パリの街角散歩です。カタツムリのようにゆっくりと迂回しながら、そして時間と空間をさまよいながら歩き回ります。


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2016年3月9日水曜日

散歩R(21-5) 画家クロード・モネ青年時代の住居 Demeure de jeune peintre Claude Monet(9区サン=ジョルジュ地区)

☆ジャン=バティスト・ピガール通り18番地 (18, rue Jean-Baptiste-Pigalle, 9e)
《画家クロード・モネ青年時代の住居》(Demeure de jeune peintre Claude Monet)
(c) Google Map Streetview
 18, rue Jean-Baptiste-Pigalle, 9e

1859年4月に18歳の青年クロード・モネ(Claude Monet, 1840-1926)は、ノルマンディから画家になるためにパリにやって来た。地元のル・アーヴルでモネは高校生でありながら、風刺画・戯画(caricatures)を描いて評判になり、相当な収入を得ていた。美術商の店で画家のブーダン(Eugène Boudin, 1824-1898)を紹介され、彼と一緒に戸外での風景画の制作を始めた。その少し前にモネは母親を亡くし、伯母のルカードル夫人(Mme Lecadre)の世話になっていたが、彼女は美術愛好家で、自分も絵を描いており、若いモネの才能を見抜いて、絵画の道に進むよう励ましたのだった。

モネはピガール通り18番地に身を落ち着け、サロン(官展)に通って、ドービニー(Charles-François Daubigny, 1817-1878)やコロー(Jean-Baptiste Camille Corot, 1796-1875)の風景画に感銘を受けた。またブーダンに紹介されたトロワイヨン(Constant Troyon, 1810-1865)を訪ね、忠告に従ってシュイス画塾(Académie Suisse)に入ることにした。彼はそこで後に印象派の仲間となるピサロ(Camille Pissarro, 1830-1903)とギヨーマン(Armand Guillaumin, 1841-1927)と出会った。

また近くにあった「ブラスリ・デ・マルティール」(Brassserie des Martyrs)にたむろする若い芸術家たちとの交友を深め、特に写実主義を提唱するクールベ(Gustave Courbet, 1819-1877)を知り、その取り巻きに加わった。
Claude Monet : Cour de ferme en Normandie (1863)
Paris, musée d'Orsay
Crédit Photo (C) RMN-Grand Palais (musée d'Orsay) /
 René-Gabriel Ojéda

彼は一度兵役でパリを離れたが、1862年に再び戻り、今度はグレール画塾(Atelier de Glayres)に入った。そこではシスレー(Alfred Sisley, 1839-1899)、ルノワール(Auguste Renoir, 1841-1919)、バジル(Jean-Frédéric Bazille, 1841-1870)に出会った。特にバジルとは親友となった。

(←)左掲はこの時期に描いた『ノルマンディの農家の中庭』(1863)である。まだ印象派的な描き方は現れていないが、バルビゾン派を継承する明るさがある。

モネは24歳の1865年にサロンに初入選となり、翌1866年にも妻カミーユをモデルにした『緑衣の女』を出展して評判を得た。この時のサロンのカタログには、モネの住所がピガール通り1番地
(1, rue Jean-Baptiste-Pigalle, 9e)と記載されている。このピガール通り一帯は、モネの青年期の活動の舞台だったと言える。(LAI)


◇パリ蝸牛散歩内の関連記事:
9区サン=ジョルジュ地区( 6-1 )マルティール通り Rue des Martyrs, 9e
http://promescargot.blogspot.jp/2015/10/93-6-1-rue-des-martyrs-9e.html
《ブラスリー・デ・マルティール跡》


2016年2月1日月曜日

散歩R(18-5) 画家ゴーギャン独身時代の住居 Ancienne demeure de jeune peintre Gauguin avant son mariage(9区サン=ジョルジュ地区)


(c) Google Map Streetview
 15, rue La Bruyère, 9e
☆ラ・ブリュイエール通り15番地 (15, rue La Bruyère, 9e)  
《画家ゴーギャン独身時代の住居》

普仏戦争後の1871年、ゴーギャン(Paul Gauguin, 1848-1903)は海軍を除隊してパリにやって来た。23歳だった。パリに住んでいた母親は4年前に41歳で死去しており、母と親しくしていた実業家のギュスターヴ・アロザ(Gustave Arosa)の紹介で、ベルタン商会の株式仲買人として働き始める。ゴーギャンはそこで真面目に働いたので、安定した収入を得て、この15番地の家に翌1872年から住んだ。勤務先がラフィット通りで、画廊が多かったためか、絵画に興味を持ち始めたゴーギャンは、休みの日には美術に造詣が深かったアロザ自身から手ほどきを受けた。そのアロザの家で出会ったデンマーク人女性のメット=ソフィ・ガット(Mette-Sophie Gatt)と1873年11月22日に結婚する。9区の区役所で婚姻届に署名し、区長の祝福を受け、その近くの贖罪教会でミサを挙げた。
Gauguin: Sous-Bois(St Cloud) 1873
@paul-gauguin.net
夫婦は早速新居を探し、近くのサン=ジョルジュ広場に面した瀟洒なアパルトマンに1874年の年明け早々に引っ越すことになる。(LAI)

(→)右掲は1873年に描かれた『森の草地(サン=クルー)』の絵で、作品としては最初期にあたる。まだ印象派の第1回展覧会の前年なので、ゴーギャンが自分でパリ郊外に出かけて行って描いたものだが、すでにコローやピサロの画風に共通するものがうかがえる。展覧会でピサロと知り合って意気投合するのも当然である。

◇パリ蝸牛散歩内の関連記事:
9区サン=ジョルジュ地区(17-2)《画家ゴーギャンの新婚家庭》
http://promescargot.blogspot.jp/2016/01/17-2.html


2015年12月11日金曜日

散歩R(11-9) ギュスターヴ・モロー美術館 Musée Gustave Moreau(9区サン=ジョルジュ地区)

☆ラ・ロシュフコー通り14番地 (14, rue de La Rochefoucauld, 9e)
《ギュスターヴ・モロー美術館》Musée Gustave Moreau
PA00088994  © Monuments historiques, 1992




(c)Photo Emoulu bc25, 2013
14番地の建物はギュスターヴ・モロー美術館である。19世紀後半に活躍したギュスターヴ・モロー(Gustave Moreau, 1826-1898)は、独自の絵画世界を創り上げ、その幻想味あふれる作品は多くの人々を魅了した。比類のない想像力、構成力、描写力を持つ孤高の画家とも言える。

4階建ての個人住宅だが、政府機関の建築家だった彼の父親の好みに合った折衷的な装飾に特徴がある。3階の三角破風の窓の周囲は、珍しく赤煉瓦に取り囲まれている。両親がこの家を購入したのは1853年、モローが27歳の時で、すでに前年にサロンに初入選しており、父親はモローが画家としての道を歩むことを支援するために広いアトリエも確保できるこの家で一緒に暮らすことにしたのである。



(c) Photo Emoulu  bc26f, 2013






モローはドラクロワに画家としての進路を相談したり、シャセリオに師事したりしたが、2人ともこのサン=ジョルジュ地区、別名《新アテネ地区》(ヌーヴェル・アテーヌ Nouvelle Athène)に住んでいた。

G.Moreau : Triomphe d'Alexandre le Grand
Musée Gustave Moreau, Paris
Crédit : Photo (C) RMN-Grand Palais / René-Gabriel Ojéda

モローの描いた作品のほとんどは、神話や聖書および古代史の伝承を題材としたもので、均整の取れた男女の姿態の抑制された美しさに目を惹かれる。さらにその背景や群像の微細な箇所に至るまで装飾を施し、あるいは空間を埋め尽くす壮大な構築物の存在感は見る者を飽きさせない。

(→)右掲は『アレクサンドロス大王の凱旋』(Triomphe d'Alexandre le Grand)と題する大作で、美術館の3階に螺旋階段を上がったところに飾られていたと記憶する。インドまで大遠征をして王たちを屈服させたアレクサンドロス大王が須弥壇のような玉座に収まっている。このようにモローの作品には、東洋の佛教画あるいは曼荼羅に通じる宗教性、神秘性を感じることができる。

Portrait
Paris, Musée Gustave Moreau
Crédit : Photo (C) RMN-Grand Palais
 / René-Gabriel Ojéda



身体が弱かったモローは、それでも若い頃は社交界に出入りしたり、近隣のカフェで若い画家たちと議論に加わることがあった。しかし次第に自宅に閉じこもるようになり、ごく少数の親しい友人、知人たちとの交友のみで、絵画の制作と読書と思索に多くの時間を傾けた。

彼は妻帯することはなかったが、長年密かに情を通わせたアレクサンドリヌ・デュルー(Alexandrine Dureux)という女性の存在が明らかとなった。(←)左掲は『肖像画』(Portrait)という単純な画題で「誰の」という表記が省かれたものだが、モローとしては非常に珍しい人物画である。風景画家のコローにも『真珠の髪飾りの女』という珍しい肖像画の名作があるが、それに匹敵する隠れた名作であると思う。このモデルは秘められた愛人のアレクサンドリヌではないかと思ってみたりしている。








2015年11月17日火曜日

散歩R(10-6) コウノトリの家、画家ピサロの旧居 Ancienne demeure du peintre Pissarro, dite Maison de cigogne(9区サン=ジョルジュ地区)

☆ノートルダム・ド・ロレット通り49番地 (49, rue Notre-Dame de Lorette, 9e)
《コウノトリの家》  PA00088966  © Monuments historiques, 1977
《画家ピサロの旧居》

ちょうど通りの向い側にもう一つ歴史的建造物に登録された建物がある。バルコニーの持ち送りと窓飾りの組合せで、翼を広げた一対のコウノトリを立体的にあしらっていて、見る者を感心させる。その姿からこの家を勝手に「コウノトリの家」(メゾン・ド・シゴーニュ、Maison de cigogne)と呼ぶことにしている。1847年の建造、建築士はシアンテプ(L.Cienthep)と刻銘されている。その上階の装飾には獅子頭も見える。

(c)Photo Emoulu bc07, 2013


(c)Photo Emoulu bc07c, 2013
この家は、カリブ海の島から画家を目指してパリにやって来た25歳のカミーユ・ピサロ(Camille Pissarro, 1830-1903) が住みはじめたところでもある。折りしも1855年のパリ万博の時で、展示されていた当時の巨匠たち、ドラクロワやコロー、クールベの作品に感銘を受けた。
彼の父親は裕福な商人で、少年ピサロをパリのリセの寄宿舎に入れたのがそもそものきっかけで、ピサロは画家の道を歩むために親の許しを得て、パリに再び戻り、美術学校や様々な画塾に通うことになる。(LAI)

C.Pissarro : La côte des Jalais à Pontoise (1867)
Etats-Unis, New-York, The Metropolitan Museum of Art
Photo (C) The Metropolitan Museum of Art, Dist.
RMN-Grand Palais / image of the MMA
1859年に初めてサロンに入選し、その後は年ごとに入選と落選を交互に繰り返した。入選には、当時最も理解を示した画家のドービニーの意見の助けもあった。

(←)左掲は「ポントワーズのジャレの丘」で30代の傑作の一つである。前景の道路を歩く日傘をさした婦人の姿が当時流行った風俗である。この頃から彼の作風が確立され、サロンの審査員の理解が得られないながらも、郊外の村での生活を拠点とし、経済的に自立できるようになっていった。