パリの街角散歩です。カタツムリのようにゆっくりと迂回しながら、そして時間と空間をさまよいながら歩き回ります。


2016年1月15日金曜日

9区サン=ジョルジュ地区(16-4)サン=ジョルジュ劇場と旧レザナール女子大学跡

☆サン=ジョルジュ通り51番地 (51, rue Saint-Georges, 9e)
《テアトル・サン=ジョルジュ》 (Théâtre St.Georges)
(c)Photo Emoulu bc09, 2013

サン=ジョルジュ通りを北に向かって広場のほうに上がってくると、その手前に小さなサン=ジョルジュ劇場の建物が目に入る。
この劇場は、以前「レ・ザナール」(Les Annales)という週刊の政治文芸評論誌の出版社の建物だったものを劇場用に改装して1929年2月にこけら落しが行われた。以後現在まで90年近い歴史を持っている。初めの数カ月はグラン=ギニョル座を継承するような恐怖劇の路線だったが、まもなくブルヴァール喜劇の人気作を取り上げるようになり、何代もの主宰者が変わっても喜劇を専門のジャンルとする伝統となって、行き届いた演出と優れた出演者だという定評がある。
(c) Google Map Streetview
 51, rue Saint-Georges, 9e
もう一つ面白いのはこの建物で、(↑)上の写真で見える窓や壁の装飾のほとんどが「だまし絵」
(トロンプルィユ, Trompe-l'œil)で描かれている。
窓枠や手すりまでも近くで見れば嘘だとわかるが、狭い劇場だからこその建築家の知恵だったようだ。
なおこの劇場の建物は、フランソワ・トリュフォー(François Truffaut, 1932-1984)が1980年に作った映画『終電車』(Le Dernier métro)の撮影に使われた。

「人生には笑いが必要だ」と言われるように、この劇場の財産とも言うべき演目一覧 (Théâtre Saint-Georges - Toutes les pièces) を見ると「笑い」をいかに人々にもたらすかという劇場の使命をうかがい知ることができる。(残念なのはフランス語の言葉の壁で、喜劇映画の字幕付きのような条件でなければ一緒に笑えないことだ。)

Journal de l'université des Annales,
du 15/12/1910
この建物には以前「レ・ザナール」(Les Annales)という週刊誌の出版社が入っていた。1883年にジュール・ブリッソン(Jules Brisson, 1828-1902)が創刊した政治から文芸に至るまでの広い分野のダイジェスト誌だった。20世紀に入って息子のアドルフ・ブリッソン(Adolphe Brisson, 1860-1925)とその妻イヴォンヌ・サルセー (Yvonne Sarcey, 1869-1950) によってパリのほか地方の中小ブルジョワ層まで購読者を増やし、発行部数は20万部近くまで伸びた。

1907年1月10日にイヴォンヌ・サルセー(本名マドレーヌ・ブリッソン Madeleine Brisson) は、この建物に「レザナール大学」(Université des Annales) と称する婦女子向けの講演会形式の教養企画を立ち上げた。

Le Figro au 10 Jan. 1907
@BnF Gallica






(←)左掲は同日付の新聞「フィガロ」の第1面に載った記事の一部である。

[ レザナール誌の読者から 《従妹のイヴォンヌ・サルセー》 という筆名でよく知られているアドルフ・ブリッソン夫人は、その素晴らしい行動力によって「大学の設立」という驚くべき複雑かつ見事な事績を成し遂げた。本日、サン=ジョルジュ通り51番地にその門が開かれる。
レザナール大学は若い女性たち向けに作られた。実践的かつ文学的な教育を彼女らに与えることを目指している。つまり、魅力的な女性を、洗練された家庭婦人を、あるいは活力と知性を持って人生の様々な状況において意思表示のできる力強い女性を形成することを目的としている。 ](以下略)

講座の科目は、裁縫、服飾、速記タイプ術、家政学から、フランス文学、外国文学、衛生学、道徳、歴史、音楽、美術と多種多様に拡がっており、錚々たる講師陣には各アカデミーの会員までも加わる充実度で、たちまち盛況となった。マドレーヌ・ブリッソンの業績はフランスにおけるフェミニスム運動の歴史にはあまり注目されてはいないが、当時は大きな影響力を及ぼしていたと思う。

大学は第一次大戦後に別の場所に移転したため、大講堂だった場所をサン=ジョルジュ劇場用に改装することになったという。

*参考Link :100年前のフランスの出来事:
(1) 文士たちの決闘(1907.03.20) アドルフ・ブリッソンの決闘事件
(2) サダヤッコのパリ再演 (1907.12.08) レザナール大学講座への出演
 


2016年1月13日水曜日

散歩R(16-3) ルノワールのアトリエ Emplacement de l'atelier d'Auguste Renoir(9区サン=ジョルジュ地区)

☆サン=ジョルジュ通り35番地 (35, rue Saint-Georges, 9e)
《画家ルノワールのアトリエ》 (Emplacement de l'atelier d'Auguste Renoir)
(c) Google Map Streetview
 35, rue Saint-Georges, 9e

1873年、32歳のルノワール(Auguste Renoir, 1841-1919)は、画商のデュラン=リュエルに何点かの絵を買ってもらって得たお金をもとに35番地の最上階6階にアトリエを構えることができた。この家にはすでに弟のエドモン(Edmond)が住んでいた。ここには新たな絵画表現という目的を共有するモネ、ピサロ、ドガ、シスレー、ギヨーマン、セザンヌなどの画家たちが集まる場所となり、彼ら独自のグループによる展覧会を開こうと、その年の12月27日にいわゆる「実行委員会」のような法人組織を立ち上げた。仮の代表には、彼らと親しい近所の画商マルタン親父(Père Martin)ことピエール・マルタン(Pierre Martin)が指名された。このアトリエを中心に準備のための会議が重ねられた。

Renoir : L'Atelier de la rue Saint-Georges (1876)
The Norton Simon Museum, USA
@Wikimedia commons




まだこの時には《印象派》(Impressionniste)という名称は使われていない。第1回目の展覧会は1874年4月15日から1カ月間、キャプシーヌ大通りにあった写真家ナダールのスタジオ跡で開催された。参加者は29名、出展作品は165点となった。

彼らの作品はこれまでのフランス絵画の伝統と技法に真っ向から対立する立場が鮮明であったため、サロンには毎年落選を続けていたので、彼らの独自の展覧会は嘲笑と蔑視の対象となった。展覧会の収支も大幅な赤字となった。

(←)左掲の絵はルノワールが1876年に描いた『サン=ジョルジュ通りのアトリエ』という作品だが、画家のアトリエ紹介というよりも印象派の画家たちの会合の様子が描かれており、世間の無理解に屈服することなく、その後も展覧会を開催し続けた彼らの情熱をうかがい知る貴重な絵である。計8回に及ぶ印象派展によって彼らの評価は次第に高まり、フランス美術の潮流を逆に支配することになる。このアトリエは印象派のゆりかごでもあったと思う。(LAI, PRR)


2016年1月11日月曜日

9区サン=ジョルジュ地区(16-2) ゴンクール兄弟の旧居

☆サン=ジョルジュ通り43番地 (43, rue Saint-Georges, 9e)
《作家ゴンクール兄弟の旧居》


(c) Google Map Streetview
 43, rue Saint-Georges, 9e
ゴンクール兄弟(Les frères Goncourt)は、兄エドモン・ド・ゴンクール(Edmond de Goncourt, 1822-1896)と8歳年下の弟ジュール・ド・ゴンクール(Jules de Goncourt, 1830-1870)が共同執筆の形で文学活動をした筆名でもあった。フランス東北部に広大な土地を所有する家系に生まれたが、両親と妹を若くして相次いで失い、エドモンが26歳の時にはこの兄弟だけが残った。

パリで教育を受けたものの、彼らにとっては相続によって働かなくとも食うに困らない金利収入が得られるという身の上となったので、二人で情熱を傾けることができる文学と芸術の分野に進むことに決心した。各地を旅行した後、1849年12月17日からこのサン=ジョルジュ通り43番地の家に住み始めた。エドモン27歳、ジュールは19歳だった。最初の冬は通りに面した1階の薄暗い部屋だったが、やがて中庭の奥の4階の部屋に移った。

Edmond et Jules de Goncourt
Lithographie de Gavarni (1853)
dans la suite de "Messieurs du feuilleton"
@BnF Gallica
彼らの文筆活動は、歴史や美術、骨董の分野から次第に演劇や小説に広がって行った。1851年からはジュールが「日記」(Journal)をつけ始めた。この日記は1870年にジュールが若くして病死した後もエドモンによって書き継がれ、「文芸生活の思い出」(Mémoires de la vie littéraire)という副題で出版され、19世紀後半の文芸界のみならず、広範囲にわたる社会の時事風俗の記録として貴重な資料となっている。

ここは当時の歓楽街で有名なブレダ地区に隣接しており、娼家や妾宅も多かった。兄弟はこれらの地域に暮らす様々な人間模様を克明に観察し、上辺は華やかでも実生活では悲哀に満ちた実態を作品に描き出した。それはやがてゾラなどの自然主義文学に受け継がれた。

代表作の小説『ジェルミニー・ラセルトゥ』(Germinie Lacerteux, 1865)については、一人の真面目な家政婦が実は裏で別の顔を持った人間として生活し、最後はアルコール中毒と肺結核で病死するという物語である。これにはゴンクール兄弟の家の家政婦として25年以上も働いてきたロザリー(ローズ)という女性が1862年に亡くなったとき、葬儀のあとでその意外な二重生活が露わになって驚いたという事実をもとにしている。

1868年にパリ16区のオートゥイユに引っ越すまでの、ここでの19年間は兄弟としての創作活動の最盛期でもあったと思われる。(LAI, PRR)

2016年1月9日土曜日

9区サン=ジョルジュ地区(16-1)サン=ジョルジュ通り Rue Saint-Georges, 9e

ドーマル通りの東の突き当たりからサン=ジョルジュ通りに出る。この通りの名前は、古くルイ14世の時代の1672年から存在し、当時はパリの町外れの田舎道であって、道端の店舗に「竜を退治
Paolo Uccello - Saint Georges terrassant le dragon (v. 1435)
Tempera sur bois, 52 × 90 cm, @Musée Jacquemart-André, Paris.
するサン=ジョルジュ」の看板が掛かっていたのがその由来とされている。
サン=ジョルジュ(Saint-Georges)は聖ゲオルギウスという殉教者のことで、紀元3世紀の小アジアのカッパドキアの出身で、戦士としてローマ皇帝のキリスト教徒迫害の勅命に抗して、ニコメディアの王宮の門前で殉教したと伝えられる。
初期キリスト教では、竜は異教の象徴とされ、槍で退治することが改宗の実現とされた。婦人はその都市の寓意である。このテーマは宗教性を越えて、英雄伝説の一つとして西洋絵画で長く取り上げられている。(←)左掲のルネサンス初期のウッチェロことパオロ・ウッチェロ(Paolo Uccello, 1397-1475)の絵は簡素でプリミティフな表現で印象深い。(DNR)


Le Bon Georges (c)Arti Com, 2015

☆サン=ジョルジュ通り45番地 (45, rue Saint-Georges, 9e)
《ビストロ「ル・ボン・ジョルジュ」》(Le Bon Georges)

ドーマル通りとサン=ジョルジュ通りとの角にあるビストロ。入口の両脇に飾られている古風なタイル画の看板が魅力的である。気軽に入って食事したくなる雰囲気がある。「善良なジョルジュの店」といった意味だろうか。もちろんサン=ジョルジュに絡んでいるが。






2016年1月7日木曜日

9区サン=ジョルジュ地区(15-2)楽匠ワーグナーのパリ滞在先

☆ドーマル通り3番地 (3, rue d'Aumale, 9e)
《作曲家ワーグナーのパリ滞在中の家》

リヒャルト・ワーグナー(Richard Wagner, 1813-1883)が自作の歌劇『タンホイザー』(Tannhäuser)の上演を企ててパリにやってきたのは1859年9月、46歳の時のことで、さまざまな運動や工作を経て上演にこぎつけるまで約1年半かかった。結果は惨憺たる失敗となったものの、音楽史上に記憶される出来事となった。

ドイツで革命運動に加担して、政治犯としてスイスに亡命してから、ワーグナーは楽劇『トリスタンとイゾルデ』(Tristan und Isolde)を完成させていた。パリに出てすぐにワーグナーは社交界に紹介され、特に同じころに駐仏オーストリア大使夫人として着任したばかりのパウリーネ・フォン・メッテルニヒ(Pauline von Metternich, 1836-1921)のサロンで彼女の強力な支援を受けた。翌1860年1月にはイタリア座における管弦楽のみの演奏会で、ワーグナーの作品が彼自身の指揮で演奏された。歌劇『さまよえるオランダ人』序曲や歌劇『ローエングリン』序曲に加えて、完成したばかりの楽劇『トリスタンとイゾルデ』の前奏曲も取り上げられた。聴衆はおおむね熱心な反響を示したが、評論家たちは冷ややかだった。しかしながら3月には、外交的な配慮も含まれたが、ナポレオン3世から『タンホイザー』をオペラ座の演目として取り上げるようにとの勅命が出て、その準備が始まった。



(c) Google Map Streetview
 3, rue d'Aumale, 9e


















この滞在の初めの1年間、ワーグナーは、当時パリ郊外の野原だったシャン=ゼリゼ近くのニュートン通り16番地(16, rue Newton)に居を構えていたが、オスマン男爵の都市計画による道路の拡張工事のため立ち退きを余儀なくされ、1860年10月からこのドーマル通り3番地の家の3階に妻のミンナと共に移ってきたのである。「やむを得ず別の場所に家を探すことになって、ドーマル通りに陰気くさくてみすぼらしい住まいを見つけた。秋の終わりのひどい天候の時期に引っ越したが、この移転作業とオペラの稽古が重なって私は熱を出して倒れてしまった。」と彼は語っている。

彼には上演のための諸条件を優遇され、出演者たちは160回を超える稽古を課せられた。しかも毎回ワーグナーの立会いや指導を受けるものだった。ワーグナーも『タンホイザー』の改作に取り組み、特にフランスでのオペラ公演に必須とされたバレエの場面を付け加え、いわゆる「パリ版」(Version Parisienne)を作った。公演は1861年3月13日に皇帝ナポレオン3世夫妻の臨席のもとに行われた。しかしワーグナーの作品に反感を抱いたジョッキー・クラブの若い貴族たちによる執拗な妨害で劇の進行に差し障りが出た。その主な理由として、バレエが第1幕早々に演じられたことに腹を立てたことで、通常はオペラの進行の中での気分転換の意味で第2幕以降に演じられるのがパリの慣習だったという。恐らくそれだけではなく、音楽表現の過大な強烈さも好悪を二分したのだろう。結果として公演は3回のみで打ち切られ、完全な失敗となった。

(↓)下掲はパリ公演用に描かれた第2幕「歌合戦の間」の舞台装置画である。

Opéra - Tannhäuser : esquisse de décor de l'acte II : salle des chanteurs
/ Philippe Chaperon et Edouard Despléchin @BnF Gallica
パリではこの事件のあと、『タンホイザー』をもじったパロディ劇が早速ヴァリエテ座など数カ所で演じられた。オペラが終了となったあと、ワーグナーはそそくさとフランスを後にしたと書かれている伝記もあるが、この家に掛かっている碑銘によると1681年7月までは滞在していたという記録になっている。
政治犯としての罪科に対し、前年11年ぶりにやっと恩赦が出たばかりで、すぐには身を落ち着かせる場所が見つからなかったからだろうと思われる。それでも彼は4月~5月とドイツからオーストリアにかけて、次の機会つまり楽劇『トリスタン』の公演の可能性を探る旅をしている。飽くなき精神力の持ち主と言わざるを得ない。(MAH, PRR)


2016年1月5日火曜日

散歩R(15-1) ドーマル通り Rue d'Aumale, 9e(9区サン=ジョルジュ地区)

フランス語の母音で始まる固有名詞の前にdeがつくと、d' となって連音(リエゾン)される。例えば、三銃士の「ダルタニャン」(d'Artagnan)、作曲家の「ダンディ」(d'Indy)などである。従ってここでも「ドーマル通り」(rue d'Aumale)とした。

この通りの名前はドーマル公爵(Duc d'Aumale)のアンリ・ドルレアン(Henri d'Orléans, 1822-1897)にちなんでいる。七月革命後に王位についたオルレアン公ルイ=フィリップ(Louis-Philippe d'Orléans, 1773-1850)の四男で、軍人で歴史家であった。特にアルジェリアの統治者として功績があった。(DNR)

(c) Google Map Streetview
19, rue d'Aumale, 9e

☆ドーマル通り19番地 (19, rue d'Aumale, 9e)

テブー通りとドーマル通りの角にある建物にも仮面像(マスカロン)が見られる。女性像のほうがすべすべした首筋まで見えるのも魅力的である。

ドーマル通り側19番地にある正面入口の上部には2人の幼児(天使の翼が見えない)像が支える門飾りがある。1854年の制作、彫刻家はジュソ(A. Joussot)と刻銘されている。




(c)Photo Emoulu bc28, 2013
19, rue d'Aumale, 9e





























(c) Google Map Streetview
 24, rue d'Aumale, 9e

 ☆ドーマル通り24番地 (24, rue d'Aumale, 9e)

通りを少し西側に進んだ24番地にもこぢんまりとまとまった持ち送りと門飾がある。鬼の面のような角と牙のある顔が装飾模様の中に混じっていて面白い。

(c)Photo Emoulu bc27ad, 2013


 
☆ドーマル通り10番地 (10, rue d'Aumale, 9e)
PA00088923 © Monuments historiques, 1992

24番地から通りを引き返して10番地まで戻ると、歴史的建造物に登録された個人住宅がある。木彫の扉の装飾と、門飾との控えめな調和が散歩者の目を留めさせるのだと思う。1864年の建造で、建築士はシベール(Sibert)、彫刻家としてルィヨン(Rouillon)と記されている。
この通りの建物はほとんど1850~60年代、つまりナポレオン3世の第2帝政時代に建てられており、通り全体が往時の雰囲気を残している。


(c)Photo Emoulu bc08a, 2013

かたつむりの道すじ:⑮ドーマル通り~⑯サン=ジョルジュ通り~
⑰サン=ジョルジュ広場~⑱ラ・ブリュィエール通り (c) Google Map

2016年1月3日日曜日

散歩R(14-2) テブー通り Rue Taitbout, 9e(9区サン=ジョルジュ地区)

テブー通りは、繁華街のイタリアン大通り(Boulevard des Italiens)からサン=ジョルジュ地区まで南北に伸びる街路で、ほとんど事務所か住居の建物が続く閑静な通りである。テブー(Taitbout)の名前は大革命以前にパリ市役所の書記官だった人物ジュリアン・テブー(Julien Taitbout)から名付けられたというが、理由は不明だし、この人物の事績も残っていない。この一帯の土地を所有していたのかもしれない。(DNR)
郵便局の78番地から北へ歩く一区画だけでも、多くの建物にギリシア悲劇のような仮面像(マスカロン、mascaron)が飾られているのに気づく。これも魔除けのつもりだったのだろうか。


(c) Google Map Streetview
 83, rue Taitbout, 9e

☆テブー通り83番地 (83, rue Taitbout, 9e) 

パリの労働基準監督署(Inspection du Travail)の建物。国旗が常時掲揚されている。




☆テブー通り87番地 (87, rue Taitbout, 9e)

(c) Google Map Streetview
 87, rue Taitbout, 9e











  ☆テブー通り91番地 (91, rue Taitbout, 9e)

ここは唐草模様の門飾浮彫も美しい。


(c) Google Map Streetview
 91, rue Taitbout, 9e




(c) Google Map Streetview
 91, rue Taitbout, 9e










☆テブー通り95番地 (95, rue Taitbout, 9e)  
(c) Google Map Streetview
 95, rue Taitbout, 9e


(c) Google Map Streetview
 95, rue Taitbout, 9e














(c)Photo Emoulu bc10, 2013



門飾と木彫の扉の装飾もなかなか凝っている。


(c)Photo Emoulu bc10a, 2013