パリの街角散歩です。カタツムリのようにゆっくりと迂回しながら、そして時間と空間をさまよいながら歩き回ります。


2016年1月1日金曜日

散歩R(14-1) ショパンとサンドの住居(スクヮル・ドルレアン)Demeure de Chopin et de George Sand au square d'Orléans(9区サン=ジョルジュ地区)

☆テブー通り80番地 (80, rue Taitbout, 9e)  
《スクヮル・ドルレアン: ショパンとサンドの住居》
(Demeure de Chopin et de George Sand au square d'Orléans)
PA00089000 © Monuments historiques, 1992


(c) Google Map Streetview
 80, rue Taitbout, 9e

ポーランド生まれのピアニストで作曲家のショパン(Frédéric Chopin, 1810-1849)は、39年の短い生涯の大半をパリで過ごした。ショパンのパリでの住居は18年間で10カ所余りを数えるので、平均2年弱で転居していたことになる。

テブー通り80番地は、「スクヮル・ドルレアン」(Square d'Orléans)と呼ばれる集合住宅地への出入り口となっており、1830年代に中庭を中心に9棟の擬古典様式の建物が建てられ、瀟洒な一角となっていた。女流作家のジョルジュ・サンド(George Sand, 1804-1876)が5番地の2階を1842年から1847年まで借りた。ショパンも9番地の1階を借りた。この一角には他にも多くの芸術家たちが住んでいて、当時の空想社会主義者フーリエ(Charles Fourrier, 1772-1837)の思想を反映した「芸術分野の生活共同体」(Phalanstère d'art)を意識していたと思われる。

「スクヮル」(Square)は、英米では「スクェア」(四角形の広場、例えばニューヨークの「タイムズ・スクェア」)のことで、パリでは外来語として英国風を気取った住宅地の名称にまれに使われている。こうしたこぢんまりとした住宅地には通常フランス語の「シテ」(Cité)が用いられる。

Vue du square d'Orléans, depuis l'appartement de Chopin
 Photo par Demézy; @BnF Gallica
(←)左掲は、ショパンの住んだアパルトマンから見た敷地で、閑静なたたずまいは今も変わらない。この時期はショパンとサンドの愛情生活の後半期にあたる。ショパンの健康状態は思わしくないままだが、作曲における絶頂期を迎えていた。32歳から36歳までの毎年、夏から秋にかけての約半年はサンドの郷里ノアン(Nohant)の館で過ごし、冬から春にかけてはパリでの生活だった。

Frédéric Chopin / d'après un dessin de
Franz Xaver Winterhalter (1847)
BnF, département Musique, Est.Chopin011






1844年、姉のルドヴィカ夫妻がポーランドから訪ねて来た機会に、ショパンはしばらく滞っていたピアノ・ソナタ第3番を完成させたほか、その前後にもマズルカやポロネーズ、子守歌、舟歌などを作曲した。下記にYoutubeの参考リンクを挙げるが、ショパンは故郷ポーランドから遠く離れた土地で、しかも長い年月が経過しているのにもかかわらず、民族的な舞曲のマズルカ、ポロネーズを何曲も生み出し続けられたことは驚異としか言いようがない。これもノアンの豊かな自然と素朴な農民の生活を肌で感じることができた環境の賜物ではなかったかと思う。

 しかしこの生活も1846年にサンドの子供たちをめぐるいざこざから端を発して二人の関係の終焉を迎え、それぞれがこの場所から出て行くことになる。

*参考Youtube
ショパン:ピアノ・ソナタ第3番ロ短調作品58第1楽章
Chopin : Piano Sonata No.3 Op.58 h-moll 1st movement (Yundi Li)
https://www.youtube.com/watch?v=9EepqjsizD8

ショパン:マズルカ嬰ヘ短調作品59の3(ホロヴィッツ)
Chopin : Mazurka in f sharp minor Op.59 No.3 (Horowitz)
https://www.youtube.com/watch?v=fxp3IQ6pxYs


2015年12月29日火曜日

散歩R(13-3) デュマの大舞踏会の家 Demeure de Dumas Père, lors de son grand bal masqué à 1833 (9区サン=ジョルジュ地区)

☆サン=ラザール通り40番地 40 rue Saint-Lazare, 9e
(c) Google Streetview
40 rue Saint-Lazare, 9e
《文豪デュマの大舞踏会の家》

サン=ラザール通り(右手)とテブー通り(左手)の交差する角は、現在郵便局の建物となっている。昔はここが40番地で、当時あった建物の4階にデュマが1831年から1833年までの2年余り住んでいた。当時はこの建物もステータスの高い住宅地「スクヮル・ドルレアン」(Square d'Orleans)の一角であった。その後「スクヮル・ドルレアン」の入口はテブー通り80番地に変えられた、右(→)画像で左手の青い交通標識の右に黒い入口が見える。

この時期のデュマは女優のベル・クレルサメ
と同棲しており、1831年3月に娘マリー・アレクサンドリヌ(Marie-Alexandrine)が生まれ、デュマはこれを認知した。引き続いて6年前に生まれていた息子のアレクサンドル・デュマ(フィス)(Alexandre Dumas fils, 1824-1895)も初めて認知した。この1831年にはデュマは29歳で、5月にポルト・サン=マルタン座で初演した『アントニー』(Antony)が前例のないほどの大成功を収め、130回もの公演を重ねた。主演はマリー・ドルヴァル(Marie Dorval)とボカージュ(Bocage)だった。
さらにその翌年1832年5月には『ネールの塔』(La Tour de Nesle)が前作をさらに上回る未曽有の成功をもたらした。かくしてデュマはまず手始めにロマン主義演劇の頂点に立ったのだった。


Le carnaval des boulevards en 1828
Illustration par Bertall, @BnF Gallica

これらの戯曲の大成功を祝して、デュマは1833年3月30日に盛大な仮装舞踏会を催した。デュマの一生は大金を稼いだり、借金取りに追われたりと、浮沈の激しい劇的な生活の連続であったが、この時も儲けた金に飽かせて馬鹿騒ぎの催しを企てた。ちょうどこの日がパリの「謝肉祭」(カルナヴァル, Carnaval)の日であって、自宅に700名を超える招待客を呼んだものの、全員が入れるはずはなく、一部は朝の9時から楽隊を先頭に大通りまで仮装行列を繰り出し、大通りでのカルナヴァルの群衆に合流したりした。デュマの家では絶えず入れ替わり立ち代わり客が出入りし、夜中まで餐宴が続けられたという。(↑)上掲のイラストは「1828年の大通りの謝肉祭」の様子を描いたベルタル(Bertall)の版画だが、この時代の風俗をうかがい知ることができる。(CVP, PRR)

2015年12月27日日曜日

9区サン=ジョルジュ地区(13-2)女優マリー・ドルヴァルの家

☆サン=ラザール通り44番地 44 rue Saint-Lazare, 9e
Marie Dorval dans le rôle de
Marion de Lorme, héroïne du drame de
Victor Hugo; Documents iconographique
@BnF  Gallica
《女優マリー・ドルヴァルの家》

マリー・ドルヴァル(Marie Dorval, 1798-1849)の名前はロマン主義文学における劇作品の革新に深く結びついている。彼女は俳優の両親のもとに生まれたが、父親は妻子を見捨てて出奔し、母親は病死し、親戚に育てられながら子役で舞台に立った。16歳で結婚したが、夫も5年後に旅先で病死した。彼女は20歳で2人の子供を産みながら、未亡人となった。地方の劇団で活動しているうちにパリのポルト・サン=マルタン座との契約を得てパリに出た。
彼女が女優としての名声を確立したのは1827年29歳
のときで、その演技に伝統的な古典派の芸術性よりも感受性あふれる性格表現と情熱の発露がまさっていたことで、パリの観衆の熱烈な支持を得た。
(→)右掲は、ヴィクトル・ユゴー(Victor Hugo, 1802-1885)の5幕の韻文劇『マリオン・ドロルム』の主役として1831年に初演された時のマリー・ドルヴァルの姿である。当時のロマン派劇作家としては、ヴィクトル・ユゴーが『クロムウェル』(1827)、『エルナニ』(1830)、『マリー・テューダー』などでロマン主義運動の先頭に立ち、アレクサンドル・デュマ(Alexandre Dumas, 1802-1870)も『アンリ三世とその宮廷』(1829)、『アントニー』(1831)などで競い合った。マリー・ドルヴァルはこれらの戯曲の公演でそのほとんどの主役となった。一時期、デュマとは愛人関係があったが、その後彼に紹介されたアルフレッド・ド・ヴィニー(Alfred de Vigny, 1797-1863)と熱烈なかつ波乱に満ちた恋愛関係となり、1838年まで続いた。

Rue Saint-Lazare, n° 44 : Maison habitée par Mme Dorval, 1837 :
estampe / APM [Potémont] ; Dessin de M. Régnier
ちょうどこの時期に彼女はこの44番地の家に住んでいた。(←)左掲は1837年当時の石版画で、有名人はその肖像画と共にその住まいも好んで紹介されたものと思われる。まだまだ鄙びた地方都市の一軒家という風情である。

実は、彼女の肖像画も沢山出されたが、正直「美貌の女優」と言えるものはほとんどなく、(大体が怖そうなキツイ顔で)上掲のものが「最良」とされている。ユゴーは彼女を評して「美人じゃない、彼女は美人以上だ!」(Elle n'est pas belle ... elle plus que belle!)と語ったという。しかし、たとえ美しくなくともその舞台芸術は「恋多き女性」(femme amoureuse)の伝説と共に歴史に語り継がれている。
(c) Google Map Streetview,
44 rue Saint-Lazare, 9e

(←)左掲は現在のサン=ラザール通り44番地の様子である。ほとんど特徴のない普通のビルで目立たない。入口の横に「パリの歴史」(Histoire de Paris)と書かれた史跡案内板が設置されている。これは言うまでもなく「この場所に女優のマリー・ドルヴァルが住んでいた。」という内容が書かれている。
単純にボートをこぐ櫂のような形をしている。この表示板は、現在制作者から厳しい著作権上の制限を受けていて、表示板を直接的な対象物として画像を掲載するのを禁じている。ただし、この画像のように家の建物を写したときに「たまたま」一緒に写ってしまった、という程度ならば大目にみてもらえるという判断が示されている。

*参考サイト:Panneau Histoire de Paris(仏文)
https://fr.wikipedia.org/wiki/Panneau_Histoire_de_Paris





*参考Link :100年前のフランスの出来事: 戯曲「マリオン・ドロルム」の再演 (1907.04.22)
http://france100.exblog.jp/5221951/


*参考サイト:Breizh Femmes - Histoire(s) - Marie Dorval(仏文)
http://www.breizhfemmes.fr/index.php/10-histoire-s/107-histoire-s-marie-dorval



2015年12月25日金曜日

散歩R(13-1) サン=ラザール通り Rue Saint-Lazare, 9e(9区サン=ジョルジュ地区)

(c) Google Map Streetview,
perspective de la rue Saint-Lazare

トゥール・デ・ダム通りの途中からラ・ロシュフコー通りまで戻って、坂を下るとサン=ラザール通りに出る。右に曲がると整然とした通りが見通せる。

サン=ラザール(Saint-Lazare)通りは1000年以上前から存在する古い道路である。普通に考えれば、サン=ラザールとはイエスが奇跡を起こしたうちの一つとして聖書に「ラザロの蘇生」として知られている人物が思い浮かぶのだが、ここではまったく別の聖人ラザロのことを指すことが初めてわかった。


Les paraboles : Le mauvais riche et le pauvre Lazare
Sujet tiré du Nouveau Testament
Documents iconographiques, @BnF Gallica

ルカ福音書に「金持ちとラザロ」のたとえ話として記されている。金持ちは良い身なりをして毎日宴会を開いていたが、貧者のラザロは外で物乞いをしていた。犬はその男の腫物を舐めた。やがてどちらにも死が訪れ、金持ちは地獄に落ち、貧乏人は天国に迎えられた、という教訓話である。(Les paraboles : Le mauvais riche et le pauvre Lazare)⇒
ラザロは中世においては一般に、癩病患者として考えられ、あたかも実在の人物だったかのように聖人の列に加えられ、癩病患者と乞食の守護聖人となった。
~ジェイムズ・ホール『西洋美術解読事典』(河出書房新社)から引用

この道路の東に向かってだいぶ先に、紀元1110年頃から修道会の運営する「聖ラザロの家」(Maison de Saint Lazare)と称する癩病患者のための施設があったことが名前の由来である。そこは約400年間続き、その後司祭館となったり、監獄となったり、女性の犯罪者の更生施設となったりした。現在では、反対の方角の西の先にあるサン=ラザール駅が名前としての知名度が一番高い。

面白い名前の店としては、「イヴの気質」(La naturelle d'Eve)という意味だろうが、女性の興味をひきそうな分野の書物・雑誌を集めている本屋さんがある。上の画像の左側、黄緑色の外観。
もっと先の郵便局の角には「偶然」(L'Hasard)という小さなレストラン・バーがある。マリヴォーの戯曲『愛と偶然の戯れ』(Le jeu de l'amour et du hasard)を連想する。


(c) Google Map Streetview,
54 rue Saint-Lazare, 9e

☆サン=ラザール通り54番地 54 rue Saint-Lazare, 9e

ラ・ロシュフコー通りとの角にある家である。馬車門の上部装飾の花模様が美しい。

左側のカフェ・レストランの名前が「ル・ラロシュ」(Le Laroche)になっている。昔、坂の上にあった画家たちの溜まり場「ル・ラロシュ」と同じ名前である。[ サン=ジョルジュ地区(10-9) 参照 ]

(c) Google Map Streetview,
56 rue Saint-Lazare, 9e







☆サン=ラザール通り56番地 56 rue Saint-Lazare, 9e

通りから奥まった場所に住む居住者のための通路がある。当然袋小路で、トゥール・デ・ダム通りの「マルス嬢の館」や「ヴェルネの館」などの屋敷がそれぞれ所有する中庭にある裏門とつながっている。









☆サン=ラザール通り58番地 58 rue Saint-Lazare, 9e
 PA00088981 © Monuments historiques, 1992
« Hôtel de style toscan » par MOSSOT
— Travail personnel. Sous licence CC BY 3.0
via Wikimedia Commons

1829年に建てられた歴史的建造物である。パリには珍しい多色装飾(ポリクロミー Polychromie)が特徴で、トスカーナ風と評されている。

ここには歴史画家のポール・ドラロシュ(Paul Delaroche, 1797-1856)が1839年まで約10年間住んでおり、その後トゥール・デ・ダム通りの7番地に引っ越した。 [ サン=ジョルジュ地区(12-4)参照 ]















☆サン=ラザール通り60番地 60 rue Saint-Lazare, 9e

19世紀末から20世紀初頭にかけてパリの街角には規模の大きい白亜の石造建築が数多く建てられた。この建物もその一つで、1899年に建築士のロブロ(P. Lobrot)の設計による都市建築で店舗、事務所、住居の複合体としての建物である。正門の上部の装飾も堂々としている。いわゆるユルバニスム(Urbanisme)によるパリの都市景観がこの時期に一つの隆盛期を迎えたと言えるのかもしれない。

散歩者はここから折り返してサン=ラザール通りを東に向かう。


(c) Google Map Streetview,
60 rue Saint-Lazare, 9e









































かたつむりの道すじ:⑪ラ・ロシュフコー通り~⑫ラ・トゥール・デ・ダム通り~
⑬サン=ラザール通り~⑭テブー通り~⑮ドーマル通り (c) Google Map


2015年12月23日水曜日

散歩R(12-5) 名優タルマの館 Hôtel de Talma, célèbre acteur(9区サン=ジョルジュ地区)

☆ラ・トゥール・デ・ダム通り9番地 (9, rue de la Tour des Dames, 9e)  
《名優タルマの館》(Hôtel Talma)
PA00088919  © Monuments historiques, 1992 

« Hôtel Talma », 9 rue de la Tour des Dames, 9e
By MOSSOT (Own work) CC BY 3.0,
via Wikimedia Commons
この館は1820年に当時の著名な俳優フランソワ=ジョゼフ・タルマ(François-Joseph Talma, 1763-1826)のために建てられた。彼はここで晩年の6年間を過ごし63歳で世を去った。タルマは、18世紀末から19世紀初頭にかけて活躍した演劇界を代表する名優であった。この家の内装はドラクロワに依頼された。

ドラクロワはタルマの舞台衣装姿の肖像画も描いている。(↓)ラシーヌの悲劇『ブリタニキュス』の中のローマ皇帝ネロの役の姿である。
Eugène Delacroix : Talma au rôle de Néron
dans Britannicus, tragédie de Jean Racine
Collection de la Comédie Française,
via Wikimedia Commons






タルマは舞台衣装の改革に取り組み、それまで普通の衣服を着ていた古代ギリシア・ローマ時代を背景とした劇作品の演技において、できるだけその時代の衣装を、つまりトーガと呼ばれる長衣や編上げの草履(←絵参照)を身に着けることを推し進めた。

さらに古典主義の古臭く大げさに誇張された朗唱法を改革し、詩句の語り口の自然な節回しを心がけた。

彼の朗々とした発声と堂々とした演技は、身体的にも皇帝ナポレオンに似通っていたのは確かだったようで、ナポレオン自身もかタルマを贔屓とし、遠征先まで劇団を呼び寄せて上演させたこともあった。

Hamlet, tragédie de Jean-François Ducis :
Talma (Hamlet) et Joséphine Duchesnois (Gertrude)
Paris : Comédie-Française, 23-05-1807
Paris, Bibliothèque nationale de France (BnF)



(→)右掲は、『ハムレット』を演じるタルマとその相手役(ハムレットの母親ゲルトルード)を演じるジョゼフィーヌ・デュシェノワの舞台絵で、1807年5月23日のコメディ・フランセーズでの公演である。この時代のフランスでは、シェークスピアの戯曲はフランス語に忠実に翻訳するのではなく、劇の大筋だけを残して、フランス人劇作家がフランス語の韻文の台詞を新しく書き下ろして上演する形が定着しており、フランスの観客にはそうしなければ受け入れるのが難しかったのだと思われる。この『ハムレット』もそうで、ジャン=フランソワ・デュシ(Jean-François Ducis, 1733-1816)という劇作家が他にも『ロメオとジュリエット』、『リア王』、『マクベス』、『オセロ』などを翻案して作っている。

王政復古となって、輝かしかったタルマの地位にも陰りが出たが、1820年この館に移り住んだ以降でも、新たな作品に取り組む姿勢は変わらず、『マリー・スチュアート』、『シャルル6世』などで新たな喝采を博した。しかし、その最後の成功の数日後にタルマは死去した。

アレクサンドル・デュマは、タルマを非常に尊敬し、未整理のまま残された彼の自伝や覚書を編集し、自ら長大な序文を付けて出版している。(CVP, DNR, LAI)


2015年12月21日月曜日

9区サン=ジョルジュ地区(12-4)画家ドラロシュの館


☆ラ・トゥール・デ・ダム通り7番地 (7, rue de la Tour des Dames, 9e) 《画家ポール・ドラロシュの館》
(c)Google Streetview
7, rue de la Tour des Dames, 9e

5番地の隣の建物もあまり目立たないが、19世紀前半、特にルイ=フィリップの7月王政(Monarchie de Juillet, 1830-1848)時代に評価の高かった歴史画家ポール・ドラロシュ(Paul Delaroche, 1797-1856)が住んだ家である。

彼はパリの絵画鑑定士の息子として生まれ、20代でサロンに入選を果たし、ロマン派絵画の先駆者ジェリコーと親交があった。ドラロシュは歴史上の出来事の一場面を、劇的な効果を生み出すように描き出す才能があり、30歳で画家としての地位を確立した。古典派の端整な画風の中にこうしたロマン派的な劇的要素を加味したことで、一般大衆に愛好され、ある意味で軽蔑の混じった評言としてしばしば「中庸派」(L'école du juste milieu)と呼ばれた。



Paul Delaroche :  Napoléon à Fontainebleau,
le 31 mars 1814 / Paris, Musée de l'Armée
Crédit : Photo (C) Paris - Dist. RMN-Grand Palais
 / image musée de l'Armée






1840年頃からこの7番地の館に住んだが、隣家の大画家オラース・ヴェルネ(Horace Vernet, 1789-1863)とも親しく交友があり、その娘ルイーズ(Louise Vernet, 1814-1845)とは17の年齢差はありながら、熱愛の末に1843年に結婚し、姻戚となった。

後年には多くの肖像画に取り組み、この分野に才能を発揮した。彼の描く肖像画の人物には強い視線を感じさせるものが多いのが特徴で、それは必ずしも正面の描き手の画家に向けられたものではなく、描かれた人物のその時の心理状態をうかがわせるものが感じられる。

右掲(→)は『フォンテーヌブローのナポレオン、1814年3月31日』と題された有名な歴史的人物画で、退位を決めた「失意のナポレオン」の表情を巧みに描き出している。しかもその鋭い視線の先には、復権の野望をすでにうかがわせる。

Delaroche : Hérodiade (1843)
Cologne, Wallraf-Richartz Museum
via Wikimedia Commons



(←)左掲は『エロディアド』(ヘロディア)。聖書に書かれたヘロディアとは、サロメの母親のことで、サロメが王の前で踊って褒美に何か、ときかれた時に、洗礼者ヨハネの首を所望するようにとサロメをそそのかした人物である。19世紀後半から世紀末にかけては「サロメ」のテーマが文学、絵画、演劇、音楽と広範囲に取り上げられたが、そのほとんどが1870年以降であるのに対し、ドラロシュはその先駆けとなる作品を1843年に描いていたことになる。生首を前にして斜め下を見据えた彼女の視線も、氷のような不気味な美しさである。

ドラロシュは1832年に35歳の若さで芸術アカデミーの会員に選ばれた。近くのラヴァル通り(現在のヴィクトル・マセ通り)にアトリエを構え、弟子として風景画家のドービニー、バルビゾン派のミレー、歴史画家のジェロームなど多くの画家を育成した。(CVP, DNR, LAI)




2015年12月19日土曜日

9区サン=ジョルジュ地区(12-3)画家ヴェルネ一族の館

☆ラ・トゥール・デ・ダム通り5番地 (5, rue de la Tour des Dames, 9e)  《画家ヴェルネ一族の館》



(c)Photo Emoulu bc24a, 2003
5番地の建物は歴史的建造物になっていないが、この通りにふさわしい品格のある門構えで、18世紀から歴史画家として有名だったカルル・ヴェルネ(Carle Vernet, 1758-1836) とその子のオラース・ヴェルネ(Horace Vernet, 1789-1863)の親子が住んでいた館である。

Anonyme : Joseph, Carle
et Horace Vernet, peintres français
Paris, musée d'Orsay
Crédit Photo (C) RMN-Grand Palais
 / Hervé Lewandowski








実は一代前のジョゼフ・ヴェルネ(Joseph Vernet, 1714-1789) もまた大革命前の時代の高名な海洋画家として知られていたので、実質三代にわたって大画家を輩出した一族ということになる。

後世から見れば単に「これはヴェルネの絵だ」と言うだけでは事が足らず、父か、子か、孫かを補足する必要がある。

Joseph Vernet : Tempête avec naufrage
Allemagne, Munich, Bayerische Staatsgemäldesammlungen, Alte Pinakothek
Crédit Photo (C) BPK, Berlin, Dist. RMN-Grand Palais / image BStGS








まず最初のジョセフ・ヴェルネ(Joseph Vernet, 1714-1789)は、アヴィニョンで生まれ、南仏とローマで絵の修行をし、マルセイユに定住し、フランスの風景画史上最高の画家とされたクロード・ロラン(Claude Lorrain, 1600-1682)に強く影響を受けた港湾の風景画を多く描いた。1753年からパリに移り、ルイ15世からフランスの主要な22の港の絵の連作「フランス諸港」の注文を受け、そのうちの15までを完成させた。彼は風光明媚な港の風景を描く一方で、暴風雨に見舞われた難破船や月光に照らされた港の夜景などのロマン派的な物語性のある作品も多く残している。(DNR)

Carle Vernet : Chasse au daim pour la Saint-Hubert en 1818, dans les bois
de Meudon / Passage de l'eau dans l'étang de Ville d'Avray
Paris, musée du Louvre
Crédit Photo (C) RMN-Grand Palais

次のカルル・ヴェルネ(Carle Vernet, 1758-1836)は、その生涯の大半が大革命とナポレオンによる戦争の連続であった時代で、戦争画の開拓者とも言われ、歴史的・軍事的な記録画を多く残した。また彼は馬の動きを巧みに描くことも得意だった。1816年に芸術アカデミー会員に選ばれた。(DNR)

(→)右掲は、王政復古後の1818年にパリ郊外のムードンの森で行われた鹿狩りの様子を描いたもので、まるで軍隊の演習のように大規模な人馬と猟犬の様々な動きが大画面に表わされている。

Horace Vernet : Louis-Philippe, duc d'Orléans, nommé lieutenant général du royaume, quitte à cheval le Palais Royal pour se rendre à l'hôtel de ville de Paris, le 31 juillet 1830 - épisode de la Révolution de 1830
Versailles, châteaux de Versailles et de Trianon
Crédit Photo (C) RMN-Grand Palais (Château de Versailles) / Gérard Blot
最後のオラース・ヴェルネ(Horace Vernet, 1789-1863)は、当初祖父の画風を踏襲した海洋画を描き、次いで父と同じようにナポレオンの英雄的な勝利と栄光を再検証するかのように「ジュマップ」、「イエナ」、「ワグラム」、「フリートランド」、などの戦いの絵を再現した。(↑)上掲は「1830年の七月革命において新王に選ばれたオルレアン公ルイ=フィリップが騎乗してパレ・ロワイヤルを出てパリ市役所に向かう場面」という歴史的瞬間を人民の熱狂とともに描き出している。彼はこうした大画面に広がる戦闘や革命の光景の中に、非常に多くの兵士や市民の様々な動きを描き分け、その集合体としてのエネルギーを見る者に及ぼす力量があった。

彼も1826年37歳で芸術アカデミーの会員となったのに加え、1829年にはローマのフランス・アカデミー館の館長を務めた。この5番地の館は芸術家たちのあまり気取らない自由な交遊の場となった。(LAI, CVP, DNR)

(↓)下掲は、フランスが1830年代にアルジェリアを植民地化するために軍隊を送り込み、各地で戦闘が繰り広げられたことをもとに、国威発揚の意味でヴェルネに描かせた作品の一つである。
画題は「1837年のアルジェリア征服の挿話」とあり、コンスタンティーヌ(Constantine)の要衝を攻めとる場面である。縦長の構図に迫力がある。実際は苦戦に次ぐ苦戦であったという。


Horace Vernet : Episode de la conquête de l'Algérie en 1837
Versailles, châteaux de Versailles et de Trianon
Crédit  Photo (C) RMN-Grand Palais (Château de Versailles) / Gérard Blot