りしたのはこれの10年以上前の1860年代のことだったが、その後若い印象派の画家たちはピガール広場の方に会合の場所を変えて行った。1870年に勃発した普仏戦争とその敗戦による第2帝政の終焉、パリ・コミューンの混乱、第3共和政の発足などが、一つの時代の分岐点となったのである。


E. Manet - Chez le père Lathuille (1879)
Musée des Beaux-Arts, Tournai
Wikimédia commons
マネは相変わらずこの地域に住み続けており、このレストランの常連客であったに違いない。作品となった絵の場面では、ラトゥイユ親父の庭園レストラン(Restaurant-jardin)の一角で好色そうな眼付の若い男が一人の婦人を口説いている様子。背景の中庭の緑やたたずむ給仕の姿が印象的で、生き生きとした時代風俗として描かれている。まだ19世紀の後半の時代では、表通りから店の奥に入るとこうした自然が残る庭先があったことがわかる。

マネは同時代の人々の生活情景を明るい色調の中で、軽い筆致で表現することに成功したのである。



2016年5月18日水曜日

散歩Q(1-1) カフェ・ゲルボワ跡 Ancien emplacement du café Guerbois(クリシー広場~ユーロプ界隈)

今度の散歩は、クリシー広場(Place de Clichy)周辺からユーロプ地区(Quartier de l'Europe)を周遊する。クリシー広場は元々パリの街を防御する堡塁と城壁があったところで、1815年にナポレオン率いるフランス軍が連合国軍に追い詰められ、パリに進攻するロシア軍とモンセー元帥指揮下のパリ防衛軍との激しい戦闘があった場所である。その後城壁は撤去され、その跡地に広い通りが作られ、外側にあったモンマルトル(18区)やバティニョル(17区)に市街地が広がった。この散歩コースでは、印象派の実質的な指導者であった画家エドゥアール・マネに関する旧跡が数多く見られる。


(c) Google Map Streetview
 9, Avenue de Clichy, 17e
☆クリシー並木通り9番地 (9, avenue de Clichy, 17e)
《 カフェ・ゲルボワ跡 》 (Ancien emplacement du café Guerbois)

クリシー広場を中心に方々の街路の名前にクリシーとついている。北に伸びる通りは、アヴニュ(Avenue de Clichy) という。ここでは他の通りと区別するために「並木通り」と訳した。アヴニュ(英語でアヴェニュ)は文字通り並木道になっている。

9番地の入口の横に「パリの歴史」(Histoire de Paris)と書かれた史跡案内板が設置されている。これは言うまでもなく「この場所に印象派を生み出した画家たちが集まったカフェ・ゲルボワがあった。」という内容が書かれている。単純にボートをこぐ櫂のような形をしている。

*参考サイト:Panneau Histoire de Paris(仏文)
https://fr.wikipedia.org/wiki/Panneau_Histoire_de_Paris

「カフェ・ゲルボワ」(Café Guerbois)は19世紀半ばにおける画家、作家、芸術愛好家たちの寄り合いと意見交換の場であった。エドゥアール・マネ(Edouard Manet, 1832-1883)は、すでに20代でサロン(官展)入選を果たし、新進画家として注目されていたが、意欲作の『草上の昼食』(Le Déjeuner sur l'herbe)が1863年のサロンで落選し、その他多くの若手画家の作品も落とされたため、審査員の鑑識眼が問題視され、皇帝ナポレオン3世は別途「落選作展」(Salon des refusés)を開催させることにした。この頃からマネの目ざす絵画の方向性に共感する若い画家たちが集まるようになり、当時マネのアトリエからほど近いこのカフェが仲間たちとの待ち合わせの場所として使われるようになった。

E.Manet - Au café  (1869)
National Gallery of Art, Washington DC
Wikimédia Commons
店はカフェというよりは居酒屋であり、地下にあった。仲間たちは毎晩のように集まったが、特に毎週金曜日の夜には多くの顔が揃い、2つのテーブルに座って、時には激論が交わされた。常連の中にはファンタン=ラトゥール、ウィスラー、バジル、ドガ、ピサロがおり、作家のエミール・ゾラ、評論家のテオドール・デュレなども加わった。当時はまだ20代の若手画家だったモネ、ルノワール、シスレー、ギヨーマンたちも熱心にマネの話に耳を傾けた。南仏から来たセザンヌはある時、周囲で語られる話題について始めのうちは静かに聞くだけで、会話に加わろうとしなかったが、ある一言が彼の怒りを呼び覚まし、抑えていた弁舌が解き放たれ、激昂して怒鳴りまくる場面があったという。
特に、大衆の無理解、現勢力の大御所の画家たちへの敵意、権力への不服従、社交界の仕組みへの反発、サロンに受け入れられない者への冷遇などについて議論を深めて行き、やがて新しい印象派としての潮流が醸成されて行ったことは間違いない。



(c) Google Map Streetview
11, Avenue de Clichy, 17e
☆クリシー並木通り11番地 (11, avenue de Clichy, 17e)

「カフェ・ゲルボワ」の一軒隣の11番地には、「エヌカン」(Hennequin) という画材店があった。現在では1階がスポーツ用品店に変わってしまったが、19世紀には1~2階とも画材店で、2階の壁面に当時のままの装飾が残されている。「1830年創業」の文字とXに交差した絵筆とパレットがモザイク模様の壁面とともに見られる。


「カフェ・ゲルボワ」に頻繁に出入りしたマネを始め、印象派の若い画家たちが便利ついでに絵具や画材を買い求めたことで知られる。
1870年以降に、画家たちの集う場所がブランシュ広場の「ヌーヴェル・アテーヌ」(Nouvelle Athènes)に移ってからは客足が細くなったという。






かたつむりの道すじ:①クリシー並木通り~②クリシー広場・クリシー大通り~③クリシー通り~
④ブリュッセル通り~⑤アドルフ・マックス広場~⑥ドゥエ通り~⑦ブランシュ通り~⑧カレ通り~
⑨バリュ通り~⑩ヴァンティミル通り~⑪クリシー通り(再)
 (c) Google Map

2016年2月17日水曜日

散歩R(20-1) ニナのサロン 1er Salon artistique et littéraire de Nina de Callias(9区サン=ジョルジュ地区)

☆エネ通り13番地 (13, rue Henner, 9e) 
☆シャプタル通り17番地 (17, rue Chaptal, 9e)

(c) Google Map Streetview
 13, rue Henner, 9e
《ニナのサロン》(Salon artistique et littéraire de Nina de Callias)

エネ通りに戻って少し進むとシャプタル通りにぶつかる。左手の角の居館の中庭にエネ通りの13番地から出入りできる。なかなか立派なお屋敷の庭である。

第2帝政の末期、ニナ・ド・カリアス(Nina de Callias, 1843-1884)という女性がこの場所に文学・芸術サロンを盛大に開いていた。リヨンの裕福な弁護士の娘として生まれ、1864年、21歳のときに代表的な日刊紙「フィガロ」のコラム記者のエクトル・ド・カリアス伯爵(Le comte Hector de Callias)と結婚した。ニナはすでに毎年5万フランの金利を受け取れる財産を持っていた。当時の1フランを800円と類推しても年収4千万円となる。

結婚する直前までは、若気の至りからか「私はエクトルにすっかりのぼせてしまったの。」(Je suis toquée complétement d'Hector.)と友人に語っていたのだが、まもなく二人の性格と趣味の違いが明らかとなり、結婚生活は破綻した。伯爵は気ままな性格で、女漁りで飲んだくれで、その上、音楽が嫌いだった。一方のニナは有名なピアノ教師について学び、秀れたピアノ奏者でもあった。ピアノの小品も作曲したが、心酔するワーグナーの影響を受けて(「ワグネリゼ」wagnerisé されて)いた。
Nina de Villard-Callias au piano,
pastel de Charles Cros

彼女はまた詩作も行い、そのいくつかは1869年の『高踏派詩選』第2集に所収となった。「私のところに来るのに盛装は必要ないわ。詩の一篇だけで十分。」とニナは言明し、実際シャプタル通り17番地のサロンには普段着の客たちがくつろいでいた。後日書かれた多くの回想録には、当時のニナのサロンでの活気に満ちた楽し気な雰囲気がノスタルジックに描かれている。
(c) Google Map Streetview
 17, rue Chaptal, 9e












夫との別居後は、母親の旧姓から取ってニナ・ド・ヴィラール(Nina de Villard)と称した。作家で詩人のシャルル・クロス、カチュル・マンデス、貴族出自の作家ヴィリエ・ド・リラダン、画家のエドゥアール・マネ、詩人のヴェルレーヌなど多くの芸術家たちに霊感を与えた。

1870年の普仏戦争の敗戦とプロシア軍のパリ侵攻に際してニナは母親とともにスイスに逃れ、そこで3年過ごしたが、1873年にパリに戻り、17区のモワヌ通りでサロンを再開する。(LAI)


2015年11月23日月曜日

散歩R(10-9) カフェ・ル・ラロシュとパヴァール Café ''Le Laroche'' et ''Pavard'', r.v. des artistes (9区サン=ジョルジュ地区)

☆ノートルダム・ド・ロレット通り60番地 (60, rue Notre-Dame de Lorette, 9e)
 《レストラン・パヴァール跡》




(c) Google Map Streetview
 60, rue Notre-Dame de Lorette, 9e
ここに昔、ステーキ・レストラン「パヴァール」(Rôtisserie Pavard) があったという。旧ブレダ通りの「ディノショー」と同じように芸術家たちの溜まり場だった。違いは「ツケ払い」がなかったのと、「ディノショー」が文人たちが多数だったのに比べ、「パヴァール」は画家が多かったことである。また「ディノショー」が2階にしか客席がなく狭苦しかったのに対し、「パヴァール」では1階に数室に分かれて客席があって広かった。
ボードレールは親友のマネと連れ立って頻繁にここに食事しにやって来て、その後は通りの向い側にあったカフェ「ル・ラロシュ」(Café Le Laroche)で議論や雑談に興じた。

「パヴァール」の客としては、他に小説家のミュルジェ、バルベー・ドールヴィイ、画家のピュヴィ・ド・シャヴァンヌなどがいた。(PRR)



☆ノートルダム・ド・ロレット通り57番地 (57, rue Notre-Dame de Lorette, 9e)
☆ラ・ロシュフコー通り49番地 (49, rue La Rochefoucauld, 9e)
 《カフェ・ル・ラロシュ跡》

通りを少し上がると、青果店、パン屋、中華総菜屋、カフェ、文具店、酒屋などの商店が立ち並ぶ生活感あふれる一角がある。ここは道路が複雑に交差する場所で、言い方によっては珍しい七又路になっている。

(c) Google Map Streetview
 57, rue Notre-Dame de Lorette, 9e
vers la rue de La Rochefoucauld

57番地の角には現在(2015)「カフェ・マティス」(Café Matisse)という名前の小さなブラスリーがある。店内にアンリ・マティスの複製画が飾られているだけで、マティスに所縁があるわけではない。約150年前にはこの店の場所に「ル・ラロシュ」(Café Le Laroche)というカフェがあった。そもそもの店名は「ル・カフェ・ド・ラ・ロシュフコー」(Le Café de La Rochefoucauld)なのだが、長すぎるので短縮した通称「ラロシュ」(Laroche)が定着したようだ。

ここも画家たちを中心にした溜まり場だったが、意外なことに、印象派とそれに近い画家たち、つまりマネ、ドガ、ルノワールなどが、旧来のアカデミーに近い画家たち、つまりコルモン(F.Cormon)、エネ(J.J.Henner)、アルピニー(H.Harpignies)、ギュスターヴ・モロー(G.Moreau)、ジェローム(J.L.Gérôme)らと混じり合って、雑談したり、肩を並べてゲームに興じたりしたという。(LAI, PRR)

散歩者は、ここから左折してラ・ロシュフコー通りを下って行く。


参考Link : Autour de Père Tanguy : Le restaurant Pavard de la rue Notre-Dame-de Lorette (仏文)



かたつむりの道すじ : (9)アンリ・モニエ通り~(10)ノートルダム・ド・ロレット通り~
(11)ラ・ロシュフコー通り (c) Google Map

2015年11月5日木曜日

散歩R(9-3) 女流画家エヴァ・ゴンザレスのアトリエ跡 Emplacement de l'atelier d'Eva Gonzalès(9区サン=ジョルジュ地区)

(c) Google Map Streetview
 11, rue Henry-Monnier, 9e
☆アンリ・モニエ通り11番地 (11, rue Henri-Monnier, 9e)
《女流画家エヴァ・ゴンザレスのアトリエ跡》Emplacement de l'atelier d'Eva Gonzalès

ここの通りに面した4階は元々文筆家のエマニュエル・ゴンザレス(Emmanuel Gonzalès, 1815-1887)の住まいであった。ゴンザレスはスペイン風の苗字だが、貴族の末裔でフランス中西部出身である。20代からパリで活躍し、新聞小説や評論で名を高める一方、自身で雑誌「カリカチュア」(Caricature)を主宰し、文芸家協会(Société des gens de lettres)の会長にもなった。彼には娘が2人おり、幼い頃から家に出入りする文学界、美術界の有名人に身近に接する環境で育った。特に長女のエヴァ・ゴンザレス(Eva Gonzalès, 1849-1883)は絵の才能を早くから示し、天才少女と言われた。

彼女は印象派の画家ドガ、モネ、シスレーの作品に惹かれ、「オランピア」事件で物議をかもしたマネ(Edouard Manet, 1832-1883)に紹介されると、その指導を受ける決心をした。20歳でアトリエに通ううちにマネの絵のモデルにもなった。


Eva Gonzales : Une loge aux Italiens
Paris, Musée d'Orsay
Crédit : Photo (C) RMN-Grand Palais / Hervé Lewandowski
次の年には早くもサロンに入選し、評判を呼んだ。マネとの親密な関係も取り沙汰された。作風はマネの影響を受けて、印象派の画家たちにも近いものだったが、サロンでは一定の評価を得ていたこともあって、印象派展には参加しなかった。
彼女は住まいの近所や同じ建物の別の部屋に自分のアトリエを構えた。(←)左掲の「イタリア座の桟敷」(1874)は彼女の代表作で見事な出来である。モデルは妹のジャンヌとエヴァの夫となる挿絵画家アンリ・ゲラールである。

30歳で結婚して以降も制作を続けたが、息子の出産の直後に血栓症で急死した。34歳だった。奇しくもマネが死去した5日後だった。(LAI, Wiki)



☆アンリ・モニエ通り9番地 (9, rue Henri-Monnier, 9e)
(c) Google Map Streetview
 9, rue Henry-Monnier, 9e

 この建物は周りに比べても格調の高い様相を示している。気になるのが2階の引っ込んだバルコニー窓の造作である。この旧ブレダ地区にあって、この建物が花街の娼家(メゾン・クローズ, maison close)として使われたかどうかは歴史的に定かではないが、構造的に見て、冒頭に掲載した「飾り窓の女」が、仮にこのベランダに座っているのが見えたとしても不思議ではないように思えてくる。










かたつむりの道すじ:(8) トゥドーズ広場~(9)アンリ・モニエ通り~
(10)ノートルダム・ド・ロレット通り (c)Google Map

2015年11月3日火曜日

散歩R(9-2) アンリ・モニエ通り Rue Henry Monnier, 9e(9区サン=ジョルジュ地区)

(c) Google Map Streetview
 21, rue Henry-Monnier, 9e
☆アンリ・モニエ通り21番地 (21, rue Henri-Monnier, 9e)

広場の外れからそのまま通りを少し上がった左手21番地の建物に美しい女性の頭部とその周りに豊かな装飾を施した持ち送りが見つかる。
1907年の建築で壁面にはっきりと建築士ジョルジュ・ギヨン父子(G.Guyon et fils)と彫刻家ジョルジュ・アルドゥアン(G.Ardouin)の名前が刻み込まれている。この建築士と彫刻家の組合せは、20世紀初頭のパリやその近郊で建てられたあちこちの建物に見られる。
建築装飾の専門書には「象徴派的な女性の顔」(Visage féminin symboliste)と記されているように古典的、神話的な女神像ではなく明らかに近代的な女性の顔である。

(c) Google Map Streetview
 21, rue Henry-Monnier, 9e














(c) Google Map Streetview
 25, rue Henry-Monnier, 9e
☆アンリ・モニエ通り25番地 (25, rue Henri-Monnier, 9e)

一つ空けた並びの25番地の建物もまったく同時期に、同じ建築士と彫刻家のコンビで作られた。双生児のような装飾デザインである。ただしこちらの入口は、幼児の体つきをした小天使(Angelot)2人が戯れている彫刻で、門構えと持ち送りが一体となっている。
建物全体の窓飾りやバルコニーの持ち送りにも細かな装飾が施され、数多くの人面像を見ることができる。残念ながらいずれも歴史的建造物にはなっていない。

Edouard Manet : Le Déjeuner sur l'herbe
(Détail) Paris, Musée d'Orsay
Photo (C) RMN-Grand Palais (musée d'Orsay) /
Benoît Touchard / Mathieu Rabeau






この25番地には、印象派の先駆者となった画家エドゥアール・マネ(Edouard Manet, 1832-1883)が美術界に衝撃を与えた盛期の傑作群の絵画にモデルとして重用されたヴィクトリーヌ・ムーラン(Victorine Meurent) が住んでいたとされる。(PRR)



ここから散歩者は通りを引き返して、坂を下り、ロレット通りの方を目ざす。


2015年11月1日日曜日

散歩R(9-1) 旧ブレダ通り Ancienne rue Bréda(9区サン=ジョルジュ地区)

Une enseigne du quartier Bréda - Edmond Texier :
Tableau de Paris, Chap.44, 1852-53 @ BnF-Gallica
19世紀末までは「ブレダ通り」(Rue Bréda) と呼ばれ、これまで通ってきたクローゼル通りと共に「ブレダ地区」(Quatier Bréda) として知られた。この時代は、現在パリで最も有名な(悪名の高い)歓楽街であるピガール広場やクリシー大通りの大衆娯楽地域が盛んになる前であって、この「ブレダ地区」や「ロレット地区」が歓楽街の代名詞であった。
右掲(→)は「ブレダ地区のある看板」として当時の『パリ絵解き事典』(Tableau de Paris)で紹介されたイラストで、1840年代の頃と思われる。言わゆる「飾り窓の女」の見られる「色街」である。

この地域に住んで、自らの美貌と知性を武器に富裕な政治家や実業家たちのその時々の愛妾として暮らした女性たちのことを「ロレット」(La lorette)と呼んだ。バルザックの『人間喜劇』の作品中にも描かれている。

参考Link :アンリ・ミュルジェ『若き芸術家(ボエーム)たちの生活情景』(Scènes de la vie de Bohème)より第6話「ミュゼット嬢」



Monnier Henry Bonaventure (1805-1877)
Moeurs administratives : M. le chef de division donnant une audience
Photo (C) BnF, Dist. RMN-Grand Palais / image BnF
現在の通りの名前の由来となったアンリ・モニエ (Henry Monnier, 1805-1877) は文筆家、風刺画家として知名度が高かった。パリで生まれ育ち、はじめは公証人役場の書記として働いていたが、描いたデッサン画が評判を呼び、たちまち新聞や小説の挿絵、さらには連作画集の注文が殺到した。

 彼は当時の世相を背景とした典型的な人物像を創り出した。いずれも粗野で滑稽でいやらしい気質を備えながら、どこか憎めないという「そこいらによく見かける人物」で、それを『民衆の生活風景』(Scènes populaires)、『ジョゼフ・プリュドムの回想録』(Mémoires de Joseph Prudomme)などで痛烈に描き出し、果ては寸劇まで自分で書き上げて、自身がその人物の役になりきって演ずるまでになった。上掲(↑)は連作画集『お役人の生態』から「陳情を聞く局長」の場面である。



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 16, rue Henry-Monnier, 9e
☆アンリ・モニエ通り16番地 (16, rue Henri-Monnier, 9e)
《レストラン「ディノショー」跡》

 ナヴァラン通りとの角に第2帝政時代(ナポレオン3世)に「ディノショー」(Dinochau)という小さなレストランがあった。当時は売れない芸術家たちの溜まり場として、詩人のボードレール(Charles Baudelaire, 1821-1867)、画家のクールベ(Gustave Courbet, 1821-1877)、マネ(Edouard Manet, 1832-1883)、「ラ・ボエーム」の原作を書いた作家ミュルジェ(Henry Murger, 1822-1861)や、グルメ作家のはしりのモンスレ(Charles Monselet, 1825-1888)、新聞小説作家のポンソン・デュ・テラィユ(Pierre Alexis Ponson-du-Terrail, 1829-1871)、風刺画家のアンドレ・ジル(André Gill, 1840-1885)などが顔を連ね、店主のディノショー(Dinochau)は、将来見込みのあると判断した作家、画家、音楽家、彫刻家、政治家、ジャーナリスト等に対して「無制限のツケ」で食事を提供したので、彼らからは大いに感謝された。もちろん見込み外れや濫用もあったため、経営的には大きな損失を生み、店主の死後は廃業となった。(MGP, PRR, LAI)

「ディノショーのお蔭でミュルジェは飢えずに済んだ。生きている限りはこの実直な親父のところでささやかな食事にありつけた。彼の財布は空だったが、ディノショーは構わなかった。彼の未来の担保に甘んじていたのだ。」(Grâce à Dinochau, Murger n'a pas eu faim : tant qu'il a vécu, il a trouvé à la table de l'honnête restaurateur un modeste repas;  sa bourse était vide : peu importait à Dinochau, qui se contentait d'une hypothèque sur l'avenir. - Courrier du Palais; P489 Le monde illustré #225 au 1861/08/03) @BnF Gallica

参考Link : Le Paris pittoresque - Cafés, Hôtels, Restaurants - Dinochaux (仏文)


 

2015年10月15日木曜日

散歩R( 6-1) マルティール通り Rue des Martyrs, 9e(9区サン=ジョルジュ地区)



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5, rue des Martyrs, 9e

イポリット・ルバ通りから商店街の続くマルティール通りに出る。さまざまな店の様子を見て歩くのも楽しみの一つである。ときどき店の名前の中でも面白いのに気づいて勝手にうなづいてみたりする。この通りにも(←)「食いしん坊のネズミ」(La souris gourmande)(ラ・スリ・グルマンド)=チーズ屋さん、「酒神の隠れ家」(Le repaire de Bacchus)=ワイン屋さん、「味蕾(舌の味覚を感じる箇所)」(Les papilles gourmandes)=食料品店、「オーベルニュの味」(Aux saveurs d'Auvergne)=食料品店などがある。

通りの名前のマルティール(Martyrs)とは「殉教者たち」という意味のフランス語の普通名詞で、その昔ローマ帝国領だった紀元3世紀中頃に、聖ドニ、聖エルテール、聖リュスティクの3人の聖者がパリの中心からモンマルトルの丘で斬首されるためにこの道を通って行ったとされる。パリでも最も古い通りの一つである。モンマルトルの丘も語源的には、モン(山 mont)とマルトル(殉教 martre < martyre )が合わさった呼び方である。その3人の中でも聖ドニ(St.Denis)は、切られた自分の首を抱えて北の方に歩き出し、パリ郊外のサン=ドニまで至ったという伝説があるのは有名である。(CVP)



☆マルティール通り7番地 (7, rue des Martyrs, 9e)  《ブラスリー・デ・マルティール跡》
(c) Google Map Streetview  7, rue des Martyrs, 9e

上のチーズ屋の2軒隣は、今はカルフールという大手スーパーの都心型小店舗になっているが、入口が狭いわりには奥が広く長く、西側の別な通り(ノートルダム・ド・ロレット通り)に突き抜けられる。ここは19世紀の中頃に繁盛した居酒屋《ブラスリー・デ・マルティール》(Brasserie des Martyrs)の跡である。

ここでは、詩人のボードレール、作家のアルフォンス・ドーデやゴンクール兄弟、「ラ・ボエーム」の原作を書いた作家ミュルジェなどが足繁く通い、マネ(Edouard Manet, 1832-1883)やクールベ(Gustave Courbet, 1819-1877)を取り巻く若い画家たちも激論を戦わせていた。(LAI, PRR)

「19世紀風刺詩選」(Le Parnasse satyrique du 19e siècle)にもこの居酒屋を題にした詩が収められている。

La Brasserie des Martyrs      《ブラスリー・デ・マルティール》

Près Notre-Dame-des-Lorettes   ノートルダム・ド・ロレット教会そばの
Voyez-vous ce sombre café,    このつましいカフェを知ってるかい
Dans ce quartier des amourettes,    つかの間の恋の街角で
H.Murger - La vie de Bohème
Aquarelle par A.Robaudi
@Bnf Gallica

Plus fameux que les opérettes    オッフェンバックのオペレッタや
D'Offenbach et que le nafé ?     芙蓉の実よりも有名という

C'est la célèbre brasserie      これは名だたるブラスリー
De nos pléiades sans Valois    我らが無名の賢人たちの
Quelle vaste ménagerie !      何と広い小動物園なのか!
Il en vient de la Causerie      閑談小話のコーズリー紙か
Il en est venu du Gaulois.      ゴーロワ紙からやって来る
( ...... )                 ( ...... )

Emmanuel des Essarts(1839-1909)
dans "Le Parnasse satyrique du 19e siècle, recueil des vers piquants et gaillards" Tome2  @BnF Gallica