Berlioz Statue in Paris, 1918 Scrupture par Alfred Lenoir Wikimedia Commons |
四方を街路とアパルトマンの建物で囲まれた、辻公園とも言えそうなのがベルリオーズ小公園である。ロマン派の作曲家エクトル・ベルリオーズ(Hector Berlioz, 1803-1869)が亡くなるまでの晩年をこの近くのカレ通りの家で過ごしたことを記念して募金が行われ、彫刻家のアルフレッド・ルノワール(Alfred Lenoir, 1920)によるベルリオーズの銅像が1886年に建てられた。しかしながらこの像はナチス独軍の占領下の1941年に取り壊された。戦後、新しい石像が作られたのが現在のものである。写真を比べてみると古い方が作曲家自身の雰囲気をよく伝えているように思う。
緑に囲まれた公園は、児童遊園になっており、地域住民の憩いの場でもある。(↓)下掲の画像では緑陰の中にベルリオーズの彫像が立っているのが見える。
19世紀の中頃まではこの地域は畑や庭園が広がっていた。特に大革命前の1760年に、ヴェルサイユにあった王室のトリアノン離宮に似せた城館と庭園を作って「フォリー・ブキシエール」(Folie-Bouxière)と称し、貴族たちの園遊会場として使われた。
↑On peut aperçevoir la nouvelle stature de Berlioz dans l'ombre verdoyante (c) Google Map Streetview Square Hector Berlioz |
大革命時に一時荒廃したが、王政復古時代の1826年に改めて3代目の「新チボリ遊園」(Nouveau Tivoli)として市民の遊興地となった。
チボリ遊園は当初はサン=ラザール通り沿いにあったが、急速なパリの都市化に従い、少しずつ北側の敷地に移転し、最後はこのクリシー広場近くまで移された。ベルリオーズ小公園の一帯は当時は遊園内の泉水のある憩いの場であったが、その頃の名残がうかがえる。
新チボリ遊園ではダンス・ホールや見世物のアトラクションのほかに人気があったのは「鳩撃ち遊戯」(Tirage au pigeon vivant)であった。
Affiche de Jules Grün @BnF Gallica |
狩猟の盛んだった欧州の伝統にもとづくもので、1831年に英国から導入された。元々は鳥猟の練習のため、生きた鳩を飛び立たせて猟銃で狙い撃ちし、撃ち落とした数を競う競技となった。ここでは10年間で30万羽の鳩が撃たれたという記録が残っている。右掲(→)は、当時の鳩撃ちの教習所(École de Tir aux pigeons)のポスターであるが、場所はベルギーの保養地シメー(Chimay-villegiature)のものである。
1840年以降はパリの都市化による居住地の造成が進み、新チボリ遊園一帯も街区に細分化され、遊園は姿を消した。
「鳩撃ち」も、1880年以降は(動物愛護の観点からか)クレー・ピジョン(Clay pigeon)という陶器製の鳩を放出させて射撃するという方法に変わり、現在のクレー射撃の競技に続いている。
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