パリの街角散歩です。カタツムリのようにゆっくりと迂回しながら、そして時間と空間をさまよいながら歩き回ります。


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2015年12月29日火曜日

散歩R(13-3) デュマの大舞踏会の家 Demeure de Dumas Père, lors de son grand bal masqué à 1833 (9区サン=ジョルジュ地区)

☆サン=ラザール通り40番地 40 rue Saint-Lazare, 9e
(c) Google Streetview
40 rue Saint-Lazare, 9e
《文豪デュマの大舞踏会の家》

サン=ラザール通り(右手)とテブー通り(左手)の交差する角は、現在郵便局の建物となっている。昔はここが40番地で、当時あった建物の4階にデュマが1831年から1833年までの2年余り住んでいた。当時はこの建物もステータスの高い住宅地「スクヮル・ドルレアン」(Square d'Orleans)の一角であった。その後「スクヮル・ドルレアン」の入口はテブー通り80番地に変えられた、右(→)画像で左手の青い交通標識の右に黒い入口が見える。

この時期のデュマは女優のベル・クレルサメ
と同棲しており、1831年3月に娘マリー・アレクサンドリヌ(Marie-Alexandrine)が生まれ、デュマはこれを認知した。引き続いて6年前に生まれていた息子のアレクサンドル・デュマ(フィス)(Alexandre Dumas fils, 1824-1895)も初めて認知した。この1831年にはデュマは29歳で、5月にポルト・サン=マルタン座で初演した『アントニー』(Antony)が前例のないほどの大成功を収め、130回もの公演を重ねた。主演はマリー・ドルヴァル(Marie Dorval)とボカージュ(Bocage)だった。
さらにその翌年1832年5月には『ネールの塔』(La Tour de Nesle)が前作をさらに上回る未曽有の成功をもたらした。かくしてデュマはまず手始めにロマン主義演劇の頂点に立ったのだった。


Le carnaval des boulevards en 1828
Illustration par Bertall, @BnF Gallica

これらの戯曲の大成功を祝して、デュマは1833年3月30日に盛大な仮装舞踏会を催した。デュマの一生は大金を稼いだり、借金取りに追われたりと、浮沈の激しい劇的な生活の連続であったが、この時も儲けた金に飽かせて馬鹿騒ぎの催しを企てた。ちょうどこの日がパリの「謝肉祭」(カルナヴァル, Carnaval)の日であって、自宅に700名を超える招待客を呼んだものの、全員が入れるはずはなく、一部は朝の9時から楽隊を先頭に大通りまで仮装行列を繰り出し、大通りでのカルナヴァルの群衆に合流したりした。デュマの家では絶えず入れ替わり立ち代わり客が出入りし、夜中まで餐宴が続けられたという。(↑)上掲のイラストは「1828年の大通りの謝肉祭」の様子を描いたベルタル(Bertall)の版画だが、この時代の風俗をうかがい知ることができる。(CVP, PRR)

2015年12月27日日曜日

9区サン=ジョルジュ地区(13-2)女優マリー・ドルヴァルの家

☆サン=ラザール通り44番地 44 rue Saint-Lazare, 9e
Marie Dorval dans le rôle de
Marion de Lorme, héroïne du drame de
Victor Hugo; Documents iconographique
@BnF  Gallica
《女優マリー・ドルヴァルの家》

マリー・ドルヴァル(Marie Dorval, 1798-1849)の名前はロマン主義文学における劇作品の革新に深く結びついている。彼女は俳優の両親のもとに生まれたが、父親は妻子を見捨てて出奔し、母親は病死し、親戚に育てられながら子役で舞台に立った。16歳で結婚したが、夫も5年後に旅先で病死した。彼女は20歳で2人の子供を産みながら、未亡人となった。地方の劇団で活動しているうちにパリのポルト・サン=マルタン座との契約を得てパリに出た。
彼女が女優としての名声を確立したのは1827年29歳
のときで、その演技に伝統的な古典派の芸術性よりも感受性あふれる性格表現と情熱の発露がまさっていたことで、パリの観衆の熱烈な支持を得た。
(→)右掲は、ヴィクトル・ユゴー(Victor Hugo, 1802-1885)の5幕の韻文劇『マリオン・ドロルム』の主役として1831年に初演された時のマリー・ドルヴァルの姿である。当時のロマン派劇作家としては、ヴィクトル・ユゴーが『クロムウェル』(1827)、『エルナニ』(1830)、『マリー・テューダー』などでロマン主義運動の先頭に立ち、アレクサンドル・デュマ(Alexandre Dumas, 1802-1870)も『アンリ三世とその宮廷』(1829)、『アントニー』(1831)などで競い合った。マリー・ドルヴァルはこれらの戯曲の公演でそのほとんどの主役となった。一時期、デュマとは愛人関係があったが、その後彼に紹介されたアルフレッド・ド・ヴィニー(Alfred de Vigny, 1797-1863)と熱烈なかつ波乱に満ちた恋愛関係となり、1838年まで続いた。

Rue Saint-Lazare, n° 44 : Maison habitée par Mme Dorval, 1837 :
estampe / APM [Potémont] ; Dessin de M. Régnier
ちょうどこの時期に彼女はこの44番地の家に住んでいた。(←)左掲は1837年当時の石版画で、有名人はその肖像画と共にその住まいも好んで紹介されたものと思われる。まだまだ鄙びた地方都市の一軒家という風情である。

実は、彼女の肖像画も沢山出されたが、正直「美貌の女優」と言えるものはほとんどなく、(大体が怖そうなキツイ顔で)上掲のものが「最良」とされている。ユゴーは彼女を評して「美人じゃない、彼女は美人以上だ!」(Elle n'est pas belle ... elle plus que belle!)と語ったという。しかし、たとえ美しくなくともその舞台芸術は「恋多き女性」(femme amoureuse)の伝説と共に歴史に語り継がれている。
(c) Google Map Streetview,
44 rue Saint-Lazare, 9e

(←)左掲は現在のサン=ラザール通り44番地の様子である。ほとんど特徴のない普通のビルで目立たない。入口の横に「パリの歴史」(Histoire de Paris)と書かれた史跡案内板が設置されている。これは言うまでもなく「この場所に女優のマリー・ドルヴァルが住んでいた。」という内容が書かれている。
単純にボートをこぐ櫂のような形をしている。この表示板は、現在制作者から厳しい著作権上の制限を受けていて、表示板を直接的な対象物として画像を掲載するのを禁じている。ただし、この画像のように家の建物を写したときに「たまたま」一緒に写ってしまった、という程度ならば大目にみてもらえるという判断が示されている。

*参考サイト:Panneau Histoire de Paris(仏文)
https://fr.wikipedia.org/wiki/Panneau_Histoire_de_Paris





*参考Link :100年前のフランスの出来事: 戯曲「マリオン・ドロルム」の再演 (1907.04.22)
http://france100.exblog.jp/5221951/


*参考サイト:Breizh Femmes - Histoire(s) - Marie Dorval(仏文)
http://www.breizhfemmes.fr/index.php/10-histoire-s/107-histoire-s-marie-dorval



2015年12月23日水曜日

散歩R(12-5) 名優タルマの館 Hôtel de Talma, célèbre acteur(9区サン=ジョルジュ地区)

☆ラ・トゥール・デ・ダム通り9番地 (9, rue de la Tour des Dames, 9e)  
《名優タルマの館》(Hôtel Talma)
PA00088919  © Monuments historiques, 1992 

« Hôtel Talma », 9 rue de la Tour des Dames, 9e
By MOSSOT (Own work) CC BY 3.0,
via Wikimedia Commons
この館は1820年に当時の著名な俳優フランソワ=ジョゼフ・タルマ(François-Joseph Talma, 1763-1826)のために建てられた。彼はここで晩年の6年間を過ごし63歳で世を去った。タルマは、18世紀末から19世紀初頭にかけて活躍した演劇界を代表する名優であった。この家の内装はドラクロワに依頼された。

ドラクロワはタルマの舞台衣装姿の肖像画も描いている。(↓)ラシーヌの悲劇『ブリタニキュス』の中のローマ皇帝ネロの役の姿である。
Eugène Delacroix : Talma au rôle de Néron
dans Britannicus, tragédie de Jean Racine
Collection de la Comédie Française,
via Wikimedia Commons






タルマは舞台衣装の改革に取り組み、それまで普通の衣服を着ていた古代ギリシア・ローマ時代を背景とした劇作品の演技において、できるだけその時代の衣装を、つまりトーガと呼ばれる長衣や編上げの草履(←絵参照)を身に着けることを推し進めた。

さらに古典主義の古臭く大げさに誇張された朗唱法を改革し、詩句の語り口の自然な節回しを心がけた。

彼の朗々とした発声と堂々とした演技は、身体的にも皇帝ナポレオンに似通っていたのは確かだったようで、ナポレオン自身もかタルマを贔屓とし、遠征先まで劇団を呼び寄せて上演させたこともあった。

Hamlet, tragédie de Jean-François Ducis :
Talma (Hamlet) et Joséphine Duchesnois (Gertrude)
Paris : Comédie-Française, 23-05-1807
Paris, Bibliothèque nationale de France (BnF)



(→)右掲は、『ハムレット』を演じるタルマとその相手役(ハムレットの母親ゲルトルード)を演じるジョゼフィーヌ・デュシェノワの舞台絵で、1807年5月23日のコメディ・フランセーズでの公演である。この時代のフランスでは、シェークスピアの戯曲はフランス語に忠実に翻訳するのではなく、劇の大筋だけを残して、フランス人劇作家がフランス語の韻文の台詞を新しく書き下ろして上演する形が定着しており、フランスの観客にはそうしなければ受け入れるのが難しかったのだと思われる。この『ハムレット』もそうで、ジャン=フランソワ・デュシ(Jean-François Ducis, 1733-1816)という劇作家が他にも『ロメオとジュリエット』、『リア王』、『マクベス』、『オセロ』などを翻案して作っている。

王政復古となって、輝かしかったタルマの地位にも陰りが出たが、1820年この館に移り住んだ以降でも、新たな作品に取り組む姿勢は変わらず、『マリー・スチュアート』、『シャルル6世』などで新たな喝采を博した。しかし、その最後の成功の数日後にタルマは死去した。

アレクサンドル・デュマは、タルマを非常に尊敬し、未整理のまま残された彼の自伝や覚書を編集し、自ら長大な序文を付けて出版している。(CVP, DNR, LAI)


2015年10月7日水曜日

散歩R(2-2) フレシエ通り Rue Fléchier, 9e(9区サン=ジョルジュ地区)

☆フレシエ通り4番地 (4, rue Fléchier, 9e)
《モード週刊誌「ラ・シルフィード」の版元》
 
La Sylphide, 1839: Numa No.5
(c) BnF Gallica


 19世紀の中頃は出版文化も大きく発展した時代であった。特に把握しきれないほど数多くの新聞や雑誌が次々と創刊されては消滅あるいは買収されるということを繰り返していた。新聞(journal)と称していても週刊(hébdomadaire) のものも多い。婦女子向けの服飾や化粧とともに文学、美術、音楽など記事を盛り込んだ雑誌も少なくなく、この週刊誌「ラ・シルフィード」(La Sylphide)は1839年から1875年まで40年近く続いた。当時の印刷技術では高価だったカラー刷りの服飾画は人気があったようで、別刷りの「口絵」として挿入された。

 下掲は「ラ・シルフィード」創刊号の表紙である。版元の住所がフレシエ通り4番地となっていた。注目すべきはその錚々たる執筆陣で、表紙の下部にバルザックを筆頭にデュマ、ゴーティエ、ジラルダン夫人などが挙がっている。当時は少なくともこの建物にこうした文豪たちが頻繁に出入りしていたことを想うと感慨深い。
La Sylphide, Journal de modes, de littérature, de théâtre et de musique; 1839
(c) BnF Gallica
表紙の絵は当時絶大な人気を誇ったオペラ座のバレエ「ラ・シルフィード」(La Sylphide, 空気の妖精)の主役マリー・タリオーニ(Marie Taglioni, 1804-1884)の舞台で踊る様子を描いたもので、そのままモード雑誌の名前に流用して、女性購読者の興味を引きつけようとしたと思われる。

(なおバレエの「ラ・シルフィード」の初演は1832年であり、20世紀に入ってからショパンの作品をもとに編曲編成された「レ・シルフィード」(Les Sylphides)とはまったく別のバレエである。
作曲者はシュナイツホーファとロヴィンショルドの2通りの版がある。)