パリの街角散歩です。カタツムリのようにゆっくりと迂回しながら、そして時間と空間をさまよいながら歩き回ります。


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2016年3月3日木曜日

散歩R(21-2) 作曲家バンジャマン・ゴダールの家 Maison de compositeur Benjamin Godard(9区サン=ジョルジュ地区)


☆ジャン=バティスト・ピガール通り34番地 (34, rue Jean-Baptiste-Pigalle, 9e)
《作曲家バンジャマン・ゴダールの家》 (Maison de compositeur Benjamin Godard)
PA00088968 © Monuments historiques, 1992
(c) Google Map Streetview
 34, rue Jean-Baptiste-Pigalle, 9e

この場所には大革命前の1787年頃にフリーメイスンの秘教的団体の「レザミ・レユニ」(Les Amis réunis)の施設があったという。《集友会》とでも訳せばいいのだろうか。(CVP)

現在の建物は19世紀以降のもので、歴史的建造物に指定されている。19世紀後半に活躍した作曲家バンジャマン・ゴダール(Benjamin Godard, 1849-1895)の住居だった。ゴダールは裕福なユダヤ系商人の家に生まれ、親はこの家の他にパリ北西郊外のタヴェルニー(Taverny)に広大な屋敷を所有し、父親はその土地の町長だったこともある。

早くからパリ音楽院に学んだが、作曲家としてよりもヴァイオリニストして知られるようになり、ベルギー出身の名手ヴュータン
(Henri Vieuxtemps, 1820-1881)の弟子としてドイツでの公演に同伴した。作曲は16歳でヴァイオリン・ソナタ(第1番)を発表して以来、28歳の1878年のパリ万博に合わせて実施されたパリ市の作曲コンクールで1位となるなど、交響曲、協奏曲、室内楽曲を含めた多くの作品を生み出し、そのいくつかは万博会場で演奏、紹介された。
Jocelyn, opéra en 4 actes d'après Lamartine,
musique de Benjanin Godard :
L'affiche par A. Courtines
@BnF Gallica



ゴダールの代表作とされるオペラ『ジョスラン』(Jocelyn)はロマン派の詩人ラマルティヌ(Alphonse de Prat de Lamartine, 1790-1869)の長詩から題材を取ったもので、1888年2月にブリュッセルのモネ歌劇場で初演され、その半年後にパリでも上演された。現在では、その中のアリアが「ジョスランの子守歌」(Berceuse de Jocelyn)として親しまれているに過ぎない。
彼は40歳過ぎに結核を患い、南仏のカンヌに転地療養を試みたが、1895年1月に死去した。まだ45歳だった。

彼は音楽界においては中堅どころの作曲家として活躍したが、作風としてはグノーやサン=サーンスに近いフランス・ロマン派の標準的な感情表現の枠内に留まったためか、あまり目立たないままに忘れ去られたきらいがある。埋もれた傑作としては、自身得意としたヴァイオリンのための協奏曲2曲が挙げられる。特に晩年の第2番の濃密な語り口は聴き応えがある。


◇参考Youtube -
(1) ジョスランの子守歌(チェロと弦楽合奏)
Godard : "Berceuse" from Jocelyn, for Cello & strings
https://www.youtube.com/watch?v=brgNigEoOOA

(2)ジョスランの子守歌(往年のソプラノ歌手リタ・シュトライヒ)
Rita Streich - Berceuse de Jocelyn
https://www.youtube.com/watch?v=mk84NUWOvEE

(3)ゴダール「ヴァイオリン協奏曲第2番ト短調作品131」
Benjamin Godard - Violin Concerto No. 2 in G minor, Op. 131
https://www.youtube.com/watch?v=cYJLQ4YnmMw


かたつむりの道すじ:⑱ラ・ブリュィエール通り~⑲エネ通り&ポール・エスキュディエ通り~
⑳シャプタル通り~㉑ジャン=バティスト・ピガール通り (c) Google Map


2015年10月9日金曜日

散歩R(3) ラマルティヌ通り Rue Lamartine, 9e(9区サン=ジョルジュ地区)


(c) Google Map Streetview
Rue Lamartine
ロレット教会の向かって右手の小路を通って裏手に回ると、そこは六叉路になっていて、八百屋や肉屋、魚屋などが立ち並ぶ地元商店街で人や車の往来が多い。右から2番目の狭いラマルティヌ通りに入る。

54番地とミルトン通りとの角の辺りには現在のロレット教会の前身である小さな礼拝堂があったが、革命期に取り壊された。また、このあたりからモンマルトルの丘の傾斜が始まるので、ロバに乗って楽に登れるようにと「貸ロバ処」(la cour aux Ânes)と称する場所があった。

 この通りの名前の由来は、19世紀ロマン派の詩人で政治家だったアルフォンス・ド・ラマルティヌ(Alphonse de Prat de Lamartine, 1790-1869) による。
 
Un ange déchu (Lamartine) - portrait-charge
Crédit : Paris, Bibliothèque nationale de France (BnF)
Photo (C) BnF, Dist. RMN-Grand Palais / image BnF
ラマルティヌはブルゴーニュ地方の小貴族の家に生まれた。イエズス会士による教育を受けた後、イタリアを旅行した。王政復古のときに近衛部隊に入ったが、ナポレオンの百日天下の混乱などで除隊した。1816年10月、26歳の彼はアルプス湖畔の保養地エクス=レ=バンで若い人妻との熱烈な恋愛に陥ったことが詩人としての決定的な転機となった。しかもこの恋愛は彼女が翌年、結核で死んでしまうことで悲劇に変わった。彼は自らの感性と経験を詩作にまとめ、『瞑想詩集』(Méditations poétiques)として1820年に出版すると、たちまち華々しい成功をもたらし、ロマン派抒情詩の先駆者としての地位を確立した。1830年にはアカデミー・フランセーズに選出された。

1830年の7月革命前後から政治活動に関心を深め、穏健派の代議士となった。1848年の2月革命時には主導的な役割を果たし、外務大臣を務めた。その後、大統領選挙に立候補したが、ルイ=ナポレオン(ナポレオン三世)に完敗し、政界から遠ざかった。右掲(→)の風刺画は「ある堕天使」という題がついているが、これは彼の詩作品『ある天使の失墜』(La chute d'un ange)にかけて彼自身の政治的な失意を揶揄したものと思われる。