(c) Google Map Streetview 9, Avenue de Clichy, 17e |
《 カフェ・ゲルボワ跡 》 (Ancien emplacement du café Guerbois)
クリシー広場を中心に方々の街路の名前にクリシーとついている。北に伸びる通りは、アヴニュ(Avenue de Clichy) という。ここでは他の通りと区別するために「並木通り」と訳した。アヴニュ(英語でアヴェニュ)は文字通り並木道になっている。
9番地の入口の横に「パリの歴史」(Histoire de Paris)と書かれた史跡案内板が設置されている。これは言うまでもなく「この場所に印象派を生み出した画家たちが集まったカフェ・ゲルボワがあった。」という内容が書かれている。単純にボートをこぐ櫂のような形をしている。
*参考サイト:Panneau Histoire de Paris(仏文)
https://fr.wikipedia.org/wiki/Panneau_Histoire_de_Paris
「カフェ・ゲルボワ」(Café Guerbois)は19世紀半ばにおける画家、作家、芸術愛好家たちの寄り合いと意見交換の場であった。エドゥアール・マネ(Edouard Manet, 1832-1883)は、すでに20代でサロン(官展)入選を果たし、新進画家として注目されていたが、意欲作の『草上の昼食』(Le Déjeuner sur l'herbe)が1863年のサロンで落選し、その他多くの若手画家の作品も落とされたため、審査員の鑑識眼が問題視され、皇帝ナポレオン3世は別途「落選作展」(Salon des refusés)を開催させることにした。この頃からマネの目ざす絵画の方向性に共感する若い画家たちが集まるようになり、当時マネのアトリエからほど近いこのカフェが仲間たちとの待ち合わせの場所として使われるようになった。
E.Manet - Au café (1869) National Gallery of Art, Washington DC Wikimédia Commons |
特に、大衆の無理解、現勢力の大御所の画家たちへの敵意、権力への不服従、社交界の仕組みへの反発、サロンに受け入れられない者への冷遇などについて議論を深めて行き、やがて新しい印象派としての潮流が醸成されて行ったことは間違いない。
(c) Google Map Streetview 11, Avenue de Clichy, 17e |
「カフェ・ゲルボワ」の一軒隣の11番地には、「エヌカン」(Hennequin) という画材店があった。現在では1階がスポーツ用品店に変わってしまったが、19世紀には1~2階とも画材店で、2階の壁面に当時のままの装飾が残されている。「1830年創業」の文字とXに交差した絵筆とパレットがモザイク模様の壁面とともに見られる。
「カフェ・ゲルボワ」に頻繁に出入りしたマネを始め、印象派の若い画家たちが便利ついでに絵具や画材を買い求めたことで知られる。
1870年以降に、画家たちの集う場所がブランシュ広場の「ヌーヴェル・アテーヌ」(Nouvelle Athènes)に移ってからは客足が細くなったという。
かたつむりの道すじ:①クリシー並木通り~②クリシー広場・クリシー大通り~③クリシー通り~ ④ブリュッセル通り~⑤アドルフ・マックス広場~⑥ドゥエ通り~⑦ブランシュ通り~⑧カレ通り~ ⑨バリュ通り~⑩ヴァンティミル通り~⑪クリシー通り(再) (c) Google Map |
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